十七 夜を共に

 流麗は目を覚ました瞬間に、見慣れない部屋での目覚めが、いつも以上に眩しく感じていた。

 恐らく、今いる部屋がこの国で一番豪奢な寝室というのもあるだろう。

 

 床一面に黒い大理石が敷かれ、調度品は全て濃いうるみ色の漆で統一されてている。縁取りは眩い金色の装飾で統一され秩序正しい。他の置き物も用途は分からないが、どれも高価なのだろう。

 天蓋から吊り下られた透ける翠帳カーテンの向こうはまるで幻の如く流麗の目を惑わす。あてがわれた客間よりも上質な絹の布が身体に張り付いて、非現実に包まれている気分が拭えないのもあった。

 何せ、目は覚めたが何もできない。しっかりと腹の辺りに回された腕が流麗を離さないのだ。


 その温もりが、現実から一番遠い気がしてならない。昨晩の記憶を思い起こして、何もなかったと己の身体を確認する。

 

 ――衣服は着てる

 ――一緒に寝ただけ

 ――大丈夫、襲ってない……はず


 と、酒に呑まれた訳でもないのに錯誤する記憶。殆ど動けない状況で、流麗は背後にいる人物を起こさぬように恐る恐る身動みじろぎしてみせ、やっとの思いで身体を反転させた。そこには己を寝台に閉じ込めている犯人が寝息を立てて、すやすやと眠っている。見たところ激しい着崩れはない。

 静かに眠る剋帝陛下その人から昨晩の消え入りそうな顔は消え、随分と安らかな顔をしていた。


 何故こんな事になったかと言えば、単純に舜に今日は側にいて欲しいと言われたからだ。しかも、流麗も抱きしめられたままだったのでそのまま眠ってしまい、今に至る。

 

 流麗は、本来ならば軽々しく頭を上げる事すら罪になる尊顔をまじまじと見つめた。二十二歳という若さらしい精悍な男の顔は、眠っていると少々幼くもある。

 流麗は初心うぶではない。けれども、一度はお会いしたいと考えていた相手ともあって、見つめると少々むず痒いまでに胸は高鳴る。ただ、不安もあった。


 ――この状況……妃嬪達を遠ざける手段とは言え、皇后陛下の怒りに触れるかもしれない……

  

 舜が周皇后陛下を遠ざけているのは、子を亡くし、その悲しみから抜け出せない彼女を労っているのだと、流麗なりに考えていた。

 不仲に見せる事で、心を患い麒麟宮に籠る周皇后を後宮の目線から逸らす為。下手に、妃嬪達の敵意の的にならないように気遣っている。そんな考えが先走っていた。実際、昨日の舜の姿を見る限り、周皇后を忌避しているようには見えなかったのだ。

 舜自身が後宮という存在を望んでいないとも伺い知れるが、それだけの理由で妃嬪達を遠ざけているのではなく、皇后の為なのだと。が、閨をを共にここまでする必要は無かったはず。


『周皇后が入宮する事もなかった。そうすればけいは……』


 舜もまた、子を喪った想いを宿したまま。それが、二人を繋ぐ証拠であると。

 

 流麗は、目の前にある玉体に指先で触れて良いか思い悩む。

 既に同じ褥の上であるのに、流麗から触れるのとでは意味が違う。


 しかし、その考えは目の前の人物の瞼がうっすらと開いた事で些細な考えも掻き消える。流麗を捉えていた腕は、思い出したかのように更に力が入り流麗を逃すまいと身体同士を密着させて、そのまま事でも始まりそうなまでに互いの息遣いが肌に伝った。

 

「朝まで付き合わせてしまったな、すまなかった」


 と、今起きたとは思えぬ程にはっきりとした口調に流麗は、「いえ」と短く返す。寝ぼけてはいないが、そう言う割に腕の力は抜かない。それからしばらく経っても、流麗の首筋の辺りに顔を埋めて動かなかった。



  


 そんな、平穏な時間が終わりを告げたのは、寝所の扉の外から荒だった声が聞こえるまでの事だった。


「剋帝陛下! 麒麟宮に変事有り! 至急、お越し頂きたく!」


 女兵士の緊迫して震えた声が、最悪の事態を報せに来た。


 ◆◇◆◇◆


 舜の目の前には、女兵士ニ名と、見覚えのある麒麟宮の侍女長が震えて膝をつき首を垂れていた。

 悪夢に怯えるかのような様な姿に、異常は容易に知れる。

 女兵士はともかくとして、侍女長は幾度も舜と顔を合わせた事があった。肩を震わせる様に、皇后に仕える女を思わせない。


「何があった」


 舜の私室にまで押しかける事態を前にして、舜は冷静だった。


「と……突然の事で……」


 頭を下げたまま歯を鳴らして言葉を口にする姿に、舜は首を傾げる。


「今朝、周皇后のお部屋をお伺いした所……部屋が真っ暗に……なっていて……侍女と女官の数名が部屋に飲み込まれて……」


 目で見た懐疑的な何か……混乱した様な口調と恐怖が入り混じったそれに、舜は翠帳カーテンの向こうに隠した人物に目をやる。

 そこに存在しないのではないのかと疑ってしまう程に、気配を殺し、呼吸の一つもない。その人物が、数日前に放った不穏が舜の脳裏に過ぎる。


『もう一人。禍根が残った方が』


 流麗は、舜を助くべくここ数日動いていたが、周皇后の身体に関しては何一つ口にしなかった。

 流麗の行動を疑ってこそいなかったが、舜では把握しきれない疑義を前にして焦りが出そうになる。

 兎も角、動かねば。侍女長と女兵士達に直ちに麒麟宮へと向かうと告げて一度部屋から三人を出すと、すぐ様に流麗が寝台の中から姿を現した。


「……何が起こっている」


 舜の表情は濁る。舜はもう永く禍に犯されていた。だから、流麗が周皇后に治療を施さなかったのは、猶予があるからだと思っていた。けれども、それも間違いだったのだと、事態の重さが告げている。


「皇后陛下に関しましては、私が気がついた時点で手遅れでした」

「……手遅れとは、」

「既に禍と命は直結していた……治療は死を意味します」


 絶望を押し付けられたように、舜の顔色が悪くなる。


「禍を宿し続けると、魂魄は変質します。人が、禍を呼ぶ存在に成り果てる――それを、我々は悪鬼と呼びます。皇后陛下には、浄化の儀の時にはその兆候が見えました」

「ならば何故何も言わなかった……」


 強張った声が流麗にも届いた事だろう。舜の拳が今にも怒りを露わにしそうではあったが、流麗は冷静に答えた。


「これは、一種の賭けです。陛下の澱みは消えました。今の陛下であれば――いえ、陛下だけが周皇后をお救いすることができる」


 確信めいた声に、舜は流麗へと目を向けた。

 迷いのない瞳は、変わらず舜を真っ直ぐに見つめていた。

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