第210話 美紀と、二人だけで
◆黒羽栞◆
どこまでもぬかるんだ沼地が広がってる。
たぶん、それが私の心なんだと思う。
不安定で、まともに歩くことはおろか、立っているだけでやっと。
少なくとも涼と出会うまではそうだった。
涼はね、そんな不安定な私の心に深く杭を打ち込んでくれたの。
太くて、硬くて……。
──はっ!
ち、違うよ?
そういう意味じゃないからねっ!
と、とにかくっ、頑丈で岩盤まで届くような長いやつで……。
えっと、ほら、おっきなビルとか建てる時にするでしょ?
そんな感じ、たぶんだけど、ね……。
涼はね、安心で安全な居場所を作ってくれたの。私は今、そこにいる。この範囲から出なければ、苦しいことなんて何一つないんだよ。
でも、それだけじゃダメだって思ってた。
涼はさ、私のためにって言いながら、どんどん先に行ってしまう気がするから。もちろん、物理的な距離のことじゃないよ。
涼にはさ、置いていかれたくないじゃない。涼の背中が見えなくなったら、きっとこの足場は崩れちゃう。
なら、涼が守ってくれている範囲を今度は自分の力で広げて、確かなものにしていかないといけないんだよ。
***
「じゃあ栞、俺はそろそろ帰るね。もうすぐ時間でしょ?」
うちまで荷物を運んでくれて、私の部屋で一息ついていた(玄関前で帰ろうとしてたのを私が引っ張り込んだ)涼が立ち上がりながら言う。美紀と約束した時間までは残り15分を切ったところだった。
「あっ、待ってよぉ、涼! 帰るならその前にっ」
「わかってるよ。忘れてないから。ほら、おいで」
「えへへ、良かったぁ」
私は涼に飛び付いて、涼は私をそっと抱きしめてキスをしてくれる。温かくて、優しいキス。これが、涼の愛情がないとたぶん私はもう生きていけない。そのくらい完全に涼に依存しちゃってるから。
だからこそ涼にはあんまり心配をかけたくない。もちろん、いつもさらっと私を助けてくれる涼は素敵だけどね。
本当はね、まだちょっとだけ怖いの。美紀と、二人だけで会うのが。
別に美紀が悪いんじゃないよ。過去のことをすごく反省してるのもわかったし、今でも私のことを大事に思ってくれてることも知ってる。
私が本当に怖いのは、自分自身の弱さ。涼はそんなことないよって言ってくれてるんだけど、まだ自分ではそこまでの自信がない。ふとした拍子にまた心が乱れてしまうんじゃないかって、それが怖いんだよ。感情がぐちゃぐちゃになる苦しみは、もう味わいたくないから。
ならさ、私が全部乗り越えるしかないじゃない。自分で足元を固めて、慎重に歩を進めて、大丈夫ならまたその次へ。
現に、涼の手に支えられながらではあるけれど、ここまでこれた。美紀と向き合って、過去のことを許してあげられた。あとは、もう一歩だけ。
なんか、自転車に乗る練習をしていた時に似てるかもね。
初めて補助輪を外した時は、怖くてお父さんに後を掴んでいてもらったっけ。そして最後は、知らないうちにお父さんの手が離れていた。離さないでねって言ったのにって泣き付いた記憶があるよ。
それからお父さんは言ったの。泣きじゃくる私にポカポカ叩かれながら『でも、ちゃんと乗れてたよ』って。『上手だったよ。偉いね』って頭を撫でてくれて。
そしたら、あんなに怖かったのが平気になっちゃった。お父さんに支えてもらわなくても、見ててもらわなくても一人で乗れるくらいに。
それと同じようなことを今回は私の意思でやる。私の最後の恐怖心を払拭するためには、きっと一人で自転車に乗れた時の、あの感覚が必要なんだと思う。
言わば、美紀と二人きりで会うのが最後の仕上げってところかな。
これで問題がなければ、完全に立ち直れてたってことになる、よね?
その後は、『ほら、平気だったでしょ?』って涼に言うんだ。そしたら、きっと褒めてくれると思うの。『栞はすごいね』って。そんなご褒美が待ってるなら、いくらでも頑張れちゃうよ。おまけに涼も安心させてあげられるのなら、一石二鳥だよね。
「また寝る前に電話するから」
「うんっ、また夜にね」
別れ際にもう一度だけぎゅっとしてくれて、涼は帰っていった。
「さて……、私もそろそろ行かなきゃね」
家を出る前に制服からラフな格好に着替える。できるだけ着慣れた服を選んだ。少しでも心が落ち着けるように。
それからお母さんに美紀と会ってくることを伝えて家を出てきた。ちょっと緊張する。
すっかり暗くなった道を一人で歩いて、公園の入り口に到着すると、街灯に照らされた一つのベンチが目に入る。
そういえば、ここで涼に告白したんだよね。せっかく告白できたのに、パニクっちゃって涼を置いて逃げ帰ってさ。
「ふふっ。あの時の私、バカだったなぁ」
実際には必死そのものだったんだけど、思い出したら可笑しくって笑ってしまった。すると心がふっと軽くなって。
ちょうどそんなタイミングで、
「なにがバカなの?」
後から声をかけられた。声の主は、もう言うまでもないよね。
「……もしかして、今の聞いてた?」
聞かれてたら、ちょっと恥ずかしいんだけど。突然一人で笑いだして、変な人みたいじゃない。
「うん。なんか楽しそうだったけど、いいことでもあったの?」
「んーん、なんでもなーい。それより美紀、こうして直接話すのは一ヶ月ぶりくらいだね」
文化祭の時はそんな時間なかったもんね。
私は振り返らずにベンチに向かい、美紀はそんな私の横にきて、二人揃って腰を下ろした。
「だねー。なんかさぁ、学校が違うとなかなか難しいよね。休みの日はきっと高原さんと会ってるんだろうなーって思うと遠慮しちゃうし。栞、高原さんにべったりだったんだもん」
「別にそんなの気にせずに連絡してくれていいのに」
「ふーん? じゃあ、昨日なにしてたか言ってみ? 学校祭の振り替えで休みだったんだよね?」
「……涼に連れてってもらって、旅行に行ってたけど?」
「ほらぁ、やっぱり! そんな最中に邪魔なんて──って、栞の誕生日に旅行?! 高原さんヤバくない?!」
「そうなのっ、ヤバいのっ! もうね、すっごく楽しくって────って、長くなるから、とりあえずこれ渡しとくね。美紀に、お土産買ってきたの」
思わずわーっと喋りだしそうになったのを無理やり押し留めた。旅行の思い出は、なるべく私達だけのものにしたいって涼も言ってたしね。本当は誰かに話したくてしょうがないけど……、ここは我慢っ。
でも、次に誰かに話を振られたら……、抑えきれずに喋っちゃいそうだよ……。
とりあえずは今回私が美紀と会う目的を果たしてしまうことに。
「わーっ、わざわざ私に? あっ、ハンカチだ。なにこのカエル、可愛いーっ!」
「学校の友達と同じのにしたんだけどね、美紀も気に入ってくれて良かったよ」
「栞が私のために買ってきてくれたものだもん、喜ばないわけないじゃん。はぁ……、本当、嬉しいなぁ」
美紀も、まだどこかで不安が残ってたのかな。喜んでいるというより安堵に近い表情を見るとお土産を用意してきてよかったって思う。
「ありがと、栞。じゃあ、今度は私の番。一日遅れたけど、誕生日おめでとう。今年から、またお祝いさせてもらおうと思うんだけど、いいよね?」
「うん、ダメな理由なんてないよ。私達、もう親友に戻ったんだから」
「……一から友達をやり直すんじゃなくて?」
「どうせ美紀と気が合うのはわかってるもん。なら時間の問題でしょ?」
私がそう言うと、美紀の瞳にじわりと涙が浮かぶ。
たった一言、それで一度は全部吹っ飛んじゃったけどさ。美紀を許したことで、吹き飛んでバラバラになっていた思い出は掻き集められて、またちゃんとした形のあるものに戻っている。
わだかまりがなくなって、積み上げてきたものが戻ったなら、関係だって元に戻っていいはずだよね。
「……もう、栞はずるいっ。こんな、私ばっかりもらって……」
「いいじゃない。昔は私が美紀にいっぱい助けてもらったしね」
引っ込み思案だった私をいつだって引っ張ってくれたのは、紛れもなく美紀だった。その感謝の心だって、ちゃんと取り戻してるもの。
「それを全部帳消しにしたのは私──あたっ……!」
私は美紀にデコピンをお見舞いしてあげた。済んだことを蒸し返すの、よくないと思うよ? せっかく私が思っても言わなかったのにさぁ。
「次その話をしたら、一時間ほっぺぎゅーの刑だから。美紀は反省して謝った、私はそれを受け入れて許した。それで終わりだよ」
あんまり繰り返して、また私がおかしくなっても知らないんだから。
「……う、うん。ごめ──ううん、ありがと。それと、これ、プレゼント。さっき途中になっちゃったから、やり直すね。おめでとう、栞」
「なーんだ。私ばっかりじゃないんじゃない」
「そりゃ、ね。大事な栞の誕生日、おめでとうだけで済ませられるわけ、ないしさ」
「うんっ……、ありがと」
あっ。なんか私も泣きそうかも。
「で、でもね、そんな大したものじゃないんだよ? 受け取ってもらえるか、わかんなかったし……」
「受け取らないわけがないし、大したものじゃないかどうかは、私が決めるよ。ってことで、見てもいい?」
「えっと……、うん」
受け取ったプレゼント、キレイにラッピングされた袋の中からは手の平サイズのクマさんがついたキーホルダーが出てきた。今は亡き、昔もらった子にどことなく似てるかも。
まったく。涼も美紀も、同じこと考えてるんだから。
でも、やっぱり嬉しいものは嬉しいんだよね。
「可愛いっ……。ほらねっ、やっぱり大したものだった。ありがとね、美紀」
私と一緒で臆病になってた美紀が、それでも私の誕生日祝いにと用意してくれたプレゼント。その価値は私にしかわからないんだよ。あっ、涼もわかってくれるかもね。
「うぅー……」
あらら、美紀ったらまた泣きそうになってるよ。
「あー、もうっ、泣かないの。ほーらっ、よしよししてあげるから、おいで?」
「栞ぃー……」
「はいはい、いい子だねー」
胸に飛び込んできた美紀の頭を撫でながら、私はほっと息を吐く。
良かったぁ。
なんか、アレコレ考えてたけど蓋を開けてみれば全然普通だったよ。私の悪い癖でただ過剰に心配してただけみたい。実際にはこうして昔と変わらない感じで話ができ──
「ねぇ……」
「ん?」
「──栞の胸、昔より大きくなった……?」
「……へ?」
私の胸に顔を埋めた美紀がポツリと呟いて、頭を撫でていた手が止まる。
「包容力がすごいっていうか、私の知ってる栞と違うっていうか」
「あっ、やっ……、そんなグリグリしちゃっ……」
私の胸の間に美紀が顔を擦り付けてきて、たまらずに声が漏れた。
「いいじゃーん。私達、親友、なんでしょ?」
「そうだけどっ、またすぐ調子に乗って……! あん、もうっ。そういうのは涼にしか許してないのにーっ!」
「あっ、なるほどぉ! いつも高原さんにこんなふうにしてあげてるんだ?」
「……た、たまに、だもん」
いつも、ってほどじゃないと思う。だって、涼は恥ずかしがってたまにしか甘えてくれないから。というか、涼はこんな乱暴にしないんだからねっ。
「ふーん、そっか……。知らないうちに栞も変わったんだねぇ。昔はただの甘えん坊だったのに」
「そんなことなっ……、いとはいわないけどぉ……」
というか、そこは今もあんまり変わってなかったりするわけで。涼とだって、基本は私が甘える側だし。素直に甘えてるのを認められるようにだけは、なったかな?
胸はねー……、美紀と疎遠になった後から大きくなったのは確かだけど、最近は測ってないからわかんない。
まぁ、変わらないものもあれば変わるものもあるってことだよね。
「いいなぁ、栞は。そうしたいって思う人が現れてさぁ」
「そういう美紀は、藤堂君とどうなったの? ほら、ツーショット送ってきてたじゃない」
「あ、あはは……、あれね。えっと、実はそのことでね、栞にちょーっと相談があるんだけど、聞いてくれる……?」
「うん、なに?」
私の腕から抜け出した美紀は、居住まいを正した。キリッとした顔からは真剣な様子がうかがえる。美紀からの相談なら、と私も真面目に聞く準備をして。
「……栞を見込んで、というかね」
「うん……?」
「あのねっ、デートってなにしたらいいのぉっ?! 勢いで誘っちゃったけど、どうしよぉっ?! お願い、栞っ。助けてぇ……」
美紀はまた泣きそうな顔になって、私に縋り付いてきた。
これ、いったい私のなにを見込んだんだろうね?
もしかして、経験豊富だと思われてる?
私のデート経験なんて、片手で数えられるくらいしかないのに……。
花火大会、ショッピングモール、プール、温泉街。文化祭のを入れても五回、かな……?
この中で参考になるのなんて一つだけなんじゃないの? と思ったけど、付き合いたてで浮かれまくってた時のだからそれもどうなんだろ?
あとは基本的に涼のお部屋で過ごしてる。たまーにそれが私の部屋になるくらい。
さすがに最初からおうちデートはハードル高いよね。私と涼ほどになれば、黙々と勉強してたりとか、肩をくっつけて座って一時間くらいなら黙って別々のことをしてても平気だけど。
美紀からの相談だから、ちゃんと答えてあげたいのに。
うーん……。この場はひとまず保留にしておいて、涼に相談、かなぁ?
こうして完全回復の確認が取れたのに、なぜか新たな悩みを抱え込むことになってしまった。
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