第76話** 津波

 僕は愛未と渋る彩寧を古ぼけた軽ワゴンに乗せ丘の上の中学校に向かった。声をからして博也の名を呼び避難者でごった返す体育館内を探したが見当たらない。止める彩寧にはここにとどまるよう言って僕らは外に出て海岸まで走る。


 サイレンが聞こえなかったのだろうか。それとも大したことはないと高をくくっているのか。スマホを見ると予測される高さは3m、到達するまでの時間は「既に到達」。僕らは青ざめて海岸、突堤、今まで博也と釣りをしたことのある海岸を巡った。


 いない。どこにもいない。


「ああっ、あたしがっ、あたしがいけないんだっ、優斗と添い遂げた罰が下ったんだっ」


 べそをかきながらうめく愛未。


「たとえそうだとしても博也は関係ないっ。あいつには何の罪も穢れもないんだっ。だから変なこと言うな」


 僕は息を切らしながら反論した。


 小さな入り江にたどり着く。ここで僕と博也は釣りをしたことがない。だがその一角にキャップを被った男子小学生が釣り糸を垂らしていた。僕らは一瞬で血の気が引いた。


「ああーっ! 博也ーっ!」


 絶叫する愛未。博也はこちらを振り向く。


「急げ! こっちにこいっ!」


 釣竿を持って小走りにこちらに向かってかけてくる博也に僕は叫んだ。


「急げーっ! 津波が来るぞっ!」


 入江の海岸から必死に駆け上がって小道に出ると古ぼけた軽ワゴンが停まっていた。


「早く!」


 運転席から彩寧が叫ぶ。


「どうして……」


 乗り込みながら僕は恐々と聞いた。


「……この子に罪はないでしょ」


 アクセルを踏む。


 バックミラーに黒い影が映った。


「来たぞ」


「判ってるわよっ」


 彩寧は青ざめてさらにアクセルを踏む。後部座席では愛未と博也が抱き合って震えていた。


 黒々とした水の塊は木片を巻き込み逆巻きながら迫ってくる。高さ3mの津波の速度は一体何時速キロになる? 40? 50? それとも100? 僕は冷たい汗の浮いた手を握り締める。くたびれた軽ワゴン車はうなりをあげながらゆっくりと急坂を登っていくが、そのおぼつかない速度に僕たちはじりじりする。


「わーっ! きっ来たよ! 津波来たよっ!」


 博也が叫ぶ。


「判ってるっ!」


 彩寧はさらにアクセルを踏むが一向に速度は上がらない。


 津波はひたひたと僕たちの乗った車に追いつき既に後輪は半分くらいが水没している。やがて前輪までが水に浸かる。


「このーっ! いっけーっ!」


 彩寧が叫ぶと車はゆっくりと津波の腕から逃れ乾いた地面に濡れた轍を描く。そのまま高台にある臨時駐車場と化した中学校の校庭に車を停める。体育館に入るとへなへなとへたり込む愛未。博也が愛未にすがり付き号泣する。僕は二人の肩を抱いてやはり泣いた。


 しばらく虚脱状態だった僕らに八十二になる中村さんがおずおずと声をかけてくる。


「あん…… 先生、こがん時に申し訳なかばいばってん、うちんばあさんが足ばくじいたみたかねんで診てくれんかねえ」


 中村さんの言葉に僕の頭は一瞬で切り替わる。


「あ、わかりました。すぐに」


 僕は急いで車まで戻りメディカルバックを持ってくる。幸い中村さんの奥さんの佳子さんの足は大した怪我ではなかった。


「愛未、湿布を」


 愛未は手際よく湿布を僕に手渡す。湿布を当てて包帯をする。


「ありがとう先生。本当にいつも助かるよ。代金は後で必ず払うけんな」


「助かります。別に急ぎませんからあまりお気になさらないで下さい」


 そのあとも転んだりどこかに引っ掛けたりした小さな擦り傷や切り傷の患者さんが何人も僕の治療を待っていた。僕と愛未は息の合った手さばきで処置を行った。


「先生たち相変わらず名コンビやなあ。さすがおしどり夫婦なだけあるわ」


 膝を擦りむいて治療を受けた孝君の父親の山口さんが笑いながら言う。


「いえ、そんな」


 僕も愛未もあいまいな笑みを浮かべる。この人たちも数時間後僕らが姉弟だと知ったらどう思うだろう。僕は背筋が冷たくなった。

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