7
❇︎
駅まで迎えに来てくれた弟の車から飛び降りた。子供の頃から見知っているはずの場所なのに、知らない場所のようだ。自分の家だった場所の──実家の真ん前であるにも関わらず。
街からここまで、電車で来た。ジャックとトーレ・ディ・アマネセルに行った時ぶりの電車は、ただ淡々としたリズムで自分をこの土地に運んできた。
「兄貴? ほら、早く荷物持って。なに感傷に浸ってるんだよ」
背が伸びてヒョロリとした弟が、車の鍵を掛けながら笑う。その身長はシアンよりもかなり高い。さっき久しぶりに話した時には、声がかなり低くなっているのに驚いた。電話口でなんとなく声変わりしてるのはわかったが、それにしても随分低い。
「ん、なんかほんとに帰って来たんだなぁって思ってただけ」
普段使いしているものよりは大きいが、大荷物でもないような鞄を持ち上げる。重さは感じなかった。むしろ浮ついているぐらいに実感がない。自分の足がちゃんと地面を踏んでいるのか不安になって、足元ばかり見つめる。
弟が先に立ってドアを開けてくれる。ドア口を少し頭を下げるようにして通り抜けている。
「母さん、父さん、兄貴帰って来たよー!」
靴を脱いで、床上にそっと上がった。両親に、なんて挨拶すればいいのだろう。こんにちは? 久しぶり? どれもしっくり来なくって、なんにも言えなくなる。
玄関から動けずにいたら、リビングからひょこっと母さんが姿を現した。シアンを見て、まあ、と声を上げて微笑む。続いて父さんも出て来た。
二人は優しく言う。
「お帰りなさい」
ああ、そっか。それでいいんだ。
こんな簡単なこと?
簡単だけど、易しくはないこと。
「ただいま」
大切に壊れやすいものを置くみたいに、呟いた。弟がぐいっと背中を押して来て「水臭いなぁ」とまた笑った。
「っていうか父さん、ぎっくり腰なんじゃなかったの?」
荷物なんかを自分の部屋に置いて来て、少し落ち着いた後で尋ねた。弟の話じゃ介護が必要なぐらいに大変なはずなのに、父さんは普通に玄関まで出て来た。極力腰を曲げないようにしているので、多少動き方がぎくしゃくしてはいるが。
日が暮れてもいないというのに、父さんは透明な酒をコップに注ぎながら、「んあ?」とちょっと変な声を出した。
「まあそうだが。なんだ? リオンに聞いたのか? まあ見ての通り、歩けないほどじゃないよ」
「……」
弟に視線をやったら、奴は悪戯っぽくぺろっと舌を出した。「だって帰って来てほしかったんだもん」と言われると、何も言えなかった。
母さんが紅茶を淹れて戻って来た。
「でも久しぶりに顔が見れて良かった。元気そうで何よりだよ。就職活動はどう? はかどってるんだっけ?」
いきなりの本題と言えば本題に、どきりとした。だが仕方ない。どうせ今日中には話をしなければいけないことだったのだから。なんて言われるかと考えると怖いし心臓がどきどき言っているけど……。
でも、お前はここに、何をしに戻って来た。
あれだけ嫌でも恐ろしくても、今日戻って来たのは何をするため? 別に弟の言葉だって蹴ってしまえなかったわけではないのに。
今までの自分と別れるために。自分ばかり立ち止まっていられないから。
「そのことなんだけど……」
話出そうとしたら、母さんがスッと椅子に腰掛け、背筋を伸ばした。ほぼ同時に父さんが軽く身を乗り出し、弟が姿勢を正した。シアンは気づかれない程度に目を見張った。大事な話があるってこと、わかってくれたんだ。ちょっとした表情と纏う空気感だけで察するものがある。そっか、家族だもんな。
場が出来た。
だから、シアンは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。実はまだ仕事関係については何も決まってません。心配かけないようにって思ってたら何も言えなくなっちゃって。だけど……」
少し顔を上げたら、三人は優しい目で見返すことで先を促した。シアンも一つ頷いて、再び口を開く。
「そろそろちゃんと考えたいって、自分でも思う。学園に通ってる時からずっと仲がいい仲間たちを見てて、僕もそろそろ真剣にやろう、一生懸命生きていこうって思った。だから」
少しだけ間を置いて、もう一度頭を下げた。さっきよりも深く。さっきよりも更に思いを込めて。もう少しだけ、僕の自分勝手を許して下さい。
「僕を大学に、行かせてください。学ぶべきことを学んで、それでやりたいことを探したいから」
そのままの姿勢で返事を待ち続けた。どれほどの時間が経ったかわからない。長かった気もするし、案外短かった気もする。「シアン、顔を上げなさい」と父さんが穏やかに言った。
「……」恐る恐る頭を上げた。目と目が合った。
「心配をかけないようにと、嘘をついたり一人で我慢するのはもうやめなさい。やっぱり親としてはね、心配をするのは当たり前のことなんだよ。でもその分、何があったって父さんも、母さんも、リオンだってお前の味方なんだから」
「……っ。……ごめんなさい」
飾らない言葉が沁みた。気張らない言葉で応えたくて。
「うん。それで大学の件は、父さんはいいと思うよ。シアンが一生懸命考えたのは、よくわかった。……母さんは、どう思う」
話を振られた母さんも「うん」と頷いた。
「お母さんも賛成かな。やりたいことを探すっていうのはやっぱり難しいことだから、環境を変えるのも大切だし、若いうちに学ぶのもいいことだと思う。……何より、お母さんたちが知らない間にも、ちゃんと学園で上手くやって友達もできてるっていうのが嬉しかったかな」
父さんと母さんが顔を見合わせて微笑んだ。やがて父さんが腕を組んだ。
「じゃあ、そういうわけだから大学に行っていい。行きたいところもよくよく考えて、話し合おう。受験勉強もゆっくりやりなさい。父さんたちは応援している」
ありがとう、と返した。隣で弟が首を傾げた。
「ところでなんで大学? 兄貴が自分から勉強の方に行くと思ってなかったんだけど」
そりゃあ不思議にも思うよな。僕たちは祖母宅で勉強漬けにされて散々愚痴を言い合っていたわけだし。
そう思っていたら、妙に笑えて来た。緊張感が一気に解れたからだろう。シアンは笑顔になって言った。
「それは、学んだ方が見える景色が違うからだよ。汚れてる窓と綺麗な窓みたいに」
✴︎✴︎✴︎
デビルが死んだ。
殺された。
❇︎
新曲がようやく仕上がり、どうにか番組での生ライブのちょうど二週間前に番組に楽譜を送った。さて、今日からエレナともこの曲で合わせ練習だな、などとアーロンはギターを背負う。ずっと前から使っているギターケースは細かい傷でいっぱいだ。眩しいほどの日の光を受けて、縦横に走った傷が不規則に輝く。
出会ってからずっとこの街にいたシアンが、今は遠くの土地にいるというのはなんだか変な感じだ。まあ仕方ない、めちゃくちゃ久しぶりの実家帰りだとかなんだとか、あいつはメールで言っていた。それにしても電車で行ったから何ら危険は無いとは言え、現在進行形で通り魔がうろつく場所を抜けて行ったわけだ。俺たちは、というか誰もが、やはりどこか乏しい現実感の中を生きている。
朝の空気を吸い込みつつ、いつも利用している駅前のカラオケ店に入る。パチンコ屋だのゲーセンだのの上の、四階。まだ待ち合わせの八時より随分早いが、「エレナ・フローレンスは来てますか?」店員に尋ねると、顔見知りの彼女は見事な営業スマイルで「来てますよ」と答えた。「少々お待ちください……と、お二人での予約で、二〇四号室ですね」
「ありがとうございます」
一瞬足を止めて、窓から街を見下ろした。駅にちょうど電車が入るところだった。窓枠で死んだハエが何匹も落ちている。埃と混ざったみたいなコイツらは、いつからここにあるんだ? この店も結構古いけどなぁなどと考えながら二〇四号室に向かおうとして、ふと思いついた。そういや水を買って来るのを忘れていた。エレナのことだ、どうせ自分じゃ買いに行っていない。あいつは割と必死で歌の練習に勤しんでいるから、そこまで頭が回っていないだろう。自販機やら注文するワンドリンクやらではとてもじゃないが足りないのだ。三時間ぐらい歌っていると、エレナと二人で平気で一リットルは飲む。大量の水は、全部汗と声の潤いになって蒸発する。仕方ねぇ、コンビニにでも一回行って来るか。未だに伸びっぱなしで結んだままのオレンジ髪を掻き上げる。ちなみに切りには行っていないだけで、上の方は自分で染め直してある。ちょっとカピカピした感触だ。
「ちょっとすいません、忘れ物」
店員に断って、今上がって来たばかりのエスカレーターの方へ引き返す。無料の営業スマイルが視線だけでついてくるのを感じた。上りはエスカレーターがあるのに下りは無いってどうなのだ。ぶつぶつ文句を言いながらエスカレーター横の駆け降りる。
一週間ほど前、このカラオケ店にアーロンがいつも通りギターの練習に来ると、ばっさりと髪を切り落としたエレナが店の前に突っ立っていた。髪は、いかにも素人がやったらしい感じで、ひたすら真っ直ぐに肩のあたりで切り取られていた。
『何をして……』
『貴方のことを待っていたんです』
『お前、その髪どうしたんだよ‼︎ それに、ほっぺたんとこ……』
下ろそうとしていたギターを取り落としかけながら問いかけた。エレナの白い片頬に、手形の赤みが差していた。平手打ちをされた? 一体誰に? だが彼女はそれを気にするふうもなく少し毛先を指で摘むと、微笑んだ。
いつも通りに凛としていながら、どこかはにかんだようなその笑顔を見て、ああ、となんとも言えない気持ちになった。こいつは今日、ずっとここで俺を待っていた。俺が来る保証なんてないのに……いやそうじゃなくて、俺がここに来るのをわかっていたから、信じていたから。
エレナは言った。
『貴方と一緒にステージに登りたい。だから歌を教えて下さい』と。
カラオケ店を出て、一番近いコンビニに入った。一リットルのボトルを少し迷ってから一応二本買う。紙コップはさすがに向こうでもらえるだろ。さて、さっさと戻るか、もうそろそろ待ち合わせ時間だ。にしても荷物が多い。置いてくるのを忘れて背負ったままのギターと、水二リットル分。ペットボトルを落としそうになって、持ち上げ直そうと道の端に寄った。
「ねえママ、見て。猫ちゃんが」
舌足らずな子供の声がした。まだ男の子かも女の子かもわからないぐらいの高い声だ。猫がどうした? 省略された述語にとりわけ興味があったわけでもなかったが、なんとなく顔を向けると、ようやく歩き始めたぐらいの子供が道の隅で路地を覗き込んでいた。母親らしき女性は関心を持った風もなく、子供の見ている先をちらりと見遣った。それからすっと目を逸らす。
「あら、本当。かわいそうにねぇ。轢かれちゃったのかしら。……ほら、もうそろそろ電車の時間だから、行くわよ」
母親に半ば引きずられ、子供は去っていった。アーロンは親子の背を眺めてから、思い立って路地の方に歩み寄った。猫ねぇ。母親はあんな風に言っていたけど、轢かれた猫が路地にワープするわけはない。まあ大方病気かなんかだろ。
ぱっと猫に視線をやって、それから抱き直したばかりのペットボトルを取り落とした。鈍い音を立てて、プラスチックが派手に凹む。
視界に切り込んだのは、小さな血溜まりのどす黒い色だった。広がった先の方から少しずつ乾いて来ている。地面のコンクリートに染み付いて汚らしい。そこに浮かんだ小さな体躯の黒猫。四肢を力無く投げ出して……その片目は無理やりこじ開けられ、針のようなものがぶっ刺してあった。
がぐぐ、と喉が鳴る。目を見開いた、瞼がぴくぴくと勝手に動く。
この猫、病気で死んだんでもなんでもねぇ。もちろん交通事故でとねぇ。完全に殺されてる。それに。
傷つけられた片目。エメラルドグリーン。汚れてはいるが血のついていないところは綺麗な毛並み。クリスタの膝に乗ったり、エレナの足元にじゃれついたり、シアンにツナ缶を貰っている姿が脳裏に浮かんだ。直感的なものだが、だからこそ間違いない。
──こいつはデビルだ。
それなりに血が流れ出してから時間が立っているようだが、あの子供意外の人間が集まっていないところを見ると、深夜から夜明けの間に殺されてそのままなのだろう。こいつを殺したのは誰だ? 許されないこととは言え、ただの悪戯なのか、否か。
一体なんでだよ。どうして。だがアーロンは内心の疑問を無視して、静かに目を閉じた。黙祷。背後の大通りを、車やら人々やらが通り過ぎる中、今この一瞬だけでも街の騒々しい世界から切り離されたところにいようと思った。
デビル。
お前も生き場所が路地裏にしかない、俺たちの仲間だったのかな。路地裏にしか生き場所がない? それは違うか。俺たちも、お前も。
再び目を開いた時、灰色のコンクリートに書かれた油性ペンの文字が目に入った。それは数字で。
〈21〉。
❇︎
ジャック・ブラックは、ただ、見ていた。路地裏の彼らの背後に当たる物陰。
「……信じられないけど、見てくれ」
いつもより幾分低い声でアーロンが言ったのも。
彼の隣にいたエレナが ぐしゃりと顔を歪めて血溜まりに視線を落としたのも。
クリスタがひっと声もなく叫んでその場に崩れ落ちたのも。へたり込んだ彼女の透明な瞳からは、透明な涙が流れ落ちただろうか。それとも、逆にカラカラに乾いて、白く濁ってしまっただろうか。
ジャック・ブラックは、ただ、見ていた。
ちょっとどこか休めるところに行こう──、とアーロンが言った。青ざめた顔で震えているクリスタを支えるようにして歩き出した。
「エレナも、行くぞ。もう少し落ち着いたら戻ってこよう。……デビルのこと、埋めてやろう」
「……ええ、そう……ですね」
答えながらも、エレナは一度振り向いてもう一度デビルの亡骸を見つめた。
死んだらただの物体になる。それは妹が逝った時、散々自分に言い聞かせたことだった。でも……やっぱり瞬時にそれと悟れるわけではない。折り合いをつけていくのだ、長い年月を、月日をかけて。
誰が殺したと言うのだろう。
罪もない一匹の猫を、誰がいたぶったのだ。
こんなの、あんまりにも。
「酷すぎる……」
その時、視線を感じた気がしてエレナはさっと通りの反対に目をやった。腑に落ちるように、ああ、とすぐにその存在に気づけたのはきっと、エレナがエレナだったからだ。何からも目を背けない、エレナだったからだ。
「ジャック」
その名を呼んだら、彼は影からスッと出て来た。
黙ったままの膠着。大通りを背に、逆光を背負い立つ彼のシルエットが細く立っていた。ふと、その姿が路地の闇に細く消えて行ってしまいそうに見えて、エレナは目を細めた。
ジャックは何も言わなかった。だから。
──消えないで。伝わって。わたしが貴方に言わなければいけなかった、本来言いたかったこと。
だから代わりのように、エレナは口を開いた。
「わたくし、貴方に初めて出会った時、言いましたよね。地獄に堕ちてって」
突如自分達の中に入って来たジャックを疎み、それ以上にこれからのことを恐れて、言った。『地獄に堕ちて?』
だけど、今はもうわかっている。アーロンが何を考えて彼のことを仲間に入れたのか。彼は新しい風が欲しかったのだ。「四人でずっといよう」と言った張本人の彼は、このままじゃいられないことに、誰よりも早く気付いていた。
ジャックの中に、恐怖を見た。それは自分自身の恐怖だった。
ねえ、わたしたちが、貴方が、今生きているのはまるで地獄のような日々かもしれない。そうじゃないのだ、とか、それでも仲間がいるから乗り越えられる、だとか。そんな綺麗事を言いたいわけではない。わたしはそんな意味のないことは言わない。
ただ、今貴方に言うことがあるとするならば。
「地獄でも、生きて」
煙のようにたなびいて、吹いたらどこかへ行ってしまいそうで。消えないで、なんて直接的な言葉はぶつけられなかった。それが現実になってしまいそうだったから。
「……っ」
身を翻して、アーロンとクリスタを追いかけて走り出した。ジャックは結局、最後まで何も言わなかった。
闇をすみかにしていた小さな悪魔は殺された。死神は動き出す。
❇︎
夜に沈んだ街の一角。
現れた〈彼〉は「よっ」と戯けたように片手を上げて笑って見せた。暗い、昏い、笑顔だった。塗り潰したような目が、どんよりと、それでいてギラギラとした光を浮かべていた。
「ようやく俺に殺される気になったわけね」
夜目が効いたところで薄暗い中、〈彼〉が何かをポケットから取り出すのが見えた。月光に黒光りしなくなって、それが何かはわかる。
拳銃。
〈彼〉がグリップに指をかけたらしく、カチャッと微かな音がした。それは微かな残響を残して闇に散った。
「まあ自分から出て来てくれただけ、人目に触れにくいところで殺してやろっかな。そこの空き家にでも入ろうぜ」
そのまま〈彼〉はくるりと背を向けて歩き出し、適当な空き地に入っていく。ジャックが逃げ出さないのをわかっているかのように。抵抗されることなど、まるで考えていないかのように。だがその背中に一切の隙が無いことは一目瞭然だった。少しでも、ほんの僅かにでも──ジャックが変に動いたのなら、即座に撃たれるだろう。
まだだ。
ジャックは無言でその後に従いながら、自分に言い聞かせた。まだ。もう少しだけ待て。勝機を待て。
勝機……?
一体何に勝つと言うのだ。生まれた時から負け犬のくせに。
小さな庭を通り抜けて、ぼろぼろの家に入った。蔦が這ったドアは、〈彼〉が少し揺すると簡単に開いた。軋む音が悲鳴のようで耳障りだ。耳を塞ぎたくなる。
「それにしてもさあ」と〈彼〉は言った。部屋の中心で立ち止まって、真っ直ぐにジャックを見ていた。揶揄うような笑み。「なんで猫一匹殺された程度で死ぬ気になったわけ? あんたのせいで、膨大な数の人間が死んでるってのに、たかが猫で」
割れた窓から蔦が侵食した部屋だった。埃っぽさと湿ったような臭いを感じた。それ以外は棚もテーブルも何もなく、酷く殺風景だから、人が昔住んでいたには違いないのにその気配というものは何も無い。今からここは、人の血に汚れる。……どうなるにせよ。
〈彼〉の言ったことは真実以外の何物でもない。
ジャックは沢山の人間を殺した。握りしめた刃に人々をかけ続けた。それに対する言い訳はすまい、自分は歴とした殺人鬼で、人外だ。恩も情も、義理も皆無だ。そんなことはずっと前からわかっているのに。
身体に刻まれた痣。子供の頃からいつまで経っても消えない、人外の証拠とさえもいえるこの刻印に、彼女が細くて柔らかい指で触れ、そして頭を垂れたのだ。その感触を今でも思い出して、全身がかぁっと熱くなる。冷たく青ざめ、それっきりだった皮膚に血が通う。
人は案外、重い言葉でクズにもなるし、軽い言葉でヒーローにもなる。変なものだ。彼女が少し透明な目で笑いかけて来ただけで、どことなく気分が晴れたりもする。
彼女とのことだけではなくて、この街に来てから、ジャックは今まで自分に無縁だった表情を知った。沢山の笑顔、安堵、驚嘆、そしてまた笑顔。くるくると目まぐるしく変わっていく表情。
だから。
ジャックは真顔のまま声を上げる。
「それは、そのたかが猫一匹を殺されたことが、許せなかったからだ」
どこの誰が殺されようが、どこの誰を殺そうが、どうでもよかった。被害者にはいつだって顔がなかった。だけど、彼女が、彼らが猫の死で傷つけられたのだけは、どうしても許せなかった。恩でも情でも義理でもない、何かが千切られたのだ。
所詮下らない、いっときの感情だとしても。
人の心のない、化け物だったとしても。
「だから──」
連続通り魔事件の被害者は今、二十人。お前が二十一人目だ。笑いたくなるような偶然の一致。神の悪戯。神──というのなら、俺もまたその末席を汚す死神だ。
差し込んだ月の光の加減か。僅かに見える街灯の光の悪戯か。黒くて、何もかも吸い込んでしまいそうで、でも実は何もかもを全反射する瞳が、一瞬だけきらりと輝いた。──刹那。
ジャックは全力で〈彼〉の懐に飛び込んだ。服の袖の中に隠していた小型包丁を取り出した勢いで、手のひらが浅く切れる。痛みは感じない。包丁の柄をぬるり血に濡れた手で握りしめたその瞬間に、その切先が〈彼〉の腹につく。
〈彼〉もまた反射的に動いたらしい。
パァァン──ッ
力を込めるために低く下げた頭上で、空気が鳴った。肩が強く擦られた後のようにカッと熱くなる。撃たれた? 駄目だ、気にするな。相手は強い。この一瞬だけが勝負だ。少しでも無駄な動きがあれば今度こそ致命傷だ。逆に。
この一瞬だけなら、まだ戦える。
「……っは」
包丁の柄を両手で掴み直して、ほぼ倒れ込むように全体重をかけた。柔らかい肉、薄い皮、人体の弾力。そこまで鋭くない刃が、〈彼〉の鳩尾に突き刺さった。ほぼ同時にパァン、とまた銃声がある。今度の弾は見当違いの方向に飛んで行ったらしい。背後で窓ガラスがビーンと音を立てて砕け散った。
永遠にも感じられる一瞬。
飛びかかって僅か一秒ほどで、決着はついていた。重なり合って床の上に縺れ、ジャックはそのまま包丁を両手で押さえていた。力が抜けて被さるように倒れていただけかもしれない。
「が、う……ぐぐ」
〈彼〉が獣のような呻き声を上げながら床を片手で掻き散らす。がぼっ、とその口から泡の混じった血が溢れ出た。……拳銃は? ああ、もう片方の手でまだ握ってる。それをもぎ取ることも出来ずに、伏せたまま、ジャックは祈るような思いで目を瞑った。
死んでくれ。頼むから、早く死んでくれ。
永遠にも似た時間が過ぎ去った。〈彼〉の上げていた片手が無造作に床の上に落ちた。死んだ、のか。包丁を必死で握りしめた右手の指が硬直したように固まっている。左手で一本一本引き剥がす。まだ温かさの残っている〈彼〉の身体の上から身を起こそうと右腕をついた途端、肩に鈍痛が走って、再び突っ伏した。アドレナリンが出ているせいか、痛みは強くない。喘ぎながらどうにかこうにか起き上がる。
殺されなかったことが奇跡だ。相打ちになったっていいと思っていた。勝敗を決したのは、覚悟の差か。相手が強いことがわかっていたからこそ、死ぬ気で掛かったから勝ててしまったのか。
浅い呼吸。冷たい汗と自分の血、相手の血にぐしょぐしょに塗れて気持ち悪い。錆びついていない、生々しい血の匂いの中に、相手の内臓が傷ついたことによる腐臭のようなものを感じて、耐えきれずにその場に嘔吐した。はっ、はっ、はっ。自分の呼吸の音がうるさい。必死で息を吸って、吸って、吸う。少しでも気を抜いたら意識を手放してしまいそうだ。
絶命している〈彼〉の見開かれたままの目は白濁していた。咄嗟に視線を逸らして、包丁に手を掛けた。引き抜こうとして──やめた。中途半端に動かされた包丁の穴から、生ぬるい血がどくどくとより一層溢れ出しているのを見たら、少しだけ冷静になった。流石にもう身元が割れることは避けられない。だったらそれまでにやらなければいけないことがあった。眩暈を無視して壁に半身を預けながら立ち上がり、ポケットから油性ペンを取り出した。万が一自分が生き残ってしまった時のために持って来ておいて良かった。
〈21〉。
書いた瞬間、べっとりとついた血で滑ってペンを取り落とす。あり得ないほどにぶるぶると手が震え出す。
でも、もういい。
これでいい。これで──気づいてくれるはずだ。
窓枠に手をつきながらゆっくりと歩き出した。ガクン、と上半身が傾きかけたが、どうにか持ち堪える。肩からの流血がそこまで酷くないところを見ると、弾丸は掠めただけだったようだ。
とにかくこの場をまずは離れて、血みどろの身体を流そう。そして彼らが事に気付くのを見届けたら──街を出て、死のう。場所は決まっている。今度こそ俺はようやく死ぬことができる。
闇にしか生きられぬ者は、もう消える時間だ。
❇︎
「大丈夫?」
電話口に心持ち音量を落とした声で問いかけたら、クリスタは「大丈夫」と答えた。意外と元気そうな声に少しだけ安心する。最も、気丈に平易そうな声を出しているだけかもしれないけれど。シアンが次に何を言ったものかと考え込んでいると、彼女の方から話しかけてくれた。
[実家にいるのに、わざわざ電話かけてきてくれたのね]
「え、……うん。アーロンから電話が来て、デビルのこと聞いてさ」
[エレナちゃんにはかけた?]
なんでエレナ? 首を傾げつつ、「いや」と否定した。
「かけてないよ。あいつは多分どうにかこうにか割り切ってるんだろうし。それにアーロンとエレナは歌の練習があるわけだから、今割と忙しいでしょ? 幸いにもって言い方はおかしいだろうけど」
[だから、私だけ?]
クリスタ、やっぱり落ち込んでるのかな。言いたいことが曖昧でよくわからない。「うん、クリスタだけ。みんな大切な友達だと思ってるけど、でも今回はクリスタが一番心配」
言ったら、電話線の向こうで彼女が微かに笑った気配があった。
[そっか]
「……クリスタ?」
[ごめん、気にしないで。……デビルのこと、近くの公園の木の下に埋めたよ。三人で]
「三人っていうと、クリスタとアーロンとエレナか」
[他に誰がいるの。あー、ジャックは……最近見かけないわ]
ってことはジャックと僕らが最後に会ったのはエレナとアーロンが仲直りしたぐらいの時だ。だからどうってこともないけれど、あいつはあいつで自由にやってる。薄情に、でも温情に。
「あいつと僕は似ているから……」
[えっ?]
「いや、なんでもない。なるほどね。じゃあ、まあ、平気そうでなにより」
適当な挨拶で電話を切ろうとしたら、「あのさ!」とクリスタが声を割り込ませた。不思議と明るく響いた。
[デビルのこと埋めながらね]
「うん」
[あなたと初めて会った時のこと思い出した。本当に初めて会ったのは、学園に入る前だったのよ、覚えてる?]
「ああ……」
雨の日の公園がぱあっと頭に浮かんだ。
学園に入る前のことだったから、クリスタの名前すら知らなかった。この街に引っ越して来たばかりでぶらぶらと歩いていて、なんとなくで公園に入った。滑り台の近くでスコップを持ってしゃがんだ少女に目を留めたのは、まったくの偶然。強いていうなら、彼女の持った真っ赤な傘に魅入っていた。雨天と曇りの影で全体的に色褪せて見える風景の中で、その傘だけが鮮やかに光っていた。
しばらくの間一生懸命スコップで地面を掘り返していた少女の横顔を見るともなしに眺めていた。横の僅か五メートルほどのところに突っ立っているシアンにも、地面に着いたスカートが水と土に汚れるのにも、気づくこともなく、一心不乱に穴を掘る少女。その時、別の女の子が二人公園わきの道を通った。
『あれ、クリスタだ』
『ほんとだー、何してんの?』
二人は立ち止まって、低い柵から身を乗り出すように少女を見つめた。赤い傘の少女はぱっと顔を上げて笑ったように見えた。友達なのだろう。
『飼ってた猫が死んじゃって……埋めてあげようと思って』
シアンはその時初めて、少女が膝の上に何かを大切そうに抱えているのに気づいた。傘の輪に入って、少女の身体に覆い被されて、絶対に雨に当たらないところ。タオルケットのように見えるけど……少し考えて、気づいた。死んじゃった飼い猫を包んでるんだ。そして気づいたことがもう一つ。スコップを握っていない、無造作に土をどかす左手に、包帯がくるくると巻かれていた。
『そっかぁ、猫死んじゃったのかー』
『大変だねぇ』
適当な言葉を返す友達に、彼女はまた笑った。うん、と頷く。
『ほんとに大変』
その後、じゃあまたね、とかなんとか言って、友達二人は去っていった。赤い傘の少女も笑顔で手を振った。
話しかけてみる気になったのは、彼女の手がそこで止まったからだ。笑顔をゆっくりと解きながらつと目を細めた少女に、「ねえ」と呼びかけた。
少女はびっくりしたようにこちらを向いて、シアンの姿を見ると戸惑ったように微笑んだ。
『なんですか』
『……』
声をかけた割には言うことがなくて困った。おい、このまま黙ったままだとただの不審者だぞ? 冷静を装いつつ散々悩んで、ぽんと口から飛び出た問いがあった。
『なんで、笑ってるの?』
少女が、目を見開いて絶句した。肩に乗せてバランスを取っていた赤い傘がぽろりと落ちた。それからクッと歯を食いしばった少女の表情は、痛みを堪える顔に似ていた。
『……どうして』
『だって、飼い猫が死んじゃったのが嬉しいわけないでしょ? なのに……君は、さっきの友達にも、僕にも笑顔を見せる』
少女は俯いた。
『だって……』
『悲しいに決まってるじゃん』
シアンは、気づいたら必死で喋りかけていた。言葉が欲しい。言葉をあげたい。泥に汚れた包帯。痛々しい微笑み。目に痛くて、それから僕みたいになるなと伝えたくて。
それは誰のため?
彼女を救ったら自分まで救われるのか。自分を救うために彼女を救うというのか。そもそも今一度きりのこの出会いで彼女を救えるなんていうのは、ただの英雄気取りか。
『人の喜びを横で一緒に喜ぶことはできる。不快なことに一緒に怒ることもできる。でも人のための涙は流せないんだ。自分のために心の底から泣いてあげられるのは、自分だけなんだよ』
自分を殺すな。それはつまり、そういうこと。
死んでしまった飼い猫のために、何よりそれを悲しく思う自分のために、泣いてあげて。他の人間のために無意味に笑うことはない。
少女に近づいていって、地面の泥も構わずに隣に座った。彼女の顔がくしゃあっと歪んで、雨よりも綺麗な雫がぽろぽろと落ちた。手放されて赤い傘が転がる。
シアンは何も言わずに、自分の傘を少女に傾けていた。
[シアン?]
僕も覚えてるよ、と言おうとしてやめた。やめて、代わりに笑った。わざと電話口に顔を近づけて。
「よくそんなこと覚えてるね。僕はやっぱ記憶力悪いからなぁ」
学園に入ってから、アーロンと仲良くなって、それからエレナとも出会い言葉を交わすようになって。入学したばかりだがそれなりの仲間関係を築き出した頃、とある授業でグループを組まされて調べ学習をすることになった。その時にたまたま同じグループになったのがクリスタだった。
当然、あっと思った。あの時の子だ、と。だがもう会うことはないと思っていたからこそ彼女は泣き顔を晒し、シアンは晒されたのだ。結局、初対面の設定で話した。彼女もそうした。
話してみると気も合ったし、シアンたちの輪の中にもすぐ溶け込んだ。少し難しい性格をしたエレナも、クリスタとは良い友人になれたようだった。それからずっと、僕らは四人で学園生活を過ごした。
電話の向こう、クリスタはふっと笑う。
[そうだと思った。……んん、でもいいの。私は覚えてるってのが、私にとっては大事かな]
他に何も言えなくて、ただ頷いた。クリスタからは見えているわけがない仕草だから、意味はなかったに違いない。ただ胸の中がかぁっと熱かった。
意味なんてない。だけど無意味じゃあ、ない。
そう言ったことがあった。
「ねえクリスタ……、僕たち」
喉の奥に何かがつかえていた。それを一息に呑み下す。不自然に言葉が途切れて空いた間に、クリスタはそれでも「なあに」と優しい声で尋ねる。
言いたいことは──自分でわかっていた。
それはいつからかはわからない、ずっと前から思っていたことだ。だけどずっと目を背けて来た。ちっぽけな勇気を振り絞って、今なら言えるかな。
……聞いてね。
「僕たち、そろそろ大人にならなきゃね」
ようやく言えたその言葉に、彼女が小さく吐息を漏らした。それは悲しげな笑い声のようでも、明るい泣き声のようでもあった。
❇︎
声がぶれた。一瞬思考の逸れた、それは間隙だった。
音程が高く僅かに揺らぐ。はっとなったエレナにすぐにアーロンは気づいたようだ。ギターを弾いていた手を止め、視線を手元に落としたまま苦笑いした。
「そりゃあまあ、そうだよな」
「すみません……」
「いや」
俺も似たようなもん、と彼は言う。
「一回休憩しようか」
いつものように練習に励む、カラオケボックスの一室。番組でのライブまで一週間を切った。既に本番用の曲は覚え、ソロのパートもデュオのパートも歌えるまでになった。一応、良家の細君になるため、という名目で教養として過去にピアノを習わされたことがあった。だから音感とリズム感だけはなんとなくある。それが今になって役立つとは、やはり運命も一筋縄ではない。
親とは今、冷戦状態だ。口は聞かないし目が合ったとしても無視。
──お母様、わたしは。
「わたくし」、ではなく「わたし」という一人称を敢えて使った。母はぎょっとした表情をしてから、氷点下の顔になった。エレナはぎゅっと拳を握ってから、続けた。
──わたしは、歌手を目指している友達と、ペアを組みます。
言った途端、平手が飛んできた。張り詰めたような痛みに手を当てて母を見ると、彼女自身、自分のしたことを信じられないというように呆然としていた。それを見たらわかった。この石膏像のような母親もまた、人間だ。だから道を間違えることはある。
エレナは母親をしっかりと睨みつけた。私は私の道を進む。いや、何もない場所に道を開いていく。手を引いてくれる人がいるから。
それからずっと、母とは──母以外の親戚たちとも、エレナは一言も言葉を交わさない。今はそれでいいと思っている。
そんなエレナをここまで歌えるように導いてくれたアーロンには、本当に感謝しかない。貴方は立派なミュージシャンだ。そう言えるように、わたしもひたすらな熱意を歌に捧げよう。
そうは思うが。
デビルがあんな風に殺されてから、どこか気が散っているところがある。ジャックのことも気にかかる。最後に会った時、彼は黯い目をしていた。
黒猫の小さな体躯から流れ出していた血。広がった真紅の絨毯のような、舞い落ちた色付いた秋の葉のような、──散らばったトランプカードのような。シアンがトランプを「内臓」と呼んでいたから、あながちその比喩は間違っていないかもしれない。狂いそうなほど悪趣味には違いないけれど。
「ジャック・ブラック……、ブラックジャック」
呟いてみた。名前というのは符号だ。単なる符号の一致にこじつけて、カジノのゲームに講じた。ジャックと初めて会った日だ。ああ、でも、アーロンとシアンは彼と会うのが初めてじゃなかったのか。
「急にどうした?」
飲んでいたペットボトルの蓋を閉めながら、アーロンが首を傾げた。悪戯に長い指がビーンとギターの弦を弾いた。
「なんとなく思い出していただけです」
「ブラックジャックねぇ……やったことあったよな。あいつ一発目から二十一出しといてさ、なのにディーラーのシアンと引き分けなわけ」
かかっとアーロンが笑った。思い出すように視線が少し遠くを向いている。エレナも少しだけ微笑んだ。
アーロンとジャックの勝負だった。互いに質問する権利を賭けたゲーム。
「確かあの時の勝負は……」
笑いながら言いかけた言葉が急に止まった。「どうした……?」と彼は怪訝そうに、というより心配そうに顔を覗き込んできた。手をがっと握られた。
「エレナ!?」
「……」
「なんてか……すげぇ、顔が白い」
誤魔化し通せるものじゃないか、とエレナは諦める。湧き上がった疑問と、それを打ち消したい思いと、だけれど渦巻く疑惑を、所詮は抑えきれない。
眩しくて真っ直ぐなアーロンに、「ありえねぇ」と言って笑い飛ばして欲しかったのだ。
「アーロン、ブラックジャックとは、合計二十一なんですよね」
「? ……だからなんだって?」
「デビルの、……こ、殺されてた場所の壁を思い出してください。ペンの文字……」
アーロンの表情が止まった。彼の唇が声を出さずに動く。
にじゅう、いち。
〈21〉。
「偶然ですよね……?」
カラオケボックスの狭い空間に問いかけた。薄暗い明かりの中、その声がどこに消えたのかはわからなかった。消されたテレビスクリーンの中に小さな闇がある。それは最初から。
アーロンは答えなかった。
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