最終話** 禁忌
一通り患者を診終わって臨時診療所も診察終了したその時だった。そっと彩寧が僕に耳打ちする。
「おなかが痛いって子がいるって言われて診たんだけど。あなたも診てくれる?」
「……そっちの見立てはどう?」
「今朝から右下腹部の強い痛み、圧痛、悪寒、これまで3回嘔吐してる。アッペ(急性虫垂炎)の可能性が高そうなんだけど、いずれにしても検査が要りそうね」
「そうだな、僕もそう思う。一応熱も測ってみよう」
患者は小学校6年生の男の子だった。腹痛がひどい。熱も37.6℃あった。
「アッペだったら手遅れになって破裂して腹膜炎になったら大ごとね」
「憩室炎だとしてもそうだ」
いずれにしても症状が急性で危険な状態なので僕はドクターヘリの要請をした。今度は僕が運転してやはり内科医の彩寧と二人でヘリポートに向かう。
少年と親御さんと僕とは離れた場所に立ち尽くす彩寧。僕に背を向けたままだ。2時間ほど待ったろうか。痛がる少年に声をかけて元気づけていると遠くからヘリの音が聞こえてくる。ようやく到着したようだ。彩寧が僕に手招きをしているのでそちらまで走っていく。
「誰か医師があれに乗っていかないとだめよね」
「あ、いや、ヘリにも医師がいるしまあ大丈夫だとは思うが、行くに越したことはないかもな……」
「私が行く」
「えっ」
「それともうあの書面は捨てていいから」
「どういうことだ」
彩寧は僕の方を見ずに唇をわななかせる。
「もういいってこと」
「なぜだ」
「もういいって言ってるんだからいいでしょ」
「あ、ああ……」
「空しくなったのよ」
「……」
「私がどんな嫌がらせしたって、その度にきっとあななたちの偽りの家族の絆は深まってく」
「……」
「そうしたらこんなことに時間とエネルギー費やしてる自分がばかばかしくなって」
「そうか」
「だっ、だけっ、だけどっ…… だけど私の24年間はなんだったのって……」
「すまん」
「あなたみたいな変態好きにならなきゃよかったっ!」
そう言うと彩寧は自分の胸を抱えるようにして滝の涙を流す。
ヘリの着陸の邪魔にならないよう廃校のグラウンドの隅に彩寧を連れていく。その間も彩寧はずっと泣いていた。
ドクターヘリに患者の少年とその親御さん、そして最後に彩寧が乗り込む。その前に僕の方を向く。
「さようなら」
「ああ、さようなら……」
「私婚活する」
「うん……」
「で、あなたたちのような日陰者が歯ぎしりして悔しがるような結婚するんだから」
「そうだな……」
真っ赤な目で一瞬きつく僕をにらみつけた彩寧は怒った顔でヘリに乗り込む。砂埃をあげて見る見るうちに小さくなっていくドクターヘリに僕は深々と頭を下げた。
これは許しなのだろうか。そう思わないと僕はやり切れない。
僕は体育館で待つ愛未と博也の元へ戻ると無言で愛未の肩を抱いた。
「あーちゃん…… は?」
「帰った。あの書面の話ももういいって」
「……そうなんだ」
僕ら三人家族は肩を寄せ合う。津波警報は注意報になりやがてそれも解除された。物的被害の詳細はこれから明らかになるだろうが、人的被害はみんなの迅速な避難のおかげで軽微なもので済んだようだ。
僕たちは校庭から傾きかけた陽を浴びてきらきら輝く海を見つめていた。いつまでも見つめていた。海はこんなにもきれいなのに、僕らの罪はこんなにもどす黒く醜い。いつまでこんな偽りと罪を続けていくのだろう。きっと死ぬまでだ。死ぬまで僕と愛未は愛という罪と偽りを背負い続けなくてはいけない。僕は力を入れて姉の肩を抱いた。愛未は僕の腰を抱く。もう一方の手で博也の手を握る。
「どうして、どうしてこうなっちゃうんだろうねあたしたち…… 人を傷つけてばっかり」
「さあな…… もう決めたことだ、今更何を言っても仕方ないさ」
「うん……」
鼻をすする愛未。
「お母さん、泣いてるの?」
恐る恐る博也が訊くと、愛未はあからさまに虚勢を張った声を出す。
「そんなことないやい。お母さんは強いんだぞ。そんな簡単に泣くかってんだい」
「さ、行こう。うちと診療所が心配だ。あれだけの高台にあれば大丈夫だと思うけど」
「うちが無事だったら何か作ろうかねえ。カレー?」
「カレー食べたい!」
僕と愛未はいつもの偽りの家族に戻って仮面の笑顔で車に向かう。
僕が車に乗り込むとき夕陽に染まった空を見上げる。ドクターヘリの、彩寧の飛んで行った彼方を見つめる。さようなら、もう一生会うことはないだろう。本当に済まない。僕は僕の愛を裏切れなかった。たとえそれが背徳の愛でも。今までありがとう。
僕は車に乗り込みアクセルを踏んだ。僕らはこれからどこへ向かうのか、僕にも愛未にもわかっていた。禁忌を犯した僕たちの行先は地獄でしかない。
それでも僕と愛未は手に手を取って敢えてその地獄に飛び込もう。きれいな夕日を浴びながら僕と姉の胸の内は晴れなかった。
―― 了 ――
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