第74話** 賠償

 僕たちはどれだけの時間沈黙していただろうか。3人とも言葉が出ない。僕は万全を期してここへの移住を決めたわけだが、それより彩寧の執念が上回ったという事だろうか。汗が首筋を伝うのは決して暑さのせいではない。


「久しぶり」


 そう言った彩寧の声はダイアモンドより硬く液体窒素より冷たかった。ああ、なんて眼をしているんだ。あの頃の彩寧は決してそんな眼なんてしていなかった。


「……こ、ここじゃなんだから、とにかく中へ」


 茶の間に通すと遠慮もせずまじまじと中を見まわす。博也が3年生の時に描いた絵を見つける。


「へえ、これお子さん? の絵?」


「あ、ああ。僕の養子、なんだ……」


「ふうん」


 彩寧は愛未が出した冷たい麦茶には手をつけずに続けた。


「お父さん、お母さん、って書いてあるのね。もうすっかり夫婦なんだ」


 僕たちはうなだれた。


「夫婦を偽装した姉弟、迎えた養子、何? 全部偽物じゃない。この子は知ってるの? 自分が養子で両親だと思っていたのが実は姉弟で、って」


「養子なのは知っている。だけど僕たちの血が繋がっていることは……」


「知ったらどういう顔するかしら」


 僕たちは息を呑んだ。


「そっ、それはっ。それは勘弁してくれっ、それだけはっ。博也には僕の方からしかるべき時が来たら伝えるつもりだ。だからっ、だから今はっ」


「何の罪もない彼がかわいそうだもの。そんなことはしない。今日はねこれを読んでもらいたくて」


 と事務的な手つきで一通の封筒を僕の前に渡す。それは弁護士からの手紙だった。


 それは僕の一方的婚約破棄に関する慰謝料請求について書かれてあった。無味乾燥な文面には500万円を請求すると記されてあった。500万。僕は茫然とした。今の僕らのつつましい生活では100万円だって出せるかどうか。


「ごっ、500万って、これはっ」


「『著しい』不貞行為による精神的苦痛。意味判るわよね。あなた私のうちに挨拶に行っていたその日も、あなたたち逢っていたんでしょう。出るところに出たらあなた誰と『不貞行為』を働いていたか明らかになるのよ」


「ぐ……」


 だが500万円だなんて僕には逆立ちしても無理だ。土地は借地だし、家屋や診療所もただ同然の廃屋を、僕と愛未の馴れない手でどうにかこうにかリフォームをした。今となってはその苦労もいい思い出だ。思考が乱された僕はまたこの金額に意識を向けた。


「この金額は無理だ」


「あらどうして? 信頼の篤いお医者さんで、若くして地元の名士入りしているんでしょう。募金でも募ったら。あるいはクラウドファンディングとか?」


「……できるわけないわよね。早坂先生の奥さんは実は姉で、せっかくの婚約を一方的に破棄して近親相姦に走ったって公にしなくちゃいけなくなるんですものね」


 愛未はうなだれて両手で顔を覆う。

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