6
❇︎
「うん、すごく良くなった。これは出版しようか」
編集者が目を細めた。
「なんかいいことでもあった? 描写がすごく綺麗になったね。いい感じで改稿されている。特に感情面ね」
なんとなく見慣れて来た、立方体ビルの一室。殺風景な部屋の中で、クリスタは少し考え込んだ。
いいこと、か。アーロンが進み出したこと。エレナとの仲直り。いいことに違いない。本気で悲しんで、本気で心配して、本気で喜んで、本気で嬉しく思った。それが自分の書き方に影響したことには気づかなかったけれど。
一方でエレナからは、「アーロンに一緒に歌ってほしいと誘われた」と相談されている。エレナちゃん、本気で困っているみたいだった。多分今のあの子は精神的にぼろぼろだ。自分の家柄も、自分が鳥籠の小鳥であることも知っているくせに、どうして、どうしてと繰り返していた。
それから〈彼〉の問題もある。銃を向けて来た〈彼〉が怖い。どうしていいかわからない。でも絶対に言いなりにはなりたくなくて。だから。
何もかも良い方向に行ったとは言えないのだ。それらを新たな不安の種としつつ。
編集者は少し片足重心気味の姿勢になって、クリスタの顔を覗き込んできた。いつもの優しげなようで冷静な、何を考えているかわからない表情で呟く。
「作家ってのは素晴らしい職業で、どんな経験でも役に立つからね。プラスはもちろん、マイナスの側も」
で、と問いかけて来た。
「自分的にはどう? これ以上直したいところとかは」
「そう、ですね……」
街を見下ろす、巨大猫の姿をした神様の物語。連作短編の形を取って、何人かをそれぞれ主人公にした話を描いた。例えば魔法使いに憧れる女の子、例えば恋人に伝えたいことがある青年。例えば平和をひたすらに祈る老人、例えば月に行きたい子猫。誰もが大小様々な願望を持っていて、彼らをのんびりと見下ろす巨大猫は、ただ見守っていたり、少しちょっかいを出してみたり。
「少し、思ったのが」
「うん」
「これって児童向け小説……つまり、読むのは子供じゃないですか」
「そうだけど」
ええと、と言って、印刷された活字まみれのページを捲る。これから挿絵を入れたり、文字を大きくしてルビを振ったりするわけだが、今はまだひどく無愛想で味気ない。目的のページを見つけて、「例えばここなんですけど」と言った。
三章目の、最後の一文。「古びて埃を被ったピアノは、それでもどこか誇らしげに、そこにありました。窓から見えるにび色の空が、明るく光となって差し込んでいました。」その章は、一人の女性が大人になってから再びピアノを弾く決意をする物語だった。事故に遭って怪我をしてから、長い間弾いていなかったが、猫の神様の悪戯で昔のピアノの先生と再会したり、ストリートピアニストとの出逢うことで励まされていく。最後は、覚悟を決めて長い間開かずの扉となっていたピアノの部屋のドアを開くシーンだったために、そういう情景描写を入れたわけだが……。
「子供向けなのにこういう描写は少し重いのかな、とも思うんです。表現が難しいし、もう少しストレートにした方がいいのかもしれないって」
何度も悩んだ挙句、結局そのまま印刷して来たわけだが、やはり「直したいところ」と言われて引っかかるのはその部分だ。微妙な情景描写を、必要としないジャンルだってきっとある。
「あー、まあそれはそうかもね」
編集者は少し首を傾げてから、黒縁メガネをぐいっと押し上げた。そんなことない、と言って欲しかったわけでもないけれど、あっさりと肯定されて拍子抜けしたクリスタに、彼は軽く頷く。「んん、でもまあ、それはそのままにしておこう」
「いいんですか?」
「君の書き方の特徴の一つだと思うんだよね。それに、相手が子供だからって言って表現の手を抜くのは良くないよ? 君だって子供だった時代はあったわけでしょ?」
「……私は、今でも子供です」
言い返したら、結構軽い感じで笑われた。「そうかもね」
「じゃあそれでもいい。自分の持つ子供な部分のためにもかけられる力──それよりもさらに強い力をかけて、文章を書かなきゃいけないんだ。甘んじちゃいけない」
まだまだ頑張れるよ。力強く言われて、頷いた。
編集者さんの言う通りだ。全力で。それよりさらに力を出して、物語を書くということ。本当の意味でプロを目指すなら。
甘んじるな。まだまだこれでいいと思うな。妥協などもっての外で、書き続けるのだ。
拳を握りしめた。
厳しくするという優しさ。きちんと叱責してくれるこの人は、自分にとってすごく貴重な人だ。今のうちに沢山話を聞いておこう。ちゃんと直していこう。いつか担当編者がついてからも、そうやって上達し続けよう。
文章って意外と自分の成長を感じることができる。
「じゃあ校閲作業を進めていこうか」
「……はい」
「あ、そうだ」
編集者はふと思い出したように眉を上げた。
「今度から正式に君の担当編集者になりました」
「えぇ⁉︎」
❇︎
逃げなきゃ。エレナも飲み込まれちゃうわ。縛りつけられちゃうわ。逃げなきゃいけないの。
言い募って来た鬼気迫る形相が、エレナが意識のある姿の妹を見た最後だった。エレナが妹の部屋を逃げ出した数時間後、彼女は病状を悪化させて危篤状態に陥った。すぐに病院に運ばれて、そこからはエレナは面会に行っていない。父や母、親戚たちは行ったようだったが、どうしても会う気にならなかった。怖かったのもそうだし、陶器の人形のようになってしまった妹を見たくなかったのだ。
一晩中、朝まで妹は高熱に苦しみ続けた。
そして、苦しいままに逝った。どこかへ行ってしまった。そこには美しい終わりも、安らかな眠りもどこにもなく、悪寒に晒され吐き気に耐えながら、やがて力尽きた。
あの子は死んだわ。
わたしの嫌いだった、あの子は。
葬式で、エレナは妹の傍に純白の百合の花を添えた。苦しみも熱も覆い隠した静かな白い顔を、それでもどうしても、あの皮肉と嫌味だらけの妹のものだとは思えなかった。遺影の中の妹は、母や父に見せていたのと同じ表情の無い顔でお淑やかそうに微笑んでいた。左目の下の泣きぼくろだけが黒く点としてある。
母に手招きをされて、手の中の百合の花を全て献げ終えたエレナは足早に歩み寄った。普段エレナに対して厳格な母が目を泣き腫らしているのを見て、自分の目は対照的に乾き切っているのを意識した。
「エレナ、伝えておきます」
それは熱に浮かされた妹の唇から、最期に震えと共に零れ落ちた言葉だった。
──エレナ、ごめん。
それを聞いた瞬間、全てに気づいて愕然とした。かくん、と力が抜けて、喪服に包まれた膝が床につく。
妹は謝った。それはきっと、この家にエレナを置いていくことに対して。
『どうして全く同じ遺伝子を受け継いでも、こんなに出来が違うのかしら? 人間って不思議ねぇ』
『でもまあ、どうせフローレンス家で一人でも子孫を残せばいいわけだし、後継ぎ的な問題で言えば、エレナは用無しよね。私がいれば、エレナは案外自由になれちゃうんじゃない?』
『エレナ、この家が嫌いなんでしょ?』
『この家が嫌いでしょ? ここに縛られて過ごすの、嫌でしょ? 自由になりたいんでしょ? いっつも言ってたじゃない』
あの子は全部気づいていた。エレナが心の底から家を嫌い、出て行きたいと思っていたこと。自分がこのまま優等生然としていれば、自分が家の後継になれば、エレナは鳥籠からやがて解き放たれること。
それなら私が、全部背負えばいいのだ。何もかもを割り切ることが出来ずに、懸命に逃れようと足掻く双子の姉に代わって。
なのにごめんね、エレナ。私は無理みたいだわ。ごめんね、エレナのこと、自由にしてあげられなかったわね。
優秀で、なんでもできて、意地悪で嫌味ばっかり言って──そんな妹がずっと嫌いだった。嫌いで苦手で、憎んでいたはずだったのだ。
なのに。
『あなたが羨ましいです』
わたしはなんて残酷なことをあの子に言っていたのだろう。
妹に勝ちたいのではなくて、良い姉になりたいのだと自覚したその時。その時にはもう既に、彼女は既にずっと遠くを歩いていたのだ。わたしは芯から、あの子に敵わない。
空っぽになった妹の部屋に落ちていた白いリボンを、指先で拾い上げた。たった一日前に見たのと変わらない、傾き出した日の光が窓から差していた。
もうどこにもいない双子の妹は、もう笑うことはない。
ねえ、わたしは一体どうしたらいいの?
今、縋るように握りしめたロケットにエレナは問いかける。
あの子がいなくなってから、わたしは課された運命を認めて、受け入れて来た。親には一切抵抗しないでやってきた。決められた未来を迎える準備はできた。
だというのに。
彼はわたしに、別の道を見せるの。
『わたくし、歌ったことなんて一度もないし、貴方の足を引っ張るだけになってしまいます。これ以上邪魔はしたくないです』
『邪魔なんて思ったことはねぇし、寧ろスタートラインに立てたのはエレナのおかげだと思うぜ? 自分勝手だってわかってる。でも初心者でも何でもいいから、俺はお前がいい』
『そんなの……、わたくしが、許されると思っているのですか?』
家柄。定め。一輪の花。白い百合。何も知らないくせに、わたしに綺麗なだけの夢を見せないで。
言い返したら、アーロンはきょとんとしたように目を見開いた。
『それって、許されるか許されないかの問題なのか?』
『……!』
エレナは弾かれたように顔を上げてから、くっと唇を噛み締めた。
そうだ。この人は──アーロンは、夢が綺麗なばかりでないことを知っている人間だ。馬鹿にされ、笑われ、足掻き、汚いまでの努力を惜しまず、その皺を指に刻みつけながら、ただひたすらに突き進んできた、人。
綺麗なだけの夢?
そんなものは存在しない。
『何してるの、エレナ』
自分の部屋で、一人握りしめたロケットの中で、妹は微笑む。いいえ、微笑まないわ。あの子は死んだもの。
『逃げなきゃ』
そうよ、あなたは死んだのよ。
エレナははっと顔を上げた。
あなたはわたしの中の虚像。そうだ、今ちゃんと理解した。鳥籠からじゃない、自分のために小鳥になろうとしていたあの子から、もう解き放たれてもいいというのなら。
逃げるのでも受け入れるのでもない、選択肢があるというのなら。
『ねぇ、エレナ──』
もういい。もう消えて。
白いリボンを引っ張って、結い上げられていた髪を解いた。はらり、と黒い髪が肩に落ちた。
これは決別。
「もう、いらないから」
❇︎
ピンポン、とクリスタは一度チャイムを鳴らした。綺麗なベルの音がし、アンティーク調の装飾が輝く、それだけで高そうなチャイムだ。多分こんな豪華な家に付いているから様になっているのであって、このチャイムだけを外して自分の家に取り付けても浮いてしまうに違いない。
……?
それにしても、誰も出てこないな。そう思って、もう一度チャイムに指をかけた。押そうとした一刹那。
「どなたですか?」
少し低めの声にびくっとした。恐る恐る声のした方を窺うと、一人の女性がドアの隣の窓を開けて顔を覗かせていた。氷のような無表情の吊り目の女性だった。そしてどことなくエレナと似ている。……この人が、エレナちゃんの、お母さん。
クリスタは意識して社交辞令的な笑みを作った。
「こんにちは。私、クリスタ・ミラーと言います。エレナちゃんに会いに来たのですが……今いますか」
女性の姿が窓から消えた、と思うと、すぐに目の前のドアが重厚な音を立てて開いた。エレナの母親はそこから半身を出したような形で、クリスタを一瞥した。
「エレナは今いますが、自分の部屋にいます。一体何の用ですか? 知らせがあるなら伝えておきますよ」
言っていることは丁寧で優しいけれど、口調は全然そうじゃなかった。突き放されている、とさえ感じるほどの冷酷さ。周りの温度が下がったのを感じた。
「用って……エレナちゃんの様子を見に来たんです」
だってエレナちゃんは悩んでいた。困惑し、色々なことに傷ついて。
「それなら気にしなくていいです。あの娘は特に変わった様子はありませんでしたから。貴女が心配することは何もありませんよ、うちのことはうちのことですから、余計な首を出さないでください。……親にしかわからないことは、あります」
あくまでも冷たいその口調に、ああ、と思った。この人は私のことを、私たちのことを良く思っていないのだ。エレナから引き離そうとしているのだ。それを悟ると同時に、クリスタは自分が静かに憤っていることに気づいた。
好きな人とつるんでいいじゃない。
私たちにはどうしてもエレナちゃんが必要だ。そしてエレナちゃんもまた、きっと私たちを必要としてくれていると信じているのだ。
脆弱でも、不安定でも、確かじゃなくても。
「親にしかわからないことがあることは知ってます。でも友達にしかわからないことだって同じぐらいあるんです」
クリスタは「お邪魔します!」と怒鳴るように言って、ドアをがっと開いた。
「ちょっと、何をするのです⁉︎」
唖然としたエレナの母が叫ぶのも聞かずに駆け込む。怒られちゃうな、あとで多分。でもいいか。エレナに会いに来たのだ。果たさずには帰れない。
それになんだか。
……嫌な予感がする。
初めて入ったエレナの家の中は、やはり高級感溢れる空間でしかなかった。友達で、いつも一緒にいるからたまに忘れてしまうけど、やっぱりお嬢様なんだ。部屋はどこだろう。やっぱり二階かな。
誰かに止められる前に、と急いで階段を上がった。カーペットと綺麗な彫刻の手すりに、やっぱりどこか遠慮して忍び足のようになる。
だから気づいた。
パチ、パチ、と二階の廊下の奥から微かに音がする。金属と金属が当たるような、小さいけれど高く響く音だ。……何の音?
もしも追い詰められて、思い詰めたら……? 階段を登る足がもつれて転びそうになる。手すりに丁度掛けた左手の甲の、傷跡。周りの肌と違う、そこだけピンク色っぽい皮膚が「忘れるな」と叫んでいる。
──自傷。
「エレナちゃんっっ‼︎」
直感で飛び付いたドアを勢いよく開いた。部屋の中央で佇んでいたエレナがふっと顔を上げた。
右手に握られた銀のハサミが、左手で摘んだ黒髪の細い束を、パチ、と断ち切った。
「クリスタ」
エレナは、呆然と息を切らして立っているクリスタをしっかりと見上げて来た。青い目がきらきらと鋭く光った。膝を折り畳んで座る、その周りにはたくさんの黒髪の残骸と白いリボンが落ちていた。
「……エレナ……」
「大丈夫。わたくしは大丈夫です」
「……」
「無理やり受け入れるのでも、ただ逃げ出すのでもない、そんなやり方をわたくしは選びたい」
パチン、とまたハサミが動く。肩につかないぐらいの長さにまで髪が短く切られる。
歌います、とエレナは言った。
そう短く宣言した深い声も、落ちた髪の色も、強く微笑んだ表情も。心臓が、高鳴る。うわぁぁぁっと声を上げながら、クリスタは何かに突き動かされるようにエレナに駆け寄った。そのまま抱きしめる。
「クリスタ……離して……、髪が服についてしまいます……」
「……っそんなの、いいの」
強いなぁ。エレナちゃんは、なんて強いのだろう。
それは凛として瓦礫の中に咲く、ただ一輪の花のように。
そっと腕を解いて、クリスタは笑った。
「後ろの方、ギザギザになっちゃってるから切り揃えてあげるね!」
❇︎
ジャック・ブラックを形成する過去の大部分には、父親の暴力と、母親の無力が陰を落としている。
コミュニケーションに障害があって、声を上手く出せなかったこと。家に染みついた酒の匂い。聞き取ることすら難しい怒鳴り声、泣き声。いつしか慢性的に止まらなくなった震え。寒くもないのに。
一人のガキでしかなかった時代、何も出来なかった。
一人のガキから一人の少年に変わった時、ナイフを握った。
一人の少年であった頃、刃の使いかたを覚えた。
一人の少年から一人の青年に変わる直前、初めて人を殺した。
そこから暗転した人生。暗転したって、最初から暗い場所にいたのだから実際何も変わらない。ただのありふれた一回転だ。人の障害というものに、意外とよくある分岐点。
少年院に保護するように収容され、ひたすらな沈黙に身を閉ざして過ごした五、六年間。そこから出て、ようやく一人になれて、親の金だけはあったからそれを適当に使いながら何も考えずに食って来た一年間。そして、金目当てなのか殺しの報復なのか自分を追って殺そうとしてくる、顔も知らない人間から逃げる今。
片時もナイフを手放すことはなかった。
ナイフという暴力を持っていることだけが、自分の支えだった。暴力に苦しめられた自分が、今はそれを持って振り翳していること。それを皮肉に思った。
──どうして人を殺しては、いけないの。
そう尋ねた奴がいたな。今、答えを教えよう。
その問いの答えは──「答えは、ない」。
人を殺してはいけない理由など、法律だの倫理観だのを抜いてしまえば何もない。結局のところ人間は割とすぐに死ぬのだから、死因が他殺であったところでそれは自然の摂理の一部とも言える。
それでも人を殺してはいけない、と人権を謳う者がいるのなら。
それなら殺さなければいいのか。幼い頃から父親の圧倒的暴力のもとにさらされ、半殺しの目に遭わされて来た自分は、それでも完全には殺されていないから泣き寝入りするしかないのか。父親の側が正当だったのか。それとも自己防衛のための殺しは正しいのか。
人を殺す理由なんてない。
でも、人を殺さない理由だって自分にはない。
飛び散る血の赤に、皮膚を破り肉を裂く感覚に、鋭い刃を前に粘土のようにやわらかく解体されていく人々に酔いしれながら。一人のガキだった一人の少年だった一人の青年は、殺人鬼となる。
死んでいるように生きてきた。
生きているように死んできた。
正当。道徳。倫理。善意。美学。そんなものは結局のところ、無力だ。誰しもそれをわかっているだろうに、愚かにも縋ろうとする。だがジャック・ブラックは誰よりもそれを理解していて──だからこそ切り裂く。切り裂きジャックであり、死神。
死神は、光に微笑まない。
死神は、涙を流さない。
死神は、心を動かしたりしない。
夜は毎日やってくる。さあ、また狩りをしよう。
連続通り魔事件の被害者数が、ついに二十になる。
✴︎✴︎✴︎
そろそろ僕もまた、進む先を決めなければいけない。
そんなことはわかっている。
ようやくそう、認めた。
弟からの電話に、明確に答えることもなく半月も経ってしまった。驚くことは何もない。僕が薄情であることぐらい言うまでもない。自分とはもう十九年もの付き合いだ。
誰より嫌いなお前と、もう十九年か。
❇︎
クリスタが〈いつもの場所〉に着いたのは昼近くになってからだった。出版が決まった自分の小説の、校閲作業を今日のノルマ分進めてから。
「おはよう、シアン」
声をかけたら、彼は目を上げて、にこっと笑った。
「おはよ、って言ってももう昼なんだけどね。……ご飯食べた?」
「ううん、いつかの時みたいにサンドイッチ持って来たの。一緒にどう?」
クリスタは籠バッグを軽く揺らして見せた。シアンは「いつもいつもありがとうございまーす」と戯けたようにお辞儀して見せて、ベンチの自分の隣を軽く叩いた。クリスタが腰掛けた途端、ベンチの下からぬっと姿を表したデビルが、とん、と膝に飛び乗った。薄いスカートに包まれた膝の上で軽く足踏みをする。少しくすぐったくて、クリスタは声を立てずに笑った。
並んでもぐもぐとサンドイッチを咀嚼する。空には穏やかに白い雲が流れている。なんて平和な色だ。作り物みたい。
「クリスタのたまごサンド、ほんと美味しいよね」
「ほんと? 嬉しい」
デビルが鼻をひくつかせている。それを見遣って、シアンが 「おまえにはやらない」と言ってニヤッとした。今の笑い方は、少し演技っぽかったかも。シアンも自分で気づいたらしい。軽く口元を引き結ぶと、笑みを微苦笑に切り替えた。
「やっぱり上手くいかないものだね、いつも通りのふりって」
「そうね。……そうだね」
火曜日だ、今日は。だけどアーロンもエレナも来ない。既に朝のうちに連絡が来ていた。多分今頃、カラオケボックスにでもこもって、アーロンがエレナに付きっきりでボイストレーニングをしているに違いない。
「ジャックは?」
尋ねたら、シアンは「朝はいたよ」と答えた。
「エレナたちのことを話したら、そうか、って言ってた。それは良かったなって。で、ふらっと消えてそのまんま」
「じゃあ本格的に二人だね」
「うん」
信じられない。いつも四人五人いたここに、今はもう二人。アーロンとエレナのことに関しては、良かったとしか言いようがない。でも少し寂しいかな。二人だとやっぱり静かだなぁと思った。会話の裏に、仕草の裏に、ふとした時に沈黙が顔を見せる。デビルだけは呑気に前足を舐めている。
サンドイッチを、いくつか籠の中に残したまま蓋を閉めた。
「シアン」「かた──」
意味もなく空を向いたまま呼びかけたのと、彼が何かを言ったのが重なった。
「えっなに?」
「肩、借りてもいい?」
クリスタはびっくりして、隣のシアンの横顔に目をやった。何もかもを通り越してどこか遠くを見つめる彼の瞳が、空を映して青く光っていた。
「い、いいよ」
「……ありがと」
こつん、とシアンは脱力したように右肩に頭を乗せて来た。いいよと自分で言ったにも関わらず、クリスタはつと息を止めた。軽く身体が固まる。面白いものがあるわけでもないのに、視線を不用意に動かせないから真正面ばかり見つめる。掠れた声で囁いた。「……シアン?」
僅かな静寂。
やがて彼はぽつりと呟くように言った。
「あのね、実家に一回帰ることにしたよ」
「……⁉︎」
「まあ長くて二週間ぐらいのことだと思うけど」
確かシアンは、一人暮らしを始めてから一度も実家に帰省していない。夏休みも、年末年始も。家族と上手く行っていないのかな、とか、それとも既にご両親とも亡くなっていたりするのかな、などと考えていたが。
今、なんで急に?
内心疑問が渦巻いたが、不躾に質問するのはためらわれ、結局「どうしたの?」とかなりオブラートに包んだ聞き方になった。右肩にかかる重みはぐったりとしている。ようやく視線を動かせるまでに緊張がほどけて、クリスタは気づかれないようにそっとシアンの顔を窺った。彼は目を閉じたまま喋り出した。
「弟から電話が来たよ。戻って来ないかってね。父さんがぎっくり腰やって、今色々と大変らしい」
そっか、と相槌を打ちつつ、シアンに弟がいることを初めて聞いた自分に気づく。私たちは五年もの時を共有しながら、本当に知らないことが多い。
「だからまあ、そろそろ顔を見せなきゃ行けない頃でもあるし行くかぁって感じ。って言うのと」
彼はぎゅっと強く目を瞑った。
「色々考えて、決めた。学園卒業してから、ずっとなんとなくで生きて来た。何にも考えずに、まあ楽しければいいやって。だけど、アーロンとエレナが動き出したよ。クリスタだって担当編者が着いて、ちゃんと進んでる。だったら僕もって思うのは、当たり前のことだよね」
「……それじゃあ」
「僕は大学に行きたい。色々学び直して、それからちゃんと自分のやりことを見つけたい。これから丸一年勉強したら、受験に間に合わないこともないよね。二年遅れにはなるけど。……だから、両親と話し合って来ようと思う」
そう言ったっきり、彼は黙りこくった。クリスタの眼下で、彼の瞼がゆるゆると震えた。膝の上に座っていたデビルが、緩慢な動作で丸くなった。
大学って、この街には無いんだよね。じゃあ外に出て行っちゃうのね。
軽くはない衝撃を感じつつ、それでもクリスタは少しだけ微笑んだ。無意識のうちにスカートの裾をぎゅっと握りしめていたのに気づいて、音を立てないようにゆっくりと手を離した。
「色々考えたんだね。私は、シアンが考えたことを応援する。多分、他の二人もそうよ。ご家族と話し合っておいで」
シアンが、すっと息を吸い込んだ気配があった。
「クリスタ」
「なに」
「怖い」
「──」
目を見開いたクリスタに彼は言う。怖い。
仕事を見つける目処が本当は立っていないってこと。学園出てからの一年をまるで怠慢に過ごして来たこと。全部ばれちゃう。今まで両親についた沢山の嘘。弟についた沢山の嘘。僕はどんな顔をして家族に会えばいい? 合わせる顔なんてあるのか。
祖母を殺した、僕に。
クリスタはひっと息を呑んだ。心臓が早鐘を打つようにとくとくと耳元で音を発した。
「殺した、の……?」
その問いの答えは、間髪を容れずに返って来た。
「殺したよ、僕が」
「……」
「学園に入る前の夏、だったかな……。祖母が心筋梗塞で倒れたんだ。救急車で近くの病院に運ばれて、そのまんま」
死んじゃった、と彼はあっけらかんとした軽い口調で言った。意識してそんな言い方なのか、それともこの出来事に感情を入れることができないのか、クリスタは判断しかねた。溜め息にも似た吐息をつく。
「……それなら殺してないよ。言い方は悪いかもしれないけれど……お祖母さんは病気で亡くなった、ということでしょ……?」
「今言ったところだけを判断すればね。だけど、その日は僕は夏風邪を引いて、症状は軽かったけどベッドに寝っ転がってぐだぐだしてた。弟はもちろん普通に学校に行って、……お母さんが仕事だったものだからいつもの土日みたいに祖母宅に預けられていたわけなんだけど」
「……」
「それなりに頑張って、祖母とは上手くやっていたつもりだった。だけど、その頃には既に僕の中で何かが切れていたのかもね。ガシャーンッて、一階からけたたましい物音がしても、僕は無視した。しばらくして水が飲みたくなって台所まで行こうとしたら、リビングで祖母が倒れてた。畳終わった洗濯物をカゴに入れて持ち上げたところだったみたいだったんだけど、全部全部飛び出してぐちゃってなってて……」
シアンは声も立てずに嗤った。
「ああ、残念。無駄になっちゃったねって思った」
「シアン、もう……」
もういいよ。辛いことをわざわざ、話さなくていいの。そう言おうとした言葉を飲み込んだのはなぜだろう。それはきっと、クリスタにも、人並みの意地汚い野次馬精神が、好奇心があったからだ。それで結局、あなたはどうしたの? 心の中ではきっと、そう尋ねていた。
シアンには今も、その過去が見えているの? 目を閉じた瞼の裏に、それは全部映っているのだろうか。一度綺麗に畳まれた洗濯物が無惨に散らかって、カゴが無造作に転がって、そして祖母はそれらの中心に意識を失って倒れている。
「結局、僕は倒れて動かない祖母の周りをうろついて、何もしなかった。小便を漏らしてるのを見て、汚いなぁなんて思いながら。弟が帰って来て、『すぐに救急車呼ばなきゃ』って叫ぶまで、そのままにしてたんだよっ……。心筋梗塞って知ってる? 倒れてから医療処置を受けるまでが遅ければ遅いほど助からない確率が高くなるんだ。祖母は病院についた頃にあっという間に死んだ。僕がどうにかしてれば助かったかもしれないのにね?」
「……」黙り込んでいるクリスタに、彼は呼気だけでまた笑う。その笑みはひどく乾いている。
「見殺しは人殺しと一緒だって言うんなら、僕は立派な殺人者だよ。祖母とやっていくことにも、祖母宅に預けられて押し込められていることにも、多分限界だったから、放置するのはいけないって分かっていながら祖母を助けなかった。葬式の時も、涙なんて一滴も零れなかった。そのことに泣きそうになるぐらい乾いてたよ」
「……矛盾してるね」
「うん、矛盾してるよ」
「ねえ」
クリスタは投げ出されたシアンの手をそっと取って、囁くように話しかけた。
「きっと、シアンはお祖母さんが倒れてるのを見つけたその時に、すごく動揺していたのね。だから本当にどうしていいかわからなかったんだよ。お祖母さんが好きだったから、すごくすごく本当に怖くて動けなかったの」
殺してなんかいないわ。こんなの見殺しでもなんでもない。あなたが自分の中に責任を見つけようとしているだけ。
あなたは悪くない。
それを伝えられたらいいのに。
シアンが手を振り払おうとした。「違うよ。違う。そんなの、クリスタにはわからないよ」クリスタは、違くない、と言って手に力を込めた。それから少し考えて、今度は静かに指の腹で彼の手を撫でた。
私にあなたのことがわかるわけない。そんなもの誰にもわからない。それはきっと、あなた自身でさえも。
……ね、私にはわからないと言うのなら、じゃああなたにもわからない私を教えてあげようか?
それはね。
それは……。
デビルが身動き一つせずに眠っている。穏やかに広がる空では、相も変わらず雲が流れていく。視線だけで見下ろした、シアンの顔。
泣いていいって私に言ってくれたくせに、自分は泣けないんだ。
弱い人だな、と思った。そして──こんな弱い彼のことを私は好きになってしまったのだと思ったら、不意に何もかもが愛しく感じられて、クリスタもきゅっと目を閉じた。
弱くて、人を傷つけたくなくて、だから自分ばっかり傷ついて、不器用で、多分自分のことが嫌いで、周りのことを誰よりも大切にして、そして実は本当に誰よりも優しい。そんな彼のことが、好きだ。
好きなの……。
はぐれ者には、はぐれ者になるだけの理由がある。クリスタのそれはきっと恋をしたこと。一人の少年が、クリスタの乾燥し切って何も映っていなかった瞳の前に、はい、と傘を差し出してきてからずっと。
あなたは知らないわね。あなたの些細な言葉が、行動が、どれだけ私たちを助けてくれているか。
シアン。あなたの名前は鮮やかな青を連想させる。でも鮮やかな空の奥には暗い宇宙が、水面の下には深海が広がる。青はその奥に、黒を隠している。だけど。
その黒もまた、幾層も幾層も塗り重ねられた青だ。
生涯、この感情を誰かに言うことはない。安易に唇を重ねることも、体温に包み込まれることも、求めない。秘められるべきものは秘めておけばいい。私の中で、それは音を立てずに燃えていればいい。女性は愛するよりも愛される方が幸せだなんてよく言われるけれど、報われなくてもいい、私は尊いものを愛していたい。
はあっとゆっくり息を吐き出したら、その身動きに驚いたようにデビルが身体を起こし、膝の上から飛び降りた。どこかへと足音を立てずに歩いていく。
ねえ、空が青いね……。
このまま時間が止まってもいいのに。
✴︎✴︎✴︎
そして僕は、それがあいつを見る最後になるだなんて、思っていなかったのだ。
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