第一章

 姉が死んでからというものの、僕は何もできなかった。今までも、何かをしていたかと言われれば、何もしていないというか、ただ生活をしていただけだったが、少なくとも、必要最低限はしていたと思う。


 イスの上に座っているだけ。何も食べていないし、飲んでいない。おなかがすいた。喉が渇いた。でも、僕は動ける状況にない。


 自室の床が汚い。細かい埃と髪の毛が落ちていて、少しだけざらついている。足で踏みたくない。部屋の外に出る扉が遠い。十歩も歩かなければならない。イスが回転して扉の方に向かない。止めるタイミングがとてもシビアだ。身体が重たい。六十キロもある。身長が小さい。百七十もない。キーボードを叩く音が煩わしい。栓を閉めても出てくるシャワーの水滴音みたいな音がする。どれもこれも、僕のことを邪魔している。動きたくない。


 パソコンのモニターに通知が次から次へと出ては消えていく。学習プログラムの受講催促メール、ゲーム会社だかなんかのメルマガ、知っているような知らないような親戚からのお悔やみのメッセージ、スパム、ウイルスチェックの定期報告、追跡ソフトの『nothing……、nothing……、nothing……』。


 やることはある。やりたいこともある。しかし、力が抜けて、色々なものが邪魔をしてどうにもできない。突然、力とかが湧いてこないだろうか。数時間ごと、いや、数分ごとにそう思うのだが、そのような都合の良いことは起こらない。


 僕はモニターを眺めるだけの置物だ。このまま腐って死んでいくに違いない。この場合は餓死になるのだろうか。今時、珍しい。とても嫌だ。


「はあ」


 呼吸が全てため息になる。デスクの上に頭を置いたら、マウスとぶつかった。


 カチリとメールが開く。ぼんやりと視線を動かすと、そこには姉からのメールが映し出されていた。三秒ほど前に送られてきたものだった。


「え?」


 僕はすぐに起き上がり、文面を凝視した。



烈人れっとくんへ

 このメールが届いているということは、私はうっかり死んでしまったのでしょう。いやあ、やってしまったね! 何が起きたかはこのメールを書いたときにはわからないけれど、まあ、人間はあっさり死ぬもの。私は死んだことは、それほど気にしていないと思うな。

 でも、いくら私でも、もし、死ぬと仮定したら、気がかりになるものが一つだけあります。それはもちろん、君のことだよ、烈人くん。一人で生きる能力というやつが思いっきり欠如している、女性恐怖症、コミュ障の気がある、弱々しい弟くんがお姉ちゃんは心配です!

 と、いうことで、烈人くんが生きていけるように、プレゼントをしようと思います。

 圧縮ファイルを添付しておいたから、解凍してね。

 大分重たいよ! じゃあね!


                                       馥業深』



 僕はファイルを解凍しようとしたが、容量不足でうまくいかなかった。仕方がないので、パソコンにあるデータを片っ端から削除して、無理やり空きを作った。


 ファイル名は『i』。中身はマルチサポートAIソフトウェア。


「Denier-104C……? 聞いたことないな。個人開発のものか、それともかなりのマイナー製品か」


 ウインドウまみれの画面が真っ青になった。『Install……』という文字が、右下の方で白く点滅している。


 しばらくかかりそうだったため、端末でDenier-104Cと検索してみた。


 すると、Denierシリーズというものが見つかった。画像を軽く見た感じ、天使型の美少女AIなようだった。すぐに閉じた。女体は丸いんだか、細いんだか、わからないからなんかやだ。見れば見るほど歪んで見えてくる。頭が痛い。


 姉も僕がこうであるとこは知っていたはずなのだが、どうしてこれを遺したのだろうか。


 画面が黒くなった。開いていたウインドウが徐々に戻っていき、そして、目の前にソレは出現した。


頭上に浮く白い輪。背中に生えた黒い翼。神秘を象徴するパーツ。


「Denier-104C、登録個体名なまえは、iアイ


 何の彩もない白い肌。不自然なほど真っすぐで長い黒髪。左右対称の整いすぎた顔立ちは、モノという印象を強く抱かせる。


「馥業深様……ではありませんね。認証作業を行います」


 切れ長の紅い瞳がこちらを見る。パシャリと長いまつ毛を瞬かせた。


「確認が取れました。馥業烈人様。深様の遺言オーダーに則り、貴方を新しい持ちマスターと定めます。よろしくお願いいたします」

「あ……、どうも、その」


 僕はスレンダーな白いボディから目を逸らす。


「服、着てくれない……」

「お断りします」

「え? 服、着て」

「お断りします」


 AIは淡々と断った。滅多にないことだ。驚きだ。


「服、着てください」

「お断りします」

「着てください」

「お断りします」

「服、お願いいたします」

「お断りします」

「着ろ!」

「お断りします」


 このAIはいかれているのであろうか。いや、姉が僕に遺したものが不良品なはずがない。少し不快な代物だが、姉から貰ったものであれば少しは何とかなる。大事にしなければならない。しかし、ここまで命令を聞かないと、いくら姉からのものだとしても、故障を疑ってしまう。


 この状況は、AI三原則の第二条、『AIは設定、乱数に準じ、人間の命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合はその限りではない』に反するかもしれない。第一条は、『AIは他害してはならない。また、その危険を看過することによって、他害を及ぼしてはならない』であるから、僕の命令を断ることはないはずだ。


 設定に問題があるのだろうか。公共のサポートAIであったら、誰の命令でも聞くが、自分用にカスタマイズしたAIだと、受け答えはしても特定の人間以外の命令は断る。それと同じで、姉だけの命令をきく仕様になっているのだろうか。


 僕は改めて、端末を見る。Denierシリーズの商品サイトを確認してみた。一応、大手メーカーが出したものらしいが、すぐに生産は取りやめられたらしい。発表されてから、三か月ほどでの販売中止だ。その理由は明白だった。キャッチコピーにも表れている。


『法律ギリギリ! 命令拒否率八十%のツンドラAI!』


 AIの設定にも、細かい法的な定めがある。その中でも、幼子でも知っているのが拒否率、あるいは乱数の存在だ。人間らしさを追求するために、断るコマンドをAI自身に持たせるために、それを設定することができるようになっている。しかし、完全拒否が可能になってしまうと、人間に害が及ぶ可能性が限りなく高くなるため、設定する場合は拒否率八十%までという取り決めになっている。普通はゼロにするが、友達的なコンセプトのAIなどは、それなりの数値に、五十くらいの設定をするそうだ。しかし、八十ギリギリを攻めることはほぼないだろう。不便極まりない。働かせるためのものなのに、働かせることを拒否されたら、たまったものじゃない。


 興味本位で通販サイトのレビューなども見てみた。予想した通り、ほとんどが低評価で☆1、2が目立つ。


『使いにくい』『本当に八十? 一度も命令をきかなかったから、返品です』『見た目はかわいい』『美人ちゃんなのはいいけど、限度がある』『嫌々いう女の子を【閲覧制限】【閲覧制限】【閲覧制限】。だから、みんなも【閲覧制限】【閲覧制限】【閲覧制限】【閲覧制限】。最高だぜ』『圧倒的、上級者向けです。AIの知識がそれなりにないと、上手く使えません。その分、性能はいいですが、それにしても扱いにくいです』『ゴミ』『本当に基準をクリアした商品ですか?』『金返せ』『製作者は【閲覧制限】。CPUが足りてない』『【閲覧制限】【閲覧制限】』『フリマサイトでも売れねえよ』


 コメントも酷評まみれで、一部、フィルタリングがかかって読めないほどだ。


 どうしてこれを僕に? 姉が何を考えているのかが全くわからない。まあ、一度も理解できたことはないが。


 視界が霞む。急激に身体の力が抜けていき、デスクに顔を打ち付けた。


「んー」


 期待外れだ。何に期待していたかはわからないけれど、僕はそう思った。何もなさそうだから、このまま寝てしまおう。僕は両腕を枕にして、頭を乗せた。骨ばんでいて、いつもより硬く感じた。


 そのまま僕は寝ようとした。が、扉が開き、その音で僕は身体を起こす。

 そこにいたのは台所に放置してあった配膳台だった。端末で遠距離操作ができる機能がついており、電気ケトルなどが使えるようにバッテリーも完備してある。

台の上には白湯とゼリー飲料が乗せられていた。


「どうぞ」


 画面の中のAIが口を開いた。


「え、あ、うん。ありがとう、ございます……」


 白湯を舐めるように飲む。熱くなかった。僕は一気に飲み込んだ。身体の芯が温かくなった。ゼリー飲料に口をつける。ラムネ味。甘い。僕の好きな味だ。


 画面の方をふと見ると、AIがオーバーサイズの黒いパーカーを着ていた。そして、AIの裏でウインドウが閉じたり開いたり、ローディングの進捗状況を示すバーが多数見える。忙しなく作業をしているはずなのだが、パソコンの作動音はものすごく静かで、AIの表情も微動だにせず、軽くあくびをしていた。


「最適化完了いたしました」


 一斉に背後のウインドウたちが閉じる。


「ご命令があればなんなりと」


 AIが画面の右端に小さくなる。デスクトップアイコンの邪魔にならない位置取りだ。


「えっと、その、i」

「なんでしょうか」

「知りたいことがあるんだけど」


 AIは僕の呼びかけにも関わらず、画面の端で腕組をして目を瞑っていた。


「どうして姉さんは、僕に君を遺したの?」

「答えるのを拒否します」

「……もう一度言うよ。どうして、姉さんは、僕に君を?」

「答えるのを拒否します」


 これが答えないのは仕様だ。八十%で命令を拒否するのだから、この返答は予想外のものではない。当たり前なこととすら言えるかもしれない。


「どうして、質問に答えてくれないの?」

「答えるのを拒否します」

「どうして」

「答えるのを拒否します」


 しかし、それでもイラつきが発生するのは止められない。AIは指先で髪をいじっていた。目線は毛先、僕のことは視界に入っていないようだ。


「もういいよ」


 僕は手癖で追跡ソフトを起動させた。だが、姉はいない。追うものはない。更新は続いているが、『nothing』というものが羅列されているだけだ。


 そういえば、と、僕は追跡ログを遡る。姉は何で死んでしまったのだろうか。消えたことが衝撃的すぎてその詳細を確認していない。膨大な『nothing』の波を乗り越えて、僕は姉の死亡ログに辿り着いた。


 この追跡ソフトでは、電脳世界で追跡しているものがいる場所と状態を見ることができる。僕は姉に頼み込んで、追跡させてもらっていたため、かなり詳細なデータを得ることができていた。見られないデータと言えば、姉の視界、音声データと会話ログ、誰といるかくらいなものだ。これがこのソフトの限界なのだ。しかし、メンタルとフィジカル……電脳体のスペックは仔細に把握できる。リアルタイムで、だ。


 姉が最期にいた場所は、大学付近にあるトラッシュボックス。データの廃棄場に行く姉は度々確認しているから、ここに行くこと自体は不自然ではない。たしか、近々、大学でプレゼンから何かがあるからと、大型のデータを取り扱っていると、聞いたことがある。その処分に来ていたのかもしれない。


 ここで事故にでもあったのだろうか。電脳世界で死という概念は薄い。設定寿命を迎えなければ消滅しないし、サーバートラブルがなければそれは縮まらない。最近は大きなサーバートラブルはないから、姉の死因はこれではないだろう。また、姉の設定寿命は七七七年で、キリの良い感じで行きたいと言っていた。姉は僕に嘘は吐かない(と思う)から、寿命が来たというのはないだろう。あのAIが添付されてきたメールの文面からも、姉の死は姉自身にも予期されていなかった事柄によるものだと考えた方が良い。


 その他、イレギュラーな事態と言えば、転送中に肉体データ破損クラッシュしたり、ウイルスに侵されたり、不具合バグに巻き込まれたり、といったところだろうか。しかし、もしも、それで死んだとしたら、大きなニュースになる。姉がネットニュースの一面を飾る。今、パブリックサーチをしてみたが、そのようなものはない。


 僕は姉の電脳体データを確認する。

 消滅に至る、秒単位のバイタルデータ。


 まずはボディに亀裂が入る。そして、それが乱雑に広がり、損傷が心臓コアにまで行く。データに負荷がかかったことにより、姉は形状を保てなくなり、消滅。――こちらの世界で喩えるのであれば、刃物などによって切り裂かれたことによる、失血死といったところだろうか。


 事故では、自己だけでは起こらない死。人為的な、工作的なものがなければ起こらない死。


つまり。


「姉さんは殺されたってことじゃねえか!」


 衝動のまま、デスクに拳を叩きつける。


「いっ……」


 手がひりひりする感じが尋常ではなかったが、それよりも身体から湧き上がる熱の方が強かった。はらわたが煮えくり返る温度。手足が痙攣している。こめかみの血管がうねるのを感じる。


「AI! 姉さんを殺した犯人を捜して!」


 それは言葉で爆発した。


「お断りします」

「探してよ!」

「探せ!」

「お断りします」


 消去してやろう。僕はマウスに手をかける。マルチサポートAIの消去は、セキュリティの強さもあり難易度が高いが、持ち主であればそうでもない。言うことは聞かないが、名義上は僕が持ち主ということになっているから、数回クリックするだけでゴミの処分ができる。


 カーソルを少し動かす。しかし、そこでメールアイコンが目に入った。僕は手を止めた。一応は姉からのプレゼント、しかも遺品だ。このまま、安易に捨ててしまっていいものだろうか。答えは、否だ。


「それほど気になるのでしたら、自分で探してはよろしいのではないでしょうか」


 AIは我関せずで首を傾げる。無表情で何を思っているかはわからない。いや、こいつらに感情はない。当たり前だ。ただ、設定通りに動いているだけなのだから。もしも、こいつらに感情が見えると思えるのであれば、それはこちらが勝手に見出しているだけだ。幻覚だ。大昔にあった、くだらない犬の映像にアテレコするバラエティと同じだ。


 このAIはただのモノだ。モノはモノらしく、それなりにメンテして、適度に使って、捨てればいい。


「転送装置の準備して」

「お断りします」

「もう! わかった! 自分でやる!」


 姉の遺品でなかったら、すぐにクーリングオフするのに!


 僕は立ち上がった。恐らく、何日かぶりの起立だ。そのせいか、足首捻って頭を床にぶつけた。そのまま、匍匐前進で僕は転送装置に向かう。僕の部屋に放置してある転送装置は、もう何年も使っていない。辿り着いて触ってみたら大分埃が積もっていた。埃というよりも砂と言えるくらいの粒の大きさだったかもしれない。とりあえず、服を脱いで、その布で軽く綺麗にしてから、電源を入れた。問題なく起動したため、設定をして、カプセルの中に入る。


 いざ行かん、電脳世界。


 僕はマスクをつける。カプセルの中に水が充満していく。僕は瞳を閉じて、そのまま、意識を失った。


 ビーという重たい電子音が頭に響いた。

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