ジャック・ブラック

蘇芳ぽかり

序章

 ジャック・ブラックという男がいた。

 彼は殺人鬼だった。

 独りぼっちの彼は死ぬことができずにずっと彷徨っていた。

 これは完全な僕──彼の最初で最後の友の一人であった僕の、自己満足のためではあるが、そんな彼の人生の終わり方をこうしてここに書き記しておこうと思う。

 彼の人生を変えた、そして彼を人間に戻した、一人の女性と、その他僕らとの物語を。



 彼と彼女が初めて逢ったのは、実はずっと前だったらしい。

 その夜はジャックが人を手に掛けた最初の夜でもあったと言う。死神、殺人鬼、切り裂きジャック……。そんな異名を持った彼が誕生したその夜。彼は人を、人々を切り裂いていた。一本のナイフを乾いた手のひらに握りしめて、ひたすらな飢えを血で潤すように。

 壮観な眺め、取り分け朝焼けの美しさで有名なトーレ・ディ・アマネセル。切り立つ崖の上に立った巨大ホテルだ。

 どこか富豪の家の宴会だったらしい。豪華絢爛とした花々で飾られたパーティーホール。煌びやかに、そして少しだけ妖しげに光る豪奢なシャンデリア。パーティードレスやスーツに身を包み、ワインの心地よい酔いで頬を薔薇色に染めた人々。その全てを、彼は美しいほどに赤い血飛沫に沈めた。殺人鬼である彼は老若男女など気にしない。後に──僕が彼と出会ってさらに時間が経った後に、ジャックが言っていたことがある。

「人を殺す時、まるで自分が野生の狼になったみたいな感覚になるんだ。牙で、無差別に切り裂く。殺される側の奴らには区別なんてまるでない、柔らかくて生ぬるい羊の群れでしかない」

 俺はもう、人間じゃないんだよ。まるでそれこそ……死神だ。

 ああ、だからどこにも生きてなんていないんだ。

 富豪の老人も、その妻も、周りにいた着飾った関係者たちも。たかがナイフ一本でこんなにも容易くばらばらになる。頭、手足、胴体、もうどの部位かも判別できない肉片。汚らしいものを撒き散らしながら人々がばたばたと倒れていく。血溜まり、血溜まり、血溜まり。

 綺麗なローズレッドだったカーペットが吸い込みきれない量の汚れた血でぐしゃぐしゃになった。彼はここでようやく顔を上げた。全員殺しただろうか、と。その場にいる、目に入った人間は必ず殺すというのが彼のルールだったそうだ。だから殺人の目撃情報なんて一切残さない。ナイフを振って、刃を濡らす血を振り落としながらぐるりと惨状を見渡した時、彼女と目があった。ふわふわのレースがふんだんにあしらわれたドレスの、まだ幼い女の子。宴会を主催した富豪の孫娘だ。何故か殺し損ねていたようだ。俺としたことが、と彼は唇の端に苦笑と嘲笑を滲ませて彼女の方へと歩み寄った。足音が濡れたカーペットに響くことなく吸い込まれた。こんな幼女などナイフで一刺しにして終わりだとジャックは思っていたらしい。

 だが、そうはならなかった。

 彼は彼女を刺し殺すことも、切り殺すこともできなかった。

 夜更けの細い月が、窓の外に見えていた。

 彼女は、いかにもか弱くてか細い少女は、状況が理解できないというようにただ倒れて人々に視線を落としていたが、近づいていくジャックに目を上げた。

 特別可愛いわけでもない、平凡な顔立ちの少女だった。目を引くものを持ち合わせているわけでもないのに、なのに彼はガラス玉のような瞳に下から覗き込まれて振り上げたナイフの動きを止めた。

「……ね」

 少女は今にも消えてしまいそうな声で何か言う。

「……っ?」

「なかないで……?」

 あどけない声色に、舌足らずな発音に、彼は目を見開いて一歩退いた。

 血溜まりも、転がった死体たちも全部視界から消え失せて、二人だけしかいないみたいに思えた。彼は後でそう話した。

 泣いてるわけないだろ、何が悲しくて涙を溢すことがある。今からお前もばらばらにしてやるんだからな、このナイフで──刺して、切り刻んで。

 切り刻んで……。

 死神を自ら名乗る殺人鬼、ジャック・ブラックはその初めて人を〈殺し〉た日、唯一人を〈殺し〉損ねた。これは、そんな彼の物語だ。

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