14 紡ぎ手の蜘蛛(ウィーバー・スパイダー)

 水面では、相変わらず氷華の兎フロストブルーム・ラビットが跳び回っていた。その通り道になったところは凍りつき、その氷も徐々に厚くなってゆく。

 じりじりとその様子を見ていたソフィーが、ふと、口を開いた。


「ねえ、最初に氷華の兎フロストブルーム・ラビットが走り回ってたとき、水が氷を壊してなかった?」


 リオンは少し考えてから頷いた。


「そう、だったな」

「それに、水面がうねって、氷華の兎フロストブルーム・ラビットを捕まえようと……引き摺り込もうとしていた」

「そうだな」


 ソフィーが何を言おうとしているのかと、リオンは目を細めた。


「どうして今は氷華の兎フロストブルーム・ラビットを追いかけないのかしら」

「それは……」


 そこまで言われて、リオンも気づいた。


「あのガキを沈めてるから、か?」

「もしそうだとすると、一度に一つしか相手にできないってこと……。

 てことは、引き摺り込もうとしてきてたその水が、ブックの本体だったんじゃないかしら」


 ソフィーの鳶色の瞳が輝いてリオンを見る。


「何か、思いついたのか?」

「思いついたってほどじゃ……ただ、何かセティの助けになれるかもしれないと思って。

 それでできれば本体が水面に出てきてくれたら、わたしたちでも何かできるかもしれないじゃない?」


 少し考えてから、ソフィーは道具袋ポーチから一冊のブックを取り出した。


開けオープン紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダー


 ソフィーの手のひらの上で、ブックがぼうっと光を放つ。


「その蜘蛛はブックを修復するものだろう。どうするんだ、それで」

「そうね、でもブックの使い道はもっといろいろあるって、セティが教えてくれたの。きっとこの糸は糸として使える」


 光って輪郭がブックは蜘蛛の姿になる。ソフィーは水際の、セティが落ちた辺りの氷を踵で強く踏みつけた。

 びしり、と氷華の兎フロストブルーム・ラビットの氷にヒビが入る。そのまま二、三度踏みつければ、そこは暗い水面だった。

 引き摺り込もうとする動きは見えず、今はただ水面が揺れている。


「やっぱり、ブックの本体は今、セティのところにいる」


 その考えは、確信になった。

 ソフィーは手のひらの紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダーをその水の中に落とす。蜘蛛が吐き出す糸の端を握って。

 蜘蛛はするすると糸を吐き出しながら水の中に落ちてゆく。引き摺り込まれるような手応えは、今のところない。


「お願い、このままセティのところまで、届いて」


 ソフィーの言葉、その意思の通りに紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダーは動く。水の中へ潜って、きっとセティのところまで届いてくれる。


「どうするつもりだ?」

「セティのところまで届けば、引き上げる。セティを引き上げれば、きっと本体は付いてくる」

「途中で本体に邪魔されたら?」

「その場合も本体を引き上げることができれば、所有者オーナーになれるでしょ?」

「逆に引き摺り込まれるんじゃないのか?」


 ソフィーは水面から目を逸らさずに、リオンの言葉に応える。


「そしたらセティが放っておかないだろうから、きっと大丈夫」


 ソフィーには、その確信があるようだった。紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダーがセティのところまで届くように、ただまっすぐに、糸の行方を見つめている。


   ◆


 姿は見えない。けれど、水に紛れてセティの周囲にいるのが、きっとブックの本体に違いない。セティはそう考えていた。

 自分に絡んでくる水の感触。それを氷で閉じ込めようとしたが、周囲の水が凍るよりも素早く逃げられた。そして少しするとまた、セティの体に絡んできて、深く沈めようとする。

 セティは唇を噛んで、今度は自分の体を凍らせる。絡んでくる水が触れているその部分に氷を纏う。周囲の水も巻き込んで凍らせてしまえば、こいつも一緒に凍ってくれるかもしれない。

 するり、と絡みつかれる圧迫感が遠ざかる。そのまま自分の周囲を氷で覆ってみたけれど、捕まえたという手応えはない。


(なんなんだこいつは! 姿も見えないし!)


 氷の内側で苛立たしく舌打ちしたとき、ぴきり、と氷にヒビが入った。何かが水の中を鋭く進んできて、氷にぶつかる。その部分の氷が砕ける。


(こいつ、水に沈める以外の攻撃もできるのか!?)


 また、何か飛んでくる。防ぐように水を凍らせる。氷に小さな丸い穴。そこからヒビが広がって、氷が砕ける。

 飛んでくるものは目に見えない。ただ、水の流れが、細かな泡が、その動きを伝えてくる。


(いや、もしかしたら全部水なのかも。水を塊にして飛ばす?)


 その思いつきはいかにもありそうだった。なにせ、本体すら水そのもののように感じられるのだ。きっと水を自在に操る知識を持ったブックなのだと検討がつけられる。

 なんにせよ、氷を砕けるほどの威力はあるのだ。直接当たったら、きっと傷ついてしまう。多少の傷なら問題ないが、深く──中身の知識にまで傷がつけば、修復は難しい。


(傷つくわけにはいかない。せっかくの知識を失いたくない)


 セティは初めて、恐れた。自分が傷つくことが、知識を失うかもしれないことが、実感として感じられた。それを怖いと思った。

 水が、急により重く感じられるようになった。攻撃されるのが怖くて、自分の周囲を凍らせる。

 また、何か飛んできて氷を砕く。その隙間をまた氷で埋める。


(どうしよう、どうしたら良い? このままじゃ、ただ沈んでくだけだ)


 恐れは焦りになった。焦りは、セティの思考を停止させた。

 セティはただ、見えない相手を前に、自分を氷で閉ざして身を守るだけになってしまった。それは、自分の動きを止めるだけにしかならなかった。


(どうしよう。こんなの、すぐできるって思ってた。自分なら簡単だって思ってた。こんなになんにもできないなんて)


 意味のない思考がセティの頭の中を支配する。薄暗い水の中で、セティはたったひとりだった。誰も、セティを助けてはくれない。

 氷が削れ、また氷を作る。氷の中に閉じこもるように。とにかく身を守るために。

 そのときだった。次の攻撃はセティを大きく外れ、セティの頭上に向かっていった。


(どうしてだ? 何かあるのか?)


 セティは遠くなった水面を見上げる。そこから、セティに向かって細く伸びてくるものがあった。水の中できらきらと輝くように伸びてくるそれは、蜘蛛の糸。

 水の攻撃が蜘蛛の糸を狙うが、蜘蛛の糸はゆらりと水の中で揺れ、被害を受けている様子はない。

 糸の先には、手のひらに乗るほどの大きさの蜘蛛がいた。水の中をセティに向かって沈んでくる。


(あれは……ソフィーの)


 ソフィーがブックを修復していた、その姿を思い出す。

 セティは頭上の氷を消して、蜘蛛に向かって手を伸ばした。蜘蛛がセティの手に辿り着く。セティは糸を掴む。細い、けれど切れることのない意思の糸。

 紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダーは、セティの手首をぐるりと回って、しっかりと糸を絡める。


(そうだ、俺が捕まえなくても良いんだ。こいつを捕まえるのはきっとソフィーがやってくれる。だったら、俺がやることは……)


 セティは紡ぎ手の蜘蛛ウィーバー・スパイダーの糸を握り締めて、糸の先を見上げる。その瞳は、強く輝いていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る