第五章・前編
両親はエンジニアだったらしい。
詳しいことはもう覚えていない。顔も名前も自力で思い出すことはもう不可能だ。画像データを見たらわかるかもしれない。名前を聞いたら思い当たるかもしれない。
それほどまでに、希薄な存在だ。
昔からそんな感じだった。
家にいることが少なかったからだろう。仕事がかなり忙しかったらしい。
詳しいことは知らないし、興味もない。今更、知ったところでと、思うし、当時だとなおさらだろう。
何故ならば、両親が家にいようがいまいが、僕の生活は変わらなかったからだ。
お小遣いは贅沢できるほどの金額が毎日のように支給されていたし、難しい家事はAIがすべてどうにかしてくれたし、勉強も自力でできないというわけではなかったから学習プログラムで充分だった。
それよりも、人間とコミュニケーションするのが苦痛だった。両親もその例を外れない。
理由は特にない。カウンセラーAIは理屈を色々とつけていた気がするが、すべて忘れた。どうでもいい。理屈がわかろうが、何だろうが、苦痛が減るわけでもない。
だから、両親が死んだと聞いても最初はしっくりこなかった。
そうなんだ、という感想しかでなかった。
実感したのは電気が止まった時だ。
パソコンの電源が、音もなく、予兆もなく、あっけなく消えた時。最初はケーブルを抜いたままにしていたのだと思っていた。
しかし、確認したらそうではなくて、家のマルチサポートAIも使えなくなっていた。照明もつかなかった。
全てが真っ暗になった夜はあれが初めてだった。
パソコンのファンの音もしない、完全な静寂。
何もなくなったと、僕はそこで初めて実感したのだ。
ゆるやかに死を思った。
しかし、何とかなるという気もしていた。否、何も考えていなかったかもしれない。いずれにしても、全てにおいて停滞していたのは間違いない。
僕は何もしなかったし、何も出来なかった。
眠ることしかできなかった。
「おっはよー! ブラザー!」
僕を目覚めさせたのは、爆発音のような挨拶だった。
自室の扉が吹き飛ばされて、ネジが床を弾んでいたのを覚えている。
当時……十歳ごろに住んでいたのは、現在よりも広く頑丈な家だ。
自室の扉もスチール製で、人力ではどうしようもできない。
少なくとも壊すには道具が必要だ。
しかし、姉は丸腰で、おまけにタンクトップに半ズボンという軽装だった。
「え……、なに……?」
「ひどくない? ひどくなーい? お姉ちゃんのことを忘れちゃったの?」
姉とは別の場所に住んでいた。
姉は留学していたのだ。そのため、顔を合わせることは滅多になかった。
オフラインでもオンラインであってもだ。
しかし、姉を覚えていなかったということはない。
むしろ、良く知っていた。
その輝かしい快進撃は世界を騒がせていたのではなかろうか。
例えば、最年少で○○という実績があるだろう。姉はそれをいくつも更新していた。プログラミングコンテスト世界大会出場、優勝、ロボットオペレーティンググランプリ世界大会出場、優勝、ヨーロッパのピアノコンクールで優勝、有名な日本画の美術展で最優秀賞受賞……。どれも姉が一桁の年齢の出来事だ。
そんなものであったから、自室にこもりきりだった僕は姉と会うことが少なかった。
であるから、姉は画面の向こう側の存在で、書類だけの存在で、嘘なんじゃないかと思うことがしばしばあった。
「まあ、確かに。五年くらい顔を合わせてないけどさ!」
「知ってる」
この時、僕は淡白に反応したのを後悔した記憶がある。
憧れと雑に接していいのか。
貴重すぎる機会を棒に振っていいのか。
失礼ではないか。
「え! 本当! いやあ、お姉ちゃん、うれしいな!」
姉の態度は一貫して朗らかだった。僕の些末な感情などは無に等しいのだろう。
「頑張った甲斐があったよ」
「頑張った?」
僕は姉と頑張るという言葉が結び付かなかった。彼女は何でもできる。努力などしなくても、頑張らなくても、生まれた時から全てを持っている。
輝かしい履歴から、僕はそんなことをずっと思っていたのだ。
「うん、気がつかない?」
姉は自身の唇に指を当てた。ごーっとパソコンのファンの音が聞こえてきた。
「とりあえず、ほら。一生遊んで暮らせるお金は稼いできたよ」
見せられた端末には口座アプリの画面が映っていた。貯金額が提示されていた。
桁数は数えられない。額が多すぎて、表示される数字が細かすぎるのだ。
「他に何が必要かな? 何もいらないなら、お姉ちゃんはここから去るよ。そっちのほうがいいんでしょう?」
姉は携帯端末に目を落とす。僕のことには興味がなさそうに端末を操作していた。
それがありがたかった。注目されすぎるのは好きではなかった。必要最低限で済ませたかった。本当に程よいタイミングだったのだ。何でもお見通しらしい。
「いつでも繋がる連絡先を教えておくから、困ったらそっちに」
しかし、どうしてここまでしてくれるのだろうか。
僕はともかく、姉にとっての僕など、いないようなものではないのではないか。
日頃、会うわけでもない。功績があるわけでもない。存在感もない。いてもいなくても同じなのではなかろうか。
「どうして、そこまで?」
「え? お姉ちゃんだからだよ?」
ノータイムで返って来た。姉はちらりと端末から目を上げた。
「……いっしょに」
「ん?」
「いっしょに、暮らして欲しいです」
自然とその言葉が出てきた。
不思議と他人への嫌悪感や煩わしさが姉には沸かなかったのだ。
身内だからだろうか、否。だとしたら、両親も煩わしくなかったはずだ。
姉は特別だ。
僕にとって姉が特別なのか、姉そのものが特別なのか。両方だ。
陳腐な言葉で表現することは可能だが、それで姉を貶めたくはない。
「いいよ!」
穴は薬指と小指を立てて、顎元に寄せた。
ピースサインだ。八重歯をほんのり見せた笑顔がとても似合っている。
こうして、姉は僕の要望を快諾したのだ。
それからというもの、僕は姉に助けてもらいながら、生活をしていた。
印象に残っている出来事は多くある。
例えば、僕が床で転んで足を擦りむいてしまった時。
大した怪我ではないのだが、皮膚の中の赤色が気持ち悪い上に痛みを感じることが大の苦手だったため、大泣きした。そこで姉は何も持っていない手から、絆創膏を出現させた(おそらく、手品だったのだろう)。そうして、僕が痛みを一瞬忘れている間に、絆創膏を傷の上に張った。使った絆創膏も良いものだったようで、張った感覚がなく、見た目も皮膚に同化したかのような色合いであった。僕は不快な赤が消えたと思えたため、すごく救われた気持ちになった。
しかし、姉はもう助けに来ない。
例えば、僕が四十度近い熱を出してしまった時。
熱だけではなく、関節痛、下痢などに襲われ、加えて、味覚障害も併発したため、何も食べる気になれなかった。かつての流行り病らしい。感染症であるから、隔離されるべきで、医者にかかるか、入院するべきだったのだが、人間が苦手な僕にはできなかった。放置していたら死んでいただろう。だが、姉が特殊なプログラムで研修を積んできて、医師免許を取ったおかげで、僕は事なきを得た。姉の治療は的確だった。先日まで医療知識や治療経験がないとはとても思えないほどの働きだった。僕は後遺症なく、病気に打ち克つことができた。
しかし、姉はもう助けに来ない。
例えば、僕がコミュニケーション学習プログラムで倒れてしまった時。
電脳世界に行かないといけない上に、人間とも接しないといけないという最低最悪のプログラムを受講した。本当は受けたくなかったのだが、受講しないと他の講座を全て受けられないと、学習プログラム側の運営に通達されてしまったため、仕方なしに受講した。結果は言わずもがな。行ったはいいが、すぐ退出したため、出席扱いにならなかった。受講権利を剥奪されそうになった。だが、姉が運営を潰して、プログラムごと刷新したため、僕は無事に勉強ができるようになった。
しかし、姉はもう助けに来ない。
来ないのだ。
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