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予想通りにとも、予想に反してとも言える。そもそも僕が何を考えたのかなんて僕自身よくわからない。それはともかく、一つの真実として、ジャック・ブラックは次の週も、その次の週もちゃんといつものベンチにやってきた。エレナもそれに対して特に何も言わなかったから、同志仲間として彼を認めたのかもしれない。何もかもうやむやにしたまま、また内臓をやってなし崩しにした。
僕らの関係性は、結局いまいちわかりずらいままだ。そもそも名前なんてないのだろう。
❇︎
あれから何度目かの朝を、シアンは自分の携帯電話が鳴る音で目覚めた。何度目か……? むくっと起き上がってから冴えてきた頭で数える。八度目だ。だって今日は二度目の水曜日だし。カーテンが極限まで開かれた窓から煌々と光が差している。時計を見ると、七時半を少し過ぎたところだった。予定が特にないとは言え寝坊だな。いつもは六時には起きてるのに。
と、ここでようやくベッドの横の小机で携帯が鳴りっぱなしなことに気づいた。そういう意味じゃまだ全然頭が冴えてなかったと言える。
トゥルルルルル…という単調で無機質な音。着信音を操作したりはしていないから誰からの連絡でもその音なわけだが、直感的に親しいあいつらではないなと思った。じゃあ誰から? 手を伸ばして携帯を掴み取って開き──シアンは短く呻いた。
やっぱり。ろくな相手じゃあ、なかった。
画面に視線を落としたまま、早く鳴り止んでくれと祈るような気持ちでそのまま動きを止めていた。時間が永遠ってほど長く感じた。
嫌な朝だな。朝食ももうどうだっていいや、抜いてしまってさっさと外に出よう。街を歩いていれば、そのうち忘れる。歩いて、人々に会って、一人じゃないって思えたら、大丈夫。僕は生きていける。
うるさいほどに鳴っていた携帯電話が手の中でぷつりと音を無くした。点滅していた光も時間差で消える。携帯が死んだ。息絶えた、という表現が頭に浮かぶ。
物騒だなぁ、はあ、と苦笑のようなため息をつきつつ、携帯を開いた。意味もなく着信履歴を開こうとしたところで、目に飛び込んできたニュースの速報テロップに唖然とする。普段テレビもつけない、携帯でもニュースはあんまり見ないなんていう生活を送っているものだから、全然気づかなかった。だがそんな自分を置いてこの一週間ほどの間ずっとネット世界では噂を含め情報が飛び交っていたらしい。呟きやらコメントやらに添付された一枚の画像は少しの違いこそあれ、どれも似たり寄ったりだった。
一枚の、地図。それは僕らのこの街を中心に置いて、その周りに幾つかの赤い囲みがある、というものだった。趣味の悪いドーナツに見えなくもない。
連続通り魔事件?
物騒だなぁ、わあ。
❇︎
「シアン」
呼びかけたら、彼は首を傾げて辺りを見回してからアッという顔になって、こちらに手を振ってきた。
「やあ、エレナ」
エレナはわざと無関心を取り繕って、澄まし顔で日傘を持ち替えた。こういうところ、自分でも素直ではないとわかっている。「また街歩きですか。いつになったら飽きるのですか?」
シアンは「んん」と声を上げて微笑む。
「飽きないよ? だって一応、街並みは変わらなくても見えるものが全く一緒ってわけじゃないからね。そういうエレナは珍しいね? 午前中のうちに外に出られてるなんて」
「そうですね、今日は多分、わたくしを軟禁しているどころではなかったのでしょう」
軟禁、などと茶化すような表情では言ったが、実際にエレナがされているのは軟禁に限りなく近いのではないかと思う。元炭鉱主の親戚がいて金と権力を握っている以上、エレナの生き方、つまり家での扱われ方はそれ相応のものになる。幼少期からのお嬢様教育。外に出るには親の外出許可が必要。立ち振る舞いはかなり厳しく指導されてきた。
選択の余地なき長女となった以上、お前はこの家で女性としての務めをしなさい。それなりの立場の人を婿にもらって、我が家を立てなさい。フローレンス家の繁栄に尽くす淑女となりなさい。家ではエレナは、飾り物の一輪の花だ。
もうそこは諦めている。なのに。
『ひどいよ。そんなの酷い。エレナは多分、もっと怒っていいんだと思う』
『生き方ぐらい、自分で選んでいいよ』
シアンはそうやって、いつもエレナの心の中、眠らせている怒りを、理不尽に対する反発を代弁する。
彼だけではない。アーロン、クリスタもきっと、エレナがそういうふうに育ってきたことを知った上で、エレナのことを──ときに我儘でさえも許してくれるから。受け入れてくれてしまうから。
「あー…、それどころじゃないっていうのはやっぱり」
「夜を揺蕩う殺人鬼、連続通り魔事件。どうやら未だにこの街の警察は動いていないようですが、かなりの憶測やらが飛び交っていますよ。まあ、貴方は人との繋がりを謳歌するくせにインターネット系の繋がりはあまり好いていないみたいですからね」
とりわけ毒のある言葉を吐いたわけではなかったが、彼は痛いところをつかれたような顔をした。「そうだね、うん。僕はスクリーンの文面なんかで人と関わったような気になるのは嫌なのかも」そう言ってから、誤魔化すみたいに「あはは」と笑う。エレナは内心顔を顰めた。
誰をも傷つけないようにするという個性。それは、多分すぐにきついことをぶつけてしまうエレナの個性とは相容れないのだろう。大多数に混ざれないはみ出しもの仲間で、同志ではあっても、彼はエレナのことが苦手なのだと思う。エレナ自身、彼のへらへらとして人の間にいるようなところは苦手だ。もちろん、全ては彼のことが友達として好きだという上での話。
それに、エレナが本当に許せないのはシアンではない。
「エレナの家が関係あるわけでもないのにそんなに親、慌ててるわけ?」
「仮にでも犯人探しのことでうちの事が噂に上がったりすれば大変だからじゃないですか?」
殺人鬼の正体、つまりは通り魔事件の犯人のことは何もわかっていない。性別、年齢、顔や容姿。何一つ。警察官側はどうやらこの事件を隠蔽しようとしていたようだが──憶測で人々がパニックに陥るのを防ぐためだとかなんとか言っているが、本当は何一つ操作が進んでいない不名誉を押し隠すためだと思う──少し調べればもう様々な情報が手に入る。連続通り魔事件の被害者は今のところ七人、共通項は特になし。被害者の誰もが既に生きておらず、しかも事件現場は全て悲惨で凄惨な血溜まり状態。それからこれはエレナの父親が伝手で仕入れた情報だが、犯人は行き当たりばったりに通行人を殺してから、通りに設置された全ての防犯カメラを破壊し、その後一切の足跡すら残さずに逃走しているらしい。返り血すら浴びていない、よほど人を殺すことに手慣れているとかなんとか。
「人を殺し慣れてるってさ、どういうことなんだろうね。本当に想像もつかないけどさ。殺し屋とか?」
「まあ実際そういうウラの職業は存在するみたいですよね。本来人を殺すための職業なんて存在してはいけないはずなのに」
「っていうか尚更……そんな状況なのに、エレナが外に出るのは許されるわけ? 危なくない?」
だがエレナはシアンの問いかけに首を振った。首元のペンダントの鎖をいじりつつ、
「大丈夫だと思いますよ?」
文末が上がり気味の「?」だらけの会話に少し可笑しくなる。シアンが「? ?」と混乱した顔になる。
「大丈夫? 危険じゃないってこと?」
「危険がないとは言い切れませんが、そもそもこの殺人鬼は綺麗にこの街をよけています。彼、または彼女が一体どのようなルールを定めているのかは知りませんが、この手の犯人はそれを基本的には遵守するのではないかと」
数日前に見た真ん中がぽっかりと色が抜けた地図を思い出す。この街がマークしているには違いない。いつまで囲んでいる状態が続くかはわからないし、最終的に街を襲うのかもしれないけれど、まだ早すぎる。まだこの街は大丈夫。ただのエレナの勘でしかないけれど、希望的観測ではないのは確かだ。そこに私情は特に混ざっていない。
「まあ、確かに……」
シアンがそう頷きかけた時、ルルルル…という無感情な音が彼のコートのポケットあたりから聞こえた。携帯電話が鳴っているのだ、とすぐに気づいて、エレナは頭ひとつ分高い位置にあるシアンの顔を覗き込むように見上げる。僅かにだが彼が少し怯えたような表情になるのを見逃すことはなかった。電話一つに何を怖がる必要があるのだろう。
「シアン……?」
「……っん? なに?」
「出ないのですか? 貴方の、でしょう?」
またクエスチョンマークが横行する。シアンはまた少し陰ったような笑みを浮かべて、「おい、早く取ってくれよ、気づいてんだろ?」とばかりに騒いでいる携帯を取り出した。そして、「あ、なぁんだ」と拍子抜けした様子で呟いた。「アーロンじゃん」
「え、アーロン?」
エレナも思わず親に指南されてきた上品な仕草が抜け落ちてパカッと口を開く。「貴方はアーロンを恐れていたのですか」
「恐れてる? いや、何も恐れてることなんてないよ」
嘘言わないで。ぴしゃりと言い放とうとした言葉を、エレナは喉の辺りで飲み込んだ。今ここでシアンと言い争う、というかまた適当なことを言ってのらりくらりとかわすであろうシアンに無駄に言葉をぶつけるのは不毛だ。「というか早く電話に出てあげたらどうです」ここまでの長い間、電話を切ることもなくシアンが出るのを待っているなんて、アーロンも暇人だ。
暇人?
だからエレナは、アーロンのことが一番許せない。
「もしもしー?」シアンはエレナの心境には特に気づいていないようで、電話に耳を傾けて瞬きをしている。アーロンが見ているわけもないのに口元が笑みの形を作り出す。
うん。……うん、今たまたまエレナと会って立ち話してる。え、ほんとに? なんだ、わかってたのか。そうならこっちおいでよ。え? あぁ、それなら仕方ないか。
彼はくるりとエレナの斜め後ろ辺りに視線をずらすと、笑顔で大きく手を振った。どこか高い遠くの方を見ている。エレナも振り向いて、納得した。あの人、こちらを見ていたのね。背の低いビルの上から二番目の窓で、人影がこちらに手を振りかえしていた。水色っぽい色褪せたキャップから少し出ているオレンジでわかる。アーロンだ。あそこからシアンとエレナがいるのに気づいて目的もなく悪戯心から電話をしてきた、ただそれだけのことだったらしい。「お前ら通りで喋ってるだろ、見えてるぞ」というわけだ。
「アーロンは」言いかけたエレナに、シアンが「じゃあまたね」と電話を切ってから答える。
「今バイトでビル掃除だから出て来れないんだって。残念だねぇ」
違う。そういう事が聞きたかったわけではないし、第一掃除のバイト中だなんていうのは、あの錆びれた水色のツナギを見ればわかる。そもそもバイト中に悪戯で電話とかどうなのだ。だから彼が今話に参加できないのが残念だとかそういう話ではなく。
「アーロンはいつもギターを持っていますよね」
素っ気ないような口調の言葉は、ただ重力に従ってぽとりと落ちた。落ちてどうなったかなんて知らない。日が陰ってきたのを感じて、エレナは日傘を閉じた。
「えっ? うん、そうだね。あいつはどこ行く時もギターケース担いでるね。なんなら今も、控室にでも置いてあったりして」
シアンは笑う。まあ、事実アーロンはどのバイトに行く時にもギターケースを必ず持っていくから、彼の言っていることは正しいのだ。「では、それはなぜでしょうね?」
「それ?」
「弾くわけでもないギターをいつでも抱えているのはなぜでしょう。本当は練習しなければいけないのにギターに触れている時間が少ないことに対する罪悪感からでしょうか?」
「……どうしたの?」
「そもそも彼がバイトを詰め込むのはギター代なんかを親に返さなければいけないからですよね。なぜそうしてまでギターを手に入れたかと言えば、ミュージシャンになりたいから。それならそんなことで時間を潰している暇なんて彼にはないはずなんです。しかも悠長に電話しながらのバイトになんて」
「エレナ、ねえ」
「本格的に音楽家を目指すのなら、その狭き門を潜ろうとするのなら、それ相応以上の努力をする必要がある。なのに彼は今できる最大限の努力すらせずに、自分の良さがわからない評価する側の世界が遅れているんだと言うのです。では一体、彼は何になりたいのでしょうね?」
「やめろよ」
「あんなに赤いギターケースを背負っているのだから、アーロンは会った人にギターを弾かれるのですかとよく聞かれます。見たことあるでしょう? 彼はその時に何と答えると思いますか、かっこつけて『ああ、ミュージシャンを目指してる』と言うのです。でも世間にロックの良さを認めてもらうのは大変だ、なんて肩をすくめながら。ありえません。本当に彼が認められなければいけないのはロックの良さなんかではなく彼自身の音楽の良さなはずで……」
「ねえってば!」
シアンが珍しく怒鳴るような声を上げてから、またもとの柔和な顔つきに戻った。
「エレナの言うことは正しい。本当にそうだと思う。でもアーロンにはアーロンの考えがあって、予定があって、僕らが口出すことじゃないよね」
アーロンのことも、エレナのことも、双方を巧妙に彼は肯定する。いや、違う。否定しないだけで、どちらも肯定はしていないのだ。
「では貴方は」
「アーロンのことを、僕はずっと前から応援してる。僕だけじゃない、クリスタもだし、エレナもでしょ? ……ねえ、エレナ。なんだかこの間から言葉に歯止めが効かなくなってる。らしくないよ、いつもは言うべき時を外したりしないのに」
シアンは大袈裟なほど神妙な顔つきになって言う。それに対して何も言い返せないのは、自分でも気づいているからだ。先週の火曜日にジャックに対して。そして今吐き出した、アーロンのこと。
「……そうですね、今のはわたくしが悪かったです」
唇を噛み締めたら、シアンは慌てたようにひらひらと手を振った。彼の顔が一瞬、ぎゅっと歪んだように見えたが、それは気のせいだったかもしれない。差した影でそう見えただけなのだろう。
「謝ることじゃないよ。だってエレナの言葉が痛いと感じるのは、エレナが正しいからなんだし」
どうして尚もフォローを入れようとするのだ。そうやって気ばかり回して笑ってばかりだから、人のためにしか怒らないし人のためにしか喜ばないから。だから誰も傷つけないというプラスに考えれば美徳とも言える個性を持っているのに、エレナのような〈はみ出しもの〉グループに入れられてしまうのだ。
……っ。どうしてこんなにイライラして誰かにぶつけたくなってしまうのだろう。そうだ、あの男、ジャック・ブラックがやって来た時からだ。
❇︎
四年前、ぐらいだろうか。学園に入ったばかりの頃で、シアンと会って、それから同志仲間に入れてもらう前だったから、もう少し前か。
回想する──。そんな優しい言葉じゃ表し切れないほど、当人のクリスタの中には根深く残っている記憶だ。生々しくて、重くて、だけど誰にも話せなくて、未だに思い出しては眠れない夜を明かす。
何故だかすごく不安定な時期だった。
母方の叔父叔母の家には膨大な数の本があり、クリスタはそれらに囲まれて育った。大きな本棚から数冊持ち出しては部屋の中で電気すらつけずに読む毎日。息をするように本を読み、そのたび心を動かした。主人公に共鳴し、登場人物に尊敬を抱いたり、恋をしたり。そしてある時ふと思ったのだ。
──本の中にいる彼らと比べて、現実世界に今いる私たちに起こることは、なんてくだらないんだろう。
呆れるほどどうでもいいことで笑うし、取るに足らないことで涙を流すし、第三者から見ればなんでもない出来事を「一生ものの経験だ」と叫ぶ。馬鹿みたい。そして事実、馬鹿なのだ。小説の中のような事件に遭う人も、実際にはいないこともないし、クリスタだって過去には肉親の虐殺に遭っている。でもそんなのはもうずっと前で、自分の過去というピースが形成されてさえいない頃だ。凄惨であったはずの記憶を持って尚、自分はこうしてのほほんと何も思わずに過ごしている。少し何か褒めてもらえた程度で浮き足立ち、友達に送ったメールの文面なんかに後からくよくよと悩む。一人の凡人でしかない。そんなの不平等じゃないか。何か、起こらないだろうか。人生をがらりと変えるような、文字通り劇的なこと。それは悲劇であってもいい。
……でも、そんなことを願ったって、結局私なんかの人生には何も起こらないのだ。クリスタのそれはもう終わってしまったと言ってもいいかもしれない。僅かにしか覚えていないあの過去の事件に、クリスタの人生の山なんて終わったのかも。
なんてつまらない。
気がつけば何冊もの本を、カッターナイフで破いていた。自分の手でびりびりに裂けていくページを見て、本が脆い紙束でしかないのを確認する、ただそれだけのために夢中で手を動かした。どれだけ鮮やかだって、たかが文章。たかが作り物の言葉。裂け目と、無造作に散る紙屑。取り憑かれたように。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、何が? あああっ、うるさい。誰か誰か誰か何か何かなにか……。
ギッッ──と、突然焼けるような痛みが左手に走って、クリスタは目を見開いた。乱暴にカッターを叩きつけるように使っていたために、押さえていた左手の甲を切ってしまったのだ──とそこまでは理解することなく、数秒間ぼんやりと噴き出す血を眺めた。赤が静かに、少し黄ばんだような紙を染め上げていった。
我に返って、いけない、とやっとのことで思った。いけない、どうにかしなきゃ。早く血を止めなきゃ。優しい叔父さんと叔母さんにばれてしまう。叔父さんと叔母さんを心配させて、そして悲しませてしまう。
左手に当てた右手に、べっとりとした感触があった。気持ち悪さに手を離してしまう。刃こぼれで鈍くなったカッターで付いた傷は汚らしかった。どうにかこうにか手の甲を太腿に押し当てるようにして右手で棚を探り、包帯を引っ張り出した。きつくきつく、何重にも巻き付ける。言い訳をどうしよう。いらない段ボールの解体でカッターを使ったのだとでも言おうか。失敗して切っちゃったけど、でももう全然大丈夫だって笑って。
紙屑を掻き集めながら、不意に嗚咽が込み上げてきて、クリスタは歯を食いしばった。
悲劇でもなんでも、何かが起きればいいなんて思った。それは本心の一部にあるには違いないけれど、そんなことを考えてしまった自分がたまらなく嫌だった。最悪で最低だ、と思った。誰のことも考えていない、自分のことしか考えていない。不幸なことがあればいいだなんて何様だ。そんなことを言いながら、この手から流れる血一つに動揺して泣きそうになっているなんて、この様はなんだ。
大好きで、大切だったはずの本の無残な有様を見下ろした。自分は大事にしてきたものを衝動だけで壊してしまったのだと思った。
この鬱屈した思いが向かう負の方向の先には何がある。そう考えて初めて気づく。そっか、私。
死にたいんだ。
❇︎
普通に考えてダサい清掃員の水色ツナギから私服に着替えながら、アーロンは腕時計を見る。今一時十五分で、次のスーパーのレジ打ちが二時半からだから……、よし、三十分行ける。
荷物を引っ掴んで、控室を飛び出した。無機質なデザインのひたすら景色が変わらない廊下を半ば走るように歩く。窓の外を見るといつもと変わらない街の風景が広がっていた。今いるのはビルの五階だが、思っていたよりも高い。とは言えそもそもこの街に高層マンションやら抜きん出たビル群やらは存在しないので、多分他と比べると全然低いのだとは思うけれど。
というか大通り、人が多い。街の外じゃ酷い連続殺人事件がリアルタイムで勃発しているというのに、つくづく人間ってのは自分の目で実際に確認しない限り危機感が薄い。ここ一週間の間に十人以上殺されてるんだぜ? 結構すごくね?
「おう、お疲れェ」
ツナギ姿で窓を拭くビル清掃バイトの男に声をかけられて、アーロンも「お疲れ様です」と返した。たまに時間が合うので顔見知りだ。推定三十歳ほど年上で、売れていない漫画家みたいな、そういう雰囲気がある。要するに、カタギの会社員感がないわけだけど、本当のところどうなのか尋ねたことはない。……そのまま駆けていくのも野暮なので仕方なしに足を止める。
「お互いバイトばっかで大変だなァ、やっぱ生活費か?」
「そうっすね、一人暮らしだし親に借金あるんで」
「偉いもんだ、オレなんて若い頃は彼女作ることばっか考えてたぞォ。彼女はいいぞ、彼女は。お前さんもガールフレンドいるか? モテそうなツラしてェ」
「いませんよそんなの。……すみません、急いでるんで、もう行きますね」
また走り歩きを始めたところで、男の今にもとろけてしまいそうなねちっこい声が追いかけてきた。「なんだ、やっぱ彼女とデートかァ? まあせいぜい上手くやれよォ」
誰とだよ。人の話聞いてねえじゃないかよ。心の中でツッコミつつ、階段を駆け降りてあっという間にビルを出た。行く場所は決まっている。足は自然とその方向を向く。
彼女とデートねえ。意外とそれに近かったりするかも。
❇︎
[留守番電話サービス。未確認のメッセージは、二件です]
プツン。
[シアン? お母さんです。何度も電話してるけど……忙しいのよね、きっと。もう長いこと顔見てないから、元気にしてるかなぁって思って。暇な時でいいから、会いに来てね。お父さんも会いたがってたから]
ツー、ツー。プツン。
[もしもし、兄貴? そろそろ家に一回帰って来なよ、それから電話に出てやれよ。気持ちはわかるけどさ。ってそういや兄貴って未だにニート? ……困ってる事があったら言ってよ、なんでもいいからさ]
ツー、ツー。
トゥルルルルルル、トゥルルルルルル……。
「もしもし、母さん」
[シアン! ずっと携帯電話見てなかったんでしょう? でも良かった、やっと声が聞けた]
「うん、ごめん。色々あって忙しかったから、携帯開く時間なかった」
[元気にしてる?]
「元気だよ、そっちは?」
[みんな元気よ、リオンもシアンに会いたがってたよ。兄貴今年は家に帰ってくるかなって]
「……うん」
[仕送り、足りてる?]
「足りてるよ、十分すぎるぐらい。使わなかった分は全部貯めてるからちゃんと返す」
[そんなの好きに使ってくれていいのに。何か仕事にはつけそうなの?]
「うん。もうすぐ安定するよ。大丈夫」
[そう? じゃあ元気でね? 忙しくてもちゃんと毎日ご飯食べて寝ること]
「わかってる。しばらくしたら会いに行くから、そっちこそ元気でね。じゃあ、また」
ツー、ツー。
嘘ばっかり。嘘ばっかりだ。
溜め息。声にならない叫びと嘆き。人を傷つけたくないから嘘で自分を塗り固めて、本当は自分自身はズタズタで。それに気づいたら最後、また闇に溶けていってしまいそうで。
……。
…………。
………………。
外に、出よう。
「一週間ぶりね」
クリスタが朗らかにそう言う声を聞くと、また火曜日が来たんだなぁと思う。冬と春の境目の今。曇りがちの空でもちゃんと太陽は街を照らす。この辺鄙な路地裏の空間でさえも。
「やあ」シアンは片手を上げた。既にベンチで皆が待っていた。そりゃそうだよな、もう昼過ぎだ。ノイローゼ気味になってベッドでぐったりしていたら、かなり長い時間が過ぎていたらしい。
ベンチにはもう当たり前のようにジャック・ブラックもいて、ここがシアンの居場所であると同時に彼の居場所にもなれたんだなと思ったら少し嬉しかった。どこからか現れた黒猫のデビルがジャックの肩に飛び乗ると、彼は穏やかな目で微笑んだ。
「よっ、シアン。珍しいじゃん、いっつも午前中には現れるくせに」
例の如くしゃがみ込んで、ベンチをテーブルにトランプを並べているアーロンが見上げて来た。トランプを入れていたらしいあの巾着袋のうさぎも、無表情な赤い目で射抜くようにこちらを見つめていた。シアンは曖昧に笑う。「そ? また街歩きしてたら」嘘つき。「意外と遠くまで行っちゃったものだから」嘘つき嘘つき嘘つき。
パチン、パチン、とアーロンがプラスチック製のカードを並べていくたび軽やかな音がする。一段目に一枚、少し重ねて二段目に二枚、と三角形に並べていくそのゲームは確かピラミッドだ。一人遊びだったよな。ジャックはそれを横で眺めているし、クリスタとエレナはベンチの空いたスペースに腰掛けて何やら雑誌を読んでいる。なんとなく折れ曲がってよれよれな具合からして、あの雑誌、多分その辺で拾ったやつだろうな。
「まあそういう日もあるよな、人生ってそんなもんだ」アーロンがいつもの妙に達観したような表情で言った。それからガラッと声色を変える。「今ジャックと話してたんだが、知ってるか? あの連続通り魔のやつ、まだ続けてる」
「続けてるってのは」
「被害者が十三人に増えた」
「うわぁ……それはすごいね」
「すげえよな、ほんの五日ぐらい前までは七人だったんだぜ?」
パチン、パチン、と彼が紅色のカードを捲り出す。合計十三になるカードの組み合わせを、節くれ立った長い指が取り払っていく。綺麗な顔なのに手だけが不釣り合いにごついなぁ。ふと十三階段、という言葉が頭に浮かべて首を振る。縁起が悪いことは考えるもんじゃない。
それにしても、ちょうどジャックと初めて会った時あたりから事件が始まっているわけだから、約二週間で十三人か。かなりやばい気がするが。
「でもまあ、へーきだろ。なんせ街の中では何も起こっちゃいない」
エレナと同じことを言うんだな、と思った。「そんな感じするだろ?」とアーロンは横のジャックにも話を振る。
「そうじゃないか?」
極めてシンプルな同意の答えに、どこか引っ掛かりを覚えてシアンは黙り込んだ。アーロンが怪訝そうに視線を投げかけてくるのを感じる。僕はどこに引っかかった? 何か忘れてることがある。ええっと、なんだっけ。
ああ、とここでようやく気づいた。
だいたい二週間前にこの街に現れた人間がジャックだけじゃなくてもう一人いるってことだ。暗くなった公園での、クリスタとの会話。彼女はどうやら生き残っていたらしいはとこに会ったと言って動揺していたではないか。
だとすると、連続通り魔事件を起こしているのはクリスタのはとこ? 彼だか彼女だか知らないがそいつがこの街をマークしているとして、それはどうしてか。物騒なことを引き起こしているところあたり昔肉親を殺され自分も殺されかけたとかいうことの復讐だろうか? じゃあこの街にはその時の虐殺犯がいるんだな、それは誰だろう。
シアンは思わず顔の向きはそのままに横目でジャックの方を見て、視線を戻して、それからごくりと唾を飲み込んだ。いやまさかまさか。僕は決して疑ったりしてませんよ、そんな奴には見えない……もんね?
「おい、どうしたんだよ、シアン」
「ん、なんかぼーっとなってた。何でもないよ」
まじで何でもない。頭の中で話が飛躍しすぎただけ。それに……。
少なくとも過去のその出来事について関わりのあるクリスタは特にそのことには何も言っていない。彼女にとって、「幸運にも再会を果たせたはとこ」と「最近新しく仲間になったジャック」だ。シアンがそこに首を突っ込むことは何もないし、そもそもクリスタは一度しか会ったことのなかったはとこの顔を覚えていたのだから、その時の虐殺犯の顔も覚えていたっておかしくない。ならジャック・ブラックはやっぱり関係がないのだろう。
さあ、思考を今に戻そう。
シアンのせいで変な空気になっていたのを察したのか、クリスタが雑誌から顔を上げて「ねえ、シアンって何座だっけ?」と鮮やかに話題を変える。
「え、なにざって?」
「やだなあ、十二星座よ。牡牛座とか天秤座とか、あるでしょ?」
エレナが「誕生月で決まっているやつですよ」と付け足す。
「ああ……多分双子座だと思う。六月生まれだからね」
答えると、クリスタとエレナは顔を見合わせて吹き出した。「まさかの双子座」「ある意味運がいいかも」
「何の話?」二人の喋り方に(笑)が滲んでいるのを見て取って、シアンは身を乗り出した。
「この雑誌……その辺に落ちてたやつなんだけど」
「やっぱり?」
「やっぱりってなに?」
「いや何でもない」余計なことは言わないのもまた生きる知恵。
「とにかく、この雑誌に十二星座の占いのページがあるの。今月の運勢ランキング順でね」
話の筋が見えた、おぉ嫌な予感と思ったら、先にアーロンが「かはっ」と笑った。
「で、双子座が十二位なわけか」
「そういうこと!」
シアンは笑う。ははは。「やっぱり?」
「やっぱりってなに?」
「いや何でもない」今日は余計な一言が多いな。
「そういやジャックは誕生日いつだ?」
アーロンが尋ねる。無言になりがちなジャックを巻き込もうとしているのだろう。彼は彼なりに新しい仲間を気に入っているのだ。ところで「新しい」と形容できるのはいつまでなのだろう。会うのが一週間に一度だから二週間経った今でもジャックは〈新しい〉ままだ。交わした言葉が少ないのもそうだが、彼は内面を悟らせないところがある。火曜日以外に偶然街であったりしたこともないし。
当のジャックは困ったように眉根を寄せて笑った。僕が誤魔化す時もこんな表情になるのかな、などと思った。全部想像に過ぎない、そんな気がするというだけの話だ。自分の顔なんてわからない。鏡やら写真やらに映った自分の顔を見るのは好きじゃないから。
「知らないな。自分の誕生日なんて」
「まじかよ」アーロンが露骨に目を丸くしたが、実際はあまり驚いていなさそうだ。察していたのだろうか。彼は「それならさ」と人差し指を立てる。
「それなら誕生日なんて自分で作っちゃえよ、なんなら今日でもいいんだぜ?」
「それは誕生日とは……」
「んなのどうでもいいだろ。ジャック、今日を誕生日にしようって思う日があったら言えよ。そしたらみんなで祝ってやる」
なんて適当な。ジャックが軽く目を見開いたのを見て、シアンは少し肩をすくめる。流石にアーロンの言うことはちゃらんぽらんで無責任で、それがいいな。うん、すごくいい。
それにしても、とエレナが呟く。
「自分が見た日に限って星占いの結果が良くないのって一体なんなのでしょうね。そういうこと、よくありません? それこそたまたま見たら十二位だとか三つ星評価が一だったりすること」
「あるねぇ」シアンは頷く。現に今日十二位だったからね。「ほんと、何でなんだろうね。理由なんてないんだろうけど」
「っていうかさ」
ここでアーロンが口を出した。
「そもそもそんな運勢とか未来だとかなんて変な図描いたりカード捲ったりするだけでわかるだけねぇだろ。信じる方が馬鹿らしい」
そう言いながらも彼はずっとトランプを捲っては取り払いのピラミッドを続けている。シアンがここに来てから多分五周目ぐらいではないだろうか。ゲームというより作業に近い気がする。
ジャックの肩から音も立てずにデビルが飛び降りた。器用にアーロンのカードを避けてベンチにとん、と足を付ける。それを見やりつつクリスタが首を傾げた。
「まあ信じる人と信じない人がいるよね、占いって。私一時期信じてたことがあったわ。かなり前だけど、実際当たってたから」
「え、当たってたの?」
「っていうよりは、当たっていると思っていたっていう感じかしら。なんとなく思うのは、多分『いいことが起こる』って言われたから、普通の日常の中に小さくてもいいことだって思えることを探して無意識に占いを正当化していたのかも」
今週は運がいいと言われたから、無意識に運の良さを見出そうとして。逆に今週はあまり運が良くないと言われたら、起こった「よくないこと」を数えて。
クリスタはにこっと口元に笑みを浮かべた。なんとなく悪戯っぽい、猫みたいな顔。「要は気持ちの持ちよう?」
まだ高いところにある太陽が彼女を静かに、美しく照らしていた。シアンは少し眩しさに手を細めながら「確かに」と言った。
「そうだね。そういうものかも」
アーロンとエレナも同意するように頷いた。「星見るより説得力あるな」「いいですね、その考え方」
ふとジャックが誰ともなくこの空間全体を切実そうに、大切に見つめているのに気づいた。その眼差しに憧れや羨望のようなものを見つけてシアンは目を瞬いて──それから自然と笑っていた。
わかるな、と思った。
底知れなさ、どこか翳りのようなものを宿しながら、それでも人を見つめるその感情。一人じゃどこか沈んで行ってしまいそうで、がむしゃらに街を歩く自分にはよくわかる。
みんなで他愛もないことを喋れるこの場所が好きだ。この時間が好きで、今が幸せだと思う。だから占いなんてどうでもいいよね。ここにいるという事実が全てだ。
日が傾いて西日が差し始めたところで、そろそろお開きにしようというムードが流れた。
「じゃあまた来週」
「ん」
いつもと同じ受け答え。このくらいの軽さでいい。別れを惜しいとなんて思わない。だってまた火曜日何食わぬ顔で会うっていうのに一々寂しがっていたら、ただのイタい奴でしょ? でもやっぱり次の火曜日を楽しみにする毎日が「じゃあまた」という言葉から始まる。
なんだか学園時代の時と変わらないや、と思う。
学園に行ける平日が、夢のようだった。仲間たちと話し、遊び、その合間のつまらない授業でさえ愛せた。だから休日はいつも「あと一日」「今日さえ頑張れば」とカウントして過ごしていたのを覚えている。
さて、行くか。どうせ今からしばらく歩きだ。帰っていいのか悪いのかとこの場が変な雰囲気になる前にさっさと出発してしまおう。
じゃあね、と一度だけ手を振ってから歩き出す。四方向に伸びた細い路地の一つを潜り抜けるように進む。明るくて空気が籠っていない、いつもの街の大通りに出て、少しだけ足を止めた。西日の眩しさに目がくらんで、手のひらを額の上に翳す。今日はどっちに行こうかな。とん、と肩に手が乗せられたのはその時だった。
「シアン」
声を出し慣れていないかのようにざらざらとして、だけど決して聞きづらくはない声。まだ聴きなれない声。シアンは目を瞠ってから、首だけで振り返った。
「ジャック? どうしたの?」
足音が聞こえなかったから、驚いた。追ってきていたことに全然気づかなかった。今さっき別れたばかりなのに、なんの用だろう。忘れ物でもしたかな、と考えてから自分でそれを打ち消した。そもそも忘れるようなものなんて持って来ていなかった。
背後に立った彼は初めて会った時から変わらない静かな表情をしていた。黒髪に夕日の色が透けて見える。ジャックは感情を感じさせない目を瞬いてから、言う。
「行きたいところがあるんだが、一人だといけない。少し付き合ってくれないか?」
トーレ・ディ・アマネセル──。彼は街を出て少し離れたところにある建物の名前を挙げた。確か十年ぐらい前まで有名企業がホテル経営をしていたところだ。そり立つ崖の上に立っているために、その眺めを売りに宣伝していたのを見た記憶がある。「あなたに一番の朝焼けをお送りします」。そんなキャッチフレーズだった。今どうなっているのかは知らない。
「な、なんでそこに今から?」
「行きたくなったから」
「なんで一人じゃ行けないの?」
「万が一のことを考えて」
「そしてなんで僕?」
「色々考えた結果」
何一つ具体的な答えを貰えないまま、とりあえず街の駅に向かう。急いでいるわけでもなさそうだから快速じゃなくていいかな。三十分も電車で行けば着く距離だったよな。時刻表やら携帯のナビやらを突き合わせて考える。
あ、もしかして「万が一」とかなんとかぼやかしていたが、ジャックは電車の乗り方がわからなかったとか? 壊滅的な方向音痴だから一人じゃたどり着けないとか? だとしたらなんていうか、結構可愛い。もちろんドジっ子に萌えるなんて変なフェチは持っていませんよ?
結局いいタイミングでホームに入ってきた各駅停車便に乗り込んだ。今更ながら妙な展開になったものだ。二人きりで話すことは初めての微妙な空気感。それを感じさせたくないから何か喋ろうとして、でも内容が思いつかなくて、焦っているうちに飛び出したのは「アマネセルに何しに行くの?」というまあまあ真っ当で無難な質問だった。「まさか泊まりに行くんじゃないでしよ?」
また適当な答えが返ってくるだけかと思ったが、そうはならなかった。ボックス席で向かい合わせになったジャックは、物珍しそうに窓の外の流れる風景を見下ろしつつ「いや」と言った。
「そもそももうホテル経営はしてないだろうな。多分何もやってない。空き物件だろうし事故物件だろうし廃墟……」
「は」
「立ち入り禁止かもな」
ちょっと待った。立ち入り禁止の廃墟で空き物件で、それからなに、事故物件? まじでなんでそんなところに行くんだよ、僕まで連れて。
シアンの動揺が伝わったのか──というか察せないならよほど鈍いと思うが──ジャックはシートに寄り掛かっていた頭をくいっともたげた。そう言う動きをすると鳥みたいだ。鵜とか鷺とか首が長い系のやつ。
「そこに何をしに行くのかというと」
「うん」なんだろなんだろ。
「何をするわけでもない」おいっ。
若干避難の視線を浴びて、彼は言葉を付け足す。「強いて言うなら見に行く、か? うん。俺のやったナントカカントカ……」後半は声が低すぎて聞き取れなかった。
ここまで来るともうなんでもいっかという気分になって、シアンは顎を上に持ち上げるように車内の天井あたりを見つめた。進行方向と逆を向いているために、ジャックみたいに窓の外を眺めていると後ろに吸い込まれていく感がある。体質的に酔うことはないのだが、変な感じだ。
カタンコトン、カタンコトン、という単調で一定なリズムが心地良かった。なんだかんだ言ってジャックに「少し付き合ってくれないか」と誘ってもらえて嬉しかったのかも知れない。暇つぶしになるなっていうのと、あとよくわからないけれど頼ってもらえたらしいこと。いつも歩いているからたまには電車で遠出も悪くない。自分と、今目の前に座ったこの青年の間は一体なにで繋がっているのかは知らないが、そうだとしても。
変なの、と声を出さずに笑う。
ろくに知りもしない相手と同じ空間を共にしているなんて。それになんならさっき、今街の周りで起こっている連続通り魔事件に関係あるんじゃないかと勝手に憶測した相手だ。まあさっきと言っても三時間ほど前だ。一口に言えどいろんな「さっき」があることぐらいわかる。それにしても事件ねえ。
え、事件?
事故物件だろうし──。そう言った低い声が耳に蘇る。ちょっと待てよ。いや関係ないよな、偶然だ。それにトーレ・ディ・アマネセルは「街の周り」なんていう範囲からかなり遠ざかった場所にあるじゃないか。そもそもさっき考えたのは連続通り魔事件の犯人がジャックだという話ではないわけで……。
思考の暴走に一人でにパニックになる。もちろんそんなことをジャックに悟らせて傷つけたりするのは絶対に嫌だから、表面上を整えることは忘れない。
にしても。
うう酔いそうだ。
❇︎
ずっと、暗いところにいた。
ちゃんとしなさい。
どうしてこんなに簡単なことができないんだ。
可哀想ね、あそこの息子さん。
父親にすっかり萎縮しちゃって。
でもあの子も問題あるじゃない?
ほら、人と会話が全然できないの。人見知りっていうにはあまりに過度で……。
アスペルガー症候群?
そうそう、そんな感じ。上手く喋れないのよね。
お前はどうしてこうなんだ。いい加減にしなさい。
お父さん、やめてあげて。見てられない。
お前も黙っていろ!
ひっ……。本当にやめて……ッ。
お、とうさ……ご、ごめ、んな、さい。
俺は謝れって言ってるんじゃないんだ。
ご、めんなさ、いごめん、なさいごめんなさい……。
ったく。なんでこんな……っああ。
なんて息子だ。
こんなんだったらいない方がましだ。
やめて、お願い、やめて。
そんなこと言わないであげて……。お父さん……。
❇︎
「で、着いたけど……?」
立派な石造のアーチを前に、恐る恐るジャックの顔を伺った。暗くなってきたなぁ、嫌な感じだなぁ。やっぱり夜になってくると薄手のコートでは肌寒い。
幾輪かの献花がアーチの柱にビニール紐で括り付けられていた。多くが何週間も前に置かれたらしくへなりと首を折っている中、一輪だけ赤い薔薇が美しく顔を上げている。どうやらここで本当にあったらしい事件がどんなものだったのかは知らないが、未だに誰かが花を並べて祈りを捧げているという事実に目を丸くした。
「着いたな」しばらくの間何一つ声を発していなかったジャックが外壁を見上げたままようやく答えた。「入るか」と短く言って、何の躊躇もなくずかずかと柵を跨ぐ。
お前、意外とそういうキャラだったのかよ……。シアンは額に手の甲を当てて、建物の外装を仰いだ。事件後に置かれたであろうオレンジ色に塗られていたらしい錆びた金属製の柵には、これでもかというほど有刺鉄線が巻き付けられている。安っぽく朽ちたその感じが、建物の荘厳さとミスマッチだ。などと情景を解説している間に、ジャックはどんどん入って行ってしまう。こんなところまで来て置いていかれても困るので、仕方なく着いていく。
これ、不法侵入だよね。イコール犯罪だよね?
アプローチの階段に足をかけた。全部で五段。一歩登るごとにざら、という耳障りな音と共に、僅かに横に足が滑る感覚があった。石の表面が風化して削れたのだろう。ジャックが足跡を擦ったような痕があった。それにならってシアンも足跡を有耶無耶にしつつ、
「ちょっとジャック。待ってっての」
無造作に開放された入り口をくぐり抜ける。何年もの間そのままにされていたはずの、ひんやりとした空気に包まれて鳥肌が立つ。遥か遠く前を行く、黒いコート姿の彼がそのまま闇に溶け込んで消えて行ってしまいそうで怖くなった。そんなわけないのに。
錆びた鉄の薄い匂いが鼻をついた。過去に栄華を誇ったトーレ・ディ・アマネセルはこの十年の間にすっかり酸化して、過去の場所となったのか。
「俺は夜目が効くんだ」と言っていたのは本当だったとは、などと思いつつようやく追いついた。ジャックのいる広い間に飛び込もうとして、はっと止まる。足元に視線を落とす。
「うわぁ……ガラス?」
欠けたクリスタルオーナメントのようなものが、窓から差し込む僅かな光を色付けていた。数個の八角形のビーズと丸みを帯びた雫型のガラスパーツが鎖で繋がっているところからして、シャンデリアの一部だろうか。本体は取り払われたらしく、天井は穴を開けているが、よく見ればたくさんの破片も散らばっている。危ないな、踏むところだった。靴を履いているから怪我をすることは無いだろうが靴底にガラス片が刺さるのはやはり気になる。
と、ここで気づいた。光を弾く破片と埃で覆われたカーペットの至る所に、黒っぽい染みが広がっていることに。
うわっと声にならない声を上げて後ずさる。これは、なんだ? なんだじゃないだろ、心の奥底じゃ気付いているだろ? 気付いている自分に気付いてしまった瞬間、鼻の奥の慣れつつあった鉄の匂いが一気に生々しくなった気がした。
鉄じゃなくて、血。
ぱっと口を手で覆った。吐き気が込み上げてきたが、指の間から呻き声が漏れ出るだけだった。
よろめきながらも転がり込むようにジャックのもとに駆け寄ったのは、空間の中心で跪くような格好になった彼から伸びる長い影が、そこから広がる血の染みのように見えたからだ。「ジャック……」と。そんなことにどきっとして、心臓が跳ね上がるようで、小さく喘いだ。
一番奥の一間。本格的な夜を迎える空の色。
ジャックの目が初めて見るほどに爛々と光っていた。どうして。彼はそのままかくんと首を落とすと、ぎりぎりシアンに聞こえるぐらいの声で呟いた。
「感傷、なのかな……」
ジャックの手が、骨張った指がカーペットをそっとなぞった。意外にか細くて幼くて、そのまま掻き消えてしまいそうなその声色に、シアンは耐え切れずにその場に膝をついた。高まった動悸と震えが止まない。乾いて酸化して埃の一部と化した血の匂いに思考は限界だ。痛い、痛い、痛い──。
ジャック。
お前は、何を持っているというんだ。過去に。
何をしたというのだ。
眩暈を堪えながら──というより半ば気絶した状態で、きっと長いことそこにいたのだと思う。そこからどうやって、どんな言葉を交わしてトーレ・ディ・アマネセルから出たのかは覚えていない。気付いたら門の前に立っていて、横にはジャックの長身があった。何一つ変わらない様子でくくりつけられた献花の上で、夜の闇と街灯の暖色が溶け合っている。むせかえるような血の匂いに代わって、排気ガスと下水道の臭いがつんと鼻についた。普段だったら顔を顰めるかも知れないが、今はようやく僕らの生きる現実を、都会を感じた気がした。
アーチを潜ったのは白昼夢のような幻だったのではないか。さっきからずっと二人でここに突っ立っていたのではないか。そんな気がするほどに頭の中が朦朧としていた。薄い霧が張っているかのように。
「──シアン」
ジャックに顔を覗き込まれた。彼は〈いつもの場所〉で見る時と同じ、穏やかな表情をしていた。本当に何もなかったかのように。より一層思考が白けてくる。
「付き合わせて、悪かった」
悪かった。その言葉をジャックから聞くのは三回目だ。悪かった、悪かった、違う。そうじゃなくて悪かったって謝るんじゃなくて、付き合ってくれてありがとうでいいんだよ、だって友達だろまあ僕も礼を言うより謝る方が楽だからわかるよへへへ……。
真横の大通りを何台もの車がヘッドライトの灯りを撒き散らしながら通った。密集した光の群が生き物のように蠢く。動いて回る。
空回り。くるくるって、狂って、来る。恐ろしさを、痛みを飛ばすための便利な魔法なんてないや。せいぜい麻薬をやってハイになったみたいに。
すうっとジャックが顔を近づけてきた。深い深い、吸い込まれそうなほどの漆黒の瞳でいっぱいになる。静かに凪いだ水面みたいだ。ハイライトも何もかも視界から消え飛んで、闇の色の中に自分が映っていた。今の溺れかけた後のように動揺と恐怖でぐちゃぐちゃな自分じゃない、いつもの軽く首を傾げるように意識的に笑んだ自分がそこにいた。
──ねえ。
僕は僕に言う。僕は僕に言われる。
──お前はそうやってへらへらと生きて、楽しいの?
笑ってる、笑ってる。手頃でちゃちな自己犠牲をお前はその顔で謳うのだ。誰かを傷つけないために、だとか。悲しませたくないから、とか。偽善だよ、自己満足だよ。わかってるでしょ?
──わかってるよね。
「……ン、シアン」
耳元で声がした。低い声だ。ええっと、誰の声だっけ? 現実と架空の区別がつかなくなる。自分自身が作り出している幻聴、それとも。
「どうしたんだ? シアン、大丈夫か? そんなに我を失うなんて……」
心配気で訝し気な声は、言う。いや、もしかしたら幻聴かも。自分の中の声かも。
「──らしくなく思える」
──ああ、そうだ。お前はこの前、エレナにそう言ったね。その言葉が痛いこと、知っているくせに。
エレナ? ……そうだ、言った。「らしくないよ、いつもは言うべき時を外したりしないのに」。街で偶然会って二人で喋った時だ。
らしくない、という言葉は重い。存在価値を否定されたような気分になる。あなたは〈あなたらしいあなた〉意外になってはいけないのだと言われているように感じる。
その言葉は、自分自身を束縛する鎖になる。
──お前は弱いよ。弱いからこそ、言ってはいけない言葉ぐらいわかるくせに、意外と考えなしに口に出す。所詮は欺瞞なんだ。自分に酔っているだけなんだ。
最悪だね。
ああ最悪だ。
最低だね。
ああ最低だ。
わかっているだろう? お前の本性を。ひたすらな負の感情に奔った時、お前は怪物になることを。
黒くて深くて透明な水面に映ったシアンが、歪んだ表情で嗤った気がした。暗く澱んだ水に吸い込まれて吸い込まれて吸い込まれて……。
ごめんなさい。
気がついたら謝っていた。誰にともなく、わぁっと謝罪と贖罪の言葉だけがぼろぼろと溢れ出して止まらなくなった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
エレナだけじゃない。関わった人全てに僕はきっと同じ罪を犯している。これからも犯す。関わってごめんなさい、僕が出会ってごめんなさい。
罪など数え切れない。
その時、ストン、と自分の中に落ちたものがあった。忘れるな、お前はいつまで経っても逃げてはいけない。数え切れないほどの、自覚さえしていないような罪さえもある中で、僕が犯した一番のこと。それは。
祖母を殺めたことだ。
❇︎
「ジャック、どうして人を殺しては、いけないの」
「……」
「倫理とかそういうものを抜きにしたら、殺さない理由なんてあるのかな。人間と豚とか牛とかは、何が違うのかな」
「……シアン」
「食べるためなら、生き物を殺してもいいの? じゃあ人は殺した人を食べればいいのかな。体温の残る血を飲み干して、肉を喰らって、骨をしゃぶって、余すところなく自分の血にしてしまえばいいのかな」
「……シアン、俺に」
俺に言えることなんて何も無い。俺は人間なんかじゃない。俺はずっと、生きていない。彼は静かな口調で言う。
「それは」
息を吐き出さなければ吸えないのと。しゃがみ込まなければ高くは跳べないのと。脱力しなければ集中などできないのと、同じで。
生きていなければ、死ねない。
それならば。
君は。ジャック・ブラックは。現代に姿を現した切り裂きジャックは。黒衣の死神は。
「君は、死ねずに」
彷徨っているの。
❇︎
カタンコトン、カタンコトン……。
振動がレールから車体を抜けて、足から伝わってくる。ジャックにとって電車に乗るのは相当に久しぶりだ。その小気味良いともいえるリズムに少し慣れない感じがある。行きと違ってボックス席ではなく横並びのシートだから、その進行方向でない方向に流れていく感覚にも。
ジャックはすぐそこにあるのシアンの横顔を見遣って、それから窓の外の景色に視線を飛ばした。アマネセルは、少し都会の方にある。だから街に戻るにつれてビル群やマンション群の星空のような光がだんだんと低い位置に、そして少なくなっていく。
カタン、と電車が横に揺れた拍子に、シアンと軽くぶつかった。彼が声を出さずに軽く呻く。さっきからシアンは眠っているのかは判別がつかないが、ぐったりと目を閉じていた。気絶しているように見えなくもない。
仕方ないな、と思う。前にアーロンに指摘された通り逃げている身であるため、駅などと防犯カメラという目が無数にある場所に一人で出ていくことができなかった。だから四人の中で一番用事もなさそうなシアンを連れてきた──付いてきてもらった?──わけだが。そういうものに触れたことのない人間に、人の死というものをありありと感じさせる場所は無理があっただろう。建物から出たところでシアンは壊れたようになってしまった。ごめんなさいと繰り返し、何かにひどく怯えて見えた。
……だなんて。俺はそれを申し訳なかっただとか、配慮が足りていなかっただとか思っているのか。そんなわけはないだろう、無情の殺人鬼なのだから。
窓の外の移り行く風景の中。マンションとビルの間からちらりと、遠くまで幾つも並ぶ鉄塔が見えた。一瞬で視界から流れて行ったが、瞼の裏に赤い点滅を残す。
電車の人はまばらだ。あくまで一定な振動のリズムだけが淡々と響く。ジャックは、死神は、人知れず長い息を吐き出した。
隣で力なくシートにもたれかかったこの青年──幼い少年にも見える彼を、自分はいとも容易く殺すことができる。今もコートのポケットにはナイフを所持しているのは当たり前のこと、それを使わなくとも首を絞めて殺すことも可能だ。事故に見せかけて下を噛ませることもできる。
だけど、そうしないのは。
意味もなく見つめた、向こう側の窓に映る自分はありとあらゆる感情が抜け落ちた無表情だ。余計なものを作るなよ、とジャックは囁いた。偶然に逃げ込んだ街で、偶然に出会った人間たちに、偶然に親しくされて。
それでも思い上がるな。自分と彼らとの間には一線があるから、信じるな。身を守るために。
それなら、俺は何のために身を守る? 死ねない俺は。
✴︎✴︎✴︎
全部後から聞いた話でしかない。
僕とジャック・ブラックがこうして街を出ていた間に、というか僕らが行きの電車に乗るぐらいの時点で、あの路地を抜けた空間にいたアーロンとエレナの間に本格的な亀裂が入っていたことなど。
学園を出て以来、いろんなものを押し潰しながら、なし崩しにしながら、それでも続いていた僕らの友情に不穏な影が差したことなど。
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