観測者Aの随筆
紅藤あらん
1
世界が逆転している。下に星々が見えて、私はそこに落ちていく。綺麗だな、なんて感傷はない。ただ落ちていく。ただただ落ちていく――
その日は突然やってきた。正直その時のことを私ははっきりとは覚えていない。気がついたときには私は一人だった。
知り合いが誰もいないとか、この場には自分しかいないとか、そんな次元じゃない。
自分を除いて人間がいなくなっていた。
コンクリートの道、マンション、地下鉄、どこにも人の気配はなかった。
静寂がこんなにも耳に痛いことを初めて知った。音がないことに違和感が纏わり付く。爆音で音楽を流したくなったが、そんな都合のいいものは持っていなかった。
(私が歌えばいいのか?)
なんて一瞬頭によぎったけれど、それこそ完全に自分がイかれてしまったかに思えて口を噤んだ。とりあえず静寂の中を黙々と歩く。あてはない。
この世界は私が生きていた場所だ。だからこそ目的地を決めて歩を進められるはずだが、その時の私の脳内は空っぽだった。ただただプリーツのスカートを揺らめかせ無人の道を歩いて行く。
太陽の輝きは炎天下のそれで。渇きも暑さも鈍った私の頭に浮かんだのは『ああ、夏だったな』の数文字。
やがてその輝きも西に消えて、私は古びたソファーに横たわった。野ざらしのそれに通常だったら絶対に腰を下ろさなかっただろうが、今の私には丁度良い寝床に見えた。何となく、知らない家に上がり込んでそこのベッドを使う方が嫌だった。
人がいた頃より何百倍も輝く星々をぼんやりと見つめ、瞳を閉じる。起きたら元に戻っていたらいいなんて考えは浮かばない。
(明日は掛け布団でも探してこよう)
そんなことを考えていた。多分このとき既に、この世界はこのままだろうと直感で気づいていたのだ。
何日目かなんて最初からカウントしていなかったから、今日が何月何日かなんて想像できない。想定できることは夏の日で、そして目の前にあるのは学校だ。
空き家に入ろうとする気は全く起きなかったが、その施設には何となく足が向いた。寝床としている古びたソファーには掛け布団とは言い難いシーツがもう既にかかっていたが、もしかしたらちゃんとしたシーツが欲しかったのかもしれない。
無人の廊下は光が燦々と降り注ぎ恐怖は全く感じなかった。
もしかしたら私の感情が欠落しているだけかもしれないが。
自分の心が欠損しているかもしれないと思ったのは数日経過してからだった。多分普通の人間がこの環境に置かれたら数日と経たずに発狂する。しかしながら私にその気配は全くなかった。
受け入れた、というわけではないと思う。ただあるがままに私もその中に入ったような……どちらかといえば世界が自分を受け入れたかのような……。
そこまで思って私の唇から乾いた嘲笑が洩れた。おかしいと心の底から思わなかったが、何となくその思考が笑うに値すると思ったのだ。
(馬鹿みたい)
踊り場で軽くターンをしながら自分自身に毒づく。
(おかしい)
誰も追いかけでこない階段を一人で駆け上がる。
(私は)
目の前に鉄の扉が見えてきて、私はそのままの勢いでそこに肩からぶつかった。鈍い音を立てながら扉がほんの少しだけ開く。
(施錠していないなんて無防備じゃん)
身体全身に力を込めると重さはあるものの抵抗なく屋上への道が開いた。高すぎる青空に転々と浮かぶ空はまるで映画のワンシーンを彷彿とさせた。きっと感動のシーンやこれから始まる印象的なシーンであろう。
「そんなの私にはないけどね」
誰にともなく呟く。これが始まりのシーンなら私は人がいなくなってすぐにこの場所に来たはずだ。薄汚れたシーツも古びたソファーもいらない。
ばたばたと風が私の黒髪を揺らす。もう帰ろうかと私は思ったはずなのに、ゆるゆると屋上の中心に向かい、気づけばそこに腰を下ろしていた。
静寂な校舎は……何となく呼吸がしやすい気がした。
膝を抱えて眼前の風景をただただ見つめる。
何時間経ったのだろう。それとも全く進んでいないのだろうか。天上の光量は変わらず、私の中で時間の経過が狂い始めたからなのか、私はその場に倒れ込んだ。有名な青春映画のワンカットのようなその動き。
(いや、そんな映画観ないけど)
伸びをしてそのまま脱力したところで、視界の端にコンクリートの塊が見えた。錆び付いた心もとない梯子を見つけ、さらに上に行けるんだなとぼんやりと思う。そのコンクリートの縁を視線でなぞると突然悪寒が襲いかかった。
勢いを付けて上半身を起こす。それでも視線はそこから離せなかった。
ジーンズがだらりと垂れ下がっていた。その足先にはしっかりとスニーカーを履いていて……。
(誰かいる)
脚しか見えないが、その先には人の気配を感じた。ぶらぶら揺れているその足先を凝視していると緩慢な動きでそれがコンクリートの上へと消えた。
「驚いたって顔してるね」
からからと笑い声が降ってきて、その者がひょっこりと顔を出した。
肩口まで伸びた髪は無造作で、しかしながら本人のからっとした笑顔に似合っていた。
誰もいなかったこの世界で、私はその女性と初めて出逢った。
「おーい。びっくりしすぎて魂とんだ?」
「とんでない」
「ならよかった」
女がにっかりと笑う。その白い歯がこの世界を撮影風景に変えたようだ。このままドッキリ成功です、なんてカメラを持った大人達が駆け込んできても、カットという言葉が飛んできてもおかしくはなかったが、そんなことはなく風が吹いただけだった。
「よっと」
勢いをつけて女が降りてくる。もはや飛び降りの類いだが危なっかしさは全くない。私の眼前に立ち、そのスタイルの良さと背の高さを見せつけた。私自身も背の順だと後ろの方ではあったが、女の背丈は高身長のモデル並だった。白Tシャツと細身のジーンズとスニーカーの装いも決まっている。
「ずっとぼんやりしてたよね?」
「……いたなら話掛ければ?」
声を掛けられるのはあまり好まないが、じっと見られていたよりましだ。扉を開閉すればさすがに気づいただろうから、彼女は私がここに来る前からそこに佇んでいたのであろう。
「なんとなく、見ていたくてね」
「悪趣味」
「青空をバックに佇む女子高校生なんてなかなか絵になるでしょ」
「あんたのほうが絵になるじゃん」
睨みつけるように女の頭から足先までをなぞったが彼女は分からないのかきょとんとしていた。
(あ、こいつ一部の女子に嫌われるタイプだ)
外見もいいし明るいからきっとほとんどの人は好いてくれるだろうが、影で一部の人間に囁かれる雰囲気があった。
(まぁ私は一部どころじゃすまないだろうけど)
なんとなく居心地の悪さを感じ始めて私は足を踏み出していた。女の横を通過して、重たい扉に手を掛ける。
振り返ることは絶対にしない。空の青も流れる空気にも未練はない。ここは居心地の悪い場所になってしまったのだ。この女のせいで。
重たい扉に力を込めれば、女の手がすっと伸びてきて、二人で扉を開ける形になってしまった。それでも私は彼女を無視して、階段を下る。なんとなく忙しく下りるのは彼女に負けた気がして、普通の速度で一歩一歩下っていく。
彼女は三歩後ろをついてきた。振り返ることはしなかったから彼女がどんな表情で、どんなステップを踏んでいるかは分からなかったが、存在はひしひしと感じた。
(最悪)
歩調は早めないつもりだったのに、自然と前傾姿勢をとっていた。荒々しさも出ているだろうが、きっと彼女は気にしていない。
(あそこにいたのなら、ずっといたらいいのに)
場所を譲ったのだ。私は関わりたくないのだ。なぜ、分からないのかな……!
「あのさぁ!」
「何?」
耐えきれず、もう少しで昇降口といった場所で振り返ってしまった。
彼女は驚きもせず穏やかな顔で返事をする。
「なんでついてくるの」
「あなたに興味があるから」
「私はあんたと関わりたくない」
ずばりと切り捨ててから、彼女の存在を消すかの如く顔を背ける。それなのに彼女は私の気持ちなどお構いなしに手首を握ってきた。
体温はそれほど高くなかった。
「細いね。食べてる?」
別にこの程度は平均だろう。もっと細い奴もいた。美容に気を使った奴や、やたら細い海外アーティストを憧れにしていた奴。彼女らの口からはよく痩せなきゃ、ダイエットしなきゃといった言葉を聞いたが、私はそんなこと考えたこともない。否、多少は気にしたこともあったが、実践したことはない。
思わず彼女の手首を見てしまう。多分同じぐらいだ。
「あんたはこの世界で何を食べているの」
「あなたと同じものじゃないかな?」
同じもの。常温でも大丈夫そうな保存食を彼女も適当に見つけて食っていたのだろうか。
そもそも私はこの世界に来てから何度食事をした?
突然浮かび上がった疑問に胸の内側がぎゅっと縮んだ気がした。指を折り数えるのが怖くなる。三食しっかりなんてしていないどころか、数えようとしたら数えられる程度しかしていない事実に今気づく。空腹はそんなに感じない。むしろこの環境になってから空腹感なんて感じただろうか。
私がここに受け入れられたという感覚がいやに恐ろしいものに感じられた。体を塗り替えられている。作り変えられている。
「おーい、大丈夫?」
「…………」
大丈夫に見えるの? そう言ってやりたい。のに、唇はうまく動かない。
この場所は以前より居心地のいい場所のはずだったのに。
この女が全てを暴いていく!
「消えて」
言えたのはそれだけだった。私は全力で駆け出して女から距離をとった。これ以上一緒にいたら絶対よくない。
気が付けばあの薄汚れたソファーの前にいた。
(ああ、家に帰ってきた)
それだけを胸に抱いて、私はベッドとは言えぬそれに丸くなった。
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