第二章・後編

 がらりと世界が色彩にあふれる。

 僕はその眩しさに腰を抜かした。


 空が出現する。どこも均等な青色をしていた。

 黄土色煉瓦の建物が構成される。緑色の庭園が構成される。否、この表現は的確ではない。僕の視界に建物と庭園の読み込みが完了したというべきだ。天を貫くような巨大な円塔が五つ、庭園を囲うようにして建っている。塔は煉瓦が複雑怪奇に組まれており、壁面には黒煉瓦で円形の幾何学模様が描かれていた。一方、庭園は四角い植木で囲まれており、迷路になっているようだった。高めの植木のため、僕がいる場所からはその仔細は伺えないが、入り口に『マッピング推奨。迷子注意!』という、ウインドウが浮いている。


 これは描写に時間がかかるのは致し方がない。僕のスペックが悪い。


 人は……幸いなことにそれほどいない。講義の時間なのだろうか。目につくのは遠くの建物の入り口で話している三、四人の人間と、庭園付近にあるベンチで寝ている男くらいだ。


 男なら頑張れば話しかけられる。

 僕はベンチに近づいた。


「あ、あの」


 ベンチで腕を組みながら寝ている男は、電源が切れたロボットのように首が曲がっていた。

 目にはレンズが左右一体になった透明なサングラス、白いTシャツに若干透けている水色のシャツを合わせ、大型のポケットがついている黒いズボンを履くセンスは僕には理解しがたい。手首には腕時計型のウェアラブルデバイスがついているが、こちらの世界ではアクセサリー以上の意味は持たない。


 男の膝にはフェアリー系のAIが座っている。

 銀髪のショートカット。赤い瞳。薄い身体のシルエットが良く見える白いワンピース。ほのかに煌めく翅。

 きっと、これの持ち主は美少女フィギュア好きに違いない。


 フェアリー系のAIは僕のことをちらりと見ると、男の肩まで飛び、頬を突いた。


「ん……?」


 男が瞼を開けると、サングラスにフレームを模した水色の枠線が浮かび上がる。トリートメントを一本頭からかぶったかのようなサラサラの黒髪が揺れた。


「ああ、俺に何か御用かな?」


 寝起きだというのに爽やかな声だ。炭酸水が弾ける音よりも軽やかだ。

 おまけに、顔も穏やかで、眉間に皺ひとつなく……、ほのかに見える白い歯が映える笑顔。きりりと整った太眉、二重でまつ毛が長い目、鼻筋がくっきりした顔立ち、 所謂、イケメンだ。


この世界であれば容姿はいくらでも弄れるから、イケメンになりたい放題ではあるが、どうにもイライラする顔だ。


「その、えっと」

「具合がだいぶ悪そうだね? データの感じ、肉体がまだあるね。電脳酔いかな? ゆっくりでいいよ。それとも、隣に座る?」

「ん……と、だいじょうぶ、です」


 色々な意味で吐きそう。どうしてだろうか。特に顔の良し悪しに好みも嫌悪もないのだが、こいつには何かがあるような予感がする。肉体的不調、気持ち悪さゆえの勘違い、杞憂だとは思うが、今はどうして話しかけてしまったのだろうという後悔の念が強い。


「その、聞きたいことが、あって……」

「俺に答えられることかな?」

「わかんない、けど、えっと、まずい、ですか?」

「いや、別に? 聞いてみないとわからないから、とりあえず言ってみると良いよ」


 喉から上昇する液体を我慢しながら、僕は言葉を発した。


「姉さんを、馥業深を、知っていますか……?」


 男は僕が姉の名前を出すと目を丸くした。そして、僕の後ろにいるAIを一瞥する。


?」


 嫌な予感が膨れ上がる。否、絶対にない。有り得ない。そんなことはない。


「どういう、知り合」

「すげえええええ! Denierシリーズだ!」


 僕の質問はその大声でかき消された。

 声の人物は塔の方からやってきたようだった。

 スライディングして、僕と黒いAIの間に割り込む。


「いや、待て本物か? パンツ見せないでください!」

「……見せるはずがないでしょう。舐めているんですか?」

「うおおおお、本物。表面通りの言葉ではなく、意図に反して拒否してくる。すげえ、すげえ!」


 黒いAIの返答を聞いて、大声男は小躍りした。


蔀井おおい、マジで購入したんか? つうか、どこで見つけたんだよ! 今は新品、出回ってないから探すのベリーハードだろ」

「俺のじゃないよ。彼のだよ」

「え? に頼まれてたやつじゃないの?」


 僕は姉の名前が出てきて、内臓が引き締まった。


「いいや? 彼女は自力で見つけたよ」

「マジで? さっすがシン様。ひゅー」


 大声男はかすれた口笛を吹いた。


「え~、シンちゃんの話~。まぜて~」


 女だ。大声男の後ろにいたらしい。小さい。他は、よくわからない。ツインテールかもしれない。ピンクのフリルやレースがいっぱいの服を着ているかもしれない。長いまつ毛があるかも。目があるらしい。肌が白っぽい。いや、頬にピンクの粉がついているかも。口が開いている。


「シンちゃんいなくなって、ぴえんだから……。お話ししたいな。蔀井、つきあってたんでしょ?」


 ――ああ、しぬ。僕は終わりだ。


 音が歪んで聞こえる。目の前にいるデータの塊たちは何かを話しているようだが、わからない。理解しなくていい。きっと、咀嚼音だ。味のしなくなったガムを口内でこねる音。ペースト状になったコロッケを噛み続ける音。舌が歯についたりつかなかったりする音。下品な音だ。


 鼻からも吐しゃ物が漏れてきそうだ。視界がちかちかする。光が飛んでいる。


「だい――じょう――ぶ――?」


 幻聴が聞こえた。イケメンクソ男の声だ。そんな人物は存在しない。


「Denier――なに――やって――!」


 慌てている声が響く。やたらと大きい。誰の声だろうか。何の音だろうか。


 そう思った次の瞬間、腹を貫くような強烈な衝撃を僕は受けた。

 風穴があいた。

 否。

 視界が三秒だけ綺麗になった。

 目の前には黒い天使がいて、僕の腹にはその拳がめり込んでいた。

 僕の目の前はすぐに真っ暗になった。


「失礼いたします。強制ログアウトです」


 痛みに救われたのは初めてだ。


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