第二章・前編

「おはようございます。烈人様」


 目を覚ますと、そこはファイルで雑然とした青い空間だった。


 黒パーカーのAIはその中でくっきりと浮いてみえた。

 駄文しか詰まっていないテキスト。

 振り返ることのない記録画像。

 飽きてアップデートしていないゲーム。

 一度も起動したことのない初期アプリケーション。


 デスクトップに転がっているファイルに入れているものなんて、そんなものだ。

 それらに比べれば、このAIは圧倒的に意味のあるデータの塊だからだろう。

 姉の遺品でもある。当然のことだ。


「食道で胃液が逆流していますが、お加減はいかがですか」

「さいあく」


 そうだ。これだから、電脳世界には行かないようにしていたのであった。


 この世界は気持ち悪い。どうしようもないほど気持ち悪くなってしまう。

 電脳酔いである。

 電脳世界の移動との相性が悪い人がいる。僕もその類の人間だ。

 電脳酔いの原因は多岐にわたる。

 肉の皮がなくなった分、神経が感じやすくなって、情報量で脳がパンクしそうになったり、環境の変化で精神がついていかなかったり、あるいはこれはレアケースではあるのだが、転送装置の液体にアレルギーがあったりなど、人によって様々だ。


 僕は神経が弱いタイプだ。


 姉のように電脳世界に完全移行すれば、電脳酔いはなくなるそうだ。

 神経は電脳用にアップデートされ、酔いのフィードバックを受ける肉の脳味噌もなくなるということらしい。

 しかし、今まで酸っぱい思いをしてきて、信用はできない。

 世の中の人間はそんなに気持ち悪くならないらしいから、簡単に電脳世界の移住を決意できるらしい。


 確かに、ここは素晴らしい世界だ。

 あらゆる物事が回線の速さで完了する。

 肉体というフォーマットが存在しないから、ビジュアルは選択式だ。保有コンテンツも自由にできる。痛みも苦しみも消し去れる。そういうふうに自分のコードを書き換えればいい。圧倒的にメリットしかないだろう。

 こちらに来ないなんて、少数派だ。かつての世界でいえば、携帯端末を持たなかったり、テレビを見なかったり、はるか氷河期時代まで遡れば、服を纏わない選択をするくらいには少ないだろう。


 僕のように成人していないならともかくとして。

 法律で完全移行が許されていないならともかくとして。


「姉さんが通っていた大学まで連れてってよ」

「お断りします」

「ゲロぶちまけそうなんだけど!」

「吐きましょう。袋をご用意しましょうか?」

「そんな配慮はいらない!」


 AIは棒立ちだった。地面に打ち付けられた鉄骨のようだ。いや、あれは小さな電柱だ。こんなものに正しい気遣いを期待する方がどうかしている。


 僕は立ち上がった。データで構成された非実体の胃が弾んだ気がした。

 口で酢の味を感じた。舌の上に液体と固体が混ざった何かがある。


「うぉえ」


 電脳世界では視界に制限モザイクがかけられることがある。それは血や内臓だったり、虫だったり、いわゆる、ショッキングなものが隠される。もちろん、制限されるものは(未成年を除き)、己で設定することが可能だ。


 つまり、僕は今、モザイクを吐いた。


 肉体がある水槽では何かしらの液体がマスクから漏れたかもしれない。そう考えると、戻りたくない。


 僕は袖で口を拭った。学ランを着ていた。そういえば、前にこちらに来たのは、学校を模したコミュニケーション学習プログラムを受講した時だった気がする。


 教室ルームに入って、三秒で吐いた記憶しかない。


 だが、今は吐いている場合ではない。

 僕は腹を腕で押さえつけて、ファイルの山に向かう。あの中のどこかに、姉が通っていた大学のショートカットキーがあったはずだ。


「おい」


 AIに探してもらおうとしたが辞めた。

 AIは初期地点から動いていない。こちらのことすら見ていない。頷くことしかできない低スペックAIですら、追従機能はあるというのに。あれはただのオブジェクトだ。壁紙と同じだ。何を話しても無駄だ。何を期待しても無駄だ。


 本当に置物にしかならないのか。姉の遺品だというのに。


「大学のショートカットキーを知らないか?」


 僕がそう呼びかけると。AIは首を十五度くらい傾けて、こちらを見た。


「さあ」

「そう言うと思ったよ」


 僕はAIを通り越して、ファイルの山に辿り着く。

 空間を指でなぞり、検索バーを出現させる。姉の大学名を入力し、データを漁る。保存していたショートカットはあっさり見つかった。

 僕はデータを取り出し、大学の住所アドレスへ飛んだ。

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