シスコン野郎とツンドラ黒天使AI
夜野白兎
序章
姉の死を看取るのはこれで二度目だ。
一度目は、肉体を破棄するとき。僕は電脳世界で生きていくつもりはなくて、姉はいつまでも一緒にいるものだと思っていたから、かなりのショックだった。家にある、ありとあらゆるコンピュータのデータを破壊して、ご立派な転送装置を粗大ごみの業者に引き渡してやろうかと思った。しかし、画面越しに毎日会えばいいでしょうと、姉が言うから辞めた。いや、そもそもできなかっただろう。データの削除は、間違いがないように、複雑な手続きを踏まないとできないように(姉が)しているし、ゴミの業者の方に連絡するのも、物が物だから人間が出しゃばって来て億劫だ。
だから、僕は事を起こさずに姉を見送ることにしたのだ。
2LDK古アパート、四畳の一室。そこは姉の部屋だった。ゴミは一つも落ちていないけど、物の置き方が出鱈目で、散らかっているように見える。テーブルは斜めに置いてあるし、イスはいつも置いてある場所が違う。クローゼットはないから衣服は塔のように畳んであって、文房具や雑貨なども透明な道具箱に入れて積み木のように積んである。ベッドはない。代わりに寝袋が部屋の隅に丸まっている。その付近には小さい置き鏡とメイク道具が整列している。
「じゃあ、逝ってきま~す。まったね~」
姉はおやすみを言うくらいの緩やか足取りで部屋に戻っていった。僕はその様子を部屋の外からぼんやりと見ていた。
姉はなだらかに家具を躱して、奥に進んでいく。いつもであったならば、そのまま寝袋で熟睡するのだが、この時はそうではない。
終着点は転送装置だ。正式名称はBrain to Digital Translator。脳味噌をデジタルデータに変換する装置らしいが、単なる電脳世界へのアクセスツールという認識の方が強い。この装置はどの媒体よりも情報の解像度が高い。UIが複雑ではなく説明なしに直感的に操作できるから便利。要するに、電脳世界を体感できる装置、あるいは電脳世界に感覚を転送できる装置だ。
しかし、僕はこれが嫌いだ。情報量が多くて気持ち悪い。重い。人が特に煩わしい。吐く。そして、姉を奪う装置でもあるからなおさら嫌悪感が増すというもの。フリーズして置物になればいいのに。
そんな僕の願いは、結果としては届かなかった。
転送装置はカプセル状、ガラス張りで中が見えるようになっている。このガラスは液晶パネルでもあり、タッチして操作することができる。姉は服を脱ぎながらコマンドを入力し、カプセルを開いた。すると、上から呼吸用のマスクが垂れ下がって来る。姉はマスクをつけて、中に入った。
カプセルが閉じる。ビーという低い電子音とともにカプセル内に水が入りはじめる。
姉は僕を笑顔で見ながら、両手を振っていた。水位がどんどん上がっていく。
僕も手を振りたかったが、今更ながら、姉の全裸を見るのが気恥ずかしくなり、両手を顔の前に出す変なポーズをしてしまうのだった。どうして曇りガラスモードを使ってくれなかったのか。いや、それはそれで姉の最期が見られないのが口惜しかっただろう。
カプセルに水が充満した。僕は勇気を出して、顔の前から手をどけた。
姉の肉体を見るのが、これで最後になるからだ。
本来であれば、水が充満して、数秒で意識が電脳世界に転送される。これ以上の外的変化はない。しかし、今回の変換は特別だったのだ。
脳味噌データの完全なる電子データ化。肉体の破棄、あるいは、肉体からの解放。
この道を選ぶ人間は少なくない。姉もこの少なくない人間の一人で、言い方は悪いが、凡庸な……普通のルートにこれから乗るのだ。
僕は少しばかり憂鬱になりながら、カプセルを見た。
そして、それは直ぐに始まった。透明だった水が、赤く滲みだす。姉の輪郭が溶けていく。ウェーブがかった黒い髪も、油性ペンで買い物メモが描いてある手の甲も、小指の爪だけ異様に小さい足も、ほんのり日焼けした腕も、太ももも、白いはらわたも、何もかも。何もかもが水になっていく。
大きな気泡が浮かぶ。指の形状が不安定な中、姉がマスクを外した。
『こぽっ』
姉が口を動かした。……もう、意識を失ってもいい段階である。いや、意識を失わせなければならない状態である。この完全転送には肉体に負荷がかかる。それ相応の、死に値する痛みがある。そのため、本来であれば麻酔が効いているはずなのだが、姉はそうではないらしい。
これはいけない。下手をしたら、本当に死んでしまう。精神が死んでしまう。
そう考えた僕は姉の部屋に駆けこんだ。そのせいで、服の塔も、道具箱の積み木も、全部倒れた。僕も転送装置の前に転がり込んだ。
顔を上げた。下着の跡が付いた胸の下が見えた。頭を床に打ち付けた。
『こぽぽ』
泡の音がした。立ち上がった。すぐに姉の顔を確認した。
――姉はにいっと笑っていた。
『こどもね』
そう言っている気がした。口元で泡が揺らいでいた。
「そうでしょ。成人年齢達していないし、十七だし」
僕がそう返すと姉は、『こぽぽ』と笑った。肘先だけの腕を僕の方に向けて伸ばした。
『飛び越えちゃいなよ、それくらい』
「……無理だよ。僕には」
僕は姉から目をそらした。視界の端で、姉がしょうがないなあと、微笑んでいるのが見えた。僕はそれが全て赤くなるまで、姉を見ないようにした。息苦しかった。生きていけない気がした。しかし、そのまま抱き着きたくもあった。泣きたかった。
液晶パネルに手を触れた。『汚水排出作業を開始します』というメッセージが表れ、カプセル内の水がみるみる減っていくのが見えた。僕はコマンドを入力し、それを一時的に止めた。少しだけ、カプセルを開き、赤いような、黒いような、濁っているような、水をすくった。
飲んだ。
姉の残り汁を摂取した。
「にがい……、おなかがいたくなるあじがする……」
僕は泣く泣く排出作業再開のコマンドを入力し、水が空になるまでカプセルを茫然と見つめた。
こうして、僕は一度目の死を看取ったのだ。
そして、僕は今、二度目の死を看取った。
パソコンのモニターで姉の生体ログが消える瞬間を見た。メールの通知が届いた。行政からのお知らせなようだった。僕は別ウインドウでそれを開いた。添付ファイルも何もない、簡素なメールだ。
『
その文字だけがやけにはっきりと、太く書かれているように見えた。その後の文章はよく読めなかったが、死んだ場所と時間らしき単語は捕らえられた。それでも、五文程度のショートメッセージだ。
「えあ?」
あっさりとしすぎている。わけがわからなかった。
姉が電脳世界に旅立って、早二か月。僕の一日と言えば、姉が家にいないこと以外何も変わらない。昼に起きて、学習プログラムを受講して、姉と通話して、カップ麵を食べて、姉と通話して、姉と通話して、ネットサーフィンして、朝日が出る時間に寝る。たまに、姉と通話できない時もあったけれど、その時は、追跡ソフトでログを追って、大学にいるだとか、バイトをしているだとかを把握して、暇つぶしをしていた。
今回はその最中だった。
日常だった。特別なことなどしていなかった。とても深刻なことなはずなのに、異常が起きていないとおかしいはずなのに、何の演出もなく、実感も質量もなく、姉は死んだ。
追跡ソフトの黒いウインドウが、『nothing……、nothing……、nothing…』と更新を続けている。
僕はそれを閉じることができず、画面を見つめることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます