第三章・中編

 灰色のコンクリートの廊下。錆びた鉄の柵。その先には生い茂った庭が見える。

 斜めに歪んで育った木。いくつか絡み合って種類がわからなくなっているツタ植物。腰の高さほどある雑草たち。


 このアパートに他に住んでいる人間はいない。アパートのオーナーは姉である。

 しかし、今はどうなっているかはわからない。面倒くさいし、それほど重要ではないから、後回しにしよう。それよりも病院だ。


 僕は玄関の扉をゆっくり閉じる。

 ピピっとオートロックが締まる音がした。


 アパートの壁を両手で辿りながら進む。


 空気が湿っている。土と雨の味がする。

 外に出たのは何年ぶりだろうか。電脳世界よりもこっちに出る頻度は低い。

 本当に記憶がない。

 ひょっとすると、僕の思う部屋の外のイメージは画像データや文献での記録でしか構成されていないかもしれない。


 アパートの壁が終わる。建物の外、道路を歩く時がやって来た。


 煤けた白線。苔むしたアスファルト。空の四方八方に電線を張り巡らす電柱。どれも知っているものだ。

 僕はほっと胸をなで下ろして、道路脇の白線の上を歩く。

 足の隙間に砂利が入り込む。ざらざらとした感触にいい気分はしないが、あっちの世界で感じる内臓の不快感よりはマシだ。

 砂利は払えば済む。簡単に取り除けて本当にいい。


 遠くでごうごうと静かな風の音がする。

 人の声はない。気配もない。

 有難い話だ。


 直線的な四角い戸建ての家が並んでいる。一昔前に流行ったデザインの家らしい。

 車を置くための広い駐車場はひび割れている。

 花壇だったと思しきスペースには枯草と雑草が共生していた。


 次は二階建ての三角屋根の家の群が見えてくる。

 瓦がいくつかずり落ちている。

 四角い砂利のスペースに三輪車や自転車が置いてある。

 そちらもベルが取れていたり、サドルの皮が剥げて茶色くなっていたりと、それなりの劣化が見られた。


 この家に住んでいた人たちは、電脳世界に完全移行したのだろう。

 そう考えるともう家に意味はない。家なんか箱に過ぎない。

 あるいはシェルターだ。コンピューターを守るための外壁でいい。

 だというのに、こういうものを買ってしまったのは理解しがたい。

 いずれ捨てるものだというのに、どうして大きな家に住もうとするのか。

 古い価値観の人が家族にいたのだろうか。僕にはわからない。


 そもそも、肉体を破棄したら、転送装置も必要なくなるのだから、家自体不要だ。 

 家を必要としている人間は、今、どれくらい残っているのだろうか。

 静かすぎる外を見て、僕はなんとなくそう思った。


『天才クリニック!!!!』の立て看板が見えてきた。


 緑色の下地に虹色の文字。

 白や茶色、黒などの落ち着いた色合いの建物が多い中のこれはとても目立つ。


 クリニック自体は清潔的な純白で、塗りたてのペンキの匂いがほんのり香る真新しい四角い建物だ。

 正統派だ。病院らしい。

 しかし、前情報と看板のおかげで僕の心中は穏やかではない。

 だが、僕はどうにかして酔い止め薬を手に入れなければならない。


 僕は覚悟を決めて、クリニックの入り口に立った。

 自動ドアが開く。


「はっはっはっは。待っていたよ……、少年」


 シルクハットにペストマスク。

 黒いローブ。

 細長い背丈。

 カチャカチャと動く鉄製の細指。


「ようこそ、『天才クリニック!!!!』へ」


 建物を振動させそうなくらいに響き渡る声は高いようで低い。捉えがたい声質だ。


「しにがみだ」


 きっと、目の前にいるのは幻覚か何かに違いない。

 僕は回れ右をして、建物を離れようとした。


「ちょっとぉ! ひどくないかね? 私は医者だよ!」

「医者?」


 僕は訝しみながら振り返る。


「どこからどう見てもそうだろう?」

「見えませんが」

「ペストマスクだろう? これは大昔に欧州の医者が身につけていたものだ。医者要素はばっちりではないか」

「不気味さが強いです……」

「人間が全般的に苦手と、要望に書いたのは君だろう」

「確かに、そうですけど」


 僕は人間離れした鉄の手を見る。

 滑らかに動く関節は自由意志をもって動いているように見える。

 機械でパターン化している動きではない。義手だろうか。それとも、外付けのガジェットだろうか。


「そこまでする必要ある……?」

「ああ、この手のことかね。手というものは性別が見やすいだろう?」


 自称医者の主張に納得は出来る。

 確かに、僕はこの存在をよくわからないものとして見ている。

 男性とか女性とか、そういったものを考える以前の問題だ。

 人間かどうかすらも疑っている。否、疑っていた。

 しかし、話してみると、どこか拭えないコミカルさを感じる。


 今、つながった。アホなクリニック名、ダサい看板、妙に凝ったコスプレ。


「なるほど。変な人か……」

「わかればよろしい!」


 表情は見えないが、自称医者が誇らしげな顔をしたように思えた。


「さて、誤解が解けたところで自己紹介をしよう。私が当クリニックの医院長にして、唯一無二の医者、天際麗あまきわれいだ。天才の『天』に、際限の『際』、麗しいの『麗』で、天際麗だ。いい名前だろう?」

「そうですね」

「心にも思ってないことを言うんじゃあないよ! はっはっはっは」


 この自称医者は何なのだろうか。

 こちらに寄り添っているんだか、いないのだか、よくわからない。

 悪い人ではないのだと思う。

 ただ、何か出力のされ方がおかしい。女性や人間が苦手な僕のためにそう見えない配慮をするのはわかる。顔や手を隠したのは論理的だ。

 だが、どうしてあんなコスプレになるのだろうか。


 この発言もそうだ。別に僕の本心には触れなくてもいいではないか。


「まあ、いつまでも入り口にいてもあれだから、あがりたまえ。館履きのサンダルを履きなさい。それは君に授けよう。サービスだ、烈人君。外出の時に使いなさい」

「あ……」


 僕の足は真っ黒だった。入り口のマットで足を拭き、サンダルを履く。


「すみません」

「気にしなくていい! 何せ、このクリニックに来るのは、もう君くらいだろうからな!」


 医者がついてきなさいと言わんばかりに進み始める。

 僕は恐る恐るその背中を追うことにした。


 クリニックの中も白かった。白いどころか真っ新だ。


 待合スペースのソファーは皺ひとつなく、その隣にあるラックの雑誌は開かれた形跡なくピンと立っている。

 受付カウンターにも誰もいない。

 タブレット端末が置いてあるが、画面にはゴミも指紋も見当たらない。


「……そんなに人いないんですか」

「みんな肉体を不便だと感じたらしい。まあ、あっちの世界では医者いらず。メンテナンスは自動で済むからな。バグなどほとんどないだろう。バグるのは肉体持ちくらいなものだ」


 医者は淡白にそう答える。

 この医者であれば、躊躇なく向こうの世界に行きそうだ。

 どこか人間味に欠けたものを感じる。

 高性能なAIらしいと言えばいいのだろうか。


 天才を主張していたり、おかしなセンスをしているのは、実際にそのような性格だからではなく、設定がそうなっているからなような気がする。

 言語設定が日本語だから、日本語で出力されるような、そのような感触だ。

 根底にあるものは論理的で冷たい数式だ。


「あなたは向こうに行かないんですか」

「色々とあるからね。家庭とか」

「え、家庭! 子供いるの! それで!」


 不似合いなワードに思わず大声が出てしまった。


「正直だな! いるよ?」


 意外だった。やはり、ただの変な人なのだろうか。

 こんな人と四六時中、一緒にいる子供がかわいそうだ。

 まあ、僕が知ったことではないが。


「へえ~、子供、大変そう」

「そうかもしれないな!」

「そこ肯定すんのかよ」


 医者の開き直ったかのような物言いに、僕はつっこみを入れざるを得なかった。

 僕は会話が得意な方ではないが、少なくとも、ここはひどいこと言うなよ、と、冗談めかして、ふざける場面ではなかろうか。

 この医者のキャラクターなら、そうするかと思ったのだが、違うのか。

 人間は難しい。コミュニケーションはやはりよくわからない。


「君は将来的にあっちにいくのかい?」

「……あんまり」

「ふうん。それほど、電脳酔いが不快かい?」

「それもあるけど……。なんか好きじゃない。人多いし」

「確かに、こっちの方が人が少ない。賢明な判断だ」


 穏やかな物言いだ。しかし、共感はしていないように思える。

 この人に(子供を理由にこちらに残っている以上)情はあるとは思うが、いなかった場合はどうするのだろうか。少し、気になった。


「子供いなかったら向こうに行く?」

「いや」

「どうして?」

「世界の強度が弱いから」


 その表現に僕は首を傾げる。


「どういうこと?」

「あっちはコンピューターが全部壊れればすぐ終わるだろう。地球は壊すことが難しいが、コンピューターは割と簡単だ」

「そんなことはないんじゃない」

「いや、できる。できる可能性が思い当たるから、私はわざわざ死地には飛び込まないのだよ」

「できるんだ」

「天才だからね☆」

「できなさそう」


 頭が切れるのわかるのだが、どうしてこんなに残念な言動をしているのだろうか。


「はっはっはっは。まあ、それは冗談だ。本当は目立って、チヤホヤされたいだけだったりする!」


 また、アホなことを言っている。


「じゃあ、あっちに行った方がいいんじゃない?」

「逆だよ。競合相手が多すぎるだろう。まあ、負ける気はしないが、人間、一つのコンテンツばかりに構っているわけにはいかない。どうしても、分化してしまう。だったら、少ない場所でNOUKOUに可愛がってもらった方がいいだろう?」


 濃厚の発音がやけに欧米じみていた。


「というのも嘘だが!」

「じゃあなに!」


 背中を蹴り飛ばしてやりたいが、僕にそのような体力はない。


「マネーだよ。マネー」

「お金?」

「そうそう。医者以外にも事業をやっていてだね。実はサーバーエンジニアなんだよ。あっちの世界のインフラを支えているのさ。さて、ここで問題だ」

「え、何?」

「どうしても必要な仕事だが、みんな肉体の破棄をしたがるから人がいない。その為にどんな対策が為されたと思う?」


 社会の講義で聞いた気がする。答えは――


「時間切れ! 答えは莫大な給料が設定された、だ」

「早いよ」

「はっはっはっは」


 からっとした笑い声だった。否、渇いている笑い声かもしれない。

 明るいから笑っているのか、明るく見せているから笑っているのか。

 ペストマスクのせいでよくわからない。


「じゃあ、お金が好きなんだ」

「いいや?」

「わけわかんない。これも嘘?」

「どれが本当なんだろうね。ぐへへ」


 医者が立ち止まる。そこは診察室というネームプレートがついた扉の前だった。

 医者が扉を引く。


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