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「貴方は何をしているのですか」

 エレナのその言葉が引き金となったらしい。アーロンがまた「さて、これからまたバイトだな」とギターを背負った直後。

「何って何だよ」

「前から思っていたのですが、貴方は本当にミュージシャンを目指しているのですか? 毎日バイトだと言って街中をふらふらして、毎週この場所に入り浸って、暇人ぶる。それでいて他者から自分の音楽を評価してもらえないのが世の道理だなんて、その口で言うのです。何を考えているのですか」

 アーロンはそう言われた時、かっとなって怒鳴るでもなく、露骨に顔を顰めることもなく、スッと表情を無くしたらしい。

「何を見ているわけでもないお前に何が言えるってんだ? あぁそうだよ、報われない努力だってある。埋もれる才能もある。それは事実以外の何物でもねぇだろ」

「全力でつぎ込むべき時間さえもつぎ込んでいないのに、適当なことを言わないでください。生まれ持った才能なんてそもそもどこにもないでしょう? できる努力さえしないで、貴方が人の世なんて語れる立場? 可笑しいです」

「てめぇに何が」

「ええ言えますとも、わたくしは、わたくしたちは学園時代からずっと貴方を知っています。とにかく、頑張ってもいないのに自分を憐れむのはおやめなさい。ミュージシャンを気取るためにギターを持ち歩くのもやめて下さい。はっきり言って目障りです。貴方みたいな格好つけてばかりの人、わたくし大っ嫌い」

 険のある目つきで言い放ったエレナと対照的に、アーロンは見たことのない氷のような無表情で彼女を見据えていたという。そんな様子の二人に、私は何も言えなかった、とクリスタはぎゅっと顔を顰めていた。

 完全に修羅場と化した場を、終わらせたのはアーロンだったらしい。

「自分が偉いと思い込んでその高飛車な態度決め込んで、もう勝手にしろよ。お前みたいな奴に付き合ってやる人間なんてもういねえよ。俺はお前に好かれるためになんて生きてねえ」

 彼はそう言って、踵を返すと去っていった。ギターを背負った背が、追いかけることも声を掛けることも拒絶していた。

 全て後から聞いた話でしかない。だから、実際の険悪ムードなんてきっと話で聞く比じゃない。その場にいた人間にしかわからない。

 翌日である水曜の朝六時。そんな時間から出てくるともわからない僕のことを、家の前で待っていたクリスタは、苦しげに笑った。

『どうしよう、私たちもとに戻れなくなっちゃったかも』と。


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「でもさ、なんでアーロンもそんな風にキレちゃったんだろうね。いつもの感じからすればさらっと笑って流しそうなのに」

 シアンは呟いて首を傾げてから、また暗澹とした気持ちになった。要するに「らしくない」ってわけだ。否応なしに昨日のことを思い出したが、忘れることにする。特に今は本人に口に出して言ったわけではない。

 そんなシアンの様子を悟るわけでもないだろうが、クリスタも難しい顔をした。「アーロンって怒ることあるのね、少し驚いた」

 家の前での立ち話だ。一応は男一人で暮らしている雑然とした部屋にクリスタを招き入れるのもどうかと思ったし、彼女自身「外でいいよ」と遠慮したから。人通りはなくて、何の音もしない、少し白んだ朝の空気。何だか世界に自分とクリスタの二人しか居なくなってしまったような錯覚を覚える。

 そこまで家が近いわけでもないのに、どうしても話したいからこんな朝早くにクリスタはここまで来たんだな、と思ったら居た堪れなくて、でも結局どうしていいかわからなくて。

「ところでずっとここで喋ってて大丈夫? 予定とか」

「それは大丈夫。予定って言っても今日中に済ませればいいことだから」言ってから、クリスタは目を細めて苦笑した。手に持っていた鞄の持ち手を強く握りしめている。

「私も勝手よね、仲間内で過去最大級の揉め事が起こってるっていうのに、これから出来上がった原稿の持ち込みに行こうとしてる。出版社に」

「それは別にいいと思うよ……? クリスタにやりたいことをやってほしいっていうのは。何があっても僕らの共通だから」

「……そう言ってくれると嬉しいけど。まあいいわ」

 アーロンね、とクリスタは少し思い出すように斜め上に視線をやった。

「痛いところを突かれたっていうより、ただただ苛立ってた。でもね、エレナちゃんの言ったことは確かにそうだなと思うの。確かにアーロンはかなりバイト漬けだから練習できて無さそうだし、適当な言葉で誤魔化すこともある。でもそんなことは多分本人が一番わかってるからこそ」

「わかっているからこそ一番傷ついたんじゃ……」

「むしろアーロンはわかっていることこそ鼻で笑ってあしらいそうだと私は思うけどな」

「んー……」

 何か引っ掛かりを覚えた。頭に何かのイメージが一瞬だけ浮かび上がって、消える。何か忘れていることがある気がするんだけど何だろう。

 もやもやしたままに、シアンは「エレナもさ」と言った。一度沈黙したら暗い雰囲気をもう払えない気がした。

「あいつも最近おかしいよ、なんていうか。もう少し穏やかじゃなかった?」

 思いついたことをそのまま呟いた感じだったが、クリスタは少し眉を寄せて「気づかないかなぁ」という顔をした。やっぱり気づかないか、そうだよね。……一体、なにに?

 シアンの混乱した思いに気づいているのか、いないのか。クリスタは優しい顔をして呟いた。

「一番大切なことは、目に見えないの」

 『星の王子さま』の中のセリフだなと思った。確かクリスタのお気に入りの一冊だ。「いちばんたいせつなことは、目に見えない」。サン=テグジュペリの児童文学であるその本の言葉を、彼女はよく引用する。

 そうだね、感情とか心とか、繋がりだとか。何にも目に見えないからわかんないよ。でも、とシアンは心の中だけで言い返す。それじゃだめだよ。それじゃ何も繋がらないじゃん。

 ぎこちない空気が流れる。沈黙が続くことで放送事故になるのを防ごうとするように、どこか遠くで犬が吠えた。それに背を押された気がして、シアンは話し出す。アーロンとエレナの間に仮に本格的に溝ができていようとも、自分達までばらばらになっていくのは絶対にいけない。絶対に、嫌だ。

 そうすれば、大丈夫だよね。

「でも多分アーロンのことだから、すぐに機嫌を直すよね。また適当に、仲も修復して、僕らは続けられるよね」

 卒業式のすぐ後、青空を──未来を見上げて、アーロンは言ったのだ。これからも、ずっと四人でいよう。俺たちに怖いものなんて何もない、四人なら。

 僕らはこれからも、あの時誓ったまま四人でいられるでしょ? ジャックを新たに仲間として向かい入れたとはいえ、友情の形は変わらないはずだ。

「これまでだって、軽く喧嘩することはあったし、拗れることもあった。それでも繋いできたから。心配することはないよ、きっと」

 クリスタは一瞬歯を食いしばるようにしてから、「そうだよね」と囁いた。

 そうだ。自分達の知っているアーロンはいつまでもいじけているような奴じゃないし、エレナだってずっとネチネチと当たり続ける奴じゃない。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。呪文のように心の中で唱える。

 隣の家の庭木が、どこかよそよそしく風に揺れた。クリスタがはっと気がついたように慌てて手を振る。白い手が彼女の顔の前でひらひらと蝶のように動く。

「ごめんね、朝から張り込んでるみたいになって」

 もう、行くね。取ってつけたような笑みを浮かべて、向き合ったままクリスタは一歩下がった。

「ううん。全然大丈夫」シアンも首を振った。多分、今自分は彼女と同じ、全てを適当に誤魔化すような笑みを浮かべていることだろう。うん、達観しなければやっていけないよ。

 達観しなければやっていけない?

『気づかれない才能ってのも、埋もれた天才ってのも、存在するんだよ。そういうもんだ。俺は少し先を行きすぎてるせいで、世界はまだ俺に追いつかない。別に誰を恨んでも仕方ないだろ?』

 ぱっと一つのイメージが瞼の裏に弾けた。差し伸べられた手のひら、カードを捲る指先。忘れていたこと。これまでなんだとも思わずに見てきたもの。

 そっか、そうだったのか。

「クリスタ……!」

 別れ際の雰囲気になりかけていたところにシアンが突然声を挟み込んだことに驚いたのだろう、クリスタはびくっとして目を上げた。

「ど、どうしたの……?」

「あいつは」

 あいつは、アーロンは。

「僕たちが思っているより全然、必死でギターを弾いているのかもしれない」

 少しずつすれ違って、正直になれないところも増えて、でも無理やり押し隠していたから誰も気づかなかった。だけどその間にヒビは侵食していたなんて。

 この世に願いを叶えてくれる都合のいい神様なんていない。ああ、でも。死神ならいるのか。


     ❇︎


 学園に入って数ヶ月の頃だ。すぐに思い出せるほど季節感ははっきりしていないし、その場にいた人の数もあやふやだ。まだ黒かったアーロンの髪は少し伸びていて、机に向かっていると耳から落ちて鬱陶しかったのは覚えている。

 用もない生徒たちがそれぞれに喋ったりやりたいことをして時間を潰していた、放課後の教室。窓際だった机に、夕方の暖色に染まった光が差していた。音楽室から学校全体に響き渡るブラスバンド部の練習の音が耳に心地よかった。ただの音階で上り下りする、それだけなのに。話すようなやつもいなくて暇だったから、アーロンは作曲とも言えないメロディー作りをしていた。鼻歌で頭の中で考えた音を取りながら、自作の五線譜紙に音符を書き込んでいく。シャープペンの先がかりかりと音を立てて、丸を塗り潰す。自分の世界に浸る時間。こんな曲が弾きたい、こんな曲を歌いたい、と瞑想を広げる。

 ガンッと机が叩かれたのはその時だった。視界に入った、固められた拳とその衝撃に驚いて呆然となっていたら、その拳が開いて、書いていた紙をくしゃりと掴み取られた。

「お前、暗いやつだよなぁ。なんだよ、これ。楽譜のつもりかよ。男のくせにだっせぇ」

 クラスメイトの男子だった。明るくて、クラスのことに積極的で、ちょっとしたギャグを言って周りをわっと沸かせられるような人。自分とは対極に位置する人。

 音楽に性別は関係ないだろ。誰が何をしてたって自由だろ。心の中で口答えしながら、でも実際には何も言えずに目を見開いていたアーロンを、彼は一瞥して豪快に笑った。

「何見てんの、気持ちわりい」

 そのままくしゃくしゃになった楽譜をどうでも良さそうにぽんと放って去っていく。紙はひらひらと当てもなく舞って、そのまま窓の外へと落ちていく。偶然の不運。教室という狭い空間でさえ、意味を持たない一瞬。

 多分、と思った。眼下に消えていく五線譜紙を他人事のように眺めながら。多分、さっきの奴に敵意なんてない。一日も経てば、今日の放課後に俺と喋ったことだってあいつは覚えていない。クラスの中心できらきらとしたあいつにとっては、取るに足りない出来事だったろう。だから、俺が悪い。視界に入ってしまった俺が。地味で暗い俺が。

「無意味だってわけだな、俺が何やっても」

 小声で呟いた時、誰かがばたばたと教室を飛び出していく足音がした。ほら、誰も今のやりとりなんて見ていないし、気にしない。誰にもそれぞれのことがあって、人を気にする暇なんてない。

 もう感じ飽きたとも言える優しい諦めに、微笑んだ。何もしないままにゆるゆると時間が流れる。「もう帰るから」「じゃあまた明日」そんな声と共に。

 その時、窓の外から一生懸命に怒鳴る声が飛び込んできた。あった、だとか、見つけたよ、だとか。そんな言葉。教室内に未だに残っていた数人が顔を見合わせて肩をすくめた。誰が騒いでんだよ、と思いつつアーロンは暇に任せて窓の外を見下ろした。

 一瞬、眩しいほどの夕焼けに面食らって目を細める。視線を落とした時、そこにいたのが、クラスメイトのシアン・スミスだった。

 入学してから、特に事務的な会話以外交わすこともなくこれまで過ごしてきた。その中でアーロンが一介のクラスメイトであるシアンに下した評価は「空気みたいなやつ」だった。

 存在感がないとか、誰かに無視されているとか、そういうわけではない。ただ目立ったところのないやつで、誰とでも適当に会話しつつ常ににこにこと笑っている。周りに馴染んで、当たり前にそこにあって、だから何も感じない空気。そんなシアンが、真っ直ぐに真剣な目でアーロンを見上げて、右手の紙を振っていた。

「アーロン・カーター……‼︎」

 息を切らしながら全力で叫んでいる。五線譜が薄く透けて見える。

 あ、いつ。わざわざ拾いに行ったのかよ……。驚きのあまり口をぱくぱくさせたアーロンに、彼は叫び続けた。

「無意味なんかじゃ、ないよ! 意味なんてどこにもないかもしれない。だけど、無意味じゃあ、ないんだ──!」

 何言ってるんだよ、意味わかんねえよ、意味がないのに無意味じゃないなんて。突っ込みを入れながら、目に滲んだものを拭い取ったのは、眩しかったからだ。オレンジに燃える空が、黄金に照らされた地面が、逆光に浮かんだ彼の姿が、眩しかったからだ。

「……」

 小さな声で、誰にも聞こえないぐらいの声で、一つの言葉を呟いた。

 初めて、誰かと友達になりたいと思った。自分には何の利益もないのに、それでもアーロンが静かに傷ついているのを察して放っておかなかった彼と、友達になりたいと思った。

 仲良くなってそれなりの年月が経ってから「あの時、本当嬉しかったんだ」と少し照れながら告白したら、あっさりとシアンには「そんなことあったかな、僕記憶力悪いからさぁ」と笑われてしまったわけだが。

 アーロンの夢が、本格的に始まったのはあの時だ。


 今、曇天の広がる街並みを、アーロンは無表情に見下ろした。今に降ってきそうだな。仏頂面の自分が汚れた窓に映っているが、無理やり苦笑を作る気にもなれない。

 何を言われたところで金を稼がないことには動けないから、いつも通りのビル掃除のバイトだ。何も考えたくないから、手を動かした。挙げっぱなしの手の疲労感で全体的に怠く感じる。膨大な数の窓にこびりついた、誰のとも知れない指紋をひたすらに擦って消していった。

 別に気にしてねえよ、と口の中だけで言う。

 エレナの言う通り、才能なんて持ってねぇよ。無いものを無いだろうと指摘されたところで痛くも痒くもない。許せないのは、何の努力もしていないような言われたことだ。

 エレナが、そしてシアンやクリスタたちも気づくわけないことはわかっている。だって気づかれないように振る舞って来たから。当たり前のことなんだけど、でも割り切れないことってある。

 バイト漬けの日々だけれど、それでも合間を縫ってカラオケボックスに通い、ギターを練習していること。寝る時間すら削って、ギターに触れること。駅前のストリートライブで「また若者が適当な」と馬鹿にされた時、実はヤケになって暴れ出したいほど、すごく悔しかったこと。一度だけ過去に受けたオーディションでの演奏が、緊張のせいで結果を聞くまでもないほどボロクソで、公衆トイレで一人涙を呑んだこと。

 本気で音楽で食っていきたい。狭き門だって知っているし、お金がないからオーディションなんかもそうガツガツ受けられない。ツテも持っていない。これまでの学費だとかエレキギター代の返済はあと半分残っていて、楽器メンテナンスにも金がかかって、音源を作るのにさえ費用が必要で。

 苦しくて、苦しくて、苦しい。もしかしたら今もがいているこの闇の中で、どこまで手を伸ばしたって光には届かないのかもしれない。

 そうだ、無理なんだよ。

 もとから無理で、今やっていることだってきっと無意味。

 ──無意味なんかじゃ、ないよ!

 ……うるさいっ。悲鳴を上げそうになるのを押さえつけて、右手のスポンジを、ぎゅっと握りしめた。床に垂れた水滴を、何も考えずに足で無茶苦茶に擦り付ける。

 だから。現実的に不可能の確率が高いことを知っているから、本気ではないふりをするのだ。火曜日は毎回〈いつもの場所〉に顔を出して余裕ぶるし、自分の音楽を馬鹿にされたところで涼しい表情を取り繕う。飄々と、ちゃらんぽらんに。そうしていればダメだった時にも「しょうがないよな」って笑える。

 床に視線を落とした。水跡が汚らしく引き伸ばされて、端から乾いていく。こうやって、いつか熱意だって夢の叶わなかった虚しさだって、消えていく。

 ──貴方みたいな格好つけてばかりの人、わたくし大っ嫌い。

 そうだ、俺はかっこつけてる。っていうより、見窄らしくなりたくないだけだ。だって、人前でも全力で熱中してやるのはイタい。失敗してぐちゃぐちゃになって悲しむ姿を見せるのもダサい。そんな風になるぐらいなら、さらっと挫折して綺麗に諦めて見せたい。

 あの日見た、夕暮れの景色。

 やめてくれよ。

 俺は間違ってねえだろ?

 アーロンは同じ窓を磨き続ける。ひたすらに、映った自分の姿を揉み消すように。

 一筋、窓に雨の細い線が走った。


     ❇︎


「きみは、どうして本を書くの」

 尋ねられて、クリスタは唇を噛み締めた。

 背の低い、ほぼ立方体の形をしたビルの一室。この街唯一の出版社であり、多分業界のなかでは弱小社だ。弱小だとか貶しながら、その壁によじ登れてもいないのに。

 新しく持っていった原稿を、編集者はざっと目を通して「いつもよりは面白いかな。でも課題は同じだね」と評した。クリスタが原稿を持ち込んだ時、いつも初めに読む人だ。黒縁のメガネで、ぴしっとスーツを着た男性。優しげだが、どこか平たく実験動物を観察するような目。クリスタからすれば、自分とは違う世界に生きる、ちゃんとした大人。

「それなりの改稿が必要にはなる。なんていうか、まだ文章に感情が感じられないからね、かなり変えるところもあると思う。きみが書きたいものとは変わるかもね、どうする?」

 感情が感じられない、か。いつも言われることだなと思った。きみの書く文章は、言葉は、上滑りしていく。形だけ綺麗で、だけど読んだ人に何を残すわけでもない。

 児童文学、というジャンルに甘えているからだろうか。それともストーリーを組み立てることばかりに夢中になって、感情移入ができていないのか。そもそも自分にはものを書く才能がないのか。

 今回書いたのは、巨大な猫の神様の物語だった。一つの街をのんびりとマイペースに見下ろして、その中の人々の暮らしにちょっかいを出したり、その物語をただ見守ったりする話。それなりに人を感動させるシーンがあって、ちょっと笑える部分もいれた。そんなつもりだった。

 だけど、そっか。やっぱり私はだめなんだ。つもりになっているだけで、結局なんということはない。上辺だけの綺麗な展開がさらさらと流れているだけなのだろう。

 無言になって考え込んだクリスタに、編集者はだから問いかけてきた。

「きみは、どうして本を書くの」

 何も答えられなかった。正確には、答えはあったけれど言えるようなものではなかったのだ。

 本を書くのはきっと贖罪だ。学園に入って、精神的にも落ち着いたその後でさえ、昔自分が大切だった本を壊してしまったことが心にはあった。左手の甲。きっと一生消えることのない傷跡。右手でなぞると、微かに盛り上がった線を感じた。その時の衝動だけに身を任せて、握りしめたカッターでページを破り裂いた感触が、まだ思い出せる気がした。気がした、だけかもしれない。もうそんなのとっくに忘れてしまったかも。だってほら、私の書く本が誰の心にも響かないように、空っぽな私の中には何も残らない。

 きみが書きたいものとは変わるかもね、と編集者は言った。でもそれはない。だって自分には書きたいものなんてないから。

 学生時代、ふと思いついた時に、将来の夢なんかじゃなくて、償いのような思いで物語を書いた。何作か書いて、そのうちの一つがたまたま二十歳以下限定の小説コンクールで大賞を取って、そして一応は児童文学作家のはしくれを名乗れる身分になった。

 クリスタはそれを、どこか心の底では喜ぶことができなかった。

 だって。

「私には何もないんです。喜ぶことも、悲しむことも、何にもないから、ただ惰性のように書き続けて……」

 自分が大切にしてきたと思っていたものを、ある日突然にあっさり壊すのだ。自分がただの抜け殻に思えて、何もかもどうでも良くなって。

「過去の自分を守るために、書かなきゃいけないって思いながら、書きたくないっていう気持ちもあって。だからそんな文章に……かんじょう、なんて」

 クリスタは目を伏せる。無意識に左手を撫でていた右手を、さっと離した。編集者に、じっと見つめられているのを感じたが、目を合わせたくなかった。

 やや間があって、編集者は言った。

「それでいいと思うよ」

「……え?」

 思わず聞き返す。視線は相手の爪先あたりに落としたまま。それを気にするでもなく、編集者は平坦な口調で続けた。

「屈折した思いを抱えて、自分のことをどうしようもなく卑下して、それでもきみは書きなさい。吐き出してしまいなさい、そうしているうちにいつか感情の入れ方がわかるから」

 書くことに対する熱意が自分でさえ見えないのだから、冷たい言葉を叩きつけられるかと、そしてそれで仕方ないのだと、思っていた。だがはっと顔を上げて編集者の顔を凝視して、驚いた。その表情というものを感じさせない目が、やはり優しくクリスタを見下ろしていたからだ。

 彼から見れば自分なんてほんの子供でしか無いんだろうな、と思ったら少し悔しくて、恥ずかしくて、切なくて、それでいて感謝するような思いが溢れた。

「……はい」

 小さな声と共に頷いた。


     ❇︎


 学園時代、少し変わった先生がいた。

 少し髪の毛が薄くなって禿げの目立った、二年生の時の化学の先生で、いつも実験室で授業をした。やっぱ板書してるだけじゃ覚えないからねぇ、ほんとは毎時間実験するのがベストだよぉ、なんて言って。実験の部分以外は教科書を読むだけの授業だったし、語尾が伸びる間の抜けた喋り方のせいで、生徒たちには馬鹿にされていた。クラスのヒエラルキ上位たちに、影では「おっさん」などと呼ばれていたっけ。シアンもそれに乗ることはなくとも、憐れみを感じるぐらいには軽蔑していた。

 だが。

 それが一変した瞬間がある。

 いつものように実験室に集められ、始まった授業。だが先生は実験の説明を始める前に「ちょっと今日はぁ、話したいことがあります」と言った。

 午後の授業だった。生徒の誰もが眠くなっていて、実際居眠りしている奴もいたに違いない。理科の授業ではそれで当然、というムードもあったし、誰も咎めなかった。

 先生もいつものように気にすることなく、えっちらおっちらと窓側まで歩いて来て、そしてカーテンを開けた。シアンの真横の位置だったために、仕方なく軽く姿勢を正す。

「先生はねぇ、今日窓掃除をしていて、ちょっと感動したことがあります」

 マイペースに話し出す。

「ほら、この窓を見てぇ、気付くことはないですかぁ?」

 ちょっと間が空いて、誰かが「一枚分しか窓磨いてないじゃん」と声を上げた。本当だ。先生のすぐ前にある窓以外はどれも白く曇っている。なんだ、掃除してねぇじゃん、と誰かが呆れたように言うと、実験室の隅の方で失笑が起きた。シアンは先生が可哀想に思えて来て、心の中で頑張れと呟いた。

「そうです、先生はここの窓しか洗ってないんです。それを見てぇ、思ったことがあるんです」

 先生は小さい目でぱちぱちと瞬きをした。「これはぁ、勉強した人と勉強してない人の世界の見え方とぉ、同じなんじゃないかなぁって」

 綺麗だから、遠くの景色も鮮やかな色もよく見える窓と。白く埃で汚れて外がよく見えない窓と。はっとした瞬間、先生の声以外何も聞こえなくなった。風が吹いた気がした。気のせいだ。だって窓は閉まっているから。

「よく学んだ人と、学んでない人。やっぱり、同じものを見つめているんでも、見え方がぁ違うと思います。より素晴らしいものを見ること。これが、勉強することのぉ、意義だという気がしたんです」

 急になんの話だよ、と言った誰かの声も、隣の人があくびをしたのもそっちのけで、シアンは聞き入っていた。先生……、先生。

 僕は。


 今僕が見ているのはどちらの景色?


 何故こんな三年以上前のことを思い出したのかはわからない。あの場にいた中の誰ももう覚えていないだろう。クリスタやアーロン、エレナでさえも。

 変なことばかり覚えていること。誰もが忘れてしまったようなどうでもいいことを、ただ一人忘れないこと。それが素敵なことなのか、虚しいことなのかはシアンにはよくわからない。

 ただ一つわかるのは。

 忘れられ去られること、というのは救いになりえる。だから、何も覚えていないような顔をして、能天気に笑う。


     ❇︎


 あとどれほど、この街にいられるだろうか。ジャックは雨の降り出した空をなすすべもなく見上げて、ひゅっと息を吐いた。安っぽい濃い緑のビニール屋根が掛かった、何を売っているかもわからないような店の軒先から一歩出た。街に降る。髪を濡らし、服を濡らし、地面を濡らし、やがてはどこかに消える。自然の営みを見ているとどこか心が落ち着くのは、その流れに逆らうことなどできないと分かり切っているからだろう。大きくて強い、そんな力を前にした無力感に心地よさを感じるからだろう。

 自然の営み、か。

 死というありふれたものも、そこに入るだろうか。入るとするのならば──自分もまたこの街に吹く一つの風か。

 日中は安いだけが取り柄のカプセルホテルにこもり、夜になって闇が落ちたら、人をまたナイフで切り裂いた。殺して殺して殺して、殺した。いつものように何の快感を感じるでもなく、ただそれが自分が生きているための行為であるように。翌朝、備え付けのパソコンを確認するのが習慣になった。街の名前と「周辺通り魔事件」という言葉を何度打ち込んだことか。だんだんと増えていく数字と、街だけを残したその周りを赤く染めていく印を見て、胸の辺りがすっと冷えるのを感じた。

 この街を訪れる前よりはそれなりにまともな暮らしをしつつ、それでもずっとこのままではいられないと思う。自分を追っている人間は確実にもう近くにいるのだから。じきに離れなければいけない。逃げなければいけない。

 生きるために。

 それはきっと、いつかちゃんと死ぬために。

 音も立てずに呼吸をしながら、雨空を見上げていた。そろそろ今日分の食糧でも調達しなければなと思って出てきたのだった。それなりにまともな暮らし、とはいえ檻でしかなかった孤児院を飛び出してからは、一日一食しか食べない生活だ。生活費と消費エネルギーは節約する。意地汚くも今は生きる。とはいえ、孤児院に放り込まれる前から、両親の遺産があったから金に困ることはなかった。一度に膨大な量を使っていれば当然人の目に留まる。それを避けるには、ただの汚い貧乏人だと思われていた方が好都合だっただけだ。

 人は、自分より立場や待遇で劣った人間を見て悦ぶ。

 だがその人間が憐れみを持つほどに醜かったのなら、目を逸らす。

 当たり前の話なのだが。

 と、その時。何故そうする気になったのかはわからない。優しい雨を浴びて、ゆっくりと瞬きをして、それから真っ直ぐ前に視線を向けた。──その先に、彼女がいた。

 クリスタだ。

 街を歩く人々の中、どうしてクリスタだけにはっきりと目が止まったのか。そんなのは偶然の悪戯としか思えない。だがこの偶然が、この陰鬱な物語の終わり方を変えたのは一つの事実だ。この偶然が、死神、ジャック・ブラックを救ったのは──一つの奇跡だ。

 沢山の物が沢山詰まっているらしい手提げ袋を持ったクリスタは、もう片方の手で傘を持って、蠢く人々の中で一人だけ立ち止まっていた。微かに俯いているように見える。何か落ち込んでいるのか、どうしたのだが知らないが、どうでもいいだろう。火曜日でもない今日、彼女と自分は他人同士だ。火曜日であったって結局のところ他人なのだし。

 などと思いながらもジャックはその場から動かずにいた。彼女から視線を外せずにいた。クリスタは何も気づいていない様子で、傘をさしたまま立ち尽くしている。ふと横を歩いていた一人が軽く当たった拍子に、クリスタの肩に掛かった手提げ袋からミカンが零れ落ちて転がった。茶色に灰色。どこか煤けて燻んだような色の道に、果実の鮮やかな色が数個散らばった。混ざって溶けないイレギュラー。そのうちの一つが眺めていたジャックの方に転がってきて……クリスタがはっとしたようにこちらを向いた。

 パチッと電気が通うように、目と目が合った。


     ❇︎


 着替えて来るから……ジャックもコートぐらい掛けて乾かして置くといいわ。風邪引くよ? そう言って、クリスタは暖房機のスイッチを押して、洗面所から持ってきたらしい真っ白なタオルを投げてきた。丁寧に扉を閉めてそのまま二階へと階段を登っていく足音を聞きながら、変なの、と思った。

 あの後、クリスタは取ってつけたような笑みを浮かべて、「びしょ濡れじゃない。とりあえずうちにおいで」と言った。あまり気のりはしなかったが、買い物の後だったらしい荷物が重そうだったのと、少し背伸びをしながら傘を差し傾けてくる様子に絆されたようになって、ここまで来てしまった。絆された、というのは人間としての情が動いたわけではなく、小動物じみた細かな動きに情けを掛けた感じだ。あくまで他人。あくまで他人事。それは自分のことさえも。

 変なことになったものだ。黒いコートを脱いで、暖房機の真ん前に置かれていた物干しにありがたく掛けさせてもらう。コートを脱いだところで前開きトレーナーの色もまた黒だ。夜に溶け込む色、火曜日の彼らには似合わない色。そこまで考えて、また「あーあ」という気持ちになって肩をすくめた。だから人間はいけない。ちょっと顔見知りだというその程度で油断して、殺人鬼をのこのこと自宅に招き入れる。繋がると面倒くさい。

 暖房が効いてきたらしく、部屋がぽかぽかとしてきた。髪から水滴を滴らせるのは流石に悪いと思ったので、渡されたタオルで適当に拭いておいた。軽く周りを見渡して──見渡すほど広いわけではないが──ここはリビングだろうか、と考えた。小さめのソファがあって、小さめのテレビがあって、それから壁際には本棚が並べられている。ダイニングは別になっているようだ。ふうん。暇に任せて、棚をずらりと覆う本を眺めた。ファンタジーらしい児童書に推理ものの人気シリーズ、さらには何世紀前の劇作家の脚本まである。はじの方に控えめにではあるが「クリスタ・ミラー 作」と書かれた本が二冊あるのを見つけて、ほうと思った。本当に児童文学作家なのだな。本当にも何も、疑ったわけではないけれど。

 ふと、本棚の中央付近に中でもかなり年季の入っていそうな本を見つけた。題名の印刷が薄れ、ページは黄ばみ、がたがたにずれている。手に取ると、綴じ込みのあたりだけ異様に厚くなっているのを感じた。

「星の、王子様……?」

 聞いたことあるな、と思った。それだけだった。小説を嗜むような上品な暮らしをしていたのは、それこそ物心着く前の頃だけだ。とは言え子ども過ぎて多分その頃は活字を読むことはしなかった。

 ぱらぱらと特に何も考えずにページを捲って、そして軽く戦慄した。散々人を殺し血を浴び闇に嗤ってきた殺人鬼が、戦慄した。

 それは、つぎはぎだらけの本だった。

 それは、傷だらけの本だった。

 とびきり鋭くも無さそうな刃物で、力任せに切り裂かれたらしいページは、引き攣れたように敗れていた。可愛らしい挿絵のある部分も例外ではなく、縦横の向きもばらばらで、それが一切の意図もない衝動であったことがわかる。それらを必死に繋ぎ止めようとしたセロハンテープが経年劣化で茶色く変色し、汚らしい。なるほど、このテープのせいで本棚の厚さが増されていたわけか。それにしても。

 一体何だ、これは。そう考えかけて、やめた。簡単な話だ。穏やかで面倒見が良さそうに見える彼女にも、声にならなかった叫びの一つや二つあっただけの話。

 それだけの、話。

 タンタンタン……と階段を降りて来る足音を耳が捉えて、ジャックは本能的に『星の王子様』をもとあった場所に押し込んだ。なんとなくそれを見たことに気づかれてはいけない気がして、さらに誤魔化すために適当な本を手に取る。適当なページを開くのと、ガチャリとドアノブが回転して、クリスタが顔を覗かせるのが同時だった。

「雨まだ止まないみたいよ。強くなってきてるみたいだけど、どうする?」

 このまましばらくここにいてもいいし、帰るっていうなら別に止めることはしないわ。傘は貸すから。そう言いながら、歩み寄って来る。外で会う時はいつもロングスカートかワンピースだったから、パーカーにガウチョパンツというラフな格好が新鮮だった。

 彼女はジャックの手元を見て、軽く首を傾げた。

「その本……好きなの? 四大悲劇、だよね」

 え、と思って本の題名を今更確認していたら、笑われた。「なんだ、知らずに見てたの。有名じゃない、シェイクスピアの『ハムレット』」クリスタは言ってから、劇中の台詞らしい言葉を暗唱した。「生きるか死ぬか、それが問題だ」

 やはり知らないな、と首を振って、『ハムレット』を本棚に戻した。このままここにいるか帰るか、という問いに答えていないことに気づいて、少し考える。

「じゃあもう少し小降りになりまで待たせてもらえるか? 申し訳ないのだが」

 そう言ったのは全くの気まぐれだった……いや、違うか。帰るとなると傘を借りざるを得なくなるが、追手から逃げ隠れている身としては返せる保証のない借り物をしたくない、そんなわけだ。そんな思案が巡ったことに気づいているわけもないが、クリスタはわかった、と頷いた。「どうせずっと一人だから、遠慮しないでくつろいでいって」

「一人暮らしなんだな」意外でもなんでもないが社交辞令的に言うと、彼女は困った顔になった。

「知っているだろうけど、私の両親はもう亡くなっているから。やっぱり叔父さんと叔母さんには迷惑かけたくなくて」

 すまない、とジャックは思わず呟いた。だって彼女の両親を、祖父母を、惨殺したのは。幼いクリスタの目の前で殺したのは。

 あまりにも無責任で虫が良すぎる言葉に、クリスタは憤って「やっぱり帰って」と締め出しても良かったはずなのに、彼女はそうはしなかった。困惑したような顔を深めて「あなたが謝らないで」と言っただけだった。当然か。こんな最低で最悪なヤツに、わざわざ剥き出しにする感情などないだろう。

 許してくれと、赦してくれとなんて言う気は微塵もない。過去に彼女から奪ったものを返すことなどもうできない。それに図々しくも自分は今も尚生きて、そして夜になれば切り裂きジャックと化すのだ。

 殺す人間に区別なんてないさ。

 世話になった恩人だろうが、笑顔で近づいてきた愚か者だろうが、ただすれ違っただけの見も知らぬ人間だろうが、彼女の肉親だろうが、差異はない。差異はなかった。

 本当に?

 お前は、原点となるあの日──彼女と初めて出会ったあの日殺した人間が、お前に取って特別な意味がなかったとでも言うのか。

 何も言えずにいたところで、クリスタはもう一歩近づいてきて、ごめん、と言った。

「……?」

「ちょっと変な言い方だったかも。あのね、私はあなたがどんな生き方をしてきたのかなんて知らないわ。でも、あなたが生きたこの年月を、私も生きた。それだけが真実で、だから……」

 少し言葉を探すように視線を横にずらすと、小さい声で早口に言った。

「自分の今在る境遇を恨んだり呪ったりは、もうしてないの」

 透明に澄み渡り、きらきらと揺れる瞳。あの時と変わらないな、と思ったら見ているのが辛くて、ジャックは無意識のうちに手で壁を探って電気を消した。パチンッとシャボン玉が破れるような軽い音とともに、淡い暗さに包まれる。仄明かりの窓の外で、さあさあと雨が降っているのを今更に意識した。

 静かな闇が落ちたことで頬の色を無くした彼女は、それでも動じずに見上げてきた。射抜くように、掬い上げるように。

 もうやめてくれ。

 それ以上、その綺麗な目で見つめられるのは苦痛だ。拷問なのだ。

 太陽に焼かれる吸血鬼になった気持ちになった。気持ち? いつから自分はそんなものを持っているというのだ。人間じゃないくせに、生きてさえいないくせに。

「俺は────」

 顔を手で覆って呻いたジャックに、クリスタが目を見開いた。彼女がおずおずと伸ばした手から逃れるように後ずさる。怖い、怖い、怖い。

 くそっ……俺は、一体何を。

 白い手のひらが、記憶と重なった。酒を飲んで暴れ、怒鳴り散らす父。ジャックの手をぎゅっと握りしめて、覆いかぶさるように庇おうとしながら泣く母。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、やめてあげて、お願い……ごめんね、ジャック、ごめんね、ごめんね。その慟哭の声を一身に浴びながら、ジャックはただ震えていた。ガタガタガタ……と痩せ細った身体を揺らし、カチカチカチ……と小さな歯を鳴らした。寒くもなくて、苦しくもなくて、辛くもないのに。


 ──ね……。


 ──なかないで……?


「俺は、あの時、泣いていた……?」

 唇が震えた。呼気に紛れそうな声で問いかけた。初めて人を殺した日、俺はその瞬間に狂ったのか。その瞬間には既に狂っていたのか。泣きながら人を殺すのと、人を殺して涙を流さないのは、一体どちらが狂っているのだろう。

 クリスタはかぶりを振った。気のせいだろうか、悲しくて寂しそうな色が、その目に閃いた気がした。

「ううん……、あなたは泣いてなんていなかったわ。なんであんなこと言ったんだろうね。もう昔すぎて、覚えてないな……」

 泣き顔みたいな表情で、彼女は笑った。

「辛い目に遭って来たんだね、きっと私よりも。過去に何があったの。話せるところでいいから、話して。誰かに聞いてもらうことで和らぐものって、あると思うから」

 ある人が言ってたの、と言う。

「人の涙を流すことはできない。自分のために悲しんであげられるのは、自分だけだ。それでも分かち合って救われることってあるんじゃないかって」

 ジャックは顔を歪めた。「お前に、何が分かるというんだ」

「何も分からなくても」

「……」

「分からなくて、いいの」

「……それなら」

 ジャックは嗤う。人を刺し、ナイフでばらばらに、ぐちゃぐちゃにした後と同じ顔をしていた。

「お前は、味わったことがあるか。上手く喋れないだとか、些細なことで殴られて怒鳴られて、助けてほしくても誰も助けてはくれなくて、むしろ泣いて謝られて」

「味わったことは……ないわ」

「震えて、もっと何も言えなくなって、それでまた酒乱を起こした父に殴られる。蹴られる。罵られる。そういう奴が、何を思うかわかるか。横暴な父を、守ってくれない母を、恨んだりしない。怒りも悲しみもない。自分が悪いと思い込んで、ただただ必死に認められようとするんだ」

 過去の、可哀想な自分。上手く言葉を発せられなかった、父の望む「ちゃんとした息子」でなかった自分を責めて責めて責めて。仮に誰かが「悪いのは君じゃない」と言ってくれたなら何か違っていただろうか。それとも所詮は自分を絡め取る運命を辿っただけだったか。

 幾つも幾つも、問いはあって。

 だけど。

 もう、遅い。

「もう、救いようのないところまで、俺は落ちたよ」

 クリスタが、口を引き結ぶと、一つ頷いてまた一歩近づいて来ると、ジャックの黒いトレーナーのファスナーに静かに指を掛けた。目を瞠って固まったジャックに「大丈夫。変なことはしない」と囁いて引き下ろすと、トレーナーを取り払ってしまった。

 剥き出しになった薄っぺらい胸や腹に青く浮かび上がる痣を、細い指がそっとなぞった。意外なほどに指先の温もりを強く感じた。

 彼女は驚いたり目を瞠ったりはしなかった。

「……痛い?」

「もう、痛くない」

 痛みなんて最初から感じなかった。だけど、消えない痣たち。肌を這い、青ざめさせ、人間で在らざるものとならしめる痕。これはジャックの、声にならなかった叫び。

 ほんとにガリガリだなぁ、とクリスタが微かに笑って、指を離した。ジャックは無言で下を向いて上着を着直した。

「もう大丈夫」クリスタが目を閉じて呟いた。

「私はずっと、この街にいるから。どこにも行かないから、辛くなったらいつでも会いに来て」

 そして、一人じゃないよ、と静かに付け加えた。ジャックは何も言えなかった。

 この街に来るまでの間は、かなり荒れた生活をしてきた。自分を殺そうとする追手に見つからぬよう、転々しつつ。カプセルホテルなんて洒落たもの、利用しなかった。どこも同じに思えるような寂れた町の中、身体の要求にさえ応えてやれば夕食付きで止めてくれる、寂しさと退屈を持て余した女など溢れるほどいたから。

 数えきれないほどの夜を人を殺して、それから何食わぬ顔で女たちと肌を重ねて。女たちもそうだったであろうが、ジャックは孤独だった。結局誰にも自分を理解されないままこうして生きて、そしていつかふっと消えるのだろうと思っていた。蝋燭の火が消えるみたいに。だから、その日をずっと待ち望んできた。

『一人じゃないよ』

 嘘だよ。嘘だ。俺は一人だよ、それでいい。

 透明な瞳と、温かくて柔らかい手。俺が汚してはいけないもの。穢れを移してはいけないひとたち。

 初めて会った日、大切になる前にちゃんと捨てようと思っていた。その前に大事に自分で壊そうと、思っていたのだ。だけど。

 出来ないかもしれないから。彼らを、彼女を汚すことだけはやめよう。自分と違う、綺麗なままでいてほしい。



 静かに閉まったドアと、ドアノブに下げたウィンドチャイムが揺れるのを惚けたように眺めた。暗いまま、その色をより深めていく玄関で、クリスタは座り込んでしまいそうになる身体を壁に寄りかからせて、浅く呼吸をした。

 どれくらいの間そうしていただろうか。ああっと小さく声を上げてクリスタはリビングの本棚に駆け寄った。『ハムレット』が完全に奥まで差し込まれずに少し飛び出しているのを見て泣き出しそうになる。あの人が、さっきまでここにいた。私はあの人に、酷いことを言わなかっただろうか。ぶつけた言葉は無責任ではなかっただろうか。

 私如きに、何が言えるというの。

 瞼の裏に、この前再会したばかりのはとこの顔が思い浮かんだ。

 『ハムレット』を押し戻しながら、別の場所を手で探った。一番上の棚の、一番右。封筒を取り出して、開く。

 見ると凄惨な光景を思い出すから、封印していた手紙。クリスタの祖父がおそらく書いた手紙。あの、クリスタとジャックが初めて出会った事件の最中に落ちていたらしいものだ。クリスタが引き取らせてもらった。茶色のような黒のような染みで半分以上染まっているのを見て気分が悪くなりそうになる。だけど……もう逃げちゃいけない。

[親愛なる我が弟へ。

  私たちの会社の後継ぎをようやく決めたよ。やはりお前の息子にしようと思う。散々悩んだ末の結論だ。周りへの見え方をよく気にする男だから、きっと会社を卒なく回すことが出来るだろう。それに、彼にも更に息子が……つまり、私に取っての孫息子がいるから、将来も安泰だ。どうだろう、お前に取っても悪くはない決定だと思う。……。了承してくれるのなら、近いうちに引き継ぎの宴会を開こう。ああ。会社は若い世代に任せて、私たち老人はもう手を引くべきだろう。もう疲れた……なんて自嘲しても仕方ないよな。不甲斐ない兄で悪かったが、お前が支えてくれたおかげで最後まで社長を務めることができたよ。……。]

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