第三章・前編
身体の表面に細かな水滴がまとわりついていてうすら寒い。鼻と喉の奥には出し切っていない嘔吐物が残留している気がする。
電脳世界から戻ってきた僕は、
色々とやるべきことは思い浮かぶのだが、自分の身体が世界に定着していない感じがして、どうにも動けなかった。
爽やかなあの男の顔がよぎる。
あれは本当に姉の彼氏なのだろうが。違うという考えが強いが、それは僕の希望に過ぎない。論理的に否定をする証拠は僕にはない。姉は理解がしがたいから、簡単に恋人を作りそうと言われればそう思えるし、作らないと言われれば納得できるし、できないだろうと言われても……、どうして選ばれないのかという不満はあるが、理解はできる。
仮に、あれが姉の彼氏だったとして。
考えるのはやめよう。
内臓が口を通らずに皮膚を破って出てきそうだ。
ただでさえ不幸せなのに、これ以上、自分を苦しめてどうする。一度、見なかったことにしよう。そうしよう。姉を殺したやつのことを考えよう。
否、もしかしたら、姉を殺したのはあれかもしれない。それか、あれと一緒にいたあいつらか。
だとしたら、もう一度、大学には行かないといけない。しかし、僕の身体がもつのだろうか。次に電脳世界に行ったら、ログアウトどころではないかもしれない。
僕には部屋の中がお似合いということか。モニター越しに誰かに世話されながら、一人朽ちていく人生……。
以前の僕であれば、姉が死ぬ前の僕であれば、甘んじて受け入れていた。
しかし、今の僕は、僕よりも姉を殺した犯人の方が気になる。気になりはするが、だからといって、僕ごときが何かができるわけでもない。
現に何も出来ずに終わった。簡単なことのはずだ。
犯人を見つけるのは難しいだろう。あの姉を殺したのだ。人智を超えた何かの可能性すらある。
しかし、調査にいくことくらいはできるはずだ。動けばいい。
しかし、僕は動けない。何もままならない。
「烈人様」
スピーカーからAIの声がした。
目線をあげると配膳台があった。その上にはタオルと着替えが乗っかっていた。
「体温が平熱を大幅に下回っております。その他、自律神経系が異常な反応をしめしていますので、睡眠を推奨いたしますがいかがでしょうか」
「命令は効かないのに、そういうことはできるんだ」
「そうですね」
AIは抑揚なく答えた。わからない。何一つ、このAIのことはわからないけれど、嫌いではない。
彼氏野郎よりははるかにマシだ。
「ちぇっ。そこで素直に返事をするのかよ」
僕はカプセルの中から出る。足元が少しふらついたが、配膳台を支えにして立ち上がれた。タオルで身体を拭き、着替えを済ませる。
「ついでに、代わりに姉さん殺した犯人を見つけてくれないかなあ!」
「お断りします」
「ですよね! じゃあ、せめて、電脳酔いどうにかできない?」
「酔い止めを飲んだらいかがでしょうか」
「うげ、正論だけどさあ……。あの薬まずいし、何より」
「通販ではお買い求めできません。電脳酔い止め薬には処方箋が必要となります」
いい性格をしている。会話アルゴリズムを組んだエンジニアに拍手を送りたい。
「わかってんじゃん」
遠回しに僕に医者に行けと、このAIは言っている。
外出をして、人に会いに行けと言っている。
それができたら苦労はしない。
「……一番、近くの病院ってどこだっけ?」
「自分でお調べになったらいかがでしょう?」
「わかったよ」
僕はパソコンに向かう。
モニターの端には黒い天使のAIがいた。
目を閉じて腕組をしている。動く気はないようだ。
検索エンジンを起動させ、病院について調べる。
昨今、こちら側の世界は人が少なくなったため、遠い場所にあるのではないかと、心配したのだが、病院は案外近くにあった。
徒歩十分ほどの場所にあるらしい。
名前は『天才クリニック!!!!』というらしい。
行きたくない。
他の病院はないのだろうかと調べるが、どこも徒歩だと二時間以上はかかる。
僕が無事にたどり着けそうな病院はここしかない。行きたくない。
確かに、医者に会いたくないという気持ちは強い。
しかし、これはそれ以前の問題である。
まともな名前はなかったのか。さすがに胡散臭い。
『天才』だけなら、まだいいが、『!』を四つも並べているあたりが余計にアホに見える。
おまけに気になるのは、口コミレビューだ。全てが星5であり、『天才! 天才!』とか、『レイちゃん先生最強卍 レイちゃん先生最強卍 レイちゃん先生最強卍』とか『難病が治りました。神のおかげです』とか……。スパムのようなコメントしかない。内情が全く分からない。
一応、予約サイトには医者のプロフィールが書かれているが、正直に言って怪しい。
無数の賞の名前が羅列されている。人一人がこんなに取れるようなものなのだろうか。
おまけに、プロフィール画像が女だ。吐き気がする。余計に行きたくない。
しかし、僕には選択肢がない。
僕は予約フォームに必要事項を記入する。
どうやら、数時間前からでも受付が可能らしい。
もう何でもいいから早く済ませたい。
僕は予約時間を三十分後にした。
「よし。最後の項目は、えっと、その他、ご要望はありますか……?」
普段はこういうものは書かない主義だ。しかし、今回に限っては命にかかわるため、記入する。
『女は無理。死ぬ。人間が全般的に苦手』
これでいい。入力完了ボタンを押すと、すぐに予約完了メールが届いた。
あとは外出するだけだ。
「……靴ってあったけ」
重要ことに気がついた僕は玄関に行った。
そこには靴が一つもなかった。
砂が積もったタイルがあるだけだ。
靴箱を開くが姉の靴しかない。これは履けない。底が高いピンクのサンダル、赤いヒール靴、カラフルなスニーカーたち。
どうにも躊躇してしまう。サイズ的な問題ではない。デザイン的な問題でもない。
姉が履いたものを、今、僕が履いてしまうと、モノから姉が消えてしまうような気がする。中敷きには姉の足裏の汗が染みついているのだろう。それを僕ので上書きしたくない。もうどこの世界にも姉はいないのだから。姉のものを消したくはない。
裸足で行こう。多少の怪我は仕方がない。病院に行くからノーカウントだろう。
しかし、念のためだ。外の気温と道路の状態を確認しておこう。
僕は部屋に戻り、天気と経路を確認した。
今日は曇りで、最高気温は二十度。道はほとんどがアスファルト舗装になっているらしい。
調べたところによると、路面温度が五十度、六十度あたりだと火傷の危険があるらしい。路面温度を計測しているサイトを見たが、二十度前後で、それほど問題なさそうであった。
僕はデスクの引き出しから、腕時計型のデバイスを取り出す。
身につけようとしたが、ゴミイケメンの顔が思い浮かんだためやめた。
代わりに、端末をポケットに入れる。画面にはAIがいた。すでに同期済みらしい。仕事がはやい。
こうしてようやく、僕は玄関の扉に手をかける。
押すか引くかよく覚えてないから、取り敢えず、両方やってみたがびくともしない。
こんなに非力だっただろうかと、疑問に思ったが、純粋に鍵のつまみをひねっていなかっただけということに気がついた。
開錠し、扉を恐る恐る開いた。
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