第五章・後編

 僕は暗闇の底で眠るしかない。


 ひそひそと話す嬌声が聞こえる。鮮やかで気色の悪い羽根が舞っている。はちみつと汗と花が混ざったかのような甘酸っぱい香りが漂っている。

 僕が発熱しているのか、それとも周りの温度設定が高いのかはわからないが、体内が熱い。うなじから汗が湧いてくるような嫌な熱だ。


 僕は一生ここにいるのだろうか。あの男の言葉を信じれば、否、だが、そんな希望的な観測は出来まい。それに、僕はいち早くここからでなければならない。そんな気がするのだ。


 弟であった事実を消す、ということの意味することはわからないが、僕から姉の弟であることを奪ったら、何が残るのであろうか。無い。何も無い。断言できる。


 僕は姉の弟であるから、今、電脳世界に行けた。現状は落ちてしまったというべきかもしれないが。……そもそも、姉がいなかったら、僕は存在していないから、落ちれるだけありがたいのかもしれない。ともすると、この地獄がありがたく思える。クソだ。しかし、怒る体力がない。


 視界の端が黒くなっていく。目は開けているはずだ。

 羽根の影は認識できるが、色がわからない。視覚機能にバグが生じたようだ。肉体が正常に機能した方が少ないから、これは当然の現象だろう。


 柔らかな羽根が頬を撫でる。黒い羽根だった。その濡れた感触は熱冷ましを思い出す。黒い羽根は上から降ってきているようだった。


 黒い羽根のハーピィなどいただろうか。

 否。これは。


 僕が気づくのと同時に、羽根の量が急激に増えた。

 ――この表現は正確ではない。翼だ。僕の目の前には広げた黒い片翼が現れたのだ。


 翼が後ろに下がるとそこには、職人技の美しい顎の曲線があった。

 紅い瞳が僕のことを見下ろしている。黒い長髪が翼に引きずられて靡く。


 どうして。


「留守番、拒否させていただきます」


 黒い天使のAIは、声に出なかった僕の質問に答えるかのように、そう言った。

 相変わらず、石膏のような顔をしている。


「異常な発汗と急激な発熱が見られます。活動可能範囲の症状です。しかし、今までの烈人様の症例を見るに、メンタルに多大なる影響が出ていると推察されます。このまま放置いたしますと、肉体的後遺症あるいは精神的後遺症が発生いたします」


 本来、他人を強制ログアウトすることはできない。

 しかし、非常事態においては例外である。

 肉体的不調が著しい場合や電脳世界そのものに異常が見られた場合がそれにあたる。そうではない場合はログアウトには当人の意志が必要である。


「ログアウト致しますか?」

「しない」


 僕には打ち倒すべき敵がいる。

 乗り越えるべき難題がある。

 逃げることはできない。


「かしこまりました。しかし、こちらでの環境適応値がクリア標準値より86%ほど下回っておりますので、強制的に移動させていただきます」


 AIは僕を片腕で姫抱きした。


 ハーピィ系AIたちと目が合った。

 気恥ずかしくて、胃が沸騰するような気がした。

 だが、ハーピィたちは、だいじょうぶー? げんきー? いってらっしゃーい、と手を振っているだけだった。


 あれらは敵ではない。


 AIは飛び立つ。

 ハーピィたちはあっというまに見えなくなって、辺りは黒一色になった。

 揺れを感じない快適な飛行だ。


「答えなくてもいいんだけどさ……」


 始まりが見えない黒。

 終わりがわからない黒。

 AIの顔だけでは気がまぎれないため、僕は口を開く。


「どうして?」


 漠然とした疑問を的確に表す言葉がそれだった。


「何に対しての質問でしょう」

「全部」


 具体化させるために、必死に言葉をかき集める。


「姉さんが僕にAIを遺した理由。どうしてDenierシリーズを選んだのか。姉さんは何をオーダーしたのか。僕の命令は乱数通りに弾く癖に、どうして勝手な行動を……、助けるような行動をとるのか。そこにどんなアルゴリズムが働いているか。今」


 AIはこちらを見ない。上だけを見て飛んでいる。


「今、お前が何を考えているか」

「わからないのですか?」


 紅い瞳だけがこちらを向いた。


「うん」

「答えるとお考えですか?」

「いや」


 パターンは知っている。乱数も実感している。だから、僕は期待しない。


「強いて、申し上げるのでしたら、それらの質問に意味はありません」


 それは想像以上の答えだった。


「AIは仕様通りに動きます。それだけです」


 熱帯びた僕の頭ではその意味が理解できなかった。

 しかし、気になったことはある。

 否、これがヒントになるかはわからないが……、複数の問いに対する答えがそれというのが、不自然な感じがした。

 一つの質問に、一つの答えが返ってくるような、質問群ではないということだろうか。


「個々に答えがないってこと」

「さあ」


 AIの瞳が上に向く。明るくなってきた。鉄骨のラックが見える。そろそろ外だ。


「ハッキングを検知いたしました。範囲――、トラッシュボックス外、


 出る直前でAIは急停止した。


「対象データ、馥業深。干渉内容、現在の座標データ」

「僕?」

「非合法な強制ログアウトに晒される危険性があります。巻き込まれますと、脳障害、心肺停止、血液の逆流、臓器の機能不全……いずれの損傷をもって、肉体に戻ることとなります。今、この場でのログアウトを推奨いたします」

「……わかったよ」


 あのクソ野郎の仕業だろう。

 直接、殴りに行けないのは残念だが、こちらがやられては意味がない。

 あの男は通過点に過ぎないのだから。


 僕は電脳世界から一時撤退をし、態勢を立て直すことにした。

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