何日間ぼんやりしていたか。行動範囲は『家』周辺にとどめることにした。あの女にはもう二度と会いたくはない。この世界で人との再会などろくなことではない。

(もとから人となんて会いたくないけど)

 緩慢な動きで『家』から出て、近くの『スーパー』に顔を出す。もちろんレジには誰も立ってはいない。私がお金を出すこともない。

 他者の家に入ることはやはりいまだに抵抗があって、食料調達はここのスーパーと決めた。コンビニでもよかったが、なんとなくスーパーの在庫のほうが多彩に感じた。

 補助食品を手にとり、レジを一瞥して半開きの扉から抜け出す。その場で食べることはせず、『家』に持ち帰ってから封を開ける。

 中身が腐っている、なんてことはまだ一度も遭遇していない。開ければ想像どおりの、人がいた時と同じ形状がそこにあった。

(でも生ものには手出したくないな)

 長方形の固形物を前歯で嚙みきる。片手で数えられるほどの咀嚼でその日の食事は終わった。

 やはり空腹感はほぼない。喉の渇きもそう感じない。

 意識しなければ食事の回数はもっと減っている。

(あいつに指摘されたからじゃない)

 意識的に食事をしている事実から目を背ける。あの女はいない。ここにはいない。

「そんな食事で足りるの?」

「っ!」

 嫌な声が背後からした。無視しようにも彼女の存在感は大きく、私は目じりを釣り上げて振り返る。

 あの女がにやにやして背後に立っていた。手に持った紙袋二つを私に見せつけるかのようにひらひらと揺らす。

「不法侵入」

「うん? ここもしかしてあなたの家?」

 そうですけど、と言ってやりたい気持ちがあったが、言葉にしてしまったらまた私をかき回す何かを言われると思って口を噤む。

 本当の家はほかにあるでしょ、とか、こんな場所住む場所じゃないでしょ、とか。とにかく色々。

(いてほしくないんだけど)

 さっさと出て行ってよと無理やりこの場から立ち去らせたい。それなのに私の身体は動かず、女の不法侵入を暗に許してしまう。

 彼女は私の圧を全く感じないのか、ソファーの端にどかりと座る。

「ん」

 ひとつの紙袋を差し出される。何の変哲もない茶色い紙袋の底には何かが詰まっているようだった。

「これ、あなた用」

「いらない」

「いらないって言うならあたしが一人で食べちゃうけど?」

「いい。食事終わったから」

 それが? という言葉は戻ってこなくて、彼女は自分用の紙袋を漁る。

 出てきたのは紙に包まれた円形の何か。いや、何かじゃない。私はその中身を知っている。人がいた頃にはたまに食べていた。

 彼女の綺麗な指先が包み紙を剥がし、中からハンバーガーが出てくる。バンズはふわっとしていて、肉や野菜もしっかりしている。どこから調達してきたんだと思うそれを彼女は躊躇なく口に運ぶ。

 高揚した頬、満足そうに漏れる声。続けて紙袋を漁れば、今度はドリンクが出てくる。

(それ、魔法の紙袋かよ)

 思わず胸中でツッコミ、そんな自分に少しだけ嫌悪感を抱く。いけない、この女のペースに呑まれている。

「ポテトまで入っているのかよ」

 ツッコまないと決めた矢先にポテトまで出てきたら我慢できなかった。無人のこの世界でまさかセットが出来上がる光景を見るなんて思わなかった。

「あなたの分もちゃんとあるよ」

「だからいらないってば」

 毒づいた口に一本のポテトが投げ入れられる。揚げたてというわけではなかったが、注文したら出てくるポテトのクオリティだ。

 懐かしい、と思ってしまった。

「ほら、もう一本」

「いらないって、うぐ」

 無理やり追加のポテトが投入される。それを嚥下すると臓腑が喜ぶ錯覚をした。この世界になってから初めて食べ物を欲している。

(くれなんて言えない)

 この女に頭を下げたくない。腹よ鳴らないでくれと願うが、それよりも先に喉が渇きを訴えた。

「はい」

 女は私の身体の訴えが聞こえているか、ストローの先を差し出す。私はそれを恨めしそうに見つめていると、とどめとばかりに女は自分のドリンクを飲みだした。

 こちらを見ず、欲しければどうぞと言わんばかりの慈悲は腹立たしさを増幅させる。しかし身体は心とは相反して素直でそのドリンクを受け取っていた。

 かるい炭酸と爽やかな風味が喉を滑り落ちていく。

「あんた、この食べ物に何か仕込んだ?」

「うーん……愛情?」

 馬鹿らしい。

 そう思ってしまうとすべてのことが馬鹿らしく思えてきた。意地を張っていることも何もかも。

 私のだと言っていた紙袋を奪い取る。開けばバーガーの包みとサラダまで入っていた。それを礼も言わず、ただただ無心で貪る。

 お上品さとはかけ離れたその食べ方は、きっとほかに誰かがいたらやらなかったであろう。元の世界でなんてやったことがない。

 口の端にソースがべったりついていることなんて気にしないで貪っていると隣の空気が和らいだ気がした。そっと横目で女を見ると穏やかな顔で私の食いっぷりを見ていた。

「見ないで」

「ああ、ごめん」

 短く謝って女は私から視線を外す。彼女は既に食べ終わっていて、手持ち無沙汰に空の紙コップをぺこぺこと押しつぶしていた。

「これ、どこから持ってきたの」

 ぼんやりと日の光を見つめていた彼女が物悲しげに見えたわけではないと自分に言い聞かせつつ、女に声をかけた。

「あった」

「あったって……こんな世界でこんなまともなものあるわけない。作ったとか、どこかの店舗がやっていたとか」

「店舗はやってないねぇ」

 女の手の中の紙コップがひときわ大きい音を立てて潰れる。

「さて、どうやってあたしはそれを手に入れたのでしょう」

「私が聞いているんだってば」

 唇を突き立てると女は含み笑いをこぼした。おちょくられていると思ったが、なんとなく小馬鹿にしているようには感じなかった。

 女はぺこぺこになった紙コップを紙袋に投げ捨て、腰を持ち上げる。二歩ほど歩き、くるっとターンをするとにっとした笑みで私の顔を覗き込んだ。

「あなた、名前は?」

「は?」

「聞いていなかった」

「先にあんたが名乗れば?」

 急な方向転換についていけない。女にとっては脈絡があるのか、その唇から迷うことなく単語をこぼした。

「アカネ」

「は?」

 剣呑な声が思わず漏れてしまったが仕方ない。その三文字はとても馴染み深くて、それでいてなんとなく嫌いで、この女の名だとは思いたくなかった。

「名乗ったよ。あなたは?」

「……茜」

 言いたくなかったが、言わざる負えない圧を感じて、私は観念して自分の名を名乗った。その音がこの女と同じ音に感じない。

 きっと彼女の音は晴れやかな秋晴れの夕暮れのような色をしているのだろう。対して私の音はとてもくすんで淀んでいる。

「茜ちゃんかぁ」

「ちゃん付しないで」

「なら茜、だ」

「あんた自分と同じ名前なのに言うのに躊躇しないんだ」

「だってあたしはあたし、茜は茜、でしょ」

 よくドラマとかで聞く台詞がアカネの口から零れ落ちる。その声が、その表情が、その台詞に合っていて、アカネは選ばれた者のように見えた。

「茜、明日も会いに来ていい?」

「断っても勝手にくるでしょ」

「そうだね」

 悪びれずにアカネは言って、片足で三歩ほど進む。もう別れの雰囲気だっけ? と空を見上げれば、私と彼女の名の色が空には広がっていた。

(ちぐはぐだな)

 初めてこの世界が現実とはかけ離れていると実感したが、彼女に言うほどでもないと閉口する。

 アカネはいつの間にか私の紙袋ごとどこかに捨てていて、からの手のひらをこっちに振っている。

(外見は成人しているのに、まるで小学生みたい)

 全部がちぐはぐ。きっと私もそうなのだ、と黙って黄昏を見つめた。

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