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 主要人物はたったの五人。

 僕と、彼女と、彼女と、彼と、そして彼がいた。誰もがそれぞれの意思と正義を振り翳した。とは言っても、きっと僕は最初から最後まで何も知らなかったし、最初から最後まで正しかったのは、憎まれ役であった彼女だけだったかもしれない。

「地獄に堕ちて?」と。

 まあそういうわけだ。


     ❇︎


 雨の日には何かが起こる。言い換えれば、何かが起こる日は大抵雨が降っている、そんな気がする。シアン・スミスが〈死神〉に出会ったのも雨の日だった。


 小さな駅があって、それを中心に沢山のビルやら建物が並ぶ、どこにでもあるような街。特別都会なわけでもなんでもないんだけど、飲食店にアパートやマンション、カラオケ店やゲームセンター、スーパー、そして駅裏には風俗系の店。子供から年寄りまで、堅気のサラリーマンのような人間から少しヤクザっぽい人間まで。基本的になんでもあって、どんな人間もいて、だからこそ個性はなんにもない。そんな一つの街の中で。

 偶然と必然が入り混じるこの世界で、出会いはいつだって突然。それは確か、明るいような明るくないような冷たい雨の夕方、シアンは歩いていた。親友とやらと共に、何かの勝負に負けた後のようにとぼとぼとした足取りで。

 大して強くもないような、強めの霧雨に分類できてしまうような雨なのに、どうしてか空が晴れているのと晴れていないのではこんなにも気分が違う。……というのはまあ、実際に先ほどの仕打ちに若干しょぼくれてるからなのだろうし、そんなのの責任を押し付けられちゃ天気もたまったものではないだろうが。

 親友、アーロン・カーターが「そんなもんだっての」とけたけた笑いながら、背中の赤いギターケースを背負い直した。

「ってか俺が落ち込むべきとこでなんでお前がうなだれてんだよ」

「だってさっきのあのやつサイアクだったじゃん。あいつさえいなきゃもっと観客集まってたよ」

 アーロンはミュージシャンだ。ミュージシャンを目指す身、といったほうがまだ正しいか。レコードを出すなんてもっての外、路上ライブと音楽に何にも関係ない数々のバイトで小銭を稼ぐ日々である。バンドを組む仲間もいないから、ロックには不可欠なベースやドラムは全部レンタルスピーカーから音源を流す。クラシックやらジャズやらに比べてどうしても街に浸透していないロックミュージックだ。なかなか売れてないのもアーロンだけのせいではない。ないんだよ……っ。

 シアン自身、別に奏者じゃないからアーロンほどのロックに対する愛的なものはないけれど、それでもまあ、大っぴらに「また若いのが適当にギター掻き鳴らしてるよ、これで音楽のつもりかね」などと人が言うのを聞けばカチンとくる。実際、今日は通りすがりの老人がそんなことをあからさまに周りの観客に言って回ったせいで帰ってしまった客もいた。

「いや、そんなのわかんないだろ。そいつのせいとは限らない。単純に俺の音楽が気に食わなかったのかもしれない、雨が降ってきそうだったから帰ったのかもしれない、用事を思い出したのかもしれない」

 ちっとも悔しく無さそうにアーロンは言った。彼は雨に濡れてへなりと額にかかった髪をいつも通りの大雑把な仕草でかき上げた。派手に染められた、オレンジっぽい髪色。これもまた「近頃の若者は」と馬鹿にされる所以なんだろうな。

「悔しくないわけ?」

「お前はわざわざ呼んでもないのに俺の演奏聞きにきたわけだろ? 十分だっての」

「でもアーロンは」

「……あのなあ」

 食い下がったシアンに、アーロンは少し呆れたような顔になった。

「気づかれない才能ってのも、埋もれた天才ってのも、存在するんだよ。そういうもんだ。俺は少し先を行きすぎてるせいで、世界はまだ俺に追いつかない。別に誰を恨んでも仕方ないだろ?」

 そういうもんだ、世界ってのは。

 出たな、と思った。彼の決め台詞であり、捨て台詞。シアンはそれ以上何も言わずに歩みを進めた。雨粒が目に入るのを拭う。だから雨なんて嫌いだ。

 被っていたキャップをぐっと目深に下げた。アーロンは雨を全く意に介する様子もなく顔を覗き込んできた。彼の方がちょっとだけ身長が高い。

「んで? 今日は?」

「なにが」

「火曜じゃないけど、いつもんとこ行くわけ? また家に帰りたくないとか言うのかってこと」

 シアンは苦笑した。

「うん。付き合ってくれる?」

「俺の路上ライブにわざわざ来てくれたわけだし、付き合ってやんよ。まあ、ちょっと喋ってから帰るか」

 ありがとう、とは返さなかった。そんな青臭い関係じゃない。そうだろ? 当たり前のような顔をして半歩前を行くアーロンはなんだかんだ言っていい奴だ。それに甘えてちゃいけないのはわかってるけど、やっぱり家には帰りたくない。どうせ誰もいないことだし。

 アーロンの言った〈いつもんとこ〉というのは、シャッター通りから路地に入っていくつか曲がったところにある、ベンチがあるだけの小さな空間だ。シアン、アーロン、それからまあ、あと二人しか基本的には利用しない。屋外だし街灯もない、しかも四方向は全て建物の壁なので夏は暑いし冬は寒いんだけど、人通りがないから気楽というか。だから毎週火曜日はだいたい仲間内で集まったりするわけだ。

「雨、強くなってきたけどほんとにいいの?」

「何度も言わせんなよ」

 アーロンが口の端をにやりと持ち上げた。髪からも服からも水滴を滴らしながら、二人で歩いた。さっきよりも少しだけ真っ直ぐ前を向いて。


 籠ったような空気。少し饐えたような匂い。夜が更ければいかにも怪しげな男どもが薬物を売り交わし、いかにも怪しげな女たちが身体を売ろうと彷徨く路地裏。街の裏社会とも言われがちな場所だが、それでも僕らはここを使う。恐ろしさも感じない──そう言ったら嘘になるのかな。恐ろしさを理解しておきながら、それを承知でここに来る。感覚が麻痺してるのかも。

 そんな路地を進んで行った〈いつもんとこ〉に先客がいると先に気づいたのはアーロンだった。

「今日はデビルがいない」

「そりゃあ猫ってのは水が嫌いだからな。雨の日はいないだろ」

「じゃあ街中の帰るとこがない野良猫たちは雨の日にどこに行くわけ?」

「知らね。晴れてるとことか?」

 なんていう会話をしていた時、突然アーロンが口を閉ざして眼光を尖らせた。

 意外と勘が鋭いんだよね、彼はシッと人差し指を立てると、シアンのことを建物の陰に押しつけて自分は例のベンチのある空間の様子を窺った。行動が素早い。ギターケースは既にちゃっかり近くの煉瓦の壁に立て掛けてある。

「だれ? 何人もいるの?」

「いいや、一人だ。見たこともないやつ」

 要するに彼女でも、彼女でもない、と。首を傾げるシアンと対照的に、アーロンがなにやら笑っているのが、コート越しの背中でわかった。「やばい」と彼が僅かに振り向いて囁く。

「はぁ?」

「すげえ怖いんだけど、あの人。なんての? 死者みたいな化け物みたいな」

 黒い雲が出ていることもあって随分暗いが、視界の約半分を占めるアーロンのオレンジ髪だけが闇に溶け込まずに明るい。……と、いきなり視界が開いてシアンは目を瞬いた。なんのことはない。アーロンが一歩踏み出していつもの空間にずかずか入って行っただけだった。っておい。怖いんじゃないのかよ。

「おい、お前見たことない顔だな。こんなとこで何してんだ?」

 警戒しているそぶりも何もなく歩いていく。

 やめろってば。そう止めようとするのに、結局シアンは動けずに物陰から様子を見る。恐ろしさもあるんだけど、それよりか出て行く機会を逃した感じ。あと誰もいないとはいえアーロンのギターを放っておくのが気が引けた。エレキギター、高かったんだろ? 実家の怖い親父さんに土下座して借金までして買ったんだろ?

 そんなことを思いながら、雨降るベンチにもたれかかった人間を初めて見て、唖然とした。人間? あれが? 黒くて長いコートの裾はびりびりに破れ、フードを被っているので顔は見えない。袖から出た骨張った左手が右手の手首を食い込むほど強く掴んでいた。体格的に男だろう。でも若いか年寄りかすらわからない。

 それにしても。

 見事な〈死神〉じゃないか。

「なんとか言えって。どけって言ってるわけじゃじゃねえ、俺はお前に興味があんだよ」

 興味ってなんだよ。シアンはアーロンの後ろ姿を穴が空くほど凝視した。多分彼はまだニッと笑っているのだろう。シアンの好きないい顔だ。自身ありげに端が持ち上がった唇、挑みむような瞳の光。結構綺麗な顔立ちしてるんだよな。どうして路上ライブの観客に女の子が集まらないのか不思議なぐらいだ。

 ふと空が唸るような音を出しているのに気づいた。雷だ。嵐になるか? 視界にもあっという間に雨空の陰が広がる。「薄暗い」なんていう言葉じゃ形容しきれないほどの、夜の色へ。

 微かにフードから見える〈死神〉の口は一切の表情を形作らない。一言も発さない。アーロンももう何も言わない。向き的にここからは表情が見えなかった。いつもみたいに挑むような顔で笑っているには違いないけれど。いや、笑っているのは口だけで目はかなり鋭い色をしているかもしれない。

 そういえば目が笑っていない、という表現はよくある。でもその逆ってのはどうなんだろう。口は笑っていないけど、目は笑っているっていう表情は存在しないことも無さそうだな。壁の陰という安全地帯に一人でいながら、内心どきどきしながら〈死神〉の顔を見つめた。暗いからどうせよく見えないとはいえ、あの黒いフードの下には、一体どんな表情の目がある?

 やがて〈死神〉がふらりと立ち上がるのが見えた、というか感じた。ほぼシルエットしか見えなくても、体が細いのはよくわかった。だからか恐ろしく長身に見える。

「……悪かったな」

 〈死神〉は、そう言った。もう何年も声を出していない、というような、掠れてざらざらした声。でも嗄れているわけではない。意外と若いのだろうか。確信は持てないが。

「悪かった? 何が」

 アーロンの問いかけに、〈死神〉は嗤う。さあな、と呼気だけで呟く気配がした。その様子に、アーロンはまだ畳み掛けるように口を開く。

「なあ、お前名前は? この街に住んでんの?」

 これ以上しつこく聞き回すのはよせって。内心ひやひやしながら、その答えを待っている自分がいることに気づいた。

 お前は何者なんだ?

 そう聞きたくて仕方なかった。

 その時、強い風が吹いたのは。大空を渦巻いていた雷雲が閃光を落としたのは。この冗談みたいなタイミングは全部偶然だったというのか。それとも〈死神〉の魔法──いや、呪いだったのか。そんなオカルトチックなもの、これまで欠片も信じたことなどなかったのに。

 耳を塞ぐよりも早く劈くような音が降り注いだのと共に、黒で塗りつぶしたような空に白い線が走った。わっと子供のように叫び出しそうになって慌てて口を押さえる。フードの捲れた〈死神〉の姿が眩い光に照らし出されて露わになった。

 骸骨のようなぽっかりと空いた穴ではなく、ちゃんとした人間の目。だが周りの光を全て吸い込んでしまうような、そんな危うさ、恐ろしさ。

「……俺は」

 黒いコート、黒い髪の中に、顔だけが浮き上がったように白い。身が竦んだ。少し年上だが同世代のように見える、男の顔がくしゃりと歪められたように見えた。

「俺は、ジャック・ブラック。生きながらにして死んでいる、いや、生きてさえいない化け物だ……!」

 シアンと〈死神〉たちの間の大気を、幾つもの雨粒が刺し貫いて消えた。稲光りが闇に散って、何も見えなくなる。冷たい雫だけが頬に落ちる。

「なるほどな」

 あり得ないほど落ち着いたその声は、アーロンのものだった。

「ブラックジャック……、切り裂きジャックというわけか。やっぱ面白えな、お前」

 何故だか明るくさえ感じられる声が、途切れることなく続く。

「火曜日だ。毎週火曜日、俺たちはいつもここに来る。お前……ジャックも一回来てみろよ」

 え? シアンは瞬きをした。

 〈死神〉が肩をすくめた気がした。もう何も言うつもりはないようだ。

 シアンはようやく闇に慣れかけた目を見開いた。冷気を感じた気がして、もたれかかった壁にへばりつくように寄りかかった。何故だかがくがくと震えながら、目を閉じた。前を、何かが通る。何かって……、アーロンじゃなければ彼しかいないだろう。彼は自分に気づいただろうか。もう二度と会うことはないだろうが。会うことはない? ──違う。

 火曜日だ。毎週火曜日、俺たちはいつもここに来る。お前……ジャックも一回来てみろよ。

 おい、アーロン、お前。誰をどこに誘ってるんだよ。まさかあの二人にも〈死神〉──ジャック・ブラックを会わせるつもりか?

「──シアン」

 呼ばれてはっと目を開くと、アーロンがくっつきそうなほど顔を寄せて、シアンの目を覗き込んでいた。そうしないと暗すぎて誰だかさえわからない。一瞬、あの〈死神〉に覆いかぶさられているのかのような錯覚を起こして、びくんとなる。ああ、でもこの鋭く光る明るい色の瞳はアーロンのものだ。ジャック・ブラックはもういなくなったようだ。

 彼は軽い動作でシアンの隣に立てかけられていたギターケースを背負い上げると、手を差し伸べてきた。左手だから変な感じだ。まあ右手でケースのバンドを持ってるからなんだけど。

「大丈夫か? 勝手なことして悪かった。さすがに雨強くなってきたし、帰るか」

 手を借りて立ち上がる。アーロンの手は意外と節々がごつごつとしていて、指が長い。普段まじまじと観察したことなんてなかったから知らなかったな──なんて思いながら、シアンは首を振る。

「大丈夫、ちょっと驚いただけだから。帰ろっか。……っていうか、こっちこそただ見てるだけでごめん」

 言いながらふと、謝ることは普通にするんだなと思った。「ありがとう」なんていちいちお礼言うような青臭い関係じゃないとかなんとかさっきは考えたけれど。人間はやっぱり、「ありがとう」よりも「ごめんなさい」のほうが言いやすいんだろう。よく聞く話だ。「ありがとう」の方が言われて快いというのもまたよく聞くが、仕方ないよな。

 さっきよりさらにずぶ濡れになった体で、また歩き出した。服が重い。一歩歩くたび、靴が冷たくない水を吐き出して気持ち悪い。

「なんで話しかけようと思ったの?」

 訊ねると、アーロンは「べつに」と言う。わざわざ顔を見たりはしなかったが、あっけらかんとした表情を浮かべていたに違いない。

「俺もよくわかんね。やっぱ面白そうだって思ったのと……あと、強いて言うならなんか感じた?」

 首を傾げられてもわからないけど。でも「なんか感じた」という表現はなんとなくわかる気がしないでもない。

 あの一瞬だけ見えた〈死神〉の顔。傷跡やら不気味な目やらの恐ろしさは置いておいて、確かに何かを感じた。自分は、アーロンは、一体何を感じたと言うのか。

「また、会うことになるかな」

 呟いたら、笑われた。

「んなのすぐわかるさ。明日にでも」

 ああ、そうか。明日は火曜日だ。

 パァァン、パァァン──とどこか遠くで空気の鳴る音がした。街の外か大通りの方で、誰かがクラッカーでも鳴らして遊んでいるのかもしれない。ここは、そういう街。

 顔を濡らす雨粒を、すっかり濡れてしまった袖で拭いながら、明日は晴れだといいとなんとなく思った。どうせまた恐怖でがくがくになるには違いないけれど、どうせなら〈死神〉をはっきりと見てみたい。


     ❇︎


 猫を追いかける夢を見た。もう色も模様も何一つ覚えていないが、微かに頭に残ったイメージが一つ。……猫を追いかけて行ったら、いつかに見つめ合ったことがある、誰かがいた。クリスタ・ミラーは少しの間、夢を回想してから起き上がる。



 外に出た。

 昨晩の雨が、空を洗ったらしい。水溜りに映る空は綺麗な青色だ。気持ちいいような風が伸びてきた髪を、それからロングスカートの裾を靡かせる。手に下げた籠バックが一歩進むごとに揺れた。みんなで食べる用にサンドイッチをかなり多めに持ってきたけれど、籠バックにしたのは少し失敗だったかな。一生懸命お洒落しようとしてる感があるし、なんだかピクニックみたいだ。

 暇だし、仕事も少し行き詰まったところだったのでこんな朝から出てきてしまったけれど、この分で行くとまだ誰もいないだろう。火曜日には来られる人は集まる、なんていう決まりとも言えない決まりだから、みんなが来る時間などまちまちだ。

 晴れを謳歌するような街の人々がおはようと声を掛けてくるのに笑顔で返しつつ、クリスタは見慣れた路地に入って行った。この美しくて明るい日に、人が路地に消えて行ったことなど、街の人々は誰も知らない。じめじめとして薄暗い細道に、若い女性が自分の意思で折れ曲がったことになど。

 朝の爽やかな風に靡く、淡い茶色の髪も。日の光を受けて輝く、透明に澄んだ目も。そんなものを持っていても、自分は。

 結局、日の当たらないこの路地の方が、呼吸がしやすいのだ。

 鼻歌混じりに歩いていたクリスタはふと足を止めた。自然に微笑んで、かがみ込む。

「デビル……っ」

 雨樋の口から僅かに流れ出る水を、一匹の猫がぺろぺろと舐めていた。野良猫なのに美しく黒々と光る毛並みと、エメラルドのような瞳。シアンが「多分どっかの飼い猫だったんだろうね」と前に言っていた。この辺りの路地に最近よくいる猫で、なんとなく可愛がっている。デビルなんていう名前も、黒いから悪魔という連想で勝手に呼んでいるだけだ。いいよね、可愛いもん。

「デビルも一緒にいつものとこ行こっか」

 ひょいっと抱き上げると、デビルは少しもじたばたすることなくされるがままになった。大人しい猫なのだ。歩きやすくて助かる。

 ふと昨日の夜に夢を見たっけと思う。もう僅かにしか思い出せない残灯のような絵が頭の中に散る。……いや、でも夢に出てきた猫はデビルじゃなかったわ。確かじゃないけど。やっぱり夢が現実になるなんてことはそうそうあるものではないようだ。それに、どうせ寝ながら見た夢なんて明日には欠片も覚えていないには違いない。

 いつものベンチが見えてきた。余裕を持たせて楽々二人掛け、詰めればぎりぎり四人掛け。でもまあ、あと二年もすれば成人するような四人、しかも男女二人ずつが仲良く並んで座るなんてことはない。誰もそういうのは柄に合わない。クリスタはなんとなくベンチのすぐ横の壁に寄りかかって、壁に囲まれた空間を見渡した。デビルが微かに鳴き声を上げると、腕の中からベンチの背もたれに跳び移った。次書く話は猫を主人公にしようかな、なんてぼんやりと思った。無名の児童文学作家は、設定からストーリーの筋立てまで全部一人で作り続けるしかないので辛い。だからこそ毎日毎日家の中で一人、ごちゃごちゃと考え続けて、火曜日にようやく外に出てきて息抜きをする日々。

『きみの書く文章には、心がない。だから上辺だけで流れるように読めてしまう。そして何も残らない』

 前に原稿を持ち込んだ時に編集者に言われたことを思い出した。

 担当編集者さえついていないようなしがない存在であるために、作った原稿をいつも使ってもらえるとなんて限らない。むしろボツのもののほうが多いわけで、そんな中で言われたのだ。だから、面白くないと。

 わかってる。編集者さんの言う通りだ。私の書くものはきっと印象に残らない。誰も泣かせられないし、誰も笑顔にできない。わかっているけれど、それでも学園時代にデビューしてからずっと書き続けている。これはもう意味のない惰性なのかな。だけど他に働き口もない。

 なにより──。

『すごい、すごいよ、クリスタ! なんか僕まですごく嬉しい』

 学園時代、学生を対象としたかなり大きい、イコールでデビューになる賞を受賞した時。咄嗟に何も言葉が出なかったクリスタに代わって、自分のことのように喜んでくれた人がいた。それだけで良かったのだ。

 はあっとため息を吐きかけたところで、いけないいけないと首を振った。これから仲間たちに会うのに暗い顔をしていられない。

 四人ともそれぞれ携帯電話は繋がっているけれど、この火曜日の集まりは特に何時から来るなんている連絡はあまりしないから、何もわからない。早く誰か来ないだろうか。四つある入り口──四方向に伸びた路地から誰でもいいや、「やあ、早いね」なんて言って。……なんて、こうしちゃいられない、空いた時間は全部あらすじ考えるのに使わなきゃ。どうしよう、どうしよう──。ほぼ無意識下の癖で、未だに消えない左手の傷跡を右手で隠すように包む。

 考えが低迷するするままにどれほどの時間が経っただろうか。たった数分だった気もするし、一時間ほど軽く過ぎてしまった気もする。人の気配を斜め後ろの小道に感じてクリスタは目を見開いた。一週間ぶりね。そうやって声をかけようかと、顔に笑顔を用意する。

 だが、振り向いた先にあったのは見知った彼らの姿ではなかった。彼でも、彼女でも、彼でもなかった。

〈猫を追いかけて行ったら──〉

〈──いつかに見つめ合ったことがある、誰かがいた〉

 背の高い、というか細身だからか全体に縦長に見える若い男。ぱっと見で、黒いな、と思った。黒いトレーナーに黒い長ズボン、黒いブーツのような靴。腕に丈の長そうな黒いコートを掛けている。雑然とした感じで伸びて顔にかかった黒髪と、吸い込まれそうなほどの黒の瞳。見たことがある、覚えがある……そんな気がしてクリスタは向かい合った彼の顔をじっと見つめた。私は、この目を知っている。

「あ、あなたは……」

 一つの光景がさあっと脳裏に蘇った。富豪であった祖父の催した宴会。崖のホテル。突如血塗られた視界。まだ幼かったために目の前で起こっていることを理解することすらできなくて、ただ立ち尽くしていた時に目の前を覆い隠すように現れた黒い人影。

「……」

 何も言えずに、口元に手をやった。うううっと呻き声にもならないような吐息が指の間から漏れた。

 目の前に立った彼は、何も言わない。ただ、僅かに困ったような、戸惑ったような顔をしてクリスタを見つめ返している。

 沈黙を満たしたまま、緩やかに時が流れた。不意に背後から少し小走りの足音が近づいてきたかと思うと、聴き慣れた声が耳に飛び込んできた。

「クリスタ!」

 慌てたように若干不揃いな革靴と地面の立てる足音がパッと止んだかと思うと、後ろから肩を引き寄せられた。ふわっとそのまま背後の人の上に倒れ込む形になる。温かい匂いに包み込まれて、その安心感で一気に硬直が溶けて、クリスタは少しふにゃりと笑う。さっき言おうと思っていた言葉をそのまま伝える。「一週間ぶりね、シアン」

 それから……。

「面白い登場。映画みたい」

 シアンが頭上で「えっ、あっ」と焦ったような声を上げた。ごめん、と呟いてクリスタの肩から腕を外す。ややあってから、向かい合った青年に睨むような目を向けた。

「クリスタに何もしてないだろうな! ジャック・ブラック……!」

 勢い込んでいるシアンと対照的に、青年は少し眩しそうな顔でゆっくりと瞬きをして、

「昨日、いたな。そこの……」

 と、今シアンが来た方の路地を指差す。僅かに掠れたような、それでいて聴きづらくはない声。

「煉瓦の壁の前。横にギターがあった」

 昨日? ああ、確かにシアンはもう彼の名前を知っているみたいだった。当のシアンを振り仰ぐと、驚いたような恐怖したような表情をしていた。何が彼をこんなに慌てさせるのだろう。

 ジャック・ブラックと呼ばれた青年は僅かに目を細めた。

「俺は夜目が利くから、基本全部見えていた」

「ふうん……?」

 なんとなくシアンはジャックを警戒していたらしいが、まあいいや、と言うようにようやく表情を和らげた。

「でも、ちょっと安心したかも。お前、こうやって光の下で見たらちゃんと人間だ。うん。普通に言葉喋るし、ちゃんと顔見えてるし、大丈夫」

「昨日は人間に見えなかったってこと?」

 思わずクリスタが口を挟むと、彼はあっさりと頷いた。本人を前にしているのだし、もう少し躊躇しても良さそうなものを。質問したクリスタもクリスタだったかもしれないが。

「昨日は嵐の中だったし、それに背景に雷が鳴ってたからね……正直怖かった。でもさ、ジャック。お前もわざと怖がらせるみたいな自己紹介したろ?」

 ジャック・ブラックはにやりとして頷いた。「ああ。驚かせようとした」

 そう言ってから、目を伏せて笑う。少し照れたみたいに。

「悪かったな」



 シアンはデジャヴを感じて首を傾げた。ああそうか、彼は昨日も同じセリフを言ったのだ。

『おい、お前見たことない顔だな。ここで何してる』

『……悪かったな』

 そう言えばあの時ジャック・ブラックは、一体何が悪かったと言うのか。……なんて偉そうに考えてるけど、そういえば自分はあの時には壁の陰に隠れていたんだよな、看破されていたとはいえ。無鉄砲にさえ感じられるけれどそれでも勇敢だったのはアーロンで、シアンは何もできなかった。

 何もできなかったけれど……それを後悔するほど僕は可愛くない。

「昨日、ジャックが会った奴、アーロンって言うんだけど、もうすぐ来ると思う。それからもう一人いるんだけど──。あいつは朝から出てくるのは難しいらしいからな」

 まあ、そのベンチにでも座っててよ。そんなことを言いながら客人をもてなす主人のようにお辞儀をして見せる。何か感じたとかなんとか言っていたが、アーロンは本当にジャックのことをどうするつもりだろう。ここに呼び出したりして。まあ、彼流に言えば、人生成るようにしかならない、か。

 それに、ジャックが話しづらい相手で無さそうなのも事実だ。年齢は雰囲気的にシアンたちの五つほど上だろうが、威張るわけでもなければほぼ初対面なのにおどおどする様子もない。あと、今日はフードを付けていないので表情がちゃんと見えてる。これは結構安心ポイントだ。昨日コートを今から被っていたのは、単なる雨よけだったのかもしれない。

 デビルがいるのを見て、コートのポケットから缶詰を取り出して屈んだ。家から持ってきたのだ。街の食料品店で買った、マグロの缶詰。安物で申し訳ないんだけど、とプルタブを開ける。かぱっという音に耳をぴくりと動かし、デビルが寄ってくる。

「こいつはよくこの辺にいる猫。デビルってのは勝手につけた名前ね」

 などと顔を背けていながらもジャックに説明をする自分は、一体何を望む? アーロン、早く来てくれないだろうか。どうしていいかわからない。わからないけれど、無意識のうちにジャックにはそれを悟らせないように場を作ろうとしている自分がいた。内心、苦笑してしまう。

 ふとクリスタが押し黙っているのに気付いて、シアンはプルタブの蓋を掲げた。にこっと笑みを浮かべる。

「クリスタもツナ缶、デビルと一緒に食べる?」

 ぼーっとなっていたらしいクリスタがはっと目の焦点を合わせて、それから取ってつけたようにシアンの背中を軽く叩いた。「やだなあ、私猫は好きだけど同化はしてないって」あはは、と笑う。なんか様子がおかしい気がしないでもないけど、次に書く本の内容でも考えていたのかもしれない。クリスタ、暇さえあれば考えてるから。

 と。

「お、揃ってるじゃねーか」

 ようやく事の発端の登場である。奴は別に急ぐ風も一切なく堂々と歩いてきた。今日も目立つオレンジの髪と、口の端をくいっと持ち上げた表情。細い路地の向こう側の光で逆光になっているのは演出かと疑うような様だ。ラスボス感が半端ないが、シアン的にこの火曜日の集まりのラスボスはどちらかと言えばあいつなんだよな……。

「一週間ぶりね」クリスタがさっきと全く同じ挨拶をした。テンプレートなのだろうか。

 シアンは肩をすくめた。

「アーロン、遅いよ」

「そんなに俺が来るのを待ってたのかよ。まだ午前中だぜ?」

 軽く受け流しながら、アーロンはジャックの方を向いた。よう、と声をかける。ジャックは壁にもたれかかっていたが、身体を起こした。そういえばさっきベンチを勧めたのに彼は立ちっぱなしだった。やっぱり猫が食事してる隣には座りずらいかな。

「まじで来てくれるとは思ってなかった。うん、嬉しいよ。ようこそ。……ってかちゃんと人間だな、良かった良かった」

 クリスタが感情の読み取りづらい表情になった。「さっきもそれ

シアンが言ってた」

「ああ、言われた」

「そりゃあ悪かった」

 軽い調子で謝りながら、彼は背中に背負っていたギターケースをデビルの隣に置いた。意外とその手つきが見た目と表立った性格に合わず優しいんだよな。アーロンのそういうギャップが好きだったりする。

「ここはな、俺含めて四人の溜まり場的なところだな。俺たちはまあともだち、ってやつで、学園時代からの仲良し」

 ここでちょっと彼は考えるような素振りを見せた。「って言ってもなぁ」と呟いてから、人差し指をピンと立てた。

「みんな街のはみ出し者っていうか、問題児だから、四人でひとつの仲良しグループっていうよりか……?」

「〈四人でよっつ〉って存在感?」

 後の言葉をシアンが引き取ると、アーロンは満足げな表情で頷いた。よくわかってんじゃん、さすが。……そりゃあ、僕にとってもただ一つの居場所だからね。

「なるほど? それで」

 ジャック・ブラックは、俺はどうすればいいと尋ねた。強制ではなかったとはいえ呼び出されて、この場所を利用している四人組を突然紹介されたところで困惑するのは当たり前だろう。

 などと冷静に分析しているシアンには、アーロンが何を言おうとしているのかがなんとなく見えてきていた。それこそ学園時代からの長い付き合いである。

「どうもしなくていいよ。お前も好きにここ使えよって言いたかっただけで」

 やっぱり。あからさまに誘うんじゃない、でも出てけと言うわけでもないし、どちらかと言えば「俺たちと遊ばねーか?」と軽いノリで言うようなスタンス。らしいな、と思った。

 ジャックは一瞬表情を止めると、少しだけ視線を外した。それから薄く微笑む。

「じゃあ、遠慮なく」



 〈四人でよっつ〉の最後の一人が現れたのは昼過ぎのことだった。クリスタが持ってきてくれたサンドイッチで昼食を済ませた、その頃。三人足す一人でそれぞれなけなしの自己紹介──と言っても名前と趣味なんかを語るだけ──をしていた、その頃。

 コツ、コツ、とヒールの靴が地面のタイルに当たって立てるくぐもったような音に、一斉に顔を上げた。顔を上げて……それぞれに別の表情になった。アーロンは「これで全員だな」と満足そうに言って、クリスタはにこやかに手を振った。ジャックは穏やかな目をしている。そんな中でシアンは、無理やり微笑むことにした。正直に言えば、彼女のことは少し苦手なのだ。嫌いな訳じゃないんだけどね。

 黒髪を、編み込みなんかを交えて白いリボンに纏め上げ、真っ青な瞳を光らせる。いつも通りの日傘にクラシックドレス。小さなペンダント。祖父だか曽祖父だかがかつて炭鉱主であったお嬢様。

「一週間ぶりね、エレナちゃん」

 三度目に聞くセリフだが、突っ込みを入れる気にも特になれない。エレナ・フローレンスは僅かに視線の強さを緩めると、唇を綻ばせた。小柄な体躯に似合わず、綺麗な深みのある声がそこから零れ落ちる。

「ええ、そうですね、クリスタ。……その方は一体どなたです」

 なんで苦手かって、この美しい声で彼女はかなり強いことを平気で言うのだ。シアンなんかは良くそれに当てられてしまって、ぐるぐると頭の中で悩み考え込むなんてことはざらにある。

 で、エレナは今もまたきつい目でジャック・ブラックを見つめていた。シアンは顔を顰める。嫌な予感が……と思いつつ、間をおかずに紹介する。

「ジャック・ブラック、だよ。エレナには勝手にごめんって感じなんだけど、僕らの仲間になった。話しやすい奴だよ」

 どちらにもフォローを入れながら喋るシアンを、エレナは一瞥した。

「へえ、そうなのですか。これからよろしくお願いしますね、わたくしはエレナと申します。……あなた、見た事のない顔をしてますね。どこから来たのです? この街の人じゃないでしょう?」

 畳み掛けるような言い草にジャックが口を開きかけた時、「待て」と制す声が割って入った。アーロンだ。

「なんですの?」

「言ってみれば俺たちの新レギュラーになる人間だぜ? 普通に聞いちゃつまらねえだろ。ここは一つ、何かゲームでもして賭けよう」

 シアンはそれなら、と声を上げた。「内臓でもやれば?」

 はぁ? とほぼ全員が首を傾げた。ん、あれ、通じなかったみたいだ。ジャックは仕方ないとして、表現が婉曲すぎただろうか。だがどうにか察したらしいクリスタが、カバンの中からうさぎの顔が刺繍された巾着袋を取り出した。苦笑している。

「内臓ってね、多分トランプのこと」

「どうしてそうなるんだ?」

「いっつも私、このうさぎの袋に入れてるでしょ? うさぎの体内にあるから、内臓」

 一瞬変な空気が流れた。明らかに僕のせいだよな。シアンは笑って誤魔化すことにする。エレナは付き合いきれないという顔で「ではわたくしは勝負を見守ることにします」と手をひらひら振った。ベンチの上にいたデビルが欠伸をして、それから飛び降り去って行った。

 しゃっしゃっしゃっと締め殺される蛇のような声が聞こえたので驚いて見ると、アーロンが爆笑していた。「トランプが──……な、内臓って……」彼がこのまま笑い死にするんじゃないかと心配になる。たまにこの人、変なツボに入るんだよね。構っていられないので先に準備をする。

「じゃあ私はカード切る役やるよ。アーロンとシアンと……ジャックで、三人分ね」

「クリスタはやらないの?」

「こういうのは見てるのが楽しい。ね、エレナちゃん?」

 話を振られたエレナはええ、と微笑んだ。シアンやアーロンに対して当たりの強めな彼女だけど、クリスタとは普通に穏やかで仲が良い。もちろん僕らも仲良しなんだけどね。

「何やるの?」

 尋ねられて口籠もっていると、ようやくワールドから帰還してきたらしいアーロンが「そこはブラックジャックだろ」と言う。それもそうか、という気がする。

 ジャック・ブラックだから、ブラックジャック。簡単な掛け言葉だ。賭け言葉とも言える。何せ今からやるのは、質問する権利を賭けたゲームだ。

「じゃあ僕がディーラーやるからプレイヤーは二人で。今回はお金をかけるわけにいかないから、先に僕に三回勝った方がもう一人のプレイヤーに好きなことを聞けるって設定ね」

 はい、とクリスタに切り終えたカードを渡されて受け取る。アーロンとは違うから、もちろん例を言うのは忘れない。彼女はまた少しだけ微妙な顔をした。手から手に渡された赤い模様のあるカードが、鮮やかだった。

「じゃあ一番簡単なルールで。ほら、ベンチにカード置くよ」

 ベンチの前にしゃがんだアーロンとジャックの前にカードを二枚ずつ並べた。見ている組のクリスタとエレナはベンチの背もたれの側から見下ろしている。

 暇な時には四人でよくトランプをやるので、ルールはみんな頭に入っている。ブラックジャックは本来チップを賭けるようなカジノのゲームだ。カードを好きなだけヒット、つまり追加することができ、ディーラーよりも合計点数を二十一点に近づけられたら勝ち。ただし、二十一よりも数が多くなってしまったらその時点で負けだし、十と絵札は皆十点として数える。合計点がぴったり二十一──ブラックジャックになったらそれはほぼ勝利を意味する。

 今、アーロンの前に並べられたカードが十とQだから二十点。こいつ、いつものことだが引きがいいんだよな。ジャックの持ち点は三と六の九点だから、一応まだ勝負は決まっていないとは言え。

「これは俺の勝ちだろ」勝ち誇ったように言うアーロンを無視して、ジャックに「ヒットする? それともスタンド?」と尋ねた。

「じゃあ、ヒットで」

 一枚渡す。スペードの八だ。十七点。どうするかなと思って見ていると、彼は少し微笑んでいた。「もう一枚」と手の平を差し出してきた。

「オーケー」

 めくったカードは四だ。エエッとアーロンが目を見開き、クリスタがすごいわ、と声を上げた。「ブラックジャックだ」

 まじですごいな、初回から。完全に諦めてディーラーのシオンはカードをめくる。ちょっとした間が空いて──ごめん、と声を上げた。四、七、Kでブラックジャック。結局ジャックと引き分けである。

「なんだよー」

 アーロンが呻いて、それから笑った。ジャックの肩を小突く。

「なんか俺たち、すげえレベルが高い勝負してね?」

「ほんとだな」

 ジャックも目を細めて笑った。なんとなく切なそうに笑う奴だと思った。

 ゲームは続く。

 二回戦、アーロンが十九点、ジャックが二十一点を超えたバスト、シアンが十八点でアーロンの勝ち。三回戦、アーロンがバスト、ジャックが十九点、シアンが二十点でディーラー側の勝ち。などと続けて、何度勝負しただろうか。かなり長い時間が経過した後に。

「ああっ、負けた」

 けたけた笑いながらアーロンがカードを投げ出した。彼はいつも軽いノリで笑う。良く言えば軽快で、悪く言えばチャラい。

「アーロンに賭け事で勝つ方が出てくるとは思いませんでした」

「ねー、ほんと珍しい。いっつもシアンが負かされてるのに」

 エレナとクリスタが驚いたように顔を見合わせた。シアンとしては余計なことは付け足さないで欲しいところなのだが。

 先にディーラーであるシアンに三回勝ったのはジャックだった。当の彼は、はしゃいだりすることなくアーロンのカードと自分のカードを重ねて渡してきた。その笑顔が少し暗いものになったのは気のせいか。

「じゃあ俺が勝ったから、質問」

 アーロンがにやにやしている。楽しそうだ。「ああ、なんでも」ほんとは俺がお前に色々聞きたかったんだけどな、とも少し悔しそうに言う。

 ジャック・ブラックは、その顔を覗き込んだ。

「どうして、俺をここに招き入れた? 昨日の晩、初めて会ったにも関わらずすぐに俺を誘ったのはなぜ?」

 アーロンは意外そうに片眉を上げた。

「そんなことでいいのかよ。……そうだな、昨日シアンにも言ったけど面白そうだって思っただけだよ、第六感的なやつが働いたんだな。自分を化け物だ、なんて言ったのも良かったぜ?」

「俺を危険なやつだとは思わなかったのか? 見るからに街の人間じゃない、どこから湧いて出たのかもわからないような怪しい奴を。仲間に合わせてもいいと、そう思ったのか?」

 「それは……」とアーロンが口を開く前に、割り込んだ声が入った。

「いい加減にしてくれません?」

 さっきまでベンチの背もたれに上半身を預けるようにしてゲームを眺めていたエレナが、いつの間にか立ち上がってシアンたち──いや、ジャック・ブラックを見下ろしていた。腕を組んでいて、まさにそれこそラスボスだ。始まったか、と内心吐息を漏らす。

「何が」

 軽く首を傾けて問い返したジャックに、彼女は苦虫を噛み潰すような顔をしていた。「それでもだ、と」

「……?」

「あなたはそう、アーロンに言って欲しかったのではなくて? それでもいい、お前は仲間なのだ、と」

 甘ったれたことを言わないで下さい。エレナはぴしゃりと言い放つ。

「自分を肯定して貰おうと、自分のことを丸ごと全て受け入れてもらおうなどと、自分の価値を下げて下げて下げて。わたくしはそんなの認めません。友達になんてなれないわ」

 誰が止める間も無く、一息で言い切る。最後の決め台詞──。

「地獄に堕ちて?」

 その、特別張っているわけでもないのによく通る声が残響を残して散ったのを最後に、音が消えた。惚けたようになっていたシアンははっと我に返って、ああ、と思った。出た、エレナの毒舌。

 慣れているシアンにはわかる。エレナの言葉はただ鋭いだけじゃない、いつだって正しかった。だからこそ彼女の落ち着いた物言いも、美しい声も、全部が全部「痛い」と感じるほどなのに。なのに……、今日は少しだけ、エレナが焦って見える。

「エレナちゃん」クリスタが慌てた様子でエレナを見つめる。何故だか恐れ慄いたように唇を震わせている。

「お願い、やめてあげて」

 身を切るような、必死に懇願する声に、エレナは弾かれたように顔を上げると、日傘の絵を握りしめて踵を返した。路地を潜り抜けるように去っていってしまう。

「追った方が……?」

 そう尋ねたのは、他でもない今回の毒舌の的だったジャックだった。動揺した様子もなく、真っ直ぐな光を湛えた瞳が路地の方を見据えていた。意外だった。酷い言葉をいきなり浴びせられた自分よりも、浴びせた側の他人の感情を気にする人間だなんて。それじゃまるで……。

 シアンは二重に首を振った。ジャックの言葉に対してと、それから今咄嗟に思ってしまったことを打ち消すために。

「ううん、寧ろ一人にしてやった方がいいかな。そこまで珍しいことじゃないし、ジャックも気にしないで。言われたこととかさ」

「うん──」クリスタが付け足す。

「エレナちゃん、見てわかっただろうけどお嬢様だから、学園を卒業してから喋る同世代の人って私たちだけなの。人付き合いに慣れてないところあるから、許してあげて」

 アーロンがしてやられた、という顔でへへっと笑った。「俺も悪かった、答え方が曖昧だったんだな」

 代わりに詫びたり、励ましたり、それでいて相手を庇ってみたり。三人で上目遣いになってジャックを見たが、彼は涼しい顔でふっと笑った。顔に垂れていた黒髪を耳にかける。

「ああ、別に傷ついてはいないが、でも彼女──エレナ、の言ったことは正しいかもな。自分を受け入れて欲しい。そういうエゴイズムが俺の中にはあったのかもしれない」

 すごい人だな、彼女は。自分ですらはっきり悟ってはいない真意に気づいてしまうんだから。そう言ってジャックは微かに首を傾けて、穏やかな目をした。その表情は、昨日の夜に思い浮かべた〈死神〉の姿とは正反対のものだった。そして。

 似てる、と思う。

 うん、やっぱり彼は似ているんだ。シアンは人知れず息を長く吐き出した。

 ジャックの言葉でなんとなく場の空気が緩んだ気がした。午後の、ぽかぽかとしたような日の光が朝までの冷たい空気を溶かしている。クリスタが手を組み合わせて大きく伸びをした。「っわああぁぁ」と脱力したような声が漏れ出る。少し眉根を寄せたような表情そのままに、もとの体勢に戻ってこちらを向いた。

「私も、今日は帰るね。次のやつ、書かなきゃ」

「えっ、あ、うん」

 シアンはぱちぱちと瞬きをした。いつも集まるのもまばらなら、帰るのもまばらだから別におかしいことはないけれど。でもなんだか、違和感には満たない程度には自然な不自然さを感じた気がした。対照的に、アーロンは「ああ」と言って軽く手を振った。

「執筆、頑張れよ。いつか大成しろ」

「うん、……そうね」

 シアンは内心でアーロンに、お前もなと呟く。お前もいつかはロックミュージシャンとして大成しろよ。──なりたいのなら、目指すのなら、本当はこんなところにいちゃ、無駄な時間を過ごしてちゃ駄目だろとも言いたいのだ。でもそんなことを言ったら彼は笑って言うだろう。

 ──そんな風に、めちゃくちゃに努力するのはなんていうかイタいだろ? 柄じゃねえよ。

 適当に三人でクリスタの背を見送った後で、ジャックが呟いた。

「クリスタ、は、今作家か何かをしているのか」

 エレナの時もそうだったが、まだ名前がうろ覚えらしく、区切って発音するのが面白い。

「そうだよ。児童文学作家になろうとしてる。原稿の持ち込みとか、頑張ってるんじゃないかな」

「ふうん」

「……ッッ、興味があるんだったら本人から聞けよ」

 突っ込んでから、かかっとアーロンがまた笑う。「って言ってもあいつ、俺たちに書いたやつ見せてくれたことなんかないけど」

「そうだねぇ」

 シアンは頷いた。

 他の大多数の誰に読まれてもいいわ。でも関係が近い三人にだけは見せられない。よく、クリスタはそう言った。もしかしたら私、あああいつこんなの書くんだって失望されるのが怖いのかも、とも。

 クリスタがどんな物語を書いていたって失望なんてするわけないのに。なんて思うけれど、でもその彼女の思いもわからなくはなかった。

「へえ」

「まあそんなわけで」

 アーロンが立ち上がった。それを見てようやく自分たちがしゃがんだままになっていたのに気づく。ベンチの前に男三人でしゃがみ込んでいるのはさぞかし変な光景だったに違いない。最も、どうせ目撃者なんていないし、人がいないからこその〈いつもの場所〉なのだけれど。

「ジャック、俺、お前と二人で話したいことがあるんだけど。適当に河原にでもどうだ? 街中は人が多くてうるさいだろ」

「別にいいが……?」

 ジャック・ブラックは困ったようにシアンの方を見つめてきた。一人残すことに申し訳なさを感じたのかも知れない。シアンは目の前で手を振りつつ、「気にしないで」と言った。

「今日は晴れてるし、解散した後もどうせ夜遅くまでは外でふらふらする予定だったから」

「家族とかは?」

「一人暮らしだよー。だから自由で身軽」

 自由で身軽で、それから少し恐怖。なーんて。シアンは目を細くして口の端を持ち上げた。「だから二人で、思う存分話しといでよ? なんの話だか知らないけどさ」

 アーロンが親指を立てた。

「じゃ、お言葉に甘えるわ。別に大した内容じゃねーけど。お前も話したいことがあんなら今度聞いてやるぜ?」

 頷きつつ、シアンは微笑んだ。人に、それから自分に知らせたいことがあるけど、言えるわけないじゃないか。

「空が、晴れているな」

 立ち上がって、呟きながら頭上を見上げているジャックに、自分は何を感じていたか、誰に似ていると感じたのかなんて。

 シアン自身に似ていると思ったなんて、言えるわけがない。


     ❇︎


 僕は人を傷つけることが苦手なんだ。

 シアンはよく、ふざけ調子にそう言いながら苦笑混じりの表情を 作る。

「人をね、自分の手で、言葉で、行動で、めちゃめちゃにするなんていう行為は、僕には重すぎるんだ」

 周りの人もそれに頷いた。ほんとだよ、お前、シアンは優しい。優しすぎるぐらいだ。そこがお前の良さだから仕方ない。家族も、学園時代のクラスメイトたちも、みんながみんな、シアンと同じふざけ調子に笑う。

 笑顔を向けられて、シアンはより一層苦い色を濃くする。

 傷つけることが苦手なのが優しいって? そんなんじゃないよ。そんなんじゃないけど、でもそれを言ってわかってくれる人はどこにもいない。

 そういう意味じゃあ、他人が持つ「自分のイメージ像」というものを壊すのも怖い。相手が自分に幻滅するのが恐怖でしかない。だから誰の前にも通用するキャラ作りを徹底した。徹底して貫いた。「僕は何事も続けることが得意です」。学園に入る試験の面接なんかの長所を聞かれる場面ではそう言い続けて来たシアンだけど、多分自分は「続けることが得意」なのではなく「やめることが苦手」だったのだとも思う。


 そんな僕も──あの三人の前でだけは素に近い状態でいられているのだと思う。


 きっと一生忘れない光景を、持っている。ちょうど一年前だから、まだ色褪せていない。これからも色褪せさせたりなんてしない。セピア色になんて染まらない記憶。

『ちょっとー、そこ立ち入り禁止でしょ』

『学園卒業したとたんにこれですか。まったく、あなたって人は』

 クリスタとエレナが呆れたような、でも満更でも無さそうな表情で、後ろからついてくる。シアンはそれを確認しながら、「怒られたりしないかな」と前を行くアーロンの背に呼びかけた。彼は既に、卒業式で着ていた黒いガウンも角帽も脱ぎ捨ててしまっていた。

 昼前の日差しは生い茂った木々の葉に遮られて届かない。冬であり、それでいて春である季節の、澄み渡った空気感。

 園庭の隅のフェンスの破れ目。もう何年もの間、ろくに修理もされずにそのままになっていたのだろう。〈立ち入り禁止〉と書かれていたらしい木の看板はすっかり汚れて、文字は剥げていた。学園の生徒じゃなくなった瞬間、アーロンはあっさりと「あそこから外に出てみよう」と言い出したのだ。それで今、知っているような知らないような、そんな藪の中をばっさばっさと歩いているわけで。

 アーロンが少し振り返って得意げな顔をする。

『怒られる? 誰にだよ。俺たちもう生徒じゃなくなったんだぜ? もう立派な大人だっての』

 躊躇することなくすたすたと歩いている。立ち入り禁止のフェンスの向こう側に入ったのは初めてだから、どこに向かっていると決まっているわけはないのに、その足取りは迷いがなくて軽快だ。

 低木に裾が引っかかって仕方ないのでシアンもガウンを丸めて抱えた。女子二人も既にそうしている。

『ねえ、どこまで行くの?』

『未来が見えるところまで』

 何その意味深な回答。ぽかんとなっていたら木の根っこに躓いて、シアンは少し顔を顰めた。気をつけてね、と後ろに声をかける。

 木立と藪の中。こんなところが、十年ほども通っていた校舎の裏にあったなんて信じられない。地面に積もったこの茶色い枯葉たちは一体いつからここにあるのだろう。この木は、この小石は? シアンたちが生まれるずっと前から、ここに存在しているのか。考えているうちに、ああ、そうかとようやく腑に落ちた。この森は過去が降り積もった場所なんだね、アーロン。じゃあ未来ってのはこの木々の中を抜けたところ?

 はっとした時、前方で木々が揺らめいた。アーロンが枝を揺すってこちらを見ていた。「見ろよ」と一言。言われなくても見てるってば。

 枝の向こう、木漏れ日よりも強い、眩いほどの光が差し込んでいた。白い、白い日の光が。

『行くぞ』

 枝の下を、四人で潜り抜けた。眩しさと強い風に一瞬だけ目を閉じて、それから──。

『わああぁぁっ』

 声を上げたのはクリスタだ。

 芝生の広がる丘の上。眼下に広がる、自分達の街。家々の屋根も、道路も、そこで動く人々の姿も全部ミニチュアのようで。それはまるで、この四人が今この街を代表して立っているかのようで。底抜けの青空には雲一つない。蒼いな。蒼い。どこまでもどこまでも。

 過去を抜けた、これが、僕らの未来──。

 自惚れてもいいのなら、この空は、この景色の全ては今自分たちだけのものだ。

『四人で、ここまで来られて良かった』

 アーロンが一言一言噛み締めるように言った。彼は遠くを見つめていた。らしくなくしみじみと呟く様子に、シアンは首を傾げた。

『急にどうしたの?』

『学園生活が、はみ出し者の俺でもちゃんと楽しかったのは、お前たちがいてくれたお陰で、それ意外の何物でもない。いい友達を持てて、良かった』

『何を』

 斜め後ろのエレナがキッと顔を上げた。

『何を言うのです、突然に。そんなの……、そんなの当然じゃないですか。それにわたくしたちはまだ終わらないのですよ?』

 終わらせたりしたら許さない、とその目が言っていた。アーロンは一つ頷いて、「そうだな」と言う。

『これからも、ずっと四人でいよう。俺たちに怖いものなんて何もない、四人なら』

 クリスタが「うん」といって笑って、エレナは口元を綻ばせた。シアンはぱしっとアーロンの背を軽く叩いた。

『らしくないなぁっ!』

 普通な感じで言ったはずなのにわざとらしい程に声が弾んだのは何故だろう。こんなにも清々しくて、誇らしくて、それでいて胸が痛いような、この感情はなんだろう。僕は……、僕は。

 アーロンに、クリスタに、エレナ。彼らだけが、自分の居場所だった。そしてこれからもそれは続くのだろう。


     ❇︎


「話っていうのは?」

 少しずつ日が傾き、オレンジの光を帯び始めた河原。きらきらと不規則に輝く川の水面が眩しい。

 ジャックに尋ねられて、アーロンは心持ち首を傾けた。

「別に大したことはねえけど……、当たり前だがお前のことだよ。お前、この街の外のどっか遠くの方から逃げてきただろ?」

 虚をつかれたと言うように、ジャックは瞬きをした。それからふっと表情を崩した。

「やっぱりわかるものか? そんなにみすぼらしいかな」

「いや、俺以外の奴らは気づいてねえだろうな。俺はただそういう雰囲気を感じただけ」

 我ながらどういう雰囲気だよと思ったが、当然ジャックもそう考えたらしい。「なんだ、それは。超能力者か何かなのか?」

「いや? で、逃げてきたのは何から?」

「……」

「親から?」

「違う」

「友人?」

「そんなものはいない」

「もう俺たちがいんだろ。ああっと、じゃあ借金取り?」

「ははは」

「じゃあ何かの恨みだな」

「知らないな」

 口を割りそうにないが、まあそれでもいいやとも感じた。生身の人間、誰しも一つや二つ言えないことがあったっていいだろう。アーロンだって、何から何まで人に言うことはできない。仮にあの同志の三人であっても。

「まっ、そーいうもんだよなー」

「……? 何が」

「で、お前を追ってる側のやつはどこにいるんだ? お前、こんな何もねえ河原なんかでぼさっとしてて平気なのか?」

 ジャック・ブラックは少し考えた。黒い瞳に金色の水飛沫が映る。

「俺がこの街に逃げ込んだことは……まだ多分知らないだろうな。追いかけるのを諦める可能性だってなくはないし」

「ふうん」

 聞きながら、無意識のうちに引き寄せていたらしい赤いギターケースを眺めた。親に借金してんだよな。ギター代、学費、学園を出るまでのアパートの家賃まで。その返済も、今の生活立てるのも、全部掛け持ちしているいくつものバイトが頼りだ。結局金って馬鹿になんねえ。

「話ってのはそれだけか?」

 ジャックは眉を上げて訝しげな表情を作った。いや、さっきからずっとそんな顔か。自分がそうさせているのだ。俺の話し方は軽く荒唐無稽だからな、なんて。

 アーロンは立ち上がって手をぱちぱちと払った。ひょいっとギターを背負う。そろそろ帰らないとバイトに遅れる。ビルの清掃、街頭のティッシュ配り、それからそれから……。息を吸うのに必死な夜は、毎日やってくる。

「まあそれだけだな、んじゃ、また来週にでも会おうな」

「ん? ああ、あの場所で」

 拍子抜けしたような返事。いつもの場所、いつもんとこ、あの場所。「いつもの」はいつまでも「いつもの」なのだろうか。いつか「いつもの」でなくなってしまうのか。ちらりとジャックの穏やかな横顔を見やった。穏やかな、などと形容してるが、こいつ昨日の夜は稲光に歯を剥いて「俺は怪物だ」などと言ったんだよな。

 人間ってわからねえな。

 でも俺もそんな人間の一人には違いねえや。

 日が、本格的に傾き出す。床につくように海へと潜っていく。ああ、でも。見方を変えれば海に引き摺り込まれていくように見えなくもない。


     ❇︎


 ねえ、意味がわからない。

 墨をゆっくりと溶かしていくように空気が夜の色に染まっていく。泣き出してしまいそうで、訳のわからなさに憤って、でも嬉しいには違いないのだけれど……。そんな無茶苦茶な感情で、逆にクリスタは無表情になって、足元を見つめた。馬鹿みたいに長いこと、ずっとそうしている。

 小さな公園の一角、滑り台のスロープの口に座り込む。駄目だ、そろそろ家に帰って書かなきゃ。そう思うのに、それを実行する気にはなれない。こんな日はどうしたって良いものなんて書けないのだとはわかっている。そういう日もある、と割り切れる人もいるのだろうが、クリスタはどちらかといえば落ち込む。本当はこんなことしていられないのに、と。

 はああっと大きく息をついた。持っていた今日分の希望とか光とかそういうものもみんな出て行ってしまった気がした。大丈夫、あくまで今日分のだ。明日には明日の光がある、よね。

 仕方ないでしょ?

 だって……。

「──何してんの?」

 突然飛び込んできた声。誰が誰に話しかけているのだろう。誰……。

「ねえってば、クリスタ。帰るって言ってなかったっけ?」

 え、私? 考えてみれば当たり前だ。暗くなってきた公園には、今クリスタしかいないのだから。いや違う、クリスタに声をかけた人がいる。シアンがいる。

 今日会うのは二度目になる彼は、何食わぬ顔で正面から近づいてきて、クリスタを見下ろした。被っている意味のなさそうなキャップは、微妙に向きがずれていた。

 彼はなんでだか知らないがよく歩く。ウォーキング的な、健康のための健康的な活動というよりは、ただ行くあてもなく彷徨っているみたいな感じ。俗に言う徘徊というものには違いないが、断っておくとシアンはまだ二十歳にもなっていなければ認知症なわけもない。自分の意思でうろうろしている。散歩が好きなのかしら。

「……こんな暗いところで頭抱えてる怪しいやつ、普通はそっとしとかないの?」

「だって大事な友達だし。別れてから結構経ってるんだよ? 三時間以上。なのにずっと外にいたの?」

 まあそうよね、と思った。これがアーロンでもエレナでも同じ。悩んでいる友達がいたならシアンは話しかけるのだろう。自分がどうにかできるわけではなくとも。

 納得みたいな、諦めみたいな、何か腑に落ちた気がしたら、正直な気持ちはぽろりとこぼれ落ちた。

「帰ろうと思ったけど、帰りたくなかったの」

 意味がわからないに違いないクリスタの言葉に、シアンは「ふうん……?」と首を傾げた。別にそういう時もあるんじゃない? 彼は、割り切ることができる人。

「なんで? あ、でも話しずらいようなことなら大丈夫だけど」

「ううん……。一つ聞いてくれる?」

「そりゃあ、僕でいいなら」

「ありがとう」

 意識してクリスタはゆっくりと瞬きをした。深まってきた夜の闇が、今私の情けないような顔を覆い隠してくれているといいな。

「あのね、はとこに会ったの」

「え──」

 祖父の弟の孫にあたる人に、私は会ったの。

「はとこって、前言ってた、事件に一緒に巻き込まれて以来行方不明の? いつ会ったの?」

「さっき」

「そりゃあ家に帰りたくなくなるよね、何が何だかわからないに違いないし」

「うん」

「でも生きていたんなら、良かったね。本当によかった」

「……うん」

 話を合わせてくれているが、事件についてシアンは良くは知らないだろう。多分、クリスタが昔なんらかの事件で肉親を失ったということ以外何も。そもそもクリスタがそれなりの富豪の家庭に生まれたことも知らないだろうし。だって、全部を話す気になんてとてもじゃないけれどなれない。

 クリスタが物心ついたかついていないかぐらいの頃に、社長であった祖父が開いた会社の宴会。理事会をやっている親族たち、そして社員の中でもそれなりに高い位の人々、そしてそのまた家族。幼い孫娘を溺愛していた祖父は宴会にクリスタを連れて行って……そして死んだ。殺された。クリスタと、そして同じく子供だったはとこ以外の大人たちは一人残らず血の海に沈んだ。

 途中からのことは覚えていないから、多分意識を失ったんだと思う。気がついたら病室のベッドの上にいた。赤、黒、そして、白。取り巻く色の変化に目が回った。両親も当たり前のように殺されていたために、クリスタは会社とは一切関わりの無かった母方の叔父叔母に引き取られた。生き残ったらしいはとこは身寄りがなかったために児童施設に入ったという。だが正直言って、生きているとは思っていなかった。今日までは。

 生きていたんなら、良かったね。……ええ、そう。そうには違いない。でもあの人はどうしてこの街に来たの。どうして急に現れたの。

 殺されかけた復讐のために、相手を探しているんじゃないの?

 そして、相手、つまりは祖父たちを殺した殺人鬼、ことの発端である人間は。

「ところで、その犯人ってどうなったの? 誰だったの?」

 顔を覗き込まれて、クリスタは首を振った。今日の朝の光景が頭をよぎった。光を跳ね返す、黒々とした瞳。

「さあ。……わからないわ」

 それしか、言えない。


     ❇︎

 

 今宵も殺人鬼──ジャック・ブラックは街を彷徨う。真夜中の月が、白々とした灯りを地上に降らす。道を歩く人々は皆、悪いことをしているかのようにこそこそと、地面を見つめて足速に過ぎ去っていく。その中でただ一人、堂々と歩いていたジャックは不意に立ち止まった。

 手に握った刃物が銀雪のように輝いて……そして歩いていた男の心臓をすれ違い様に貫いた。そのまま思いっきり引き抜く。男はその場で砂のように崩れ落ちた。声すら上げることなく。花びらのように舞い散った血沫と、手の中の硬くて柔らかい感触に、ジャックは乾いた唇を捲り上げて嗤った。続けて一人、また一人。ホステス風のどことなくくたびれたような女、終電を逃したような急ぎ歩く老けた会社員、三白眼を吊り上げた不良らしき若者たち。年齢も性別も関係ない、狂ったように刺しては殺す。雑に振るったナイフに人々は音もなく倒れ伏す。ワインの樽に穴を開けたみたいに、亡骸からどぽどぽと流れ出す血で、街道は染まっていく。

 はははっははっはははははッ!

 狂ったような声を上げてひとしきり笑ってから、ジャックはスッと真顔に戻った。

 あのトーレ・ディ・アマネセルで虐殺事件を起こして、だがとりわけ罪に問われることはなく孤児院のような所に入れられた。刑罰が無かったのはきっと、未成年であったことと知的障害を持っていると判断されたからだと思う。悪夢よりも孤独な日々を施設で過ごし、そこを出てからは絶望そのものと言えるような日々を送ってきた。

 今日会った四人の顔が瞼に浮かんで、また可笑しくなる。ああ、あいつらは俺がこんな、人間とも言えないような狂いに狂った人種であることを知らないだろう。俺は怪物だ、と言ったあの言葉は、冗談だってことにして片付けたのだっけ? 知るわけないよな、こんな殺人鬼のことなんて。そんな碌に知らない危険要素をそのまま大切な仲間のグループに引き入れてしまうなんて、なんて愚かなのだろう! しかも理由が「面白そうだったから」などというくだらない理屈だ。理屈とさえ言えないか。

『ね、なかないで……?』

 今でもあの声はすぐに蘇る。まさかアーロンの言っていた〈火曜日の集まり〉に彼女がいるとは思わなかった。彼女があの時の、あの幼女だということは、一目でわかった。まるでぴんと一本の糸が張ったように。

 だがそれがなんだと言う? 自分は、彼女の祖父も、両親も殺した。他にも何人も殺した。美しくも穢らわしく、清らかで汚らしい血を流した。彼女は、クリスタはジャックのことが嫌いで、恨んでいるだろう。それが道理だし、そうでなくてはならない。そしてジャックにとったって彼女はたくさんいる人間の一人に過ぎない。当然だろう? 初めて会った時のあの言葉の突拍子もなさに、軽く印象に残っていただけの話。

 ナイフを軽く一振りした。付いていた血が、滴となってぱっと飛び散った。

『地獄に堕ちて?』

 その通りだ。俺みたいなやつは地獄に堕ちた方がいい。エレナは正しい。

 さて、とジャックはまた歩き始める。幾つもの死体と、広がっていく血の海を背後にして。

 あいつらのことは、まだ、殺さずにおこう。でもそんなのはただの気まぐれであり、この先ずっとだとは限らない。その前に、あいつらが俺の正体に気付くのもいいか。気づいて俺を殺せばいい。そういう展開もありだ。

 道を淡く照らす街灯に、ジャックはコートに付いたフードを目深に被った。

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