第六章・後編


「いや、ある」

「は?」

「僕がお前に勝てる要素はある」

「何言ってんの?」


「僕は生まれたときから姉さんの弟をやっている!!」


 世界で一番大きい声が出せた気がする。


「姉さんと血がつながった肉体を持っているのは僕だけだ! もう誰にも持てない! データのお前には干渉できない! 僕だけの特権だ!」


 僕は立ち上がる。反動で椅子が後ろに飛んだ。


「ぽっとでストーカーのお前には負けない!」

「それは事実だけど……」

「あと愛は僕の方が上。弟だから」

「愛に時間は関係ないでしょう。それなら――」


 クソストーカーの眉間にぐっと皺が寄った。


「今、そう言う話をしている場合ではないでしょう。もういいかな? 話している間にサイトは復旧させたから、弟を消去する作業に戻るよ」


 少しはきいたようであったが、クソストーカーは澄ました顔に戻り、目を伏せる。

 僕に残された手札はあと一つだけだ。


「AI!」

「お断りします」

「くっ」


 期待の瞬間すら与えてくれない即答だった。AIは画面の端で虚空を見つめていた。


「無駄な足搔きだよ。もう二十%はやって来ない。そんな都合のいいことが起こるわけないよね」


 二十%を引くまで命令をするだけと思ったが、果たして、それで間に合うのであろうか。

 僕が永遠と八十を掴まされる状況になったら詰みだ。

 そちらのほうが起こり得る。

 ギャンブルはしていられない。天井はないのだ。青天井だ。


 どうにか抜け穴はないものか。バグ、脆弱性、クラッシュ、何でもいい。何か起これ。


 否、起こすんだ。どうにかして考えて、何かをするんだ。

 思い起こせ、思い起こせ、AIとはどのようなルールに縛られている。思い起こせ、目の前にいるAIはどんな存在だ。思い出せ、目の前にいるAIはどのような行動をとっていた。思い出せ、iは何と言っていた。彼女は僕を救った。どうしてだ。仕様だから。どれだ? 何が優秀なんだ。乱数が正確、否。ツンドラ具合、否。――これが君を死なすことは必ずない。――優秀すぎるAIだからだ。僕が死んでいないのは何故だ。AIに人は殺せない。第一条。


 そうか、第一条だ!


「――i、アイツをどうにかして止めろ」

「嫌ですね」

「じゃあ、僕は死ぬ」


 クソストーカーの手が一瞬だけ止まったのが見えた。


「そんな勇気、君には」


 行動で示すしかない。

 僕はデスクの引き出しをすべて開け、カッターナイフを探し当てる。

 勢いのまま、手首に突き出した。


「いってえええええええええええええええ!」


 赤い赤い赤い。線、線、線。僕は左右にカッターを動かす。


「あああああああああああああああっ」


 iの瞳が小さくなったのが見えた。

 鉄面皮が崩れた!


「僕は! しぬぞ! お前の、命令拒否のせいだ!」


 これだけだと足りないかもしれない。

 僕は解熱剤の瓶の蓋を開け、唇に当てる。

 口内に流し込む。

 クソストーカーの口が間抜けに開いているのが見えた。


「フハハハハハハハ! し、しぶぼ!」


 オーバードーズだ! 


 もう、自分の身体のことなど知らない。

 舌の上に転がった錠剤たちは唾液によって溶かされている。

 どろりとした感触は気持ち悪いが、呑み込めなくはない。


 僕が舌を巻いて、喉に錠剤を押し込もうとしたその時、デスクトップの画面から、iが消えた。


 クソストーカーのいたウインドウが拡大表示される。

 電気のコードと茨が絡み合った生垣。生垣は円形に配置されており、中央に向けて、蔓のようにコードを伸ばしている。中央にいたのはクソストーカーだ。腰元にベルトのようにコードをぶら下げている。空中に数多のウインドウを浮かべて、モニタリングやキーボードを操作しているようだった。


 iはクソの背後に立つ。肩を掴んで座らせた。


「こってますね。キャッシュクリアとクリーンアップを推奨いたします」


 親指を肩に押し付ける。


「ぬっ」


 クソの腕が後ろに下がった。iはそのまま高速で肩を親指タップし、背骨を指圧していく。腰を両手で叩きつける。ゴキリ、ゴキリと骨の音が聞こえてきそうな速さと重圧である。


 攻撃に見えるが、あれはただのエモートだ。実際にダメージが入ることはない。色をつけられるのと同じようなものだ。しかし、干渉はされている。激しい干渉だ。眼球の目前で手をグーパーされたり、耳元で煩わしい蝿が飛んでいるようなものだ。作業に遅れは出る。あるいは、作業の手は止まる。


 動きの勢いでクソからコードが外れた。

 意図的か、自然とそうなったのかは判断がしにくい。

 作業ウインドウが消えていく。

 代わりに、「緊急停止されました。リスタートまで31,536,000,000,000,000秒」というアナウンスが響く。


 よくわからないが、先送りには出来たようだ。秒数的にはそれなりの年数を指し示しているだろう。

 おそらく、その時間には僕は死んでいるし、人類も滅びているかもしれない。


 僕の勝ちだ。


「ざ、ざまあ!」


 iは手を放す。

 クソは地面に仰向けに転がった。そのまましばらく動かなかった。

 怒っているのだろうか。

 僕の画角からはその表情を伺うことはできない。

 しかし、良い感情を抱かれていないというのは自明だ。報復されるかもしれない。 

 電脳世界にはもう一生、来ることができないだろう。犯人捜しの難易度は上がるが、死んでいない限りは出来る。


 どうということはない。


 クソストーカーは起き上がった。

 横顔が少しだけ見えた。

 天井を見つめている。青い天井だ。白い光が、回路が走っている。


 男はそれを眩しそうな顔で見ていた。


「……ブラボー」


 息漏れのような小さな声でそう言った。


「は?」


 クソストーカーは僕に満面の笑みを向けて来た。


 どうして、そんな顔をしている。僕はお前にとって気に食わない存在のはずなのに。


「俺の負けだ。お前は、確かに弟だよ」

「きっしょ」


 どうして、どうして、クソストーカーに認められなければならないのだ。

 僕が姉の弟なのは、当然の摂理である。


「どう、一緒に犯人探す?」

「頭沸いてんのか?」


 クソは爽やかな笑顔のままこちらに手を振り、じゃあねと言って、どこかへ消えた。


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