第5話 裸エプロン
雷霆とカワグチくんは先生に捕まり、覗きをできなかったらしい。
らしいと言うのも、僕は参加する前に逃げ出したからだ。
知らないうちに二人が捕まっていた。
僕は一人寂しく健康診断を受けるのだった。
その夜、僕は自宅へ向かう。
重くなった足取りで自宅のマンションのカギを開ける。
と、先に帰っていたらしい一之瀬さんが顔を赤らめ、エプロンを着ている。
というか、エプロンしか着ていなくない!?
「なんで裸エプロン!?」
「その、あなたは童貞の中でも神童貞だから……」
とんでもないことを言っているよね? ね!
驚愕の顔を浮かべていると、一ノ瀬さんはエプロンの端を持ち上げようとしてくる。
「ま、待って! こんなことをされても嬉しくないよ!」
「あわわわ、やっぱり神様――!」
どこで間違えたかは知らないけど、今の一ノ瀬さんが正常でないことはよく分かっているつもりだ。
ここは紳士的に対応しないと。
「まずは服を着よう、ね?」
「はい。ありがたき幸せ」
ええ。どうしてこうなったのさ……。
一ノ瀬さんは自分の部屋に戻る。
衣擦れの音がするから、きっと着替えているのだろう。
僕はホッと胸を撫で下ろし、自室で小説を書き始める。
『ブイブイアサルトトリューバー』
遺伝子の覚醒が訪れた世界で、異能を操る人々が現れる。凡才である主人公を悲劇が襲い、壊れた価値感を持った彼は世界の真実を知る……。
というあらすじなのだけど、面白いのかな。これ。
まあ、いいや。
前に進まねば書けない。
書かねば進まない。
頑張らねば!
キーボードを打鍵すると、次々と言葉が生まれていく。
それはもう、素敵な言葉が並んでいく。
まるで世界の綺麗を詰め込んだ世界のような。
そんな小説らしい。
と――、
「先生、どうですか? 進捗は?」
「え。まあまあ、かな……?」
「一時間くらい経ちますよ?」
「あー。一万字、くらいかな。進んだ」
微笑ましく笑む一ノ瀬さん。
その手にはお盆があり、お茶がのっている。
「お疲れ様です」
「うん。ありがと」
僕の前に置かれるお茶を目の前にして、目を丸くする。
一ノ瀬さんはなんでこんなに優しくしてくれるのだろう?
はっ。もしかして何かを期待しているのかな。
だとしたら僕の何を……。
お金か!? お金はたっぷりあるものな!
じっと見つめていると、一ノ瀬は恥じらうように身じろぎをする。
服、は着ているようだが、肩や鎖骨は惜しげもなく出されている。
なんだか気合いの入った顔と言えよう。衣服も。
まるでこれからデートするかのような格好だ。
「ど、どうしたの? その格好」
「え。神作家にはこれくらい普通のことでしょう?」
「どういう意味だよ……」
僕は混乱して頭を抱え込む。
神作家って誰のことさ。
普通ってなにさ。
「ささ、書いてください。神童貞くん」
なんだか豹変ぶりが怖いのだけど。
まあ、いいけどさ。
「あ。そうだ。このうめーい棒あげます」
「うめーい棒?」
僕に差し出された駄菓子を手にする。
半分でポッキリと割れているうめーい棒。
「わわっ。食べやすいように折ってくれたんだね。ありがと」
「え。いや、ええっと……。ははは」
なんだか、一ノ瀬さんの笑顔が不思議と引きつっていたような気もするけど。
まあ、いいや。
「夕花ちゃんの言うとおり、これが好きだからかな……」
なにやらブツブツと言っている一ノ瀬さんを放っておいて、僕は次の章を執筆し始める。
「ん。一ノ瀬さん、何か用があるの?」
いつまで立っても離れないのを不思議に思い、訊ねてみる。
「え? いや、ちょっと見学させて欲しいのです!」
「そう、それはいいけど……」
視られていると、ちょっと恥ずかしいし、緊張するな。
あの売れっ子若手声優の一ノ瀬小夜さんに視てもらうなんて。
小説が書き終えた頃、最近不調だった一ノ瀬さんは涙を流しながら、僕を見つめていた。
「え。なんで泣いているの!?」
「うぅ。わたし、少し道が開けた気がします。ありがとうございます」
最初は不信を買っていた僕だけど、今ではそんなことがないらしい。
多分。
「明日から、頑張ります!」
ペコリと一礼したあと、部屋を出ていく一ノ瀬さん。
「いや、なんだよ……」
僕は困ったように頬を掻く。
その後もすぐに小説を書き始める。
僕は声優に救われた。
一ノ瀬小夜に。
あの事件で僕が背負った罪は大きい。
でも、そんなとき彼女の言葉だった。
一般的にはほんのり暗い言葉だったけど、でもそれは僕の価値感をひっくり返すものだった。
いいだ。
罪を背負っても。暗い過去があっても。
それでも僕は一ノ瀬さんに、みんなのために頑張るようになった。
頑張って生きていればいいこともあるんだと信じられるようになった。
だから僕は今日も生きる。
本気で、全力で生きている。
だってこのままじゃ終われないじゃない。
僕は一区切りつくと、夕食を、と思い共同スペースに行く。
「さ。おいしいご飯の時間ですよ、神童貞くん」
「えぇ……」
僕は目の前のダークマターに引きつった笑みを浮かべる。
ピクピク動いているのだけど……。
「わたしの、手料理食べて」
料理? これが?
食べたくない。
でもそれでは彼女の自尊心を傷つけてしまう。
それはいちファンとして、救われたものとして譲れない。
「分かった」
死の覚悟を背負った僕はスプーンを手にして目の前の紫色のスープを掬う。
これってなに?
分からないけど僕は口に運ぶ。
「んっ!!」
「ど、どう?」
髪をいじりながら一ノ瀬さんは訊ねてくる。
「おいしい……」
見た目とは裏腹にとてもおいしかった。
ただ今まで食べたことのない味で、知らない料理だった。
でも塩気のある味に、さっぱりとした酸味が相まって美味しい。
「良かったぁ! わたし、料理頑張ったんです!」
後ろ手に隠した手を見やる。
「ちょっと見せて?」
「え。いや、あの……」
僕が近づくと離れていく一ノ瀬さん。
少し強引だが、
「あっ! 流星群だ!」
「え! どこ!?」
一ノ瀬さんが窓の外に顔を向けた一瞬、僕は地を蹴り彼女に肉迫する。
そして差し出した手を使い、彼女の手をとる。
その綺麗でほっそりとした指にはいくつもの絆創膏のあとがある。
「こんなに頑張って……」
「うん。頑張りました。神童貞くんのために」
「少しは自分を大事にして」
「そう、言われても」
一ノ瀬さんはどこか困ったように顔を緩める。
「だって、わたしがしたいと思ったことなんだもの。わたしを大事にするなら、この気持ちも大事にしてよ。わたしはただのお人形じゃないもの」
「……そうだね。分かった。一ノ瀬さんの好きにするといいよ」
突き放したわけじゃない。
彼女の気持ちを考えての言葉だ。
少し苛立ちののった声は、きっと僕の気持ちも理解して欲しいと思ってしまったから。
僕はもうあんな悲劇をしないと決めたのだ。
だから、もう余計なことはしない。
自分の気持ちに嘘をつく。
それがこの世の中を生き抜くコツなのだから。
誰が決めたわけでもない社会のルールに則って生きているのだから。
無責任な彼らが作ったルールをみな歩いている。
その敷かれたレールに疑問も持たずに。
「そうだ。今度一緒に料理しよう」
「確かに童貞クンの料理はおいしいけど」
チラチラと盗み見するように言う一ノ瀬さん。
「いいよ。僕は大歓迎だ」
「どうして?」
「一ノ瀬さんは料理ができるようになりたい。僕はもっと美味しいのを食べたい。でしょ?」
「どこまでもポジティブなのね。わたしにはマネできないよ……」
悲しそうに目を伏せる一ノ瀬さん。
うーん、伝え方をミスったかな。
僕はどうしたら良かったのだろう。
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