第5話 市ヶ谷脳科学研究所

かれは、いつものようにパブにあるカウンターの片隅で酒を飲んでいた。他の客たちは、彼が存在しないかのように、カウンターの隅から離れて談笑を交わしていた。だが、その日は、初めて見る白髪の紳士が彼の隣に座り、酒を一杯飲み干すと、唐突に彼の目の前に名刺を出した。その名刺には、「市ヶ谷脳科学研究所 所長 K」と書かれていた。彼はその名刺を一瞥すると、何もなかったようにグラスに手を伸ばした。「創作のお手伝いしますよ」白髪の紳士の言葉に、彼の手は止まった。「明日、お伺いします」と言って、二杯目の酒を飲み干し出ていった。「市ヶ谷脳科学研究所」一般にはあまり知られていない市ヶ谷にある研究所で、当然、彼も初めて聞く名前であった。白髪の紳士が去ると、彼は何事も無かったように再び酒を呷った。

 翌日、彼はいつものようにテラスに座り海を眺めていると、昨夜の白髪の紳士、K所長が現れた。「早速始めましょうか」彼の返事を待たずに、説明をしだした。K所長の提案は、他人、例えば歴史上の人物の人生を体験できるバーチャルリアリティシステムであった。その説明を聞いた彼は侮蔑の表情でK所長を見た。いくら浮世離れしている芸術家と言え、VRシステムのことぐらいは知っている。遊園地のアトラクションの様なもので、装着が気にならないような薄いボディスーツやセンサーにより五感を通して、臨場感あふれる体験が出来るというのが売りだが、所詮は子供だましで、リアルな映画鑑賞か、舞台で役に没頭した演者の気持ちになるくらいの代物だ。

 「いえいえ、我々は脳科学研究所です。そのような五感を頼ったVRシステムなど創りません。脳に直接体験させるのです。」K所長が言うには、現代までの地球を再現した、VR世界において、なりたい人物の電脳人格と被験者の脳とリンクさせ、その人物としての人生を追体験出来る。客観的な体験であれば、脳を現状のまま覚醒させて、リンクさせる事も出来るが、人物そのものを体験したいのであれば、被験者の脳を初期化させ、電脳人格を完全にリンクさせて、初期状態、つまり胎児の段階から追体験を行う事も出来る。「まあ、実際にやってみるのが早いですから」と言って、K所長は勝手にアトリエに向かった。

 火事で燦々たる状態だったアトリエは綺麗に片付けられており、以前の様に中心の創作スペースを中心にカンバスや絵具、粘土に彫刻の材料、様々な楽器などが周辺に配置され、唯一異なるのは、隅のほうに置かれた横型の大きなカプセル。「こちらが我々のVRシステムです」といって、カプセルを開けて彼を中に導いた。中は成人男性も十分横になれるほど広く、中のクッションは非常に柔らかく、まるで水中にいるように感じられるよう設計されている。「まずはゴッホで如何でしょう」K所長は彼の返事を待たずに助手に機械の操作を指示した。ゆっくりとカプセルが閉まり、カプセルとケーブルで繋がったヘッドギアを装着した。これで、彼のVR世界での脳の動きを簡易的に見ることができる。

 このVRシステムであるが、大きくは二つの技術によって構成されている。一つはVR世界の構築。現在知りうる全ての物質的なデータを基に、無機的な世界を発生させ、その上に植物や細菌、昆虫や魚、哺乳類などを再現させる。そして、その世界が過去の歴史と近い未来と違えないように、フィッティングを何度も行い、それは数兆回にわたったが、過去と矛盾しない世界を作ることが出来た。それは特殊な光に複数の状態をのせ、いくつかの光を重ね合わせることによって、複数の状態を同時に処理できる次世代コンピュータの出現によって創ることが出来たともいえる。また、もう一つは電子人格である。この創られた世界は結果から導かれた、所謂哲学的ゾンビであり、このままでは対象の人物に脳をリンクさせても、五感の電子信号が脳に送られるだけである。その為、莫大な人間の脳を調査し、解析、再構築させ、違和感なく被験者とリンクするまで調整を行い、そのデータを機械学習と深層学習によってあらゆる人物に適合できるようにしたのが、電脳人格である。

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