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❇︎
両親は共働きで、母は幼いシアンと弟のリオンだけを家に置いておくのが心配だったらしい。だから、幼少期。学校に通うのと眠る以外の多くの時間を、二人は祖母宅で過ごした。勉強を手取り足取りされたりもしていた。
祖母は、まあ当たり前なんだけど、人間だった。
機嫌のいい日はかなり自分勝手。「今日の昼ごはん何がいい?」と聞かれて「サンドイッチ」と答えると、「やっぱり面倒だからスパゲティね、決まり」という具合。下品なネタでげらげらと笑って露骨に悦ぶし、シアンが身長が伸びないことで本気で悩んでいた時期に散々揶揄われたりもした。指を舐めて湿らせてから本のページを捲る仕草には本当に辟易した。逆に機嫌の悪い日は、ため息ばかりついて周りの温度を下げまくった。勉強で少し間違えただけで声を荒げ、「なんであんたはそうなのかな……頭痛くなる」と呟いた。「もう勝手にしてよ」と何度も言いながら、決して言葉の通り好きにさせて──手放してはくれなかった。
それはつまり保護であり、監視。
要するに、祖母は普通の大人だった。
だからシアンは弟と陰で愚痴を言い合いながら、「おばあちゃんちなんかにいるより学校行きたい」と思いながら毎日を過ごした。
一番嫌だったのは、母が夜勤の日。その日は家にも帰らずに泊まりで、好きなことは何一つできない。寝るまで勉強漬け。一週間に一度程度の割合で存在するその日は、弟と風呂に入りながら愚痴会だった。
でも、まあ。
そんなことを言いつつ、シアンはきっとそれなりに上手く過ごしていた方だと思う。手で千切ったバナナ入りのヨーグルトに顔を顰めつつ、母の帰りが遅くて急遽泊まることになった時に作ってくれた大きな卵焼きには心底温められた。結局祖母が世話焼きなだけでいい人だってわかっていたし、母は心配して、良かれと思ってそんな祖母に自分達を預けるのだということも理解していた。
だから、祖母の目の前で「泊まるの嫌だ」と騒いだりは絶対にしなかったし、勉強だってそれなりにちゃんとやった。不快なまでの揶揄いに実は傷心していても、飄々と笑って見せた。世話になっている祖母を傷つけたくはなかったから。幻滅させたくもなかったから。〈祖母を前にした時の自分〉というキャラをひたすらに貫き続けた。学校から家に帰ったらすぐに勉強をして、休日に友達と遊ぶこともなく。申し訳ないという思いがあったからこそ、弟の愚痴にもそこまで便乗することはなかった。
一方で、愚痴だらけの弟はあまり演技ができない子供だった。祖母を嫌悪し、祖母の目の前でわざと悪口を言った。態度で全てを示した。祖母は祖母で「あんたがおばあちゃんに当たるのは筋違いでしょ」と憤り、終わらない悪循環。理不尽だ。なんでこんな目に。嫌いだ、いなくなればいいのに。弟は祖母と、多分あんまり仲が良くなかった。多分、割り切って上手く折り合いをつけているシアンと比べられているところもあったのだろう。それは悪かったと思いつつ。
この状態が何年も続けば、いつかこいつは祖母を殺してしまうんじゃないかと思った。もちろん自分の中での冗談だった。ブラックジョークだ。そんなわけないとわかっていつつ、ふざけ調子に考えただけ。
そうなったら。
悲劇だな、ちょっと面白いかも。
だってそうしたら、シアンは何にも手を汚さずに、自由を手に入れられる。今、自分の祖母に対する善意と多少の恐縮でがんじがらめになったこの生活から、抜けられる。
そんな脈絡もないことを考えながら、相変わらず意地の張り合いで険悪になる弟と祖母を眺めていた。
だけど。
実際に祖母を殺めたのはシアンだった。弟のリオンじゃなくて、シアンだった。
❇︎
「こんにちは。月曜日だというのにここに集まるなんて、ご苦労なことですね」
嫌味のようによく響く声に、シアンとクリスタは顔を上げた。何を話すでもなく、それぞれぼんやりと考え事をしていたのだった。ややあって、シアンは苦笑した。
「自分は違うって、そう言うんだね、エレナ」
「言いませんよ?」
あっさりと切り返されて、肩を竦める。エレナの気持ちもわからないことはないのだ。僕らは同じなのだ、とちゃんとわかっている。落ち着かなくて、不安だから、だから悩み歩いた挙句一つところに辿り着く。全部わかっているからこそ、今ここに足りない一ピースの存在をありありと感じてしまう。
似てるから、わかる。ジャックはきっと、僕らがばらばらになって解散したところで何も思わないだろう。一つの場所を欠いたところで、きっと闇に溶けるように別の場所へと消える。
同じだから、わかる。アーロンにはきっと、ここしかないこと。俺たちはずっと四人一緒だ、と言ったのはあいつだ。あいつは……違う、あいつだけじゃなくて僕らは、この場所が無くなったら一人になるしかないのだ。孤独になるしかないのだ。
孤独を受け入れるほどの強さなんて。
そんなもの、持ってないよ。
だから。
「アーロンと、仲直りした?」
シアンは、尋ねる。答えはわかっていながら。敢えてなんてことはない風を装って、でも内心は懇願するようで。
エレナ、君だってわかってるでしょ?
四人であること以外に、あり方がないのは、君もでしょ?
案の定、エレナはキッと目つきに険を含ませてシアンを睨みつけた。青々とした瞳が冷ややかに光る。
「それは、謝れと?」
「違うよ、そんなこと言ってない。……でも、仲直りはして欲しい。それにはエレナから歩み寄らなきゃダメだよ。アーロンは多分、何もなしでエレナを許すことはできない」
「どうしてです?」
「あいつは、僕らさえ気づかない間に、必死にギターを練習しているから」
彼の手を、見たことがあるはずだ。綺麗に整った顔に似合わない、ごつごつして醜い手。皮膚が厚くなって、節くれだった指先。それが意味するものに、今の今まで気付けなかった。あいつが気付かせないようにしていた──なんて、そんなのは言い訳にならない。誰よりも近くにいたくせに何を悟るでもなかった自分達の、これは罰なのだ。
クリスタが顔をこわばらせたが、何も言わずに俯いた。ごめん、とシアンは心の中で謝る。ごめんね、ちょっとまた言い合いになるかもしれない。でもそれはもと通りになるため。
もと通りって何。
「必死に練習している?」
エレナはくいっと口角だけを吊り上げて笑う。
「体裁なんか気にしているようではそんなことは言えないでしょう? それに貴方と彼について話し合っても不毛です」
不毛、ね。それもそうだと思うけれど、そうばっさり切られるといい気はしない。ムッとしたシアンとは対照的に、エレナは少し余裕のある表情をした。「わたくし的には、許せないのはアーロンであっても、一番問題があって手に負えないのは、むしろ彼より貴方だと思いますが?」
「どういうこと」
「自分は何も感じていないような顔をして、自分に何があろうとどうでも良さげに笑う。周りの人間を傷つけまいとしながら、一歩身を引いている」
思わず声を出さずに笑った。その苦笑の意味は自分でもわからなかった。
「それが何か悪い? そうだね、僕は確かに自分のことに関しては関心がないのかも」
「ほら、貴方はそれをどこか誇らしげに言うのです。でもそれは関心がないのを装っているだけ。きっと本当に致命的なことが起こった時、貴方はきっと周りの全てを切り捨てるのでしょう。飄々として何もかも受け流している貴方の精神は、誰のものよりも本当は脆い。既に蝕まれている。でも生憎わたくしたちは、わたくしもクリスタもアーロンも、貴方のための安全装置ではない……!」
淀みなく流れるエレナの声に、周りの温度が急激に下がった気がした。いや、違う。反射的にシアンの脳が反応して熱を発散させただけだったのかもしれない。それは文字通り、頭を冷やすために。じゃないと、目の前に立つ華奢な女性に、殴りかかってしまうかもしれないから。
脆い。既に蝕まれている。
そうだよ、それは認める。だがそれがお前なんかにわかるなんていうのは認めない。口先だけのてめえなんかに何が言える?
許さない。
許さない。
許さない。
ゆるさない。
ユルサナイ──。
瞼の裏が赤いのを感じた。くはは、と喉元から笑い声が漏れた。これが、僕の、本性。
「人の喜びを自分の幸せにできる人間なんているわけないし、いてはいけないのです。どうしようもない、欠陥だらけで、だから貴方は、何にも──」
なれないの。彼女が言い放とうとしたのに被せて、言った。
「なれるよ、怪物になら」
人を傷つけるのが苦手。その意味がまだわからないか? その性格を美徳だと思ったことなんて、一度もない。苦手なのは、それは少し引っ掻いただけで容易に抉れる人の心が怖いから。スイッチが入ったように、あるいは切れたように、簡単に闇に身を落とす自分が怖いから。
苦手。
でもそれは、だからそれをしないという訳じゃあない。
自分の保険である人々に言葉という刃を向けられたのなら、安全装置が外れたのなら、どこまでも撃てる。既に弾丸は装填されている。
ゾクっと首元に鳥肌が立った。意外なほどに、無関心なほどに、笑ってしまうほどに、泣き出したくなるほどに、快い。そんな残酷な気持ちが湧きあがった。
ついさっき言ったばかりの言葉を、今度は明確に、相手を傷つけるために吐いた。
どうしようもない、欠陥だらけ。
「自分は違うって、そう言うんだね……?」
何にもなれないのは、一体誰。
怪物にさえなるのは、一体誰。
死神ってのは一体誰なのだ、教えてくれよ。
✴︎✴︎✴︎
相手の欠点を躊躇なく衝く、一点の曇りもない君と。破壊神のような本性を隠しながら、決して内面を探らせず人の内を探りもしない僕と。きっと決定的に違うものがそこにはある。
僕は君が苦手だ。
君も僕が苦手だ。
なのに友達で、仲間であり続けるのは。
馴れ合い? 慣れ合い? 狎れ合い?
❇︎
……ほら、貴方のそういうところは、回り回って結局誰かを傷つけるのです。
逃げるように去っていったエレナの背を見送って、クリスタが諦めたような顔で嗤った。
「なれないわ、怪物になんて」
「うん。クリスタはならないよ」
「そうじゃなくて、シアンが。だって優しいから」
「僕は……クリスタが思ってるほど綺麗な人間じゃないよ」
人のことを本人以上に喜び、怒り、悲しむ。それはすごく寂しい個性だ。狂った人間の境地だ。それは優しさなんかじゃなくて、生半可な同情。妬み。中途半端さは独立した影となって、一人歩きする。
「それでも私は信じるの」
クリスタは静かに視線を落とした。勝手に信じてろ、所詮は自分で見たいと思った虚像だ。心の中で言い返そうとして、言い返さなかった。心の中と外の境界線はどこだ。シアンは押し黙った。
ずっと黙ってばっかりだ、最近の自分達は。
変えまいとしていたのに、何か変わっちゃったみたいだ。それが悲しい。
その時、あっとクリスタが小さく叫んだ。軽い動作で屈むと、何かを指で拾い上げたようだった。
「どうした?」
「ん、これってエレナちゃんのだっけ? 落ちてた」
小さなペンダントを少し持ち上げるように見せてきた。エレナがこんなものを持っていた気もするし、持っていなかった気もする。案外わからないことだらけだ。学園時代からずっと一緒にいるのに。
プレート部分に金属でできた小さな留め具のようなものが付いているのを見て、「開いてみたら?」と言った。ロケットになっているようだった。結構古風だな。
「え、いいのかな……?」
「さあ」
ちょっと言い方がつっけんどんになってしまった。おかしいのは「僕ら」じゃなくて僕?
クリスタはそれに気付いていないのか、それとも気付かないふりをしてくれているのか、顔を見ないままに「じゃあ、開くね」と言う。少し躊躇っているような素振りを見せつつ、おもちゃのように小さい金具に爪を掛けた。カチリ、と。それは──少し格好つけて詩的な感じで言うなら、秘めやかに囁くような音を立てて開いた。
覗き込んで、同時にはっと息を呑む。
「……エレナちゃんだ」
「なんであいつ、自分の写真持ち歩いてるんだろ」
まじまじとロケットの中の小さい写真を見つめてから、顔を見合わせた。それからまた写真を凝視した。
つんとした表情で、でも僅かに口元に笑みを浮かべてこちらに流し目を寄越す少女。お嬢様然とした服装も、なんとなくの雰囲気も、今より少し幼くはあるが、エレナと同じだった。同じ? ……いや。
「違う」
クリスタが呟いた。「これは、エレナちゃんじゃないね」
彼女は人差し指を一度出してから、少し考えて小指に変えた。爪の先で写真の中の一部分を示す。
「ここに、左目の下に、泣きぼくろがあるの。わかる?」
「……あっ、ほんとだ」
よくよく目を凝らさないとわからないぐらいだけど、いつも見ているエレナには無い、黒い点がある。異質なものを感じて、そうしたら明らかに別人が見知った人間に扮しているような違和感を覚えて、シアンは目と目の間をぐいぐいと押した。特に意味のない行動だ。
「じゃあ、これエレナじゃないの? 誰? 姉妹なんていたっけ?」
「んー……」
クリスタも腑に落ちないような顔をしている。彼女は疑問を振り払うように、派手に首を振ると、「追いかけてくるね」と言って笑った。手を後ろ手に回して、力が抜けたみたいな笑顔を浮かべる。
「多分すぐ追いつくから、エレナちゃんにこれ、渡しに行く。何も聞くつもりはないけどね」
じゃあまた、と素っ気無いほど自然に向けられた背中に、「僕も行くよ。やっぱり謝らなきゃいけないし」と声をかけたら、クリスタは首だけで振り向いた。わかってないなあ、と口の形だけで言われた。
「女にしかわからない話って、あるのよ」
だからシアンは心配しないでおいて。
そう言い置いて、駆け出す。あっという間に背が小さくなって、路地の向こうに消えていく。
クリスタ。
シアンは唇を噛み締めた。
優しいのは、君じゃん。……違うか。エレナも、アーロンも、それから多分あいつも、僕の周りの人はみんな優しい。自分じゃ気付いてないけど。
✴︎✴︎✴︎
また連続通り魔事件の被害者数が十六人に増えた。
僕らの街の周りを綺麗に囲みながら、あくまで境界線は越えずに。
僕たちが生きているその時間を、顔も知らぬ殺人鬼もまた生きている。
❇︎
バイト先の飲食店を出て、そのまま迷うことなくいつも利用しているカラオケ館に足を向けた。当たり前のように背負ったギターを担ぎ直しつつ、アーロンは一瞬躊躇った後に、足速に歩き出した。
街の中を通ると、当たり前のように人がいる。買い物帰りの主婦や、仲良さそうに手を繋いだカップル。カフェにでも集まっていたらしい老人たちのグループ。下校中らしい子供たちが、はしゃぎながら走る。どうしてあんなに全力疾走しているのに疲れて立ち止まらないのだろう。俺もあのくらいの頃は疲れるって感覚を知らなかったのかな、と思ったり思わなかったり。
よく仲間内で揶揄われるが、アーロンは自分の顔が割と端正であることに自覚的だが、恋愛経験は一切ない。「もしかしてゲイ?」とシアンが本気にしかけたこともあるぐらいだ。「知らね。いや、ちげーかな、俺の彼女はギターなんだろ」と適当なことを言ったこともあった。事実、片時も離さず、奏でることで語りかけているギターはそれに違いものな気もするし、だとしたら自分は相当に重い彼氏じゃね?
そんなふうにふざけ調子に笑いつつ、一方でギターを弾く時、自分は孤独だとも思う。意識的にそうであろうとも思っている。
何に置いても、鮮やかな世界を生み出す芸術はいつだって独りだ。
学園にさえ入っていないガキのころ、とある木彫り彫刻家の個展に、祖父に連れられて行ったことがあった。祖父は趣味でよく木彫りの簡単な像のようなものを造っていたから楽しそうだったが、連れて行かれた側のアーロンは一切の興味なんてない、なんの知識も感慨もない状態だった。彫刻イコール意味わからない抽象的なものとか、変な裸の人間とか、存在するわけもない神。そんなのを見に行くぐらいなら家で音楽を聞いていたいんだけど。文句を言いながらしぶしぶ行ったその個展で──。
撃ち抜かれた。
思わず見惚れたのは、メガネカラッパという、アジアの方に生息する丸い蟹を形作った作品だった。……いや、それはメガネカラッパそのものだったとも言える。細くて華奢な足の関節、折り畳まれた鋏の棘、甲殻の緻密なカーブ、飛び出た小さな目の艶。全てが木でできた、それは蟹だった。
「どうしてこんなものが作れるんですか?」
木彫り作家は、来場客の質問に穏やかに笑って答えた。
「モデルになる生物は、できるだけよく観察したいので、購入できるものは購入しています。それから解体したりして、その仕組みを理解すること、そこから始めるんです」
美術に興味のない悪ガキは、全て身終えた祖父が呼びにくるその時まで、ずっとメガネカラッパに魅入っていた。彫刻に関する知識なんて皆無で、絵の才能はゼロで、なのにこれがすごいこと、それだけはわかった。
なにこれ、超クール。
知識がなくても、経験がなくても、興味さえなくても。本当にすごいものは人にすごいと思わせることができるのだと、知った瞬間だった。
そして、それと同時に。個展を開き、持て囃される一人の芸術家の孤独に気づいた。作品を作っている間。それは自己と作品の間でひたすらに駆け引きする時間。モデルを観察し、材料の木材を選び、形を切り出し、造形する。それらは全て工房の中で人知れず行われる作業。
「ほら、帰るぞ。さっきまであんなに早く帰りたいって言っていたじゃないか」
怪訝そうな祖父の後に続いて会場を出ながら、アーロンは何故だか泣きそうになるのを堪えていた……。
今、悪ガキから少し大人になって、目指すものもあって、だけどどこか無気力なアーロンは、無感情な目で街を見る。
孤独ねぇ。
一人で頑張ることを、それを芸術だと思っていた。人知れず努力することを、格好いいと思っていた。だけど。だけど、もうそれに疲れた。
『全力でつぎ込むべき時間さえもつぎ込んでいないのに、適当なことを言わないでください。生まれ持った才能なんてそもそもどこにもないでしょう? できる努力さえしないで、貴方が人の世なんて語れる立場? 可笑しいです』
達観しなければやっていけないような世の中で、何もかも否定されながら、立っていることになんの意味がある。孤独なんてもういらない。そんなのは格好つけるための道具で、結局のところ中に身を置いてみなければ、その寂しさを理解はできない。理解した時、それを素晴らしいものだなんて思わない。なんて──普通のこと。結局そんなもんだ、大体のことなんて。
「……って言ってんのもまた達観してるふりっつーわけで」
もうやめてしまおう。
一人で頑張ることなんて。
街を眺めた。誰かいないだろうか。知ってるやつ。シアンとか、クリスタとか、ジャックでもいいな。でもあいつは誰かから逃げてる身分だからこんな時間に意味もなくチョロチョロしてることはねーか。エレナには……ちょっと会う気分じゃないかな。
やっぱりこの中でダントツにエンカウント率が高いのはシアンで、それはひとえにヤツがほぼ毎日街中を歩き回っているからだ。それこそチョロチョロと当てもなく。確かシアンが一人暮らしを始めた頃からずっとだ。
『いっつもうろうろしてるよな』
前に笑いながらそう言ったら、彼は大真面目に「心底困った」といった表情をした。
『僕はアル中なんだ』
『は?』
なんだってお前が酒依存なんだ? 未成年なのに? 酒飲んでるの見たことないけど。思わず聞き返したアーロンに、シアンは真顔で頷いた。「そう。歩く中毒なんだよ」
その後アーロンは爆笑していたが、今思えばそれはとても笑えない。彼が歩く理由を考えれば、笑うことは残酷だ。一人になるのが怖いから、街を歩けば誰かが生きているのを感じられるから、だなんて。
今の俺は、それと変わらねえじゃん。
声を出さずに悪態をついたところで、突然肩をばん、と叩かれた。驚いて思考が止まる。
「お前、すごい偶然だな! カーターだろ?」
シアン? 噂をすれば的なやつか? いや、そうじゃない。声が違う。それにあいつは俺のことを苗字では呼ばない。
やっと金縛りが溶けたように振り向いたら、学園時代のクラスメイトがいた。久しぶり、とスーツ姿の彼は笑顔で手を振ってきた。途端フラッシュバックする記憶。
『お前、暗いやつだよなぁ。なんだよ、これ。楽譜のつもりかよ。男のくせにだっせぇ』
放課後の気怠さ。ひらりと舞う、手書きの楽譜。あれを投げた彼は、今大人になった姿で目の前にいる。自分とは違う世界で、人の中心で輝いていたクラスメイト。きっとアーロンと過去にあったことなど、とっくに忘れてしまったに違いないクラスメイト。身体が、硬直する。
寧ろ俺のことなんて、覚えちゃいないと思っていた。同じクラスだったのだって、ずっとではない。四年のうち最初の二年だけだ。
黙りこくったアーロンに、彼はにこにこと笑いながら、首を傾げた。
「俺のこと忘れちゃったか? ひどいやつだなぁ」
「いや……忘れて、ねえよ」
我ながら酷い声だ、これじゃミュージシャンなんてなれるわけない。そんなことを思ったが、もとクラスメイトの彼は気にした様子もなく、「かはっ」と笑う。
「わかってるわかってる。冗談だ。それにしてもお前、まだ髪そんな派手な色してんだなぁ」
「なんで……」
「ん?」
「なんで俺が髪染めたこと、あんたが知ってんだ。その頃にはもうクラスも違ったし、染めてるやつなんて結構いたのに」
あんたとは別の世界で生きていた、はみ出しものだった俺のことなど、目に入っていたはずもないのに。
「そりゃあお前、さあ」
彼は少し考えてから、よし、と言った。何が「よし」なんだかわからなくて、アーロンはまた沈黙した。ゆっくりと瞬きをしたら、ヒエラルキ上位に似合う爽やかな笑顔が、瞼の裏にこびりつくようにして残った。
上位者は、言った。
「今から適当な店でお茶でもしようぜ、俺の奢りでもべつにいいし」
❇︎
どうしてだろう。
どうしてこんなに、強くて、鋭利で、マイナスにばかりはたらく言葉しか、わたしは言えないのだろう。
ずっと前に閉店したらしい、シャッター街の一軒。裏口の階段に座って、エレナは手で顔を覆った。虫のいい涙なんて、一滴だって流れなかった。
言いたいことを口に出せる強い人。自分はそんなんじゃない。口に出すのは、不本意な形で鎧を纏った言葉ばかりだ。弱いからこそ、針で自分を覆うハリネズミのように。
「わたくしは……、わたくしが、嫌いです……」
自分ではわかっているのだ。アーロンのことを「もっと真面目にギターをやれ」と詰ったのは、彼のことが羨ましかったからだ。一生懸命にできるものを、やっていないように見えたあの人を、ずるいと思ったからだ。
フローレンス家に生まれて、いつか家の主の細君となることが既に決定されていて、他には選択肢なんてない。未来は保証されていて……そして不動だ。
飾り物の花である、ということ。
努力なんてしたこともない。させてもらえない。なりたいものなんて考えずにここまで生きてきた。どうせ進む先は決められているから。そしてそれはこれからも。エレナは、何にもなれない。運命にがんじがらめにされて、身動きなど取れないし、その意志ももうないのだ。
──だから貴方は、何にもなれないの。
──自分は違うって、そう言うんだね……?
だから、自由なあの人たちに憧れた。
羨ましかったから、自分が嫌だったから、八つ当たりをした。
最低で最悪だ。卑劣で愚鈍だ。
「……っ」
膝の上に突っ伏すように上半身を倒した時。
「エレナちゃん! こんなところに」
聞き慣れた声がして、エレナはゆっくりと顔を上げて、そしてぎゅっと歪めた。
「クリスタ……」
ここまで走ってきたらしい彼女は、膝に手を当てて呼吸を整えながら、笑う。少し乱れた長い髪。浅く弾んだ息の声。「少し遅れて、追いかけてきたの。でもなかなか見つからなくって」
はい、これエレナちゃんのでしょ? 落としてたよ。そう言って、銀の鎖のロケットを渡してくれる。陰った手元に、それは光ることもなく冷えた色を湛えている。
「……ありがとうございます」
「ううん」
いつも身につけているものなのに、落としたことに全然気づかなかった。立ち去る時にはもう、それなりに気が動転していたというわけか。エレナはロケットを両手の平の中にで握りしめた。この中に永遠に閉じ込められたあの子は、きっと変わらない顔で微笑んでいる。
『何してるの?』
嫌味な口調で嘲るようにそう言って、片眉を上げる。
……嘘だ。そんなわけない。あの子はもういない。物言わぬ物体になって、そして灰になった。喋らないし笑わない。
クリスタが何も言わずに、エレナの隣に腰掛けた。二人で特に面白いものがあるわけでもない地面を眺めていた。足元の煉瓦タイルの間から、黄緑の雑草が伸びていた。春になるんだな、とそれを見てなんとなく思う。学園を出てから、丸一年。
「知ってるよ」
ぽつりとクリスタが呟いた。彼女はくいっと顔を上げて、どこか空中を見ていた。真っ直ぐ、前を。
「……何がですか」
「エレナちゃんが、本当に悪意があって色んな言葉をぶつけるんじゃないってこと」
そういえばシアンやアーロンにあれだけガミガミと言いつつ、クリスタとは軽い口喧嘩になったことすらない。学園時代から、一度も。彼女が穏やかなのもそうだし、自分にも理由があるんだろうなと思う。エレナは、クリスタに強い言葉をぶつけることができない。
ほら、今だって言い返したりはしない。
「どうしてわかるのですか?」
「だって……、うん。エレナちゃんは本当は、みんなが好きだからだよ。アーロンに、貴方みたいな人大っ嫌いって言ってたけど、そんなわけない」
こちらを向いて、少し悪戯っぽく笑う。
「本当に嫌いな人に、わざわざ『大っ嫌い』って強調して言うような手間はかけないでしょ」
「……」
そうですね。その通りです。自分は、クリスタが、シアンが、アーロンが、好きだ。ずっと一緒にいたい。四人で変わらずにありたかった。
学園を卒業したその日、四人で立ち入り禁止の木立の中を抜けて、そして見た青空。自分達の、未来。何故だか涙が出てくるほどの青天を仰いで、そして思ったのだ。
自分にはここしか居場所がない。だけどそれでいい。このままでいられたなら、世界なんて狭くて構わない。四人で閉じた場所にいよう。
なのに、その形は変化した。アーロンが、あの人を仲間に入れて、そしてそこからだ。自分たちはもとの状態に戻れない、どこかぎくしゃくしている。その原因の一つが自分だとしても、きっとそれだけじゃないとわかっている。
そして確定した未来。いつか適当な人と結婚して、その人を立てるために全力で尽くすこと。家のために生きていくこと。そうなれば、もう今のように戯れることもできない。
花は、植物は。自分の力じゃ動けない。
いろんな力に翻弄されて、揉みくちゃにされて、ばらばらになって、いつか何もなくなる。
それが、わたしは怖い。
「……怖いのです」
膝の上にロケットを置いたまま、スカートの生地を握り締めた。くしゃ、と音も無く皺がよったそれは、誰かの泣き顔のようにも見えた。この綺麗でいかにも高そうな布地でできたスカートも、家で勝手に用意されたものだ。改めてそれを感じて、悲しくなった。
ややあって、クリスタが「無責任なことを言ってもいいかな」と尋ねた。呟いただけかもしれない。疑問系の言葉だが、口調は平坦だった。どちらにせよ、エレナは無言で先を促した。
「私も、たくさん悩んだことがあった。どうにもならない境遇とか、自分のこととか。今考えれば本当にどうでもいいことの方が多かったけど、多分エレナちゃんが想像できないほど、根暗になってかなり意地悪なことを考えたこともあったわ」
だけどね、とクリスタは手元に視線を落とす。その目はどこか遠くを見つめている。
「ある時、気付いたの。こんなに辛くて、苦しくて、些細なことで悩んでるのは、多分今だからなんだね。大人になりきれていない今だからなの。いつかこんなにぐちゃぐちゃ考えてたのなんてあっさり忘れて、大人になる日が来る。そうしたらまた、別のことで辛いことがあるかもしれない。それでもまた乗り越えていく」
「どうして」
どうして、そんなに自信をもっていられるの。最後まで言葉を紡ぐまでもなく、クリスタは答えた。
「忘れちゃっただけで、物心つくその前から、私たちはそうしてきたから」
冷たくはない風が吹く。足元の雑草が少しだけ靡いて揺れる。
自分が大人じゃないことを認めて、そうしてクリスタは大人になった。エレナたちを置いて。
そうだ。無意識下でもなんでも、考えたことはなかったか。気遣いができて、優しくて、しっかりしているクリスタが、どうして自分たちはみ出しものグループにいるのか。
考えてみればすごく簡単なことで、はみ出しものグループと言っても、はみ出しものでなければ入れないわけじゃない。寧ろ自分たちは仲間を求めて必死だ。クリスタは、もとからはみ出しものなんかじゃなかった。まっとうな人間で、そしてまっとうに大人になった。彼女は、はみ出しものの中で上手くやってきた。でもきっと、別の場所でも上手くできた。それだけの話。
だから、エレナはクリスタに歯向かうことなんてできない。
それは力の差とかそんな単純な話じゃない。
だけど、単純明快に、エレナはクリスタに敵わない。
「そうですね。そうなのかも、しれません。ありがとう、クリスタ」
エレナは眉根を寄せたまま笑った。そして、悟った。ずっと前からわかっていたことを悟り直した。自分が嫌いなわたしは。
わたしは、貴女になりたかった。
❇︎
もう冷めてきたコーヒーを、アーロンは味も感じずに啜った。このカフェに元クラスメイトと来て、もうかれこれ一時間だ。奢ってやるよ、という言葉に甘えてコーヒーだけは頼んだ──むしろここはそうしないと失礼に思えたのだ──が、流石におかわりをするような図々しさはなく、一杯のコーヒーをこれ以上ないほど時間をかけて飲み下す。なんていうか、病的だ。
「それでさあ、こっからちょっと離れたA大学に通いつつ飛び級的な制度使って就職にも手ぇ出してたわけよ」
「はあ、なるほど。まあ、あんたは学園の時から勉強ができたからな」
ヒエラルキ内部の人間たちとのやり繰りや、スポーツ、クラスの女子たちとの接し方。そうだ、あんたは何でもできた。
「っはは、ありがとな。でさ、そしたらなんと一年経って、とある会社からスカウトされてさ。まじ⁉︎ って驚きつつ、めちゃくちゃ嬉しいの」
「それは……おめでとう」
喋っている間に、何度となく元クラスメイトの目が、アーロンの隣のギターケースに視線を寄越すのを感じて、その度緊張した。街を歩く時にさえこんなん背負ってるのかよ。ダッサ。そう言われている気になる。そんなわけねえだろ、それは俺が罪悪感でそう思ってるだけだろ、そう言い聞かせる。
コーヒーの深淵を覗き込んだ。ダークブラウンの中に、自分の顔が沈んでいた。
不快感でも、その逆でも。自分が何かしら相手に影響できるほどに、自分は強くないし、相手は弱くない。自惚れるな。
「そんなんだから、大学も出て、本格的に都会に出るわけ。だから今日は、久しぶりに家に帰って来たんだよ」
「なんでスーツ?」
尋ねたら、彼は照れ臭そうに笑って、まだ黒々とした袖をひょいと挙げた。電球の光で滑らかに光るのを見て、真新しいんだなと思う。表面がまだ毛羽立っていない。
「そりゃあさ……親とかに、社会人になれたよっての見た目でも言いたいじゃん?」
「ああ」
社会人、か。大学も就職も、自分たちは選ばなかった。何も選ばなかった──のではなかった。ギターをやって、それで本気で食っていきたいと思っていたからこそ、それらの道はアーロンの眼中になかった。
じゃあ今は?
そう聞かれたら、俺はなんて答えればいいのだろう。
わからないけれど、でもそうか。誰の後を辿っていたわけでもなく、俺は自分で選んでたのか。
「……ってか悪いな、俺ばっか喋って」
「……や、別に、いい」
「なんか追加で飲み物とかいるか? 食いもんでもいいし」
「いい。大丈夫だ」
慌てて手を目の前に出して首を振ったら、元クラスメイトは少し変な顔をした。「なんで若干笑ってんの?」
「──え」
「にやけてるっ言うより、なんていうか微笑んでるって感じの顔してる」
虚を突かれて少し戸惑ったが、そうだな、とアーロンは頷いた。受け皿にカップを置くと、カチャン、と微かに高い音がした。今日初めて、彼の目を見つめられたのは、何かを諦めたからかもしれない。
「少し……あんたが羨ましいかもしれない」
今度は彼が目を見開いた。
「悪い、全部自慢に聞こえてたか? 不快にさせてたなら、謝るよ」
アーロンはかぶりを振った。
「そうじゃなくて、……こちらこそ勝手に笑ってて悪かった。気味悪く思ったなら、謝る」
「……」
「羨ましいって言ったのは、あんたがやりたいように生きて、それで成功してるっていう事実が確かにあることだよ。本当にすごい。あんたは、高いところにいる人だな」
「なんだよ、それ」
お前は──。何かを言いかけながら、元クラスメイトは苛立った表情になって席から立ち上がりかけた……が、自制心でも働いたのか咳払いをして座り直した。椅子の足とフローリングの床が擦れて、結構大きく音を立てる。
少し気まずいような雰囲気になって、二人で窓の外を眺めた。天気がいいな、と場違いに呑気なことを思った。
案外、不器用で不細工だ。
俺も、彼も、他の誰かも。
「そう言えばさ」
彼が僅かに緊張したような面持ちでアーロンに笑いかけてきたのは、その数十秒後だ。ゆっくりと視線だけ動かして、アーロンのギターケースを見やった。
「そう言えばだけど、お前、まだギターやってたんだな」
さっきとは打って変わってぎこちない口調に、思わずまた笑ってしまった。何が「そう言えば」だ、さっきからずっと彼の目がギターを見ていたのを、アーロンは知っていた。不自然な言い方だったことに自分でも気付いたのか、元クラスメイトはやっちゃった、という表情で苦笑した。
「仕方ないから、正直に言うかな……」
「何が」
問い返したアーロンに、彼は斜め上のあたりを見上げて頭を掻いた。
「俺、ずっと前からお前に言おうと思ってたことあるんだよね。今日それを言うためにこの街に帰ってきたっつってもいいぐらい」
「……家族に会いにきたんじゃなかったのか? それに俺に会えなかったらどうしてたんだよ」
「いや……そんな理屈は抜きで。っていうか、家族に会いに来たのはそうだし、お前にこうやって偶然会ってなかったら特に何もなく街を出てっただろうけど。でもそうだったら多分俺ずっと嫌な感じしてただろうな」
「……?」
「あのさ」
入学したばっかの頃、俺がお前の書いてた楽譜、馬鹿にして放り投げちゃったの覚えてる──? 彼は早口に言った。言葉を失ったアーロンに、居心地悪そうに、「そんなの覚えてないよな、忘れちゃったよな……」と言葉を濁そうとする。
「……っ。おぼえてるよ……」
かろうじてそれだけ答えた。覚えてないよな、忘れちゃったよな、だって? それはこっちのセリフだと、ずっと思っていた。彼みたいなきらきらした人間には、そうでない者のことになんて関心もないしどうでもいいのだと思っていたし、不快感を与えたなら自分が悪いのだとも思っていた。今更違ったと言うのか。
その戸惑いを知ってか知らずか、元クラスメイトは「本当か?」と少し顔を明るくさせた。覚えられていたこと。……あんたはそれを嫌と思わずに寧ろ喜ぶのか。
「良かったよ。それで、ずっと謝らなきゃなって思ってたけど、学園時代は結局自分のプライドが邪魔して出来なかったから」
彼は真っ直ぐな目をしていた。
「あの時は、悪かった。楽譜投げたのもそうだし、確か男らしくねぇとか気持ち悪いとか、本当に酷いことを言ったと思う。許してほしい」
窓の外で照らし出された横顔。微かにぎこちなくカップを包む両手。緊迫して、それでいて懐かしいものを見るような目。
「あの頃は、何故だか自分と違うようなものが目について、それを敵と見做してるようなガキだった。今考えれば本当に馬鹿らしい話だって思う。お前は気持ち悪くなんてなかったし、すごいやつだ。今もこうしてちゃんと、酷いことを言われても尚、ギターを続けてる。良かったよ。勝手だってわかってるけど、お前がギターを続けてくれてて安心した」
「あんたは……」
「俺は高いところになんていないさ。俺から見れば、お前だってちゃんと高いところにいる」
「──っ」
「だから、あの時は本当に、ごめん」
目を見開いて、それからぎゅっと瞑った。
俺は、悪くなかったと言うのなら。
テーブルの下で拳を握りしめる。溢れた感情は、一体何なのかわからなかった。わからなかったけれど、嫌なものじゃ決してなかったのだ。
「別にいいさ。気にしてねぇよ?」
アーロンは口の片端を持ち上げて肩を竦める。シアンたちの前でよくやるみたいに。キザっぽかったかな。でもいいだろ。
俺の存在は、罪じゃない。
結局ヒエラルキとかカーストとかはどうでもよくて、皆んなこうやって色んなことを気にしながら頑張ってる。自分と彼は、今となってはもう対等なのかもしれない。そうでなく見えていただけで。
「今日、あんたと喋れて良かったよ」
自然な気持ちで呟いたら、彼は意外そうな顔をした。「そっか? まあ俺もだけど」
「うん、すごく良かった」
右手を差し出した。元クラスメイトは、にっこり笑ってその手を取って握り返してくれた。でかい手だなぁ、と少しだけ驚いたように声を上げる。その様子に、アーロンは声を立てずに笑った。
窓の外の空は浅葱色に霞む。あの日の夕暮れ色とは対照的だ。学園の卒業式の後、四人で見上げたものとも違う表情。穏やかに雲が流れ、柔らかな青を瞼に刻む。ありふれた風景を、綺麗だ、と思う自分はイタいだろうか。……別にそれでもいいのか。
帰ったら、また新しい曲を書いてみようか。過去に作った一曲と、その他既存のメジャー曲のカバーだけでやっていくのは、もうやめようか。
──貴方みたいな格好つけてばかりの人、わたくし大っ嫌い。
──俺はお前に好かれるためになんて生きてねえ。
そうだ。誰かに好かれるために生きているわけなんてない。興味を持たれていなかろうが、案外ちゃんと見ていてくれようが。好かれていようが、目の敵にされていようが、それを気にせずにいられるならそれに越したことはないのだ。
だけど、まあ。
やっぱり、嫌われたかねぇしな。
無数に正しさが散らばった世界で、答えはいつだって自分の中にあるのだから。
❇︎
今夜も狩りを始めよう。
ジャック・ブラックは表情にすら出すことなく、唇の端で薄く嗤った。コートのポケットの中で、ナイフをぎゅっと握りしめた。
こんな連続通り魔事件が起きている──起こされているというのに、誰も彼も本当に呑気だ。夜が街を支配したその後も、街灯に集まる羽虫のように、ネオンサインの光のもとには人間たちが彷徨いついる。
なんて、俺もその一人に見えているには違いないけれど。
ああ、笑える。可笑しい。なんと愚かしい。
「またのご来店をお待ちしています」
どこかの店の店主が客に頭を下げる。
「また明日」
「うん。じゃあね」
どこかのカップルが微笑み合って、言葉を交わす。
別れのたびに「またね」とか「また会おう」とか言うなんて、人間は烏滸がましくて言い訳がましい。次に会う保証なんてどこにもないのに。いつまでも「また」があるなんて、そんなの誰にもわからないのに。
そうだ。お前たちは今日ここで終わるのだ。
そう心の中で呟いて、ポケットからナイフを勢いよく抜き出した。赤とか、青とか。暗い色の光を受けて、それは鋭く輝いた。どこまでも鋭く。何物さえも、空気さえもばらばらに切り裂くナイフを振り下ろして。
振り下ろして──。
──できなかったのだ。
澄んだ瞳。柔らかい声。肌に触れた指の体温。
私はずっと、この街にいるから。どこにも行かないから、辛くなったらいつでも会いに来て。
ぱっとナイフを握りしめた右手から力が抜けた。何もかもが欠落した、ぽっかりと開いた穴のような表情で、ジャックは左手で右手を握りしめた。
「……っは」
短く息をしながら、倒れそうになる身体を足で必死に支える。
どうして。
手から零れ落ちたナイフが、足元の闇の中に音を立てることもなく吸い込まれた。
❇︎
時間は止まらないから。
火曜日はやってくる。
〈いつもの場所〉でありながら、何かが決定的に違う。シアンは、唇を噛み締めた。
「……」
「……」
「……」
不気味とも言える空気感。作り出しているのは、ベンチに腰掛けて目を伏せているクリスタであり、何があるわけでもないのに煉瓦の壁をじっと睨みつけているエレナであり、〈内臓〉──トランプを淡々と弄んでシャッフルし続けている自分自身であったりした。
火曜日なのに、いつまで経ってもアーロンだけが姿を見せない。
それは今までに無いことだったから。クリスタがたまに、書いている本が佳境に入った時に「今日は行けなそう」と連絡を寄越したことはあったが、アーロンは一度だって欠かしたことがなかった。だから。
もうどうしていいか、わからなくて。
唯一、無言ながら一切の感情も見せずに立っているジャック・ブラックは、ただそこに変わらずに存在していた。そりゃそうだ──と思う。彼は僕らが解散しようが、仲直りしようが、特に関心はないのだ。ただなんとなく、誰かの近くにいたいだけで、それが自分達である必要なんてない。そもそも、誰かのそばにいたい、という勝手な予測もどこまで正しいかわからない。彼がここに毎週来るのは、単純にアーロンに言われたから、というだけでそれ以上の意味はないのかも。言われたことを遵守する理由さえわからないけれど。
サク、サク、サク。手の中のカードの束が単純なリズムを刻む。
四方を壁に囲まれた空間の、空気は籠っている。
どこからともなく現れたデビルが、ぴょんとクリスタの膝の上に飛び乗った。
「わたくしの──」
エレナが口を開いた。誰も視線すら動かすこともなく、そのままの体勢で言葉を待った。
っ、という小さな吐息と共に、震える声は言った。綺麗に結い上げられた髪を飾る白いリボンの先が、細かく振動している。
「わたくしのせいですね」
何を意味するかは、この場にいる誰もがわかっていた。それでも、「それは違う」と言う人間はいなかった。そんな甘い言葉──胃もたれするほど甘すぎる言葉、エレナ自身が求めていないのは明確だ。
確かに、エレナが事のきっかけになったのは事実で、彼女のせいとも言える。
でも、それだけじゃないよ。
きっと、彼女だけのせいじゃない。
じゃあ誰のせいなのだって言われると、上手く答えられないけれど。
「どうしたってどうしようもないから、いつも通りにトランプでもしない?」
そうしているうちに、きっとアーロンも来るわ。
クリスタが、一生懸命に作った笑顔で言った。黒い毛並みを撫で付けられながら、デビルがミャアと小さく鳴いた。健気とも言える態度に、少しだけ絆された気がした。「そうですね」と、エレナが頷いた。いつもの語尾を上げる口調ではなかった。
「ジャックも、やる?」クリスタが尋ねる。その声色に若干の違和感を感じて、シアンは首を傾げた。それがなんだったのかは結局わからなかった。
「ああ、じゃあ参加させてもらおうか」
ジャックがいつもと何も変わらない表情で応じる。見られているのを感じたのだろう、彼がふっとこちらに顔を向けて、目が合った。
はっと息を呑み込んだシアンに、彼は軽く口元を緩めて微笑んだように見えたのは、気のせいか。ゆっくりとその口が、「大丈夫」と形だけで呟いたのは、気のせいだっただろうか。
自分を安心させるためにそう見えただけだよ、多分。
僕らは今、友情が砕け散る恐怖に、藁にも縋りたいような状態なんだから。
なんて思うのに、何故だか泣きそうになる。怖いよぉぉって叫び出しそうになって……、情けないなあ。「ずっと一緒だ」という誓いがこうもあっさりと、一年で崩れるなんて。
世の中を達観しきっていたように見えたアーロンには、抱えていたものがあって。エレナが押さえきれずに沢山の言葉をぶつけて。クリスタは一生懸命に取りなそうとして。僕はそれに何も出来なくて……そうじゃない。何もしなかったのではない。僕は動揺して、人を傷つける怪物になった。
だから、今、一人が欠けようとしている。
一人欠ければ、そこから綻びは広がる。
僕らはひたすらに怖い。いや、ここもまた「僕ら」じゃなくて、「僕」なのかも。それが、今ジャックと目が合って初めてわかった。複数形では語れない。僕は怖い、それが全部だ。
彼の目を何もかも吸い込んでしまうような瞳、と形容したことがあった。でもそうじゃなかった。ジャックの瞳は全てを吸い込むんじゃない。寧ろその逆で、全てを反射する。それは鏡のように、水面のように。
大丈夫。だなんて……。
唇をを噛み締めた時。
ポケットに突っ込んでいたスマホが、振動した。
一件のメール。送信者を見て、冗談のようにバラバラと手からカードが落ちた。膝から崩れかける。
「ああっ……っ!」
「何です」「どうしたの?」
「メ、メール。アーロンから……」
「「……!」」
ジャック・ブラックが僅かに微笑んだのがわかった。今度こそ、本当に。「何と?」と冷静な声で彼は尋ねた。
シアンは、ぐちゃぐちゃな顔で笑う。安堵と弛緩。……アーロンは、僕らが嫌いになって離れていったのではなかった。
「ギターを本気でやりたいから、悪いけど暫く火曜日も行けないかもって」
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