「茜はどこか見に行きたいところはない?」

「こんな世界歩いたところでどこも同じでしょ」

 軽口が私からするりと落ちていく。あれほど嫌だと彼女を敵視していたのに、いつの間にか彼女が家にいることに違和感をなくしていた。

(きっと餌付けだ)

 そう脳内で油断していなんだからオーラを振りまいて、アカネを見つめながらチュロスをかじった。

 アカネはここに来る前にどこかで食べ物を調達してくる。それはファストフードが主になっていたが、毎回少しずつ違っていた。渡されたチュロスの温かさに一瞬アカネが揚げたのかと疑ったが、彼女の顔を見て、生活感がないなと即座に否定した。

(行きたい場所……こいつの家、なんて思わないな)

 貴方の住処を教えて? なんて頭によぎったが、そもそも私自身に行く気がさらさらなかった。この微妙な距離感がもしかしたら心地いいのかもしれない。

「あんたはないの?」

「うーん……見てまわったし、今度は茜と一緒だとどうなるかなって」

「一人も二人も一緒だよ。二人のほうがいいなんて言う奴はそもそも一人でなんていたくない奴」

「なるほどね。その理屈だと茜は一人がいい派?」

「そうだよ。あんたが勝手にいるだけ」

 人といるのは煩わしい。面倒くさいことがよく起きる。

 それは元の世界で痛いほど知っている。そんなことを口に出せば、あんたも悪いんじゃない? とかあんたが悪いとかそんなこと言われたり言われそうで黙って一人になっていた。

(人のせいにして押し付ける奴なんてろくじゃない)

 息を吐きだしてチュロスをまた一口かじる。口内に広がった苦みが甘みで上書きされていく。しかしそれは仮初だと私は感じていた。またすぐ苦みが現れて喉を締め付ける。

「茜はそれでもあたしがいること許してくれるよね」

「許してなんかない。言ったでしょ、勝手にいるだけ」

「それでも本気で拒絶しない」

 ならそれを証明してやろうか。

 なんて思うのに手はチュロスを地面に叩きつけない。握ったままでアカネに掴みかかろうともしない。

(許しってこんなことなのかな……)

 また出てきた苦みをチュロスで上書きする。

 私は何を許しているんだろう。

「ねぇ、茜。行きたいところがないなら気ままに散歩してみない?」

「まだその話題続いていたの」

「うん。運動がてらいいでしょ」

 そう言いながら私の手から残り少ないチュロスを口で直接横取りする。アカネの口内に消えたチュロスを、私は若干呆気にとられて見つめていた。

 彼女の唇が付着した砂糖をなめとる。

「よし行こうか」

「行こうか、じゃない! あんた何やってんの」

「茜の手伝い?」

「いらない」

「もしかして取られて怒っている?」

「そういうガキくさいことじゃない!」

 常識的に考えて今のは絶対にない。

 そう言葉に出そうとしてはたと止まる。

 そもそもこの世界はちぐはぐで常識なんてないような世界だ。

(いや、やっぱりありえないわ)

 友達でもないのに、人が食べていたものをその人物の手から食う奴なんて頭がおかしい。

 自然と口からため息がこぼれる。しかしそのため息に苦みは含まれていなかった。

「女子高校生はカロリー気にするんでしょ?」

「なんで私が女子高校生だと思ったのよ」

「だって恰好がそうじゃない」

 アカネの人差し指が私の制服を真っ直ぐ指差す。白い半そでシャツに紺色のプリーツスカート。飾り気もないシンプルな装いだが、私にとってはとても窮屈だった。

「こんな格好なんて制服だけじゃないでしょ」

「茜のはコスプレとかじゃないでしょ」

 そうだけど、の言葉は飲み込んだ。代わりに鼻から息を漏らす。

「ねぇ行かないの?」

「あんたは大学生ぽく見えるのに、中身は小学生だよね」

「童顔ってこと?」

「中身がガキだって言ってんの。外見は大人」

「そう」

 アカネの口元が猫のようににやついたように見えた。一瞬だけ本当は私より年下ではないかと勘繰ったが、やはりそうには見えなかった。

 アカネはよく分からない旋律を鼻にのせて、数歩進みだす。そしてぴたっと止まってはちらりとこちらを見つめてきた。

 また数歩進んでは止まって顔だけはこちらに向ける。

 いかないのかと目で訴えていた。

「………ああ、もう! 分かったから」

 三度目の振り返りで心が折れた。数十歩先のアカネを大股で追い越して、先ほどされた振り返りをお見舞いする。彼女の顔はそんな私の姿に子供のように瞳を輝かせた。

「どこ行く?」

「あんたが決めれば」

「そうだなぁ。とりあえず歩いてみようか」

 夏の日差しの中、二人の影が当て所なく揺れる。アカネはしきりに話しかけてくるかと思ったが、鼻歌をワンフレーズこぼしたきり静かになった。

 アスファルトを踏みしめる音だけが無人の街に響き渡る。

(一人でも二人でも一緒じゃない)

 慣れあうわけでもなく、ただ隣で歩いているだけ。それが心地いいと感じる心には目を瞑った。

「あ、線路」

「うん? どうかした?」

 こぼれた私の声にすかさずアカネが反応する。わざと黙って様子を窺っていたかもしれないことに気づいたが、私の目は真っ直ぐ伸びる線路にくぎ付けになっていた。

「気になるの?」

 私の気持ちを代弁するようにアカネが私の視線の先を追う。ただただ伸びる線路の先には何もない。電車の来る気配はやはり感じられなかった。

 私の爪先がゆっくりと枕木にのる。まるでつり橋のようにその枕木の上だけを自然と歩いていた。

 アカネもあとに続いて線路へと足を踏み入れる。彼女は最初こそ同じように枕木の上を歩いていたが、途中から平均台に乗るかの如く、線路の上を悠々と闊歩する。

「茜ってここに何か思い入れあるの」

「ない」

「ならここを歩きたくなった?」

「うん」

 素直な返答がするりと唇からこぼれ落ちる。

「なんか、惹かれた」

 堰をきったかのように言葉がするすると落ちていく。自分の思考より先に言語が勝る変な感覚。

「絶対歩けないじゃんこんな場所。それにこの先何があるんだろうって思った」

 線路の先は線路なのに。やがていつかはどこかの駅にたどり着くしかないのに。まるでこの先に何かが待っているかのようで、少しだけ滑稽で、それ以上に歩ませる何かがあった。

「かっこいいじゃん」

「笑えば。クサすぎって」

「あたしは好きだよ、そういうの」

「ああ、そんな気がする」

 クサいこと好きそうだし、いっぱい青春らしいことやってそう。学祭も体育祭もリーダー格でみんなを引っ張っていく姿が易々と想像できる。同じクラスだったら私なんかにも手を差し伸べてくれそうな……。

(なんか今)

 脳裏によぎった妄想が現実のような……。

「茜魂とんだ?」

 はっとすれば間近でアカネの双眸が覗きこんでいた。手は後ろに組まれ、こちらに差し出されてはいない。

「とんでない。てか近い」

「ああ、ごめんごめん」

 こいつが元の世界にいたら嫌でも忘れないはずだ。一瞬だけ過った空想を頭からかき消す。

 彼女が私に手を差し出すことなんてなかったのだ。

「あんた学祭とか好きだったでしょ」

「学祭……」

「体育祭とか学校行事」

 突然の私の問いかけにアカネが明確に逡巡する。今まで見たことのない反応に私は思わず面食らってしまった。

 地雷でも踏んだだろうか。本当は学祭も体育祭も出られない病弱でこの世界に来てやっと自由を得たとか。

(イメージできないな)

 ベッドの上でじっとしている姿はアカネには似合わない。

 ゆっくりとアカネの口から息が漏れる。その顔は初めて自分と似ていると思った。

「茜は学祭って好き?」

「大っ嫌い」

「はは、そうなんだ」

「あんた知らない、とか?」

 問いかけた呼気は覇気を失っていた。

 私の言葉にアカネの瞳が見開かれる。初めて見る表情ばかりがアカネの顔を彩って私の心臓が縮んだ。

 似合わない。どの表情もアカネらしくない。

(らしくないってなに)

 彼女のことなんて知らないじゃないか。

 全てが推測で、私が描いただけの彼女の像。想定外の表情をしただけで彼女らしくないなど尊大にも程がある。

(私だって嫌いじゃないか)

 誰かの思い描いた私の型にはめられて、少しでも違うのならば否定されて……私は私なのに。

「茜はあたしのこと、大学生だと思っているんだよね」

「外見がそう見えるだけ。社会人もありえそう」

 言葉を重ねるごとに心にさざ波が立つ。すべて推測なんだと痛感する。

 アカネの足が不意に止まる。視線の先には短いトンネルが鎮座していた。遠くに見える光がどこか別の場所に連れて行ってくれそうだ。

 私の足がその先に行くのを躊躇していた。この気持ちのままこの先に言ってはいけないと体が拒絶を示しているようで足が鉛のように重い。

 それでもアカネは軽やかに私の手を掴んで前へ進もうとする。

「休憩はこの先でしよう。水の音がする」

「あんただけが行けばいい」

「なんで?」

「私に行く資格なんてない」

「茜はあほみたいに自分に制限をかけて行動していくの?」

 彼女の言葉に面食らう。

「誰かに迷惑さえかけなければ好きに行動していいでしょ。資格なんて法やルールで制限されていないかぎり元から持っているものでしょ」

「元から持っているなんてすごい発想」

 笑ってやろうかと口角を上げたが歪な形しかならない。滑稽なのは自分だ。

(私が映画の登場人物だったらよかったのに)

 きっとそんなドラマチックな場所で産声を上げた生命なら、きっとこの言葉で救われて一歩踏み出せる。でも私はただの私だ。

「ああ、私が別の何かだったらよかったのに……」

 言葉が勝手に溢れ出して微かな声になる。

 目の前のアカネがなんとも言えない表情で見つめている。

「茜はあたしのこと大学生か社会人って言ったね」

「何度繰り返すのその話」

「だったらあたしが宇宙人だって言ったら……」

「は?」

 突拍子もない言葉に全身から力が抜ける。その瞬間をアカネは見逃さず、強い力で私の腕を引いて駆け出した。

 私がつんのめりそうになるのも気にせず、トンネルの中を駆け抜ける。

 一瞬だった。

 その先にあったのは鬱蒼とした草と中途半端に整備されて放棄された水路だった。

 何を怯えていたのだろうかと肩の力が抜ける。

 草木が揺れるその穏やかな光景は、私を拒絶するものではなかった。寧ろ、放棄されたこの場所はまるで自分のようだった。

 宇宙人だののたまったアカネも黙って水路を見つめている。

 その横顔がとても綺麗だった。

「ここで休憩しようか」

 こちらを見ず、アカネは淡々と言葉を紡ぐ。その唇も綺麗だった。

「……そうだね」

 あんた、宇宙人になんて見えないよ。

 その言葉を飲み込んで頷く。今はなんとなくこの場所で静かにしていたい気持ちが湧いた。

 アカネは靴を脱いで素足を水路に浸す。私はその横で大の字になって横になった。鬱蒼と生い茂る枝葉の隙間から青空が覗いて、悠々と泳ぐ白い雲はいつかの空を連想させた。

「茜は宇宙人のこと訊いてこないんだね」

「訊いてほしいの?」

「そうだなぁ……うん、訊いてほしい、かも?」

「そんな中途半端なことなら訊かない」

 あんた宇宙人なんて信じてないから。

 出逢った頃に言われていたらすんなりと受け入れて余計に警戒していた。でも今は。

「あんたのことが知りたいよ」

 宇宙人とか、そんなことじゃなく、アカネとして、知りたい。

「あたしのこと、か」

 アカネの足が水を跳ね上げる。私の位置からでは見えなかったが、きっときらきら輝いていたことだろう。

「宇宙人は嘘じゃないよ」

「…………そう…………」

「もっといい反応してもよくない?」

「私にリアクションを求めないで」

「まぁ、それもそうか」

 もっと突っかかってくると思ったが、アカネはあっさりと引き下がった。そっと顔を覗けば水路の対岸をぼんやりと見つめている。

「宇宙人って人間みたいなんだね。もっと変なの想像してた」

「宇宙人も色々だから」

「あんたのそれ、本当の姿?」

 アカネの口が堅く結ばれる。

(本当の姿じゃないんだな)

 多分よくある人間に模した姿なのだろう。宇宙人が本当であるのなら。

「あんたはこの世界がこうなった理由知ってる?」

 アカネの口は開かない。知らないのなら知らないとはっきり言いそうな彼女だ。きっとこの世界が何なのか知っている。

(でも暴き立てて何になるのだろう)

 私は糾弾するだろうか。それともその事実を受け入れるだけだろうか。

 何も分からない。

「……茜はこの世界どう思う?」

 声音は微かながらそこに芯が宿っていた。

「正直……元の世界より生きやすい。呼吸がしやすいっていったほうが正しいかな」

 この世界に受け入れられていると錯覚した時もあった。アカネが現れて苛立ちやもやもやした感情が渦巻いた時もあったが、それでも今ではこの世界に愛おしささえ感じていた。

「もしかしてあんたが作ったの?」

「そうだよ」

 返答はあっさりとしていて私は一瞬呼吸するのを忘れた。瞬きもできず、アカネの横顔を凝視する。

「なんで私だけ残したの?」

「それは違う。茜は自分以外の人間があたしの手によって消されたと思ったでしょ」

「そりゃ宇宙人なんて言われればそんな発想になるよ」

「あはは、それもそうか」

 アカネの笑い声にいつもの雰囲気が混ざる。やっぱりアカネは他人の領域を無視して入ってくる明るくてこざっぱりとしたほうがいい。

「あたしはそんなことできないよ」

「でもある意味できてんじゃん」

 私とアカネ以外この場所には誰もいない。

「それもそうだね。でも誰かに手を下したりはしていないよ。現状はね」

「未来にはそれもあり得るってこと?」

 上体を起こす。アカネの手を掴んで、私の喉元にその綺麗な指先を這わせる。

「茜は絶対に殺さないよ」

 アカネの人差し指が私の喉仏をなぞる。その指先は割れ物を扱うがごとく優しいが、声は決意に満ちていた。

 一瞬だけ、瞬きの間に眼の裏に映った幻影の如く、何かが頭を掠めていった。それはまるで私自身が命の危険に晒されるかのような暗示に見えて、気づけば空いている左手を強く握っていた。

「よかった。茜はちゃんと死が怖かったんだ」

 至近距離でアカネの安堵のため息を受け止める。握った手を慌てて開いたが、アカネにはすべてお見通しだった。

 空気が和らいてアカネの手が首元から離れていく。掴んでいる理由をなくした右手は力なく解け、二人の間に距離が開いた。

「私は別に死に恐怖なんて感じてない」

 負け惜しみのような声が私の喉から漏れて、今度は私の手で首を撫でた。今目の前でアカネに自身の首を絞める姿を見せれば説得力が表せられるが、指先に力は入らない。

 アカネもそれを分かっているのか、慌てるような素振りは一切見せない。

 空しくて意味のない行為に私の手はすとんとコンクリートの上に落ちていた。

「……ほんと、馬鹿みたい」

 蚊のような声にアカネは肯定も否定もせずただ受け入れている。

「なんで私ってこんなに生きるのが下手なんだろう」

 ずっとずっと思っていたことが初めて音となってこぼれた。

「人間ってみんなそうなの?」

「うまい人はうまいよ。ただ私が下手なだけ」

「そっか。だから茜のことは」

 そこまで言い切ってアカネは口を噤む。まるで言ってはいけないと無理やり閉ざしたようで、私は指先で彼女の唇をなぞっていた。

「いいなよ」

「なんか茜自棄になってない?」

「なってない。私は吐き出したんだから、あんたも全部いいなよ」

「やっぱり自棄じゃん」

「自棄じゃない」

 気に食わないんだよ。

 私の指先が無理やり口内に侵入しそうな気配に、アカネは観念したのかちょっと待ってとジェスチャーで示した。私はゆっくりと指先をアカネの唇から離すと、彼女はすぐさま先ほどの続きをその形の整った口に乗せた。

「愛おしいと思ったんだよ」

 目玉がとれるかと思うほど目を見開いていた。

 人生で愛の言葉を言われたのは初めてだった。しかも宇宙人を自称する、世界で二人になった相手に。

「初めて茜を見た時から、とても愛おしかった」

 聖母のような笑みがアカネの顔いっぱいに広がる。

 そんな顔、向けられたことなんてない。

「最初に見たのが、茜でよかったと思っているよ」

「最初に見たのが別の人だったら……」

 私はこんなにもこの人に愛されただろうか。

 そういった趣旨のことを口に乗せようと思ったが、アカネは別のことを思ったのか、聖母の笑みを消し、真顔で私を見つめていた。

 踏み込んではいけないと思った。

 聞くのが怖いと思ってしまった。

「……帰ろうか」

「うん」

 力ない声に微かな返答。

(愛されている、とは違うけれど)

 あなたに愛おしいと言われたことは嬉しかったよ。その言葉を口には出さず、私はアカネの手を握る。

 アカネもそれでいいと思ってくれたのか、無言で握り返して歩き出した。

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