✴︎✴︎✴︎


 そして僕らは、前に向かおうとする。結局人は、一方通行に、前にしか行けないように造られている。

 泣きじゃくりながら、沢山の理不尽に滅茶苦茶に煽られながら、それでも歯を食いしばって。何も見えなくても歩く事。その隣には、敵か味方かわからない死神がいる。


     ❇︎


[兄貴。どう、元気にしてる?]

 弟のリオンから電話が来たので、碌に警戒もせずに出た。家を出たその直前まで、弟は自分の、自分は弟の唯一無二の理解者で無しでは生きていけないと思っていた。なのに今となってはすっかり疎遠だ。五年程度しか経っていないというのに、数ヶ月に一回電話をする程度で、あとは特に思い出すこともない。現金なやつだよね。

 そんなわけで苦笑いしながら、「うん、元気。リオンは?」と返した。完全な定型文だ。いつもこんな感じ。話すこともないだろう。

 と思っていたが、どうやら違うらしかった。

[ん、普通だよ。ねえ兄貴、家に戻って来ない?]

「ああ、家に? そうだね……え? は? 家に?」

 ちょっと待て、と携帯を耳からガバっと外した。何週間か前に、母親と軽く電話で話したばっかりだ。

『職につけそうなの?』

『うん。もうすぐ安定するよ。大丈夫』

 心配かけないがための嘘八百が完全にばれる。なにせまだニートだ。親からの仕送りの一部と、たまに思い出したように入れるバイト──多分アーロンの十分一以下しかやっていない──だけで生活しているのだから。

 家を出て一人暮らしを始めたのは、学園に入学したのとほぼ同時だ。祖母が──亡くなってから、居た堪れない思いで必死で勉強して、実家からは離れていたこの街の学園を受験した。「案外できる、一人で生きていく」と自分に言い聞かせながら、最初は少し風邪をひいただけで心細くて、頼りなさを感じた。だけどまあ、それなりに慣れて来て、学園では仲間もできて。そして学園卒業後は──大学進学組と就職組が多い中で、結局なんとなくで何もしなかった。やりたい事が何一つわからなかった、というか今もそのままだし、それにシアンの周りの仲間たちは誰も大学に行くことはなかったから、ばらばらになることもなかった。アーロンはミュージシャンを目指して進学を選ばなかったし、クリスタは既に児童文学作家としての職を細々とながら持っていたし、エレナはお嬢様でわざわざ外に行くような必要はなかったから。

 逃げるように一人になってから、なあなあと生きてきたわけだな。でも、楽だし楽しいのだ。

 兄がそうやって、ふわふわとしている間、一方の弟はずっと家にいる。まだあと三年は学生なのだから普通ではある。それに……これはシアンの勝手な推測だし希望的観測とさえ言えるのだろうが、リオンは自分のように捻くれていない。父や母──家族とも上手くやってる。だから当分一人暮らしになることはないんじゃないかな。

[もしもし? おーい、兄貴? 電波悪いの?]

「……あ、うん、ちょっと悪いかも」

 また嘘をつくの?

 許してよ……。

[あ、そうなんだ。じゃあ本格的に切れる前に話、進めようぜ。それでどう? 兄貴が久しぶりに家に帰って来るの気まずいって思ってるらしいのはわかるけど、みんな待ってるよ? ぼくも含めて]

「なんで、今なの?」

[……父さんが、ぎっくり腰やっちゃって、今動けない感じなんだよね。それで母さんも介護したり働いたりで大変そうだし、ぼくも出来る限り手伝ったりはしてるんだけどね。やっぱり、なんとなくな不安があるっていうか……]

「……」

[あとは単純に兄貴と久しぶりにいっぱい喋りたいっていうのもあるなあ]

 ほら、リオンはすごく素直だ。曲がっていない。嘘を重ねたりしないのだ。

[前に暇な時に部屋を掃除してたらさ、オセロボードが出てきたんだ。覚えてる? ……もしもし?]

「覚えてるよ。何度も一緒にやったし」

[兄貴って記憶力いいっていうか、変な思い出ばっか覚えてたりするもんね。じゃあこれは覚えてる? ほんっとに大昔、ぼくがオセロのルールを父さんに教えてもらって、それで初めて一対一でやったの]

「もちろん覚えてる」

 のんびりとした午後の時間。床に寝っ転がって頬杖をついて、二人でやっていた光景を、鮮明に思い出せる。四歳、という歳の差は大きくて、子供ながらに圧倒的な経験の差は凄くて、あっという間にオセロ盤をシアンの黒石が優勢に攻めていった。このままじゃ、リオンは完敗する。初めてのオセロで、そんなことになれば嫌いになってしまう。そんな思いが、忖度とも表せるものが頭をよぎった。

 じゃあどうすればいい? 急に手加減をしたとして、そんなのはすぐに悟られてしまう。というか、今から手を緩めたところで勝敗はあまりもう変わらない。それなら──。

 白石が少なくなっているのが目に見えて、泣き出しかけていた弟に、シアンは笑顔で提案した。

「ここまで来たらさ、もう二人で協力して全部黒に染めるチャレンジしない?」

 黒石はできる限り多くの白石を取る位置に置いて、白石は逆に黒石を邪魔しない、あわよくば黒をリードするような位置に置いて。二人でほぼ全部を黒に変えよう。

 それはすなわち、勝負の放棄。

 それはすなわち、勝つことの放棄。

 人を傷つけるのが苦手な性格。それはずっと幼い頃から。誰よりも距離が近いと言えた、弟にさえ。

[あの時兄貴さ、俺が負けないようにしてくれたの。今更だけど、ああそっか、って理解した]

「リオンこそ、よく覚えてたね、そんなこと」

[……ちょっと思ったんだよ。思ったっていうか、色々考えた。兄貴がしてくれたことは優しさだったのかなって]

「それは……」

[うん。やっぱり会って色々喋りたいよ。昔のことでも今のことでもいいからさ。だから、家に少しでいいから戻って来て欲しいな]

 考えさせてほしい。やっとの思いでそう伝えて、電話を切った。

 でも何を考えればいいのか、わからなかった。


     ❇︎


「少し外の空気を吸って参ります」

 外に出かけようと、靴に足を入れかけたところで、母に呼び止められた。嫌な予感がする、と思いながらエレナは振り向いた。……やっぱりだ。母は元から吊り目がちな目を更にキッと鋭くしてエレナを見ていた。使用人や娘にはてきぱきと厳格で、父に対しては従い尽くす良き細君の母。エレナはゆっくりと姿勢を正して、その顔を見上げた。

「エレナ、どこに行くの」

「外の空気を吸いに、と言いましたが」 

 休憩時間ぐらい、どこに行ったっていいだろうに。でもその苛立ちを顔に出して母に向けるほど、エレナは馬鹿ではない。無感情を必死で装いながら、真っ正面から母を見つめたが、母はしっかりと見返して来た。

「外の空気を吸いにどこに行くのか、と聞いているのよ」

「ただ街を軽く歩くだけです。どこ、だなんて決まっていません」

「エレナ、お母さんはわかっているのよ」

 あなたにわたしの何がわかるというの。

 どこか歪な母娘関係。緊迫しているのにどこか間抜けな、玄関での膠着。重厚な作りのドアからは、隙間風一筋入って来ない。光の差さぬ家の中。

 母は、エレナの肩に手を置いた。その手が冷たかったわけでは断じてないし、冷淡な仕草でもなかった。なのに、首筋にひやりとしたものを感じて、僅かにのけぞった。

「家柄に合わない人たちと付き合うのは、もうそろそろやめにしなさい。路地裏、だとか、下賎で汚濁な場所に行くのもおやめなさい。あなたも、もうそろそろ大人になるのですから、立場を弁えた行動をするのよ。いつ何時でさえも」

「……」

「髪がほつれているわ、結い直します」

 いつも通りに長い髪を纏め上げていた白いリボンをそのまま抜き取られた。ふぁさ、と静かに黒髪が落ちた。三つ編みの跡がついて波打った、もとはストレートの髪。結い直されながら、エレナは昏い目で足元の方へかくんと首を落とした。そして人形じみた動きを自分でも内心笑った。

「……」

 母は慣れた手つきでくるくると編み込みだの三つ編みだのを何本も作って、リボンで上に上げた。くっと頭を緩く縛られるような、そんな感覚。

「ほら、できたわよ」

「……」

「くれぐれも、これからは付き合う友人も選ぶようにしなさい」

 エレナは顔を上げて、そして愛想だけの作り物の笑みを浮かべた。

「わかりました、お母様」

 ええ、わかっていますもの。所詮私に選べる道など存在しないこと。生きていくには、この家の人間として生きるしかないこと。確定した未来は不変で安定で、ちっぽけに悩んでも、心配しても、どうにもならないこと。

 もう、随分と前から諦めております。

 今はそれまでの執行猶予。


     ❇︎


 人々の波のようなざわめきと、エレキギターの響きと、それから堂々とした歌声。それらが混ざり合い、解け合って、意外にも心地よい一つの音のように広がっていた。

 結構人が集まるものなのだな、とジャックはぼんやりと思った。だがその中に殺人鬼が紛れ込んでいるとは誰も思わないだろうが。

 この街の唯一の駅の前。偶然にもアーロン・カーターがストリートライブをやっているのを見つけて、少し立ち止まってみた、それだけ。そう本当にそれだけ。人が沢山いるような場所にいるのは危険そのものだが、大丈夫だという根拠のない憶測があった。……もしかしたら、最悪追手に捕まろうが、殺されようが、それもまた別にいいという思いがあったのかもしれない。

 ジャン、とアーロンがギターから手を外した。曲の、最後の一音。ぴんと張りつめた残響。僅かに目で遠くに飛ぶ音を見つめるようにして、はっと息を短く吐いたのが遠目にわかった。

 ギターを掻き鳴らし歌う彼が、いつもの路地裏のベンチで喋っている時と全然違う表情をしていることに、初めて気づいた。

 何かを諦めて笑うような、眩しいものに目を細めるような、瞳の奥を冷たく熱く燃やすような、溢れんばかりのものを叩きつけるような。

 そんなことを考えていたら、彼はころりと表情を変えて、営業スマイルのような明るい笑顔を浮かべた。スタンドに差したマイクにぐっとお辞儀をするように顔を近づける。

「集まってくれてありがとうございます! それでは路上ライブでいつも歌わせてもらってる最後の曲。今のとこ唯一の自作曲の『あかね陽の森』です」

 その時、どうしてアーロン観客たちの一番後ろあたりに突っ立っていたジャックを見つけたのかはわからない。彼がギターを持ち直して、次の曲を始めようと右手を上げかけた──そこで目が合った。

 コンマ数秒の間隙。

 アーロンはニヤッと笑った。ピンポイントにこちらを向いて、見てろよ、とその唇が動く。ザンッと右手が振り下ろされる。

 何人もの観客の中で小さく見える、指先から、ギターと一体化した全身から、音が溢れ出す。ライブ会場でもなんでもない寂れた駅の片隅だというのに、空気の中で何かが激る。爆ぜる。

 素直に彼を、格好いいと思った。

 眩しい、眩しい、高い空で輝く太陽のような。



 どうだった?

 アーロンに尋ねられたのは、帰り道についてからのことだった。帰り道と言えど、ジャックは彼の家を知らないし、アーロンもジャックがカプセルホテル暮らしであることを知らないだろう。

 客たちが散って、機材なんかのコードやらをまとめてマイクスタンドを折り畳んだ彼は、惚けたようにそのまま突っ立っていたジャックのもとに真っ直ぐ歩み寄って来た。「来てくれたんだな、嬉しい」と言って、笑う。

「音響とマイクだけは楽器屋でレンタルしてっから返しに行かなきゃいけないけど……」

「別に付き合ってもいいが」

 そんなこんなで楽器屋まで適当な、それこそどうでもいいようなことを喋って、そして機材を返却して来たのだった。

 それで、今。

「どうだった?」

 少しだけ伸びて来たオレンジ髪を億劫そうに指で摘んで払いながら、彼は聞いてきた。

「どうだった、というのは」

「路上ライブだよ。一応お前も客だし、聞いとこっかなってさ」

「俺は音楽のことは全然知らない素人だし、ギターに触ったことだってないから聞いても無駄だと思う」

 適当な言葉でかわそうとしたら、「それでもいい」と案外強い調子で言われた。

「素人でいい。むしろ何も知らないままで思ったことを、教えてほしい」

 真っ直ぐな目で見上げられる。ぴたりと合った瞳の奥が、何故だか不安げに揺れた。恐怖? いや、緊張? 根負けして、ジャックは「そうだな……」と考え込むように少し俯く振りをした。勿論、考える意味なんて何もなくて、たださっきまで聞いていた音楽を思い出すだけで自ずと言葉は見つかる。

「本当に何も参考にならないだろうが……例えば、最後の曲の前に」

「ああ」

「ギターをジャン、と鳴らしただろう? その、何音もが重なった音に、光を感じた」

 真っ暗で何も見えない深海に、突如差し込んだ光のように。膨大に黒々とした宇宙の中に、つと発された光のように。闇の中で生きる自分に、それは細くてそれでも強い糸みたいに繋がった。

 繋がったのだ。

 闇は祓われずとも。

「良かったよ、掛け値無しに。また聴きたいと思うくらいに」

 次がある保証なんてどこにもない。でも今日、聴けて良かった。

 アーロンは一瞬、虚を突かれたように目を瞬いた。いつもよりも幼く見えた顔が、次の瞬間くしゃくしゃになる。

「初めてそんな風に言われたわ。嬉しい」

 うん、嬉しいよ。まじで。そう言いながらばしばしとジャックの背中を叩いた。痛みを感じるほどではなかったが、意外に強く。ああ、照れ隠しか。なんだかやっていることが友達同士のようで可笑しい。

 夕暮れ色の、あかね色の空が広がる。街の建物が逆光に聳え立つ。

「歌う時、緊張したりしないのか?」

 場を繋ぐために尋ねた。彼は「ん」とも「あ」ともつかない声を上げてから、「それ聞く?」と片眉を上げた。

「だせぇけどさ、そりゃ緊張しないことはねぇよ。ってか正直に言えば死ぬほど緊張する」

「それならどうして路上ライブなんかするんだ? 下手したら場所借りる分金もかかるだろうに」

 だったら個人で練習する方がやりやすいだろう。

 そう思っていたが、アーロンは首を振った。「それは違ぇよ?」

「やっぱ不特定多数の人間に聴かれるっていう経験は何度もやらなきゃ慣れないからな。それに緊張すんのも意外と悪いもんじゃないぜ? 結構楽しかったりする」

 そうか、と思った。お前はそういうやつなのか。本当はそういうやつだったんだな。

 初めて会ったあの土砂降りの暗闇の中で、何もかも投げ出すような顔で『ここで何してる』とジャックに向かって言った彼とは全然違う顔をしている。あの時、夜目が効くジャックには全て見えていた。壁の影でぎゅっと膝を抱いて縮こまっていたシアンも、誰にも見えるわけはないと思っていたからこそ取り繕いのないアーロンの素の表情も。あの時の彼の表情の意味は、まだわからない。わかる予定もない。でもその翳りのようなものは、もうない。別にあの時のそれはギター関係によるものではなかっただろうが。

 今だから聞こう。

「なあ、生きるって、何だ」

 彼は「唐突だなぁ」と呟いたが、急な問いかけに特に驚くこともなく割とあっさりと答えた。

「それは愛することと愛されることじゃねぇか。それは恋愛でもいいし、友情でもいいし、何かに対する熱意でもいいと思う。……なあジャック」

 彼の髪が、カアッと燃え立つような赤に見える。生きていないからこそ、いつか死ぬために生きようとする自分と、愛することと愛されること。

 遠いな。遠い遠い遠い。

「なんだ」

「俺如きにお前に対して言えることなんて何にもないかも知れないけどさ、心臓を擲った瞬間ってあるか」

 その問いの示すものがわからずに、無言で先を促した。アーロンも答えを求めていたわけではないらしく、間を置くこともなかった。

「俺は、ある。とある彫刻家の木彫りの像を見たときに、鳥肌が立ったよ。ジャンルは全然違っても、自分が目指すのはこういうものだ、凄いと誰もが悟るようなものを生み出すことだってわかった。その瞬間、俺は人生をギターに託したんだと思う」

「なるほどな」

 低い声で呟いたジャックに、何も思わないこともないだろうが、アーロンは「さてと」とギターを持っていない方の自由な腕をぐるんと回した。

「これからしばらく、火曜日に〈いつもんとこ〉行けないかもだけど、あいつらによろしくな」

「ああ」

 何がよろしくなんだかわからないし、何が「ああ」だかわからないけど、ジャックは頷いた。


     ✴︎✴︎✴︎


 少しずつ動き出した人たちがいて、だけど僕は止まったままで。

 時間は簡単に止まる。進んでいても止まっている。


     ❇︎


 カーテンを勢いよく閉めてから電気を付けた。中が明るいからこそ、カーテンとガラスを隔てた外の暗さがより際立つ。狭い部屋が、見慣れた深夜の色になった。ちょっと目を擦る。

 バイトだの何だのを全部片付けて家に帰り、すぐに五線譜紙をローテーブルに並べた。同じぐらいの高さのソファに座ってそれら見下ろしながら、アーロンはかちゃかちゃとシャープペンの芯を出したり仕舞ったりしていた。さして柔らかくもない小さいソファに沈んでいくような感覚を覚える。

 唯一の自作曲、『あかね陽の森』はもう三年以上も前に書いたものだ。もうこれ以上停滞してはいられないから。だから次を書こう。

 と思うのに頭が働かなくて。

 ……眠い。

 書かなきゃ。曲をつくらなきゃもうなんとなくのこうせいは決まってるだろほら早くごせんふにペンをはしらせろ停滞していられないんだろ? ああっとこのままじゃいられないのは俺のギターのことだけじゃなくっててあいつらとのことだって……まぶたが重い閉じていく……ところで前回寝たのは何十時間前?

 視界が回転する暗転し出す。結局俺はどうしたいんだ。

 何を望むのだ。未来に何を、過去に何を、景色に何を、思考に何を、望むのだ。

 望、み、なんて。

「……知るかよっっ!」

 いつの間にか閉じていた目を開いて叫んだら、「おはようアーロン」と声が返って来た。

「は?」

「良い朝だねぇ」

 部屋の電気が消えていて、なのにぼんやりと明るい。シャーッと音がした方を見ると、シアンがのんびりとした動作でカーテンを開けていた。日の光が真っ直ぐに差し込んで、満ちる。昼の色……と少し放心する。息が軽く切れている。

 あー、寝落ちだわけだな、あれから。それでもう昼か。うう、と呻き声を上げながら体を起こす。微熱がある時のように、気怠いのに何故だか心地よいような、そんな感じ。

 シアンが肩をすくめた。

「何回ピンポン鳴らしても出ないから、入って来ちゃったんだよね。そしたらアーロン、ソファの上で死んでるんだもん、びっくりした」

 勝手に人の家に入って来んなよ。別に死んでねぇよ。人が叫びながら目覚めたってのに「良い朝だね」ってなんだよ。トランプ〈内臓〉呼び事件と言い、自分のことを〈アル中〉呼ばわりした事といい、こいつの感覚はどっかズレてる。それが一々笑える。ツッコミどころが多いんだよ。……とか言いつつ。

 元気にツッコミできるのは、良く寝て頭が冴えてきたお陰だ。

「いい歳して寝落ちするなんてありえない」

 シアンは軽快に笑う。

「眠くなったり気分変えたりしたい時はね、顔叩くといいよ。結構コツいるんだよ? 片手だけで叩いたら首ぐきってなって危ないから、ちゃんともう片方の手で押さえて……で、ちゃんと手のひらの上の方で叩くの。下の方で叩いたら顎が外れちゃうかもだからね」

 などと言いながら、ベチベチと自分の顔をぶっ叩く。終始笑顔のその様子に、軽く恐怖する。ここはツッコミやめておこう。

「……あーっと、で、なんでうちに」

 鍵がポストの蓋に貼り付けてあることは知っているだろうからいいとして。その答えは別の方向から飛んできた。

「私たち、ご飯持って来たのよ」

 その声で、やっと台所に静かに佇んでいた存在に気づいた。クリスタだ。彼女はアーロンにちょっと微笑んで見せて、それから手元に視線を戻した。オリーブオイルをフライパンに敷いているらしい。フライパンを色んな角度に傾けている。はて、オリーブオイルなんてうちにあっただろうか。首を傾げたところで、顔を叩きやめたシアンが「材料は全部持ってきた」と言う。

「ちょっとはこれでバイト減らせるんじゃない?」

「あ、今作ってるのはお昼ご飯だから、ちょっと待ってて」

 てゆーかローテーブルしかないわけ? まあ確かに一人暮らしなら高いテーブルの需要はないわよ。まだ若干ぼんやりしているアーロンに我関せずで、二人はてきぱき動く。

「これ、どかすよ」シアンが言って、テーブルの上に散らかっていた楽譜を持ち上げようとして、ハッと気づいたように手を止めた。目を瞠って、それでも何も言わない。ただ丁寧にそれらを重ね合わせる。

「クリスタ、あとどのくらいかかる?」

「んー、十五分ぐらい」

「じゃあ、こっちの説明するか」

 彼はアーロンの隣にストン、と腰掛けると、そのまま手を伸ばして、床に置いていたらしい紙袋からいくつものタッパーを取り出した。

「これねえ、全部クリスタが作ってくれたご飯。これとこれとこれが野菜で……、こっちが肉とか魚とかのメインのやつ。あ、野菜以外は全部レンジでチンして食べられるよ。野菜は基本そのままで大丈夫。全部冷蔵庫に入れといてね。多分三日四日は持つかな。それ以降の分はまた持って来る」

 などと言いながら並べる。

「ちょっと待った、これ全部」

「うん。作ったのはクリスタで、僕は材料調達とか荷物持ちとかした」シアンは何がおかしかったのかちょっと笑った。「材料費は割り勘したよ。あ、」と呟いて、首を傾げた。あれって言ってもいいのかな、と思案している。

「なに」

「いや、んー、まあいっか。あのねえ材料費、二人で割り勘じゃなくて三人でだったんだよね。だからエレナも」

「あの子、随分気にしてたよ」クリスタが台所から口を挟む。ジュー、パチパチパチパチと肉が焼けて油が跳ねるいい音がする。

「許してあげてとは言わないし、代わりに謝ったりはしないけど、エレナちゃんも色々考えてるってこと、わかっておいてあげてね」

 穏やかな声で言われると、それだけで反発心なんてどこかに消える。アーロンは顔にかかった髪を耳にかけて、「もとからわかってる」と答えた。視線を斜め上の方に飛ばした。この話は決まりが悪いのは事実だ。

「俺も素直じゃなかったからな……」思わず口に出したら、シアンに怒られた。

「それ、ちゃんと本人に言ってあげないとだめだよ。僕から言ったりはしないからね」

「わかったわかった」

「それからちゃんと寝なよ。せめて一日六時間」

「はいはい」

「ご飯も食べろよ」

「……あのなぁ、お前は俺の母親かよ」

 感謝しつつも軽く呆れて呟いた。シアンがぱっと軽く仰け反った。大袈裟な反応だ。何に反応したのか。

「……?」

「……いや、母親じゃないよ」

「……そりゃそうだろーが」

「……母親じゃなくて、親友だよ」めちゃくちゃに切実そうな目で訴えかけてくる様子に押されて、「お、おう」ととりあえず相槌を打った。どうしたんだ、こいつ。クリスタの方に視線を遣ったが、彼女は何も気づかずに、小さく鼻歌を歌いながら焼けたチキンソテーに胡椒を掛けているところだった。

「親友でも、肉親よりもアーロンのこと、大切にできるよね。していいんだよね。友達を大事にしていいよね」

「シアン」

 その時、こん、という硬い音がした。クリスタがお皿を三つ、ローテーブルに並べていた。「ごめん、お皿だけは借りちゃった。洗い物はちゃんとやるね」とにこにこ笑う。

「いや、料理作ってくれるだけでありがたいから全然いい。洗い物ぐらいやらせてくれ。コップとフォーク持って来るわ」

 アーロンはクリスタと入れ違いにひょいと立ち上がった。身体が軽いなあと思う。

 親友として、肉親よりも大切にすることは可能か? 直接的な言葉で答えたりはしない。でもさ、そんなの決まりきってるだろ。

 半年以上、家族とは連絡を取っていない。ギター代と、なけなしのバイト代の一部を口座に振り込んだだけだ。

 シアン、お前はちゃんと俺のことを大事にしてくれている。そしてクリスタのことも、エレナのことも。感謝してるし、俺だってそれに応えたいと思うのだ。

 三人分のコップの取手を持った。この家で、最後に誰かとご飯を食べたのはいつだろう。塩胡椒と、添え物のハーブの美味しそうな匂いが部屋中に満ちている。


     ❇︎


 アーロンの部屋を出た。錆びた手摺と、蔦のような模様を描いてひびの走る壁を見て、改めて古いアパートだなと思う。自分の住んでいるマンションもかなり年季が入っているが、ここには負ける。

「なんていうか、このアパート風が吹いたら揺れそう」

 呟いたら、隣を歩くクリスタに「ちょっと」と小突かれた。

「仮にも友達の家でしょう。ああ、親友か」

 などと言いながら彼女も笑っている。クリスタが住んでいるのはきちんとした一軒家なので完全に他人事に違いない。ちなみにエレナの家は豪邸だから、もはや比べてはいけないレベルだ。僕ら四人は、どう考えても財力が男女でわかれている。

「……親友のくだり、聞いてたんだ」

「聞いてたっていうより、聞こえてたよ。だって同じ一室にいたわけじゃない」

 それ以上、彼女はその話題を続けることはなかった。クリスタは、人が触れてほしくないような部分をちゃんと知っている。知っているだけじゃなくて、そこに絶対に踏み込んだりはしない。

 そうだね。弟と電話で話したばっかりで、色々家族のことが気にかかっていたところだったから、あんな言葉が出た。普通の親子を装いながら実は一方的に不仲で、だから友達の方が迷わず大事だと言う自分はおかしいんじゃないかと思っていた。

 というか、今も思っている。

 踏み抜きそうなほど薄くなって、一歩降りるたびにギシギシいう階段を降りて、クリスタと向かい合った。

「じゃあ、ここで今日は別れるか」

「そうね、じゃあ、また」

 シアンの家とクリスタの家は方向が違う。ここからだとほぼ真反対だ。ほぼ同時に踵を返して歩き出し、振り向くこともない。ありふれた別れ。

 さて、僕も僕で本気で色々考えなきゃいけない。

『ねえ兄貴、家に戻って来ない?』

 それに答えなきゃいけない。嫌だけど、自分が心底嫌になるけど。

 日の光が出ているのが辛い。卑屈で醜い自分を晒されている気分になる。雨が降れば良いのに。なんならずっとそれが降り続いて、この街が、この世界が全て水の底に陥没してしまえばいいのに。そうすれば誰も苦しんだりしない、辛いこと、偽善、嘘の笑顔、何にもない。全部が解決するのに。

 足を速めた時、パァァン──という音がした。無意識に振り向いて、目を細める。むむ、最近暗いところにばっかりいるから視力が低下しているようだ。よく見えない。

 パァァン、と再び空気が鳴る。微かに砂埃が立つのがようやく見えた。銃声、という単語が頭の中に浮かぶ。そんなまさか。嘘だろ。こんな何にもない、何も起こらない街に、そんなのあるわけないだろ。どうせ誰かがまたクラッカーで遊んでるだけだ。

 そう、思うのに。

 気づけばくるりと身を翻している。音の聞こえた向こうには、クリスタがいる。銃声なんて冗談にしても、少し様子を見て来よう。

 どこか現実味に乏しい浮遊感のようなものを感じながら、シアンは地面を蹴った。



 また会ったな。そう言われた。

「あ──……あ」

 情けない声が喉から漏れる。クリスタは目の前に立ちはだかる〈彼〉の顔を成す術もなく見上げた。〈彼〉が拳銃のグリップを握り直すと、カチャッ、と微かに金属が音を立てた。心臓を掴まれた音に聞こえて、生唾を飲み込む。

「だから言ってるだろ? これは本物だから、言うこと聞けって」

 空に向けて一度発砲した〈彼〉は、にやにやと首を傾げた。相手が圧倒的に弱い立場だからこその笑顔。嫌味な顔。油のようにぎとついて底光する目は、塗り潰したような真っ黒だ。これは汚い黒。

「あいつがこの街にいることはわかってるんだ。その居場所をちよっとでも教えてくれたら、あんたのことは撃たないでおいてやる」

「あ……あなたは……」

「いいから早く吐けっての。あいつに庇う価値なんて無いよ? それにあんたがそのままだんまりを決め込んで俺に撃たれて死んだところで、俺があいつのことも殺すって事実は変わらないからな」

 それでも何も言えずにいたら、銃口が今度こそ火を吹いて、クリスタの背後のブロック塀がけたたましい音を立てて崩れ落ちた。後ずさる間も無く、髪が靡いて先が僅かに焦げた。

 早く言えって。クリスタを見下す〈彼〉の目が、冷酷に嘲笑った。

 逃げようとすれば、その前に拳銃で木っ端微塵にされるのは明確だ。無理だ。

 嫌だ、嫌だ。私は死にたくない。だけど。

「あなた……こんなことして、許されると思っているの」

 鷲掴みにされてどくどくと脈打つ心臓の音を無視して、クリスタは静かに〈彼〉を睨みつけた。

 街の一部を破壊したこと。人を「殺す」などと容易く言ったこと。信じられないし、とてもじゃないが認められない。

 あなたなんかが人間で、それ以前に「人」であっていいものか。

「なるほど。それがあんたの答えか」

 〈彼〉はにやにや笑いを顔から消すことなく、慣れた手つきで銃の先をクリスタの胸あたりに定めた。一切のブレもなく、黒々とした穴のような銃口に見据えられる。

「じゃあ、さようなら──」

 ぎゅっと目を閉じて、次に来る衝撃を待った。

 一秒……二秒……三……。

 突如、「わああぁぁ」とも「ぎゃあああ」ともつかない雄叫びが響いた。がん、とブロック塀に叩きつけられるような音。がしゃんと硬いものがぶつかり合う音。音、音、音。わけがわからずに砂埃の中で目を凝らす。

「……アッ」

 拳銃を構えていた〈彼〉が何かを叫んで、ふっと視界から消えた。

「なに……」

 意味もなく呟いたところで、手を強く引っ張られる感覚があった。いつも見ている手。でも初めて握った手。走り出す。

 シアン。



 がむしゃらに足と空いた手を動かして、ひたすら走った。クリスタと向かい合っていた黒い影を何も考えずに突き飛ばしたことを少し後悔する。顔とか年恰好ぐらい見ておくんだった。これじゃあ誰だったかさっぱりわからないじゃん。

 とは言えど、そんな余裕がなかったのも事実だ。

 握った手は冷たい。それとも自分の手が熱いのか。

「あれは──」

 前へ、前へと走る勢いが爆発して、叫んだ。あれは誰なの、とか。何だったの、とか。

 誰?

 そして、あっと思った。もしかして。

「あれはクリスタの、はとこって人おぉぉ──!?」

 後ろを見る余裕なんてないから、前に向かってまた喚いた。手と手で繋がった、後ろを走る彼女にはよく聞こえなかったらしい。「ええ」とかなんとか怒鳴るような声が戻ってくる。

 自分の体温とクリスタの体温が、手の中で混ざり出す。

 クリスタのはとこ。彼女と共に昔事件に巻き込まれて、そして最近この街に現れたらしい。今起こっている連続通り魔事件の犯人かもしれなくて、恨みから、昔の事件の犯人に対する復讐をしようとしている。そしてその相手が僕らの仲間のジャックで……。

 前にジャック・ブラックとのトーレ・ディ・アマネセルへの道中の中で、勝手に立てた仮説が再び頭の中を占拠する。全部憶測にすぎない。でも憶測が百パーセント間違いだなんて限らないだろ? 勘で答えた問題だって、当たっている確率はゼロじゃない──どころかそれなりの割合で当たるように。

 現に、アマネセルで自分は、死の匂いを感じた。

 自分の中の自分を目覚めさせるには十分なほどに。

 そのまま走って、路地裏に転がり込んだ。一歩大通りを外れれば、縦横無尽に入り混じる路地だ。これ以上は道をよく知っている人間でなければ追ってこられないだろう。もう、大丈夫。

 パッとクリスタとほぼ同時にそれぞれの手を離した。

「ごめん、痛くなかった?」

 そんなことどうでもいいはずなのに尋ねたら、クリスタは無言で首を振った。

 息が、切れている。走っている最中は、気に、ならなかったのに。肺が酸素を求める。息を吸うたび、吸うたび口の中に、血の味がする。

 ああ、もう!

 まじで、僕は結局──。

 何が起こってるんだか……。

 ようやく呼吸が落ち着き出したシアンの横で、クリスタが地面の一点を見つめて腕をさするようにしていた。目の据わった尋常じゃない様子に、大丈夫? と声をかけてその手を取った。

 握っていたさっきよりも更に冷え切った手。彼女の唇が震える。

「ごめん……、ごめん」

 かろうじて聞き取れた懺悔の言葉に、クリスタが何かを知って、それを隠していることを悟った。

 僕は何も言えないまま。


     ❇︎


 双子の妹が死んだのは、もうずっとずっと前だ。エレナが未だに彼女の写真をロケットに入れて持ち歩き、結構な回数思い出すのが馬鹿らしいほどには昔。


 妹は何をやるにも完璧だった。どんなことにもすぐ順応した。習い事としてやらされたピアノをエレナはすぐに投げ出したけれど、妹はさっさと慣れてちゃらちゃらと有名な曲を弾いた。手先は器用で、裁縫も上手かった。幼いながらに簡単な料理もできていた。家に閉じ込められる理不尽を認められずに母と衝突していたエレナと違って、家族に対しても礼儀正しく、それこそ「一輪の花」と形容するに相応しい振る舞いだった。

 そんな彼女は。

 しかしエレナと二人っきりの時には全然違う顔をしていた。

「エレナは何をするにも不器用よね」

 双子の妹はテーブルに頬杖をついて、嫌味っぽく片眉を上げた。左目のしたの泣きぼくろが、白い肌の中で自己主張をしている。嫌味っぽさを強調する。周りに大人がいないと見ると、彼女はいつもこうだ。礼儀正しい口調も、お淑やかな表情も、一変させる。

 自分だけ追加で家庭教師に課された宿題に視線を落としたまま、エレナは「黙ってくれません?」と呟いた。集中力が完全に切れているので、何も考えられない。無意識にペン先が解答欄をぐるぐると黒く塗り潰す。

 妹が、嫌いだった。

 二人の時だけ上から見下ろしたような態度で、親たちから圧倒的な信頼を買っていて、同じ環境でも軽々自分を超えてしまう妹が、嫌いだった。どうしてわたしたちは双子なのだろう。一人っ子なら良かったのだ。そもそもフローレンス家としては妹だけが生まれてきた方がよかったに違いない。

 テーブルの向こうからエレナの手元を覗き込んで、妹は鼻で笑った。彼女が少し動くたび、エレナと全く同じ形に結い上げられた髪の純白のリボンがゆらゆらと揺れた。それを見て、一方の自分に付けられた赤いリボンをなんとなく手で弄んだ。……いけない、また気が散っている。

「上手く割り切らないから、エレナみたいに苦しむのよ。お母様とかお父様とぶつかってばっかり。私みたいに上手に立ち回ればいいのに」

「うるさいです」

「どうして全く同じ遺伝子を受け継いでも、こんなに出来が違うのかしら? 人間って不思議ねぇ」

「うるさい……」

 今さっき帰ったばかりの家庭教師の顔が浮かんだ。あいつも同じようなことを言っていた。「妹さんは優秀ですね」とかなんとか言って、思わせぶりにエレナを見てきた。最低だ。クビにしてやりたい。

 でも結局妹のほうが優秀なのに変わりなくて。そうやって沢山の人に認めてもらえるのは、妹が本当に「できる人材」であるからに他ならないわけで。

「でもまあ、どうせフローレンス家で一人でも子孫を残せばいいわけだし、後継ぎ的な問題で言えば、エレナは用無しよね。私がいれば、エレナは案外自由になれちゃうんじゃない?」

 詰られて、少ない自尊心をばきばきに折られて。でも自分が出来損ないであることはよく理解していたからこそ、心を治癒させることなんてできなかった。

 だから、エレナは言った。

 最大限の皮肉と嫌味を込めて、言った。

「あなたが羨ましいです」


 だけど。

 同じ境遇を持って、同じ運命の元に生まれて、それを共有できるのは、結局のところ妹だけだった。エレナの話を、思っていることを、誰よりもわかってくれるのは彼女だった。小馬鹿にしたような笑みは相変わらずでも、他に話し相手なんていなかった。

 しばらく経って、少しだけ大人になったような気が自分ではしていたようなそんな頃、ある時ふと気づいた。

 自分の胸に蟠っているこれは、妹に対する憎しみなんかじゃなかったこと。妹と自分を比べて、「姉なのに妹に負けてる」と卑屈に思ったり、妹に勝つことを渇望する意味なんてなくて、わたしはただ。

 ちゃんとした姉になりたかったこと。

 妬みじゃなくて願いだった。

 嫉みじゃなくて祈りだった。

 だからと言って、妹を好きになるようなことはなかったけれど。それでも、何かが変わったのだ。

 妹が病に倒れたのは、そんな時。

 高熱を出して痙攣を起こしたのがきっかけで、妹は日々をベッドの上で過ごすようになった。慌てた親たちが医者を呼んで、わけのわからない横文字だらけの病名が飛び交い、不穏な空気が広い家中を支配した。

 もとから少しだけ病弱で、少し何かあると熱を出すことも結構あった。だけど、まさかこんな酷いものだったなんて誰も思っていなかった。母に言われて食膳を部屋に運ぶたび、日に日に肌が透けるほど青白くなり痩せこけていく妹を見ていくのは辛くて。逃げ出したくて。

 時々、思う。

 あの時母たちが、医者を呼ばなければ。妹の病状に、長くて恐ろしい名前がつかなければ。あっさりと病気は治って、同じような生活が続いていたのではないか。見下されながら、時に話を聞いてもらいながら、あのままでいられたんじゃなかろうか。

 でも、当たり前だけれどそんなことがあるはずはなかった。

 ある夕方、エレナが妹の部屋に夕食の器を載せた銀のトレイを運び込むと、呼び止められた。

「なんです?」

 斜陽の光が妹のベッドを照らし、シーツの皺を浮き上がらせていた。上半身を起こし、膝掛けを掛けた状態の妹は、少し首を傾げるようにして笑った。長い降ろされた髪がきらきらと涙のように光った。

「エレナ、この家が嫌いなんでしょ?」

 突然の問いかけに、顔を顰めた。どうしてそんなわかりきったことを? 双子の妹は、スッと一度顔を背けてから、再びエレナを真っ直ぐに見つめてきた。

「……、……?」

「この家が嫌いでしょ? ここに縛られて過ごすの、嫌でしょ? 自由になりたいんでしょ? いっつも言ってたじゃない。エレナは……」

「急に、何を」

「だったら逃げなきゃ」

「っ──」

 怯んだエレナに構うことなく、妹は繰り返した。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃにげなきゃ。エレナと全く同じ顔は、焦ったような語調とは裏腹に完全な無表情だった。長くて白いリボンをくるくると億劫そうに、同じぐらい白い指先が弄ぶ。

 怖かった。

 嫌いで苦手なだけだった妹に、初めて恐怖を感じた。

「何してるの。もうエレナも飲み込まれちゃうわ。縛りつけられちゃうわ。逃げなきゃいけないの」

 リボンが巻きつき、絡みついた手が、無造作に布団の上に落ちた。妹は、いつもの皮肉な笑みもなく、吐き捨てた。真っ白な顔が能面の様に見えた。

 何してるの?

 エレナは怖くて、鬼気迫るものを感じて、妹の前から逃げ出した。

 それが、生きた妹の姿を見た最後だ。


     ❇︎


 一人暮らしの一軒家に帰ってすぐ、クリスタは壁にもたれかかった。小説を書く気にもならなければ、夕飯を作る気にもならない。必要最低限の財布だの身分証だのが入ったミニバックが、力の抜けた手から落ちた。

 顔を覆う。

 渦巻くのは動揺だとか、戸惑いだとか、そんな感情じゃない。恐ろしいことに気づいてしまった、事実を見つけてしまった、その恐怖。

 そういうことなのね……?

 よろめきながらテーブルの上からリモコンを取り上げて、テレビを付けた。例の連続通り魔の新たな報道がやっていた。十七人。街から出た辺りのところ。

 昔の事件。血塗られた宴会場。崖の上のホテル。彼とか、〈彼〉とか。それら全部が繋がって、そして一本の線になる。

 先にあるのは、絶望なのか、希望なのか。……っそんなの。

 碌なものであるわけ、ないじゃない。


     ✴︎✴︎✴︎


 そしてアーロンが来なくなってから、何度目かの火曜日が来る。

 深まった春の中に、ぽつりと〈いつもの場所〉は存在して、その中にまるで孤島のように僕らは揺蕩う。

 このままを続けたくて動けない僕と、何かを知り怯えているクリスタと、アーロンがいないことにどこか安心しているエレナと、相変わらずただここにあるジャックと。


     ❇︎


『どうでしょうか? 君にとってもいい提案だと思うんだけど』

 そう、あの人は言った。

 回想しながら、アーロンはまたソファに──今度は精神的に倒れ込み掛けて、ぎりぎりで姿勢を変えて立ち直した。ぐだぐだしてらんねえ、とりあえずメシだろ。

 シアンとクリスタが持ってきてくれたチキンのトマト煮をタッパーごとレンジにかけながらも、思わず呟いてしまう。

「マジですか……?」

 半信半疑。あれは現実だったのか? それとも白昼夢でも見ていたのか?

 週に一度はやると決めている路上ライブを終えた後、見知らぬ男に声をかけられたのだ。ちょっといいですか、と。

「アーロン・カーターさんですか」

「ええ、はい」

 少し太って優しそうな目をした男だった。しかし着ていたスーツも持っている革の鞄も明らかな上物で、姿勢がすごくいい。警戒心を持つ間も無く、彼はあらかじめ手の中に用意していたらしいカードをスッと渡してきた。

 名刺なんて、初めて貰った。

 「SUNG&SUNG プロデューサー」という肩書きと共に名前と電話番号の書かれた名刺だった。裏っ返すと、会社だかテレビ局だかの住所と周辺地図が小さく載っていた。

「私はこういう者でして……えっと、サング・アンド・サングっていう番組は見たことあるかな?」

 少し口調の硬さを取って、彼は尋ねた。サングアンドサング? ああ、名刺に書いてある「SUNG&SUNG」のことか。知らないな、と思った。テレビなんて久しく見ていない。

 多分混乱していたのだろう。この時点でも何のことやら、この男がなんで自分に話しかけてきているのか、全然理解していなかった。

「すみません、知らないですけど……」

「そっかぁ、えっと、説明したいのですが。お時間はあるかな?」

 言ってから、「お時間はあるかな」という言い回しがおかしかったことに気づいたのだろう、彼は照れたみたいにわしゃわしゃと頭を掻きむしった。吊られてアーロンも少し笑ってしまう。「大丈夫です。ただ、楽器だけ片付けても……」

「もちろんいいですよ。そうしたら、えっと、カフェにでも行きましょうか。お茶をご馳走します」

 なんだこのデジャヴ感は、と内心軽く呆れつつ、アーロンは頷いた。

 前に元クラスメイトと入ったところよりも高級な、半ばバーとも言えるようなカフェで向かい合って座った。番組プロデューサーの彼が出したのは、一つの提案だった。

「私たちの番組でやってるライブに、出演しませんか?」

「えっ?」

 ほぼ勝手に注文してくれた、上品で甘そうなクランベリーパンケーキにどこから手をつけたものがと考えていたアーロンは、いきなりの話に、聞き返した。プロデューサーは「えーっと、えーっと」と言いながら鞄から書類のようなものを取り出した。

「私たちの番組ではね、沢山のアーティストさんが生演奏してくれるわけなんですけど、半年に一回の企画でまだデビューしてもない新人歌手さん・アーティストさんのライブも放送してるんですよ。視聴者も多いし、大物歌手さんとかも来てるやつだから、その後スカウトなんかも結構あるかな」

 それでなんだけど、と書類の写真を指差した。同い年くらいの二人の青年がデュエットで歌っているものだった。

「残念ながらこの新人さん向けの企画にはソロ部門がなくて、こんな感じでですね、二人以上で出てもらってるんですが」

「はぁ……」

「えっと、なので、出るのなら誰かと組む必要がありますね。もちろん、三人以上のグループでも歓迎します。それと、曲は自作に限りますが、先ほどのストリートライブでオリジナル曲を演奏なさっていたので、それは大丈夫ですよね」

「……」

「先ほどは作った音源をスピーカーで流して、その上にボーカルとギターをカーターさんが重ねる形でしたが、番組のライブではスタッフ側がドラムとベースを担当することも可能ですよ。二週間前までに楽譜を渡していただければ、五人までなら」

「……あの」

「はい、なんですか」

 プロデューサーは書類から顔を上げて、にこにこした。目尻に細かく皺がよる。アーロンは、少し視線を横にやってから、再び目の前の男を見つめ直した。

「あの……なんで、俺を」

 プロデューサーは驚いた様子もなく、ただにこにこ笑いを深めた。

「私たちの番組は、ミュージシャンになりたい若者の支援と、才能の発掘をしているんだよ。それで探していたら、君……カーターさんはすごく頑張っていらっしゃるじゃないですか。路上ライブを毎週のようにやって、ご存知かはわかりませんが結構たくさんの人がネットに上げていますよ。どうでしょうか? 君にとってもいい提案だと思うんだけど」

 ほら、遠慮なくパンケーキを食べてくださいよ。そう言って、白い皿をぐいっとアーロンの方に押してきた。

「出演するなら、申し込みをお願いしますね。まだ締め切りまで少しあるので、よく考えてみて」


 ピーッ、ピーッ

 高い音に、一気に現実に引き戻される。びくっとしたが、なんのことはない、レンジでトマト煮が温め終わっただけだった。タッパーから適当な器によそって、一人で手を合わせる。うん、相変わらず美味い。シアンとクリスタが料理を持ってきてくれたのも、もう三度目だ。美味い。美味いなぁ……。

 口に運びつつ、でもやはりどこかうわの空。

 あの会話は。ついさっきの会話は。

 夢じゃ、ねえんだよな……。

 ソファに投げ出した荷物の中には、ちゃんと名刺と書類が入っている。だからさっきあったことは現実なのだ。

 努力を、見ていてくれた人がいたこと。

 知らない人が、ネット上に自分のことを上げていてくれたこと。

『よく考えてみて』

『出るなら誰かと組む必要がありますね』

 結論は既に出ている。……もう、見えてる。


     ❇︎


 また明日、火曜日が来る。

 エレナは唇を噛み締めて、玄関のドアを食い入るように見つめる。

 ──くれぐれも、これからは付き合う友人も選ぶようにしなさい。

 母親の声が耳元で蘇り、束の間躊躇って……結局靴を履いて外に出た。誰にも止められることはなかった。

 俯いてつかつかと進む。ヒールの付いた革靴がいちいち音を立ててうるさい。姿勢悪く足早に歩く様を、母が見たら顔を顰めるに違いない。もっと家柄に相応しい振る舞いを、と。

 ……なんて。

 もういい。家のことはいい。

 〈いつもの場所〉に向かう。まだ早朝だ。それに今日はまあ、どうせ誰もいない。ただ家にいたくないから出てきただけだ。もっとも、明日はこの時間でもジャックが既にいるだろう。シアンもいるかもしれない。クリスタもすぐに来るだろう。そしてアーロンは……多分来ない。エレナが酷いことを言ったから。きつい言葉を浴びせかけて、そして傷つけたから。

 自分が、シアンのような気遣いを出来たなら。意思を持てない、自分の感情を時に押し殺すその個性を時に憎んだとしても。それでも自分が彼だったなら。そして、クリスタのように割り切って、微笑めたのなら。

 自分が嫌いだ。彼にも彼女にもなれない自分が。

 そしてわたしが大嫌いなわたしは──。

 明日、アーロンがおそらく来ないであろうことに安堵すら覚えているのだ。なんて最悪。

 来ないということ。それはつまり、顔を合わせずに済むということ。それなら気まずくはならないし、まだ何もかも保留にできる。まだこのままでいられる。

 レンガ通りを進み、路地に折れる。

 朝の街は全体的に色がない。締まった店のシャッターも、青くなりきっていない空も、灰色だ。髪から垂れた白いリボンがちかちかする。

 平気、と言い聞かせた。

 そうです、今日も明日も彼は来ないのです。だから平気。怖いことは何もない。

 目の前を睨みつけるようにしてぐいぐいと進んだところで、ぽん、と肩に手を置かれた。

「よっ」

「だれ、で……」

 すか。

 完全に振り向かないところで、視界に鮮やかなオレンジが入った。それは燃えるように輝いて。

 ちかちかちか。目の前が瞬く。一気に口の中が乾く。

「……っ。ア、アーロン・カーター……っ」

「なんだよ、よそよそしいなぁ。なに宿敵を前にしたみてぇにフルネーム呼びなんだよ」

 かはっ、とアーロンは笑った。髪が少し伸びていた。今日はギターケースを背負ってはいなかった。エレナの視線に気づいたのだろう、彼は少し背後に目をやってから、「ん、ああ」と呟いた。

「今は誰かに会えねぇかって思って来ただけだから、すぐ家に帰るつもりなんだよ。……でも偶然会えたのがお前だってのはまじでラッキーだな」

 何も言えずにただアーロンの顔を見上げているエレナに、彼は優しく目を細めた。その瞳に見つめられたら、もう駄目だった。言いたくない、自分には言えないと思っていた言葉は、意外と簡単に零れ落ちた。

「すみませんでした」

 日の光の当たらない場所での貴方の努力に、気づけなかったこと。「大っ嫌い」と、本気ではなくても言ったこと。苦しんでいるのが自分だけだと勘違いしたこと。やりたいことに向かって努力できる貴方への羨ましさと八つ当たりで、わざと傷つけるような言葉をぶつけたこと。

 全部全部。

 本当はずっと、謝りたかったのだ。素直になれなかっただけなのだ。

 小さな拳を握りしめて、ぐっと頭を下げた。「やめろよ」と穏やかな声が上から落ちて来た。恐る恐る顔を上げると、彼は少しも視線を逸らすことなく真っ直ぐにエレナを見つめていた。

「もう怒ってねぇよ。俺も変に格好つけてたのは事実だしさ。エレナは悪くない。悪いのはお前だけじゃない」

 報告、とアーロンは言って笑った。

「ある番組でやってる、新人ミュージシャンのためのライブ企画に誘われた。出演しないかって言われたんだ」

「本当、ですか……」

「ただしな、ソロは受け付けてないもんだから、誰かと組まなきゃいけない」

「それなら」

 誰と? 尋ねる前に、アーロンは笑顔で言った。

「エレナ、一緒に歌ってくれないか?」


     ❇︎


 アーロンが何かのライブに出演することになったらしい。

 エレナからの短い連絡を受けた後で、シアンはすぐにアーロンに電話を掛けた。

「ほんとなの⁉︎」

[ん、マジだよ]

 喜びで舞い上がっているかと思いきや、驚くほど感情を感じない口調で彼は答えた。普通に会って、天気の話をするような時と何ら変わらない声をしている。自分がその朗報に飛び上がって嬉しくなっていただけに、ちょっとムッとなる。

「そっけないなぁ! もっと早く連絡くれたっていいじゃん! エレナが連絡くれるまで僕もクリスタも知らなかったよ」

[あいつ……]

「何?」

[あいつ、なんて言ってた? エレナ]

「え、なんて言ってたも何も……。アーロンがどっかの番組プロデューサーに誘われたそうですって、それだけだけど?」

[ふうん? ……]

 電話の向こうで、アーロンは少し言葉を区切った。意味のわからない間だが、僅かに聞こえる吐息から、とりあえず彼が何か考えているらしいのはわかったから黙っていた。ややあって、

[なあ、今日の夜空いてる?]

「空いてるけど……」

[じゃあ〈いつもんとこ〉で会おうぜ。八時ぐらいから]

 それ以上、彼は何も言おうとしなかった。だから、「うん、わかった」とだけ答えて電話を切った。

 まったく。何週間もの間会っていなかったわけだけど、そんな年月じゃあ、あいつの奔放な性格は変わらないらしい。そりゃそうだ。もう五年の付き合いだ。たったの何週間ぐらいなんだというのだ、仮にそれが何年でも、何百年何千年になったとしても、僕らは親友だ。

 そうだ。親友なんだ。



 で、午後七時四十五分。

 大分日が長くなってきたとはいえ、まだ──というかもう暗い。街灯と車のライトが照らす大通りから路地に折れると、静けさを感じた。夜の路地はちょっとやばいんじゃないの? なんか良からぬ輩がいたりするじゃん。暗闇に目を細めながら歩いていたら、見慣れた黒猫を見つけた。デビルだ。彼だか彼女だかいまだにわからないデビルは、いつもののんびりとした動作とは全然違う敏捷な動きで歩き過ぎて行った。夜だもんな、猫は夜行性だし狩りにでも行くのかもしれない。ネズミだの虫だのを食べた口で、僕の指を舐めたりしてんのかぁ……と思うと微妙だが。

 っていうか本当に暗っ。

 成人に近い男子だ。風俗の女が吸血鬼の如く襲って来たにしても、いかにもな薬を持った奴が誘って来たにしても、どうにか撃退できるとは思うが、会う場所をもっと考えるべきではあっただろう。そもそもそういう危険だけじゃない。この街の中で思いっきり僕は見たじゃないか、拳銃持ってるクリスタのはとこを! クリスタには悪いけど、結構やばい奴なんじゃないの?

 などと一人でスタスタ歩いて〈いつもの場所〉に着いたシアンは別のやばい人間を見つけた。アーロン本人である。彼は缶ビール一本を手に、空を仰いでいた。中途半端な長さになった髪を後ろでぎゅっと一本に縛っているものだから、すずめの尻尾のようだ。髪の生え際に本来の黒っぽい色が見えているんだけど、何の魔法だか様になって見える。美形は特だ。

 アーロンはかなり早い段階でシアンの気配に気付いたのか、顔を上げて「よう」と言った。

「……やあ、未成年」

「お前もな、未成年」

 ベンチに置いていたもう一本の缶ビールを軽い動作で放り投げて寄越した。戸惑いつつ受け取る。

「なんで酒?」

「大人ぶってみてるだけだよ。でもなあ、全然美味さがわかんねぇ。苦いのか甘いのかよくわからないけど、とりあえず変な味だ。……学園を出て一年経ったところでまだまだガキってわけかな」

 俺たちもう生徒じゃなくなったんだぜ? もう立派な大人だっての。学園卒業直後に雑木林を歩いていた時と、真逆のことを彼は言う。やっぱり落ち着いた、冷静とも言える声音だ。

「酔ってないんだね」

「こんな缶ビール如きじゃあな」

 違う。酒だけじゃなくて、ようやく手にしたチャンスにさえも。

「ねえ──、プロデューサーから声が掛かった件、おめでと」

 少し急に話を変えすぎたか。でも言わずにはいられなくて、シアンは泣いているみたいな笑い顔で言った。アーロンは、一瞬目を見開いてから、何度か頷いて、「うん」とも「ああ」ともつかない声を上げた。ふと、彼が変形するほど缶を強く握りしめているのに気付いた。それで、ようやくわかった。

 そっか。

 アーロンは嬉しくないわけじゃないんだ。寧ろ、感情が一杯一杯になっているからこそ、喉に詰まって声にならないんだ。

 ややあって、アーロンはベンチの背もたれに寄りかかるようにして空を仰いだ。

「ようやく、スタートに、立てたわけだよ」

「うん」

「これまで長かったし、こっからだって長いだろーけど」

「……うん」

 場を繋げるためにビールのプルタブを引いて、中身を一口飲んだ。彼の言う通り、苦くて甘くて不味かった。空を見上げると、満天とはいかないまでもいくつもの星が輝いていた。凛とした空気の中で瞬くこともなく、ただ煌々と光を発して浮かぶ。

 大通りの方から車の音がする他には、何も聞こえない。静かな夜だ。静かな夜の中で、きっと誰かが今も働いているだろうし、誰かが大切な人と会っているかもしれない。家族と過ごしている人も、一人でのんびりしている人もいるだろう、眠っている人も当たり前にいるに違いない。

 何も聞こえなくても、何も見えなくても、どこかで誰かが今も息をしている。それはきっと、素晴らしいことだ。

 隣でふっと笑うような気配を感じて、上を向いていた顔をくっとアーロンの方に戻した。

「シアン」

 と。綺麗に微笑みながら、少しだけ改まったような顔をした彼は、名前を呼ぶ。

「なに?」

 少し肩を竦めるようにして問いかけたシアンに、そして彼は言うのだ。今まで僕らの間で唯一交わしたことのなかった言葉を。


「──ありがとう」


 ありがとう。ずっと隣にいてくれてありがとう。初めて互いを認識したあの放課後から、今日までずっと。親友でいてくれてありがとう。

「あの放課後だなんて……忘れたって言ったじゃん。僕は記憶力が悪いんだよ、なんでもすぐ忘れちゃう」

「いいよ、それでも。お前が忘れようと、俺は絶対覚えてるから。あの時空がオレンジに燃えていたのも、校庭の芝がきらきらしてたのも、ぜってぇ忘れない」

 あかね陽の森。彼の最初でそして今のところ唯一の自作曲が、その風景を歌ったものであることをシアンは知っている。

 知ってるよ。

 だって全部隣で見て来たから。

 ありがとう──。その単純な言葉が、ずっと僕らは言えなかった。親友だから言葉はなくても伝わるって思っていた。思っていたというより──その考えに逃げていただけだっただろうか。そこにはきっと、照れ臭さとか変なプライドだとかがあった。

 だけど、今ようやくわかった。

 ね、クリスタ。つまりは「いちばんたいせつなことは、目に見えない」っていう事なんだろ?

 大切なものはいつだって目に見えないから、だからせめて耳に聞こえるように人は「ありがとう」と言うのかもしれない。

「アーロン、これからも僕の親友でいてくれる?」

 尋ねたら、彼は「何言ってんだか」と答えた。

「んなの、こちらこそ、お前は俺の親友であってくれるのか?」

「当然だろ」「当たり前だっての」

 アーロンは手を差し伸べて来た。長い指、ごつごつした関節。端整な顔に合わない、男らしい手。その手を取ってぎゅっと握った。硬い握手。

 ニャァァ……とどこかで猫が鳴いた。デビルだったか他の猫だったかは知らない。その声にふと我に帰って、急に恥ずかしくなった。二人同時に缶ビールを急角度で傾ける。

 がばがばと飲み下し、げほげほとむせかけて、けたけたと笑い出す。たくさんの星が見下ろす中、静かな夜に声と息が溶け込む。

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