第9話 傘をへし折り、ペトリコールに飛び込んでいく

今が辛ければ、将来は楽できる。

扉の隙間から入ってきたのは早朝の冷たい空気、それから落ちてきた雨粒。

僕は傘を持って学校へ歩き出した。


バスの窓に水滴が走っていく。

その向こうにある坂で、合羽着て自転車を立ち漕ぎしている人を何となく眺めていた。

車内が揺れる。

手元に開いたままの単語帳を読み込んだ。


傘は風が吹いても押されないけど足元は湿っていく。

水たまりを踏まないように僕は少し俯いていた。

車道側を避けているのも同じ理由。

三つ目の点字ブロック、もう校門の前に着いた。

同じ場所とは思えないほど昨日よりもしみじみとしている校門をくぐり、昇降口まで着いて傘を振った。

泥臭さと蒸している空気が体にしつこく纏わりついてくる。

下駄箱を開いて覗きこむ、何枚もの手紙が散らかっていた。

丁寧に一つ一つ取り出した後、革靴を入れる。

横を向いて歩こうとしたとき、女の子と目が合う。

手紙だ。

滑る床を気にしながら彼女は逃げて行った。

この小さく窮屈な下駄箱から急いで離れ、教室に歩き始める。

「ゲームやってみませんかー!」

背中を押すように声が聞こえてきて、僕は後ろを振り向いた。

小さい女の子が口を大きく開けて叫んでいる。

「体験入部していますよー!」

通り過ぎていく人たちにチラシを配っている。

だけど僕は重いカバンを担ぎながら教室に歩いていくしかない。


理科の先生の手から離された鉄球は地面に落ちていく。

それで首を傾げる人、教科書を読んでいる人、窓の外を眺める人、寝ている人、そしてただ見ている人。

「いいか、これは重力によるものだ。物体は重力に従って落下していくんだ」

「先生ー!」

「なんだ祥平?」

「物体は重力に脅されてるから従うんですかー?」

「そんなわけないだろ、鉄球は生きていないぞ」

祥平君はいつも元気だなぁ。

笑われた祥平君も笑っていた。

どうして物体が物理法則に従うだなんてことを気にしても仕方ないなんてこと、皆はわかってる。

「あ! ヤンチッチが俺の椅子壊した!?」

「……」

「……あれ?」

「朔夜、座れ」

「あ、すいません」

朔夜君は授業中いつも寝ている。

最初はどの先生も注意していたみたいだけど、もはやほとんどの先生が諦めて放置しているらしい。

それでも今みたいに変な寝言を叫びながら立つことがあるから、先生方は大変困っていると祥平君が言っていた。

「よし、続けるぞ」

「あ! 弁当がない!」

「……それは残念だな。朔夜、早くすわ―」

「あ!」

「今度はなんだ!」

「あ、寝てました……すいません」

休み時間聞いてみたら、弁当はあったみたい。

夢遊病って厄介さがよくわかる授業だった。


チャイムが鳴り、時計は十二時半。

もう昼休みか。

「智也くーん、いっしょに弁当食べないー?」

「ちょっと、あんた何してんの?」

「そうよ、お前なんかと一緒に食べるわけないでしょ!」

クラスの女子が僕を囲って喧嘩し始めちゃったよ。

しかもだんだん人数が増えてきてるし、廊下からも入ってきてる。

やばいどうしよう。

「おい、智也―! 早く来いよー!」

祥平君が手を振って僕を呼んでいる。

行きたいのは山々なんだけど、隙間なんてないし。

「邪魔だ邪魔だ! どけどけ!」

「なによあんた! って夢遊病男!」

朔夜君が女子の群れを割って来てくれた。

「俺が智也きゅんとランチするんだよ!」

「は?」

「下がれや!」

女子たちがもっと怒ってるし、団結し始めてる。

これじゃ朔夜君が虐められてしまう。

そんな風になるなら、僕が女子たちと……。

「うわ……!」

「ちょっと!」

「なにしてんだよ!」

「無理やり連れて行ってる……むふふ」

朔夜君が手を引っ張って女子たちから僕を引きはがしてる。

こんなことしたらもっと嫌われちゃうよ。

「朔夜君……いいの……?」

「なにが?」

「いや……」

女子たちが怖い目で睨んできているのに、朔夜君は気にしてない。

そこまで友達を大切にする人だったんだ。

「おー、おつかれー」

「下手なホラー映画よりも怖かったぞ」

「そうだな、下手なお笑い番組よりも面白かったぜ」

いつもと同じで、朔夜君をとにかく煽る祥平君。

朔夜君がその眼球へダーツのように箸を投げ飛ばしてる。

でも祥平君は普通に避けた。

「俺の動体視力舐めるなよ?」

「なら直接……」

「おい、やめろ」

祥平君の頭を掴み、箸を握る朔夜君。

これはもしかして本気なのかな。

止めた方がいいのかもしれない。

「っく、せめて左目にしてく―」

「ってこんなことしてる場合じゃなかった」

「ありゃ?」

突然何かを思い出したかのように、朔夜君がものすごい勢いで弁当を食べ始めた。

どうしてこんなに急いでるんだろう。

その様子に僕と祥平君は目を見張っていた。

「いい食いっぷりだな。俺のニンジンも食べるか?」

「いらねぇ!」

およそ三十秒。

祥平君が差し出していたニンジンを払いのけると同時に弁当を食べ終え、自分の机の上に置いてあった鞄を持って廊下を走っていった。

「……?」

「せっかく女子から智也を奪ったのに、ろくな会話もせず行っちまったな」

「そ、そうですね……」

そういえば昨日、変な先輩から逃げようと僕を盾にしてた。

だから今日は、あの人が来る前にどこかへ隠ようとしているのかな。

「それにしても、不思議なもんだよな」

「なにがですか……?」

「いや、昨日まで嫌っていたVR部の勧誘をあんなに必死でやってるから」

そういえば朝もチラシ配っていた。

それに授業中もたまに起きては、何か作業していたような気がする。

一日でそんなに変わることがあるなんて信じられない。

「すごい驚いてるな、もしかして知らないのか?」

「え、なにが……?」

「なにがって、VR部が廃部になりそうだってことだよ」

そんなこと……やめてほしい。

どうしてそんなことが起こるの。

「おい智也、顔色悪いぞ?」

「え、え……大丈夫だよ……」

昼休みが終わるまで、祥平君が僕に優しく声をかけてくれたり、面白い話をしてくれたけど、まったく笑えなかった。

作り笑いさえできなくて、僕は机の上に置いた次の授業の教科書と教室の入り口を交互に見ているだけだった。

朔夜君はチャイムが鳴っても帰ってこず、閉められた教室の扉を開け、怒られながら席に座っていった。

この授業はなぜか寝ようともせず、朔夜君は退屈そうに窓の外を見ていた。


元々僕は勉強が得意じゃない。

周りの同級生に比べて漢字は書けなかったし、計算もできなくていつも馬鹿にされていた。

もちろん嫌だったけど、それ以上に授業中に僕だけ手があげられないことが怖かったんだ。

だから僕は毎日何時間も勉強してきた。

そのおかげで勉強が得意になって、先生からも褒められるようになったし、お父さんだって優しくしてくれる。

でもその代わりに体育が苦手になった。

何を言っているのかを理解できているのに、身体がついてこなくて実現できない。

わかっているのに何もできないことのほうが哀しかった。

「でも大人になればそんなことは関係なくなる」

そうやって周りの大人は僕に言ってくれた。

だけど逆の意味では勉強ができなければ、生きていけないってことだと思えて、僕はもっと机に向かうようになった。

「智也、どうかしたのか?」

「あ! な、なに、朔夜君……?」

「いや、なんかぼーっとしてたから」

汗まみれの朔夜君の影で、太陽が隠れる。

朔夜君は体育の授業になるとやる気満々なんだよね。

「おい朔夜、50メートル走のタイムは?」

「7.34だった、祥平は?」

「っふっふっふ、6.82だ。これで3勝1敗だな」

「くそ、受けるんじゃなった……」

でも運動神経がいいわけじゃないみたい。

ちなみに朔夜君が体力テストで勝ったら、祥平君は一週間の間だけ語尾に“ぽわ”をつける勝負だったらしい。

なお負け場合は一週間、祥平君の弁当に入ってるであろうニンジンを食べる約束だって。

「お、ボルテジ。タイムはどうだったよ?」

「5.47ダッタお。」

「うわ、速いな。さすが陸上部」

羨ましい。

僕も足が速ければ祥平君と勝負できたのかな。

でも速くなったら何を得するんだろう。

「横座るぞ」

「あ、うん……」

朔夜君が僕の隣に腰を掛け、手で顔を仰いでいる。

雨が止んだ後の晴れだから蒸し暑い。

「勝負はどうですか……?」

「まぁそうだな。一応あと握力と持久走があった気がするけど、祥平の握力80kgあるし、負け確定だな。」

「え、ええ……」

これから気を付けよう。

今もボルテジ君の肩掴んでいるけど、ボルテジ君の表情が固くなっていっているよ。

「あー、勝てるわけなかったか」

「仕方ないですよ……」

「だったら勉強で勝負吹っ掛けるか。いや、無理か」

「そ、そんなことないと思いますよ……勉強はやっただけ伸びると思うし……」

「智也に言われると説得力があるような、ないような」

朔夜君は汗を手で払いながらそっぽを向いた。

そんなに勉強が嫌なのかな。

「智也はいいよな」

「え……?」

「頭いいし、優しいし……モテモテだしな」

呆れた顔でテニスコートからこっちを見つめている女子たちを見る朔夜君。

女子たちはそれに気づいてボールを投げてきた。

「いや、そんなことはないです……朔夜君だって……」

「俺は何を頑張ろうとしても諦めてしまったからな」

「な、なんでですか……?」

「……辛いことに耐えられないからだな」

それでも耐えないとダメな時だってあるのに。

むしろそれを続けたら楽しくなってくることだってあるかもしれないのに。

実際に今だって朔夜君は頑張ってる。

「VR部の勧誘頑張ってるじゃないですか!」

僕は天気のせいか熱くなっていた。

だけど朔夜君は手を扇ぎながらも冷静に呟く。

「……それも耐えられないだけだ」

頬を流れる汗が僕の頭を冷やしていく。

あっちでテニスしている女子の誰かがボールを投げあげる。

僕は眩しい太陽を手で隠すと、ボールも見えなくなった。

「次は持久走か」

「そ、そうですね……」

僕と朔夜君はゆっくりと歩いて行った。

持久走は一番嫌いなんだよね。

遅すぎていつも一人ぼっちになって目立つ時間が長いし。

「その顔、持久走は大嫌いだろ?」

「ま、まぁ……」

「俺も嫌いなんだよ。走ってるとき退屈だしな」

「そ、そうですね……」

なんで千五百メートルもあるのだろう。

もう少し短くてもいいと思うけど。

「あ、そうだ。勝負も負けのようなもんだし、よかったら俺と一緒に走るか?」

朔夜君は優しいな。

僕が一番後ろを走るのをわかって気を遣ってくれているんだろう。

「で、でも僕は本当に遅すぎるから……」

「気にするなよ」

気にするに決まっているよ。

一緒に走っても僕は会話が下手だし、長くなるだけだし、もっと退屈になるだけだよ。

だけど僕は断り切れず、結局一緒に走ることとなった。

「……」

「智也君頑張ってー!」

みんなが僕を何回も追い越していく。

それなのに朔夜君は僕の隣を走り続けてくれている。

初めは何とか話してたけど、もう女子の声だけになっちゃったよ。

「あと二周だな」

「う、うん……」

まだあと二周もある。

ほとんどの人がもうゴールしているし、申し訳ないよ。

せめて何か話題を。

「朔夜君って何が得意なの……?」

「それってどういう……」

あれ、なんか間違えたのかな。

明らかに朔夜君が落ち込んでいる。

「え、えっと……」

「得意なことは、寝ることだな」

「え、それは意味あるの?」

「うっ!」

また朔夜君が変に。

話題を変えよう。

もっと安全な話題を。

「あ、好きなものはなんですか……?」

「漫画とかだな」

「そ、そうですか……」

漫画わからないよ。

そうだった、僕の好きなものと朔夜君が好きなものが合うわけがなかった。

だけどもう話題ないし、続けないと。

「あとはゲームも入るのかもしれないな」

「そ、そうなんですか……どんなところが……?」

「うーん……よくわからない、たまにやりたくなるからか?」

そんな曖昧な。

昨日あんなに楽しんでいたくせに、感覚的すぎるよ。

だけどゲームか……。

やはり僕と朔夜君は全然違うよ。

「……」

「やっぱり……退屈ですか……?」

「いや、そんなことないぞ」

嘘だ。

顔に出ているよ。

さっきの授業の時と同じ顔だ。

「本当のことを言ってほしいです……」

「いや、ほんとだって」

「嘘ですよね……!」

「なんだよ?」

そもそも僕は一緒に走ることを断っていた。

こうなることがわかっていたから。

「もういいです」

「え?」

「置いて行けばいいじゃないですか!」

「なんでだよ」

僕がこんなに言ってもわかってくれない。

なんでそこまで。

こっちはもう嫌だって言ってるのに。

こうやって走るくらいなら僕一人で走った方がいい。

「早く行ってください」

「だからなんで?」

「いいから行けよ! ノロマ! ……あっ」

「……だれがノロマだと?」

ヤバい。

つい熱くなって言い過ぎた。

「こっちはお前が寂しくないように―」

「そんなこと頼んでないだろ!」

「……そうか。わかった」

ようやくわかってくれたみたいだ。

僕は朔夜君と走っているほうが辛いんだよ。

あれ?

「早く行ってよ―」

「おい、お前を徹底的に貶めてやる」

「え……?」

「勝負しろ」

一体何言ってるの。

はやく置いて行けばいいのに。

「競争だ」

「な、なんで……?」

そんなの僕が負けるに決まってるじゃないか。

無駄なことだよ。

「別に受けるか受けないかはお前の自由だ。ただ、その場合は無様に一周走るだけだけどな」

「え?」

今更何言って。

すでに僕は無様に走ってる。

「あと一周だよー!」

「智也君、頑張ってー!」

あと一周。

朔夜君はまっすぐ前を向き、徐々に加速して僕を抜かしていった。

これでようやく楽になれる。

「どうしたんだよ。てめえはカスだな!」

「!?」

僕のほうを振り返り、朔夜は言ってきた。

それも明らかに俺を馬鹿にして、本心だ。

ああ、イライラしてきた。

「うるせえ、寝坊助野郎!!」

俺はそのクソ野郎の背中に襲い掛かるように足を蹴りだしていく。

それを見た朔夜はその言葉の通り、全速力で走り出した。

「うわ、いきなりどうした!?」

「え、智也君?」

「と、智也君頑張ってー!」

「そんな寝坊助野郎、抜かしちゃえよー!」

うるせえ。

もう俺は煩わしい豚の声なんて聞こえないし、待ちくたびれている低能も見えない。

俺が見ているのはただ一つ、その気持ち悪い背中だけだ。

「待てやああああああああああああ!」

「かかってこい。雑魚野郎!」

ラスト一周を僕は朔夜を追いかけて全速力で走った。

絶対に追い越してやると一歩一歩踏み込んだのに、まったく朔夜には届かなかった。

だけど久々に浴びた火傷するような風は心地よく、同時に足が張り裂けそうなほど悔しくてたまらない。

「はぁ……はぁ……くそ!」

「遅かったな。圧勝だ、ノロマ。」

「……うるさい!」

朔夜がゴールしてからは地面が棘のようだった。

今もそうだ。

疲れて倒れた僕の背中を突き刺していっている。

「くそ、こんなに走って負けたらもっと―」

「そうだな。無様だな、雑魚」

ここぞとばかりいいやがって。

昨日はボコボコにされたくせに。

そうだ、だったら。

「決めた! VR部に入る!」

「そうか、VR部に―え?」

もうどうなったっていい。

僕は太陽から目を逸らさない。

「ちょ、何言ってるの智也君!」

「やめなよ、そんな部活!」

「うるさい! さっきから騒がしいんだよ! お前らなんて眼中にないんだよ!」

向こうから何度も何度も見下しやがって。

「と、智也、わかった。俺が悪かった、だから―」

「今更遅い。もう決めた」

僕は朔夜をがっつり睨みつける。

「ゲームでボコボコにしてやる! 逃げるなよ、腰抜け!」

「お、おう……」

そう言いながら僕は去っていった。

まだ授業も終わっていないのに、いち早く教室に戻ってしまった。

窓から外を見ると、みんながまだ居て、そこで冷静に戻ったけど遅い。

僕はトイレに籠って頭を抱えるしかなくなっていた。

でもその後、朔夜は僕を励ましてくれた。

嬉しくてたまらなかったけど、憎しみと恨みが消えたわけじゃない。

僕はこの悔しさを忘れられないだろう。

そしてこれをぶつけずに辛いまま、そんなの絶対に後悔する。


今が楽しくなければ、将来は辛くなる。

扉を外に出ていくと朝の生暖かい空気、それに乗ってくるペトリコール。

僕は傘を持たず高名高校へ走り出した。


――――後書き――――

これはほとんど短編小説。

ちょっと国語の教科書にあってもおかしくない。文章力は置いておいてね。


なんか子供のころ思ったんだ。今を頑張れば将来は楽ができると。学歴社会ってそうだろ?ってね。


でも思い返せば友と遊んだ日々のほうが大切にしてたりもする。かげがえのない時間だったから。

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