アカネに『愛おしい』と言われ、それからの関係が変化したかと言えばそうでもなかった。それでも根底に流れる空気はきっと変わっていたのだろう。

 私よりアカネのほうがぼんやりする回数が多くなった気がする。それに対して私は言及する気がなく、結論的に無言の時間が増えた。それでもその無言も居心地がいい気がしてたまらない。

 移り変わる時のおかしさももう気にならない。

(私はこの世界の一部になれた)

 そんな気がした。


「今日はどうしようか」

「アカネが決めればいいんじゃない? 前はそうだったでしょ」

「そうだったかな?」

「そうだよ。私の意思なんて関係なしに物事決めていたでしょ」

 アカネの乾いた笑いが私の耳たぶをうつ。なんかどんどん弱っていってないか、と私が悟るほどにはエネルギーに満ち溢れていた彼女が変容しているように感じた。

 まるでアカネが私になっていくような感覚。私が元気になればなるほどアカネは弱っていくのかと錯覚したが、彼女の性格に似てきてもいない自分にそれは杞憂かとその考えを否定する。

 ここで気の利いた言葉を投げかければいいだろうが、頭の中には浮かんでこない。

(私は私、だな)

「この世界はあんたが作った世界だってこの前言ってたよね」

 脈絡のない私の言葉に、アカネの口の中で『みゃ?』と声が漏れた。美人がそんな猫みたいな可愛らしい声を出すな。

「もしかしてあのへんてこな料理もあんたが生み出していたってこと?」

「そうだねぇ。正解?」

「じゃあ私がパンケーキ食べたいって言ったら今すぐ出せる?」

「この場で手品みたいに出すのは無理。でもそうだなぁ……今日は食べ歩きにする?」

 アカネはそうと決まればと私の手を引く。同意していないんだけどなと私は思ったが、これがアカネらしかった。

「食べ歩きってこの世界に似合わないな」

 私の呟きが空に溶ける。今更ながらに第三者が出てきて、料理を渡されても興ざめだ。やはり空腹感もそれほど感じない。

 誰もいないアーケードを二人で歩く。廃れた風景は人が絶滅した光景そのままで、それなのに恐怖心は一切なく綺麗だと思ってしまった。

 昼下がりを思わせる日の光が錆びたポールに反射する。一部が砕けたコンクリート。二人を映す商店のガラス。何もかもが輝いて見えた。

「あ」

 アカネが何かを見つけ小走りになる。私はそれに続くと彼女の脚はすぐに止まった。

 くすんだ赤いのれんの下にアカネは手を伸ばす。私の視界からは店内の暗い空間しか見えず、アカネの手の先に何があるのか判別できない。

 やがて彼女はそれを掴んだのか、つっこんでいた腕をこちらへと引き戻した。途端に生地のほのかな甘い匂いが漂ってくる。

「はい」

 アカネが差し出したその食べ物と目が合う。

「茜はこしあん派つぶあん派どっちかある?」

「こしあん、かな」

 じゃあ好みだ、とアカネはにかりと笑う。手の中にいる鯛も誇らしげに見えた。

 アカネから差し出されたたい焼きを受けとってのれんの内側を覗き込む。使い古されたたい焼き器が鎮座していたが、それが使用された形跡はなかった。もちろん人はいない。

 鯛にキスするように一口かじる。ほのかなぬくもりは出来立てを暗示していた。

「あま、うま」

 アカネは鯛を大きく切り裂いて片割れを口に放り込む。その表情が至極幸せそうで、私の頬も自然と緩んでいた。

「次はその手の先、見てもいい?」

「やめたほうがいいよ。寧ろ、めちゃくちゃ恥ずかしいからやめて」

「あんたに羞恥心なんてあったんだ」

「あたしだってあるよ」

 また大きく切り裂いてアカネは口に放り込む。羞恥心がある人は口の端にあんこつけたままにしないと思うんだけど。

「さて次は何食べようか」

「早いよ。まだ私全然食べてないんだけど」

「早く食べないと奪っちゃうよ」

 アカネが手をわきわきさせて私に迫ってくる。いつの間にかその手にはたい焼きのたの字も残ってないほどきれいさっぱり消えていた。

(あんな大口で食べてたらなくなるか)

 あげないよと言わんばかりに身を捻って彼女の魔の手を回避する。一口かじってから私は駆け出した。

 片手に食べ物をもって、口に含んで駆け出すなんて元の世界じゃとてもできない。食パン咥えて角でイケメンとぶつかるなんてべたなシチュエーションもあるけれど、やはりそれはフィクションの中だ。

(フィクションか)

 ここもとてもフィクションらしいフィクション。

 それでも私にとってはここがリアルだ。

「次はしょっぱいのがいい」

「唐揚げとかどう?」

「あんたカロリー高いの好きだよね」

 串に刺さった唐揚げを頬張って、昔懐かしいビー玉で栓をされたラムネをあける。

 青春の一ページのような光景が誕生した。これが夜で夜空には花火が打ちあがっていたらさらにそれっぽいが、炎天下の下でコンクリートに背を預けて飲み食いするのも悪くない。寧ろ私たちにはとても似合っている。

「ずっと続けばいいな」

 唐揚げのなくなった串をぼんやりと見つめていると、自然と言葉が漏れた。

 アカネが息を呑んだのを肌で感じる。その張り詰めた雰囲気に違和感を覚えた。ただならぬ気配に私はアカネの顔を見つめる。

 私の視線に彼女は笑みを浮かべようとしたが、それは歪で青白い肌も隠せてはいない。

『ずっとここにいればいいよ』

 もしかしたらそんな言葉を私は待っていたのかもしれない。しかしそんな言葉は一生かえってはこないのだと知ってしまった。

 この世界には期限がある。しかもそれはそう遠くはない。

(アカネが死ぬ?)

 ふとそんなよからぬ妄想が頭をよぎった。元気でない原因がそれであるのなら合点はいくが、もう私にはその事実を受けいれることはできない。

 この世界にひとりぼっちなんて耐えられない。

「茜」

 彼女の声色がひどく優しい。真相を話してはくれない雰囲気に私は静かに俯いた。足元の影は長く伸びて、私達の名前と同じ色に染まっていた。

「パンケーキ、食べに行こうか」

「……そんなことも言ったね」

 アカネのひんやりとした指先が私の指と絡まる。ゆっくりとした歩幅は別れを惜しむ下校途中を彷彿とさせた。

(アカネが学校にいたのなら)

 もしも同級生で机が隣同士で私の日常にいたらどんな風だったのだろう。きっと最初は嫌悪して、でもいつの間にか隣にいるのか当たり前になって、なんとなく居心地がよくて――。

(きっと違う。この世界だったら、こう成れたんだ)

 現実世界でアカネが愛おしいと私に言ってくることはない。きっと私も言わない。

(ああ、私はそもそも)

「着いた」

 彼女の声にゆるゆると顔を上げる。アンティーク調の扉が開け放たれ、暗い室内が私達の眼前に広がった。装飾の施された窓の向こう側には星空が見えて、私は瞬く間に夜にいた。

 このどこかの星のひとつがアカネの本当の住処だろうか。

 行ってみたいと腕を伸ばそうとしたその時、自分の近くで小さな光が生まれた。

 橙色の小さな焔が揺れている。

「座って。晩ご飯にしよう」

 キャンドルの灯ったテーブルを指さしてアカネは私に着席を促す。

「アカネ」

 私はその指示を無視して、初めて彼女の名を呼んだ。

「なに?」

「私も、愛おしいよ」

「…………」

 この世界も、貴女も。でもなくなってしまうのなら。

 身体が勝手に走り出す。衝動が星空の下を駆けさせる。

「茜!」

 貴女の叫びを背中で聞きながら、それでも脚を止めることはしない。

(このまま体が浮いて、宙に飛び立てばいいのに)

 上だ。上に行こう。

 まるで私の意志を尊重するかのようにその建物が見えてくる。あべこべな世界で本当によかった。

 貴女と初めて会ったあの場所に行こう。

 昇降口を土足で踏みしめて、星空で照らされた廊下を駆け抜ける。アカネの声はいつの間にか消えていて、私は一人ステップを踏みながら肩を叩きつけるようにその重たい扉を開けた。

 満天の星空が近い。夜空以外何も変わっていない屋上はやはり……綺麗だった。

 冷たい空気を肺一杯に入れる。私の顔は鏡を見ずと分かるほど、笑顔だった。

 ゆったりとした足取りでその場所へと向かう。フェンスをよじ登って、顔だけは上空へと向ける。

 アカネは宇宙人だと言った。なら私もその場所へ。

 私は貴女になりたい。

 身体を傾ける。重力に引っ張られて、私の身体は落ちていく。

「貴女はまた!!!!!」

 アカネの悲鳴が突然間近に聞こえて、私の身体は急停止する。

 身体が宙に浮いている。掴まれた右腕の先には苦痛に顔を歪めたアカネがいた。

「また……」

 アカネの悲痛な叫びをぼんやりした顔で反芻する。彼女の背後で星が一筋流れて、私の頭に明瞭な記憶が蘇る。

 また、だ。いつか一瞬だけ瞬いた彼女が私の腕をとるのは錯覚ではなかったのだ。

 彼女は私を殺さないと言った。たとえそれが自分自身の選択だとしても。アカネは腕をとって、私がここから飛び降りるのを何度も止める。

 私は一度飛んだ。あべこべな世界になる前、その直前に。時刻はまだ夕日が差していない頃。夏休みに入る前日、終業式の日に。

 全てを終えて一人で帰る頃、窓から見た青空がひどく綺麗に見えたのだ。それだけだった気がする。元から希死概念は慢性的にあった。だからだろうか。ふわりと足は屋上に向かっていた。

 そこで屋上が開いていることを知って、そのまま綺麗な空に飛び込んで……そして貴女は今のように腕を掴んだ。

 その時星が見えた気がする。いや、見たんだ。アカネの背後で高速に動く流星群を。そして私は意識を失って。

 そうして気づけばこの世界にいた。

 私が終業式の日に何をしたのか、そこで何をしたのかも忘れて、そうして今に至る――……。

 ゆっくりと私の体が持ち上がっていく。アカネは歯を食いしばりながら私を屋上へと連れ戻す。

 離せばいいのにと一瞬だけ思ってしまうが、身体はそれに反して彼女の心を支持するように壁を掴んで、フェンスに足をかけて、ゆっくりとした動きながら屋上へと戻っていく。

「……馬鹿!」

 私の体が全部屋上に収拾されて、最初に掛けられた言葉はそれだった。

 私は反論できず、その場で黙って座り込む。

 アカネは汗を拭って、その場で横になった。

 静寂が満天の星空に彩られた屋上に広がる。

「……アカネ、なんで助けてくれたの」

 星がどれぐらい瞬いたか分からなくなった頃、私から口を開く。アカネは星空を見つめたまま、静かに整った唇を動かした。

「愛おしいと思ったからだよ」

 嗚呼、この人はちゃんと質問の意味を理解している。

 聞きたかったのはあの時のことで、彼女は期待通りの言葉を返してくれた。

「……あのさ、あたし宇宙人って言ったじゃん」

「うん」

「宇宙人でもあたしはゴミ」

「なんでよ」

 私のことを一番分かってくれる貴女はゴミなんかじゃないと言おうとしたが、それはアカネの人差し指一本で止められた。

「ネタばらし。貴女が知りたかったこの世界の仕組み? できた経緯? そんなこと教えてあげる」

 そんなこと必要ないのに。この世界がどんなあべこべでもなんでもどうでもいいのに。それでもアカネは伝えたいのか、私の口を塞いだまま朗々と語りだす。

「この広い広い世界にはゴミ溜めみたいなのが存在する。それがあたし。宇宙に世界がいらないと決定づけられたのを棄てるのがあたし、みたいなものかな」

 ブラックホールみたいなのを想像してみる。それが正しいかはアカネに問えなかった。

「でもすぐに決めるわけじゃない。観測されて、要らないと烙印を押されなければ大丈夫。まぁ目をつけられた時点でもうだいぶヤバいんだけど」

(それに目をつけられたのが私だったら別にいいのに。アカネに吸収されるなら最高なのに)

「目をつけるのは世界だよ。あんたのところで言えばこの星全部」

 まるで私の心を見透かすかのようにアカネが返答する。

「あたしはこの世界を観測して、必要か不必要か判断することになった。そして、ここにたどり着いた日、茜を見つけたんだ」

 アカネの顔が柔和になる。愛おしいものを見つけたんだと言わんばかりのその表情に私の心が湧きたつ。

「あたしは茜の手をとって、本来観測用に使うはずだったこの世界に閉じ込めた。だってなんか、ね」

 言語が足りないのか、それとも言語化しづらいのか、そのどちらでも私はよかった。

「でももう駄目なんだって。答えを出しなさいってあたしがあたしに警鐘を鳴らしている」

 アカネの指先を私は手に取る。もう返答してもいいだろう。

「私はどっちでもいいよ」

 本当はアカネといつまでも二人っきりを望みたかった。でもそれはできないのは理解している。

 だからアカネの判断でいいと思った。どうせ不要だと烙印を押されても私だったら『はいそうですか』と受け入れられる。

 アカネはくしゃりと笑っていた。笑って私の頭を撫でて、それで。

「あたしは茜に生きていてほしい」

 私の願いと相反する言葉を口にした。

「この世界が、ううん、茜が生きている世界が大好きだ。この世界は必要なんだ」

 星がいくつも瞬いている。

 もう終わりなんだと思った。きっとこの星々が煌めき終わったら私は夢から覚める。アカネのいない世界で生きなきゃいけなくなる。

 そんなのはやっぱり嫌なのに、それを受け入れなきゃと私の心が理解しようとしている。

「ねぇアカネ、あんたはゴミなんかじゃない」

 いかないでの言葉の代わりに、思ったことが口に出る。それとともに私もそうなんじゃないかと思えてくる。

「あんたは気に食わない部分があるし、ずかずか入ってくるし、なんかよく分からないけど……でもゴミなんかない。私にとっては愛おしい存在だよ」

「茜も斜に構えてあたしを毛嫌いして、それでも愛おしいと思える存在だよ」

 互いに笑いあう。また会えるとは思わないけれど、この愛おしさを抱いていられればそれでいい。

 アカネがすっと立ち上がる。星空に一層大きい流星が一筋流れる。

 彼女は私に背を向けて、まるで先ほどまで私がやったことの再生のようにフェンスに手をかけその体を滑らせていく。

 一瞬だけ振り返る。その顔はこの世界で初めて会った時のような表情をしていた――……。




 チャイムが鳴っている。ゆっくりと目を開くとそこは茜色に染まった空だった。

 人々のざわめきがどこかで聞こえる。

 私は息を吐き出して、フェンスではなく、勝手口へと脚を向ける。

 私がなりたかった願望夢なのかは分からない。それでもふわりと投げ出そうとはなんとなくこの時は思わなかった。

(私が変わることなんてないと思うけど)

 アカネが愛おしいと思ってくれている、それだけで今は充分だった。

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観測者Aの随筆 紅藤あらん @soukialan

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