第187話 奥様、旦那様

 先程の栞との会話がずっと頭を巡ってドキドキと心臓がうるさい。きっと、ここから始まるのは栞からの猛攻で。


 そんなのドキドキするなというのが無理な話なんだよ。だって、付き合いを重ねるごとに栞がどんどん積極的になるんだもん(栞の口調がうつった)!


 可愛いし、甘えん坊だし、えっちだし、それが全部俺だけに向けられて、更に今日は朝からそれが何割増しにもなっていて。俺だって男だ、正直色々と期待してしまう。


 昨日のお礼に何をしてくれるのかなとか、温泉には一緒に浸かるんだろうなとか、宿の夕食を二人で楽しんで、そして夜は──。


 たぶん、明日の朝には俺は身も心も溶かされていることだろう。甘く幸せな気分に沈んで、元に戻れるのかわからないほどに。


 でも、忘れてはならないこともある。それは今回のメインの目的が栞の誕生日祝いだということ。日付が変わったら栞がしてくれたようにお祝いの言葉とともに用意したプレゼントを渡す。


 ……渡せるかな?


 状況次第では朝になるかもしれないけど、とにかくなるべく早めに渡したいところだ。じゃないと、俺の着替えやらと一緒にバッグに詰め込まれているがちょっと可哀想だし。


 あとは、うん、栞のしてほしいことはなんでも叶えてあげることにしよう。


 

 文乃さんから送ってもらっていた地図を頼りに今日泊まる宿へと辿り着いた俺達は、そのまま中へと踏み込む。まず最初に向かうのはフロント、女性のスタッフさんが対応してくれる。


「ようこそおいでくださいました。ご予約のお客様でしょうか?」


「はい」


「それではお名前をお伺いいたしますね」


「えっと、高原です」


「ありがとうございます。確認いたしますので少々お待ちくださいませ」


 文乃さんからは俺の名前で予約を取っていると言われているので、たぶんこれでいいはず。


 スタッフさんがパソコンに向かうのを見てホッと息を吐く。

 

 自分で(もちろんお金は聡さんに出してもらったのだが)どこかに宿泊なんてしたことがなかったのでちょっとだけ緊張したけれど、意外と大丈夫そうだ。


 なんというか、こんなところでも少しばかり自分の成長を実感してみたり。これも栞と出会ってから色んな場面で鍛えられたおかげなのだろう。


 昔の俺なら、きっと宿の前でずっと立ち尽くして──いや、そもそもこんなところに来ることもなかったか。


「お待たせいたしました。高原涼様でお間違いないでしょうか?」


 感慨にふけっているうちに確認が済んだらしい。


「はい、そうです」


「でしたら、恐れ入りますがこちらの台帳へ宿泊者様のお名前と必要事項のご記入をお願いいたします」


「わかりました」


 差し出された台帳を見れば、宿泊する全員分の名前が必要になるようだ。


 まずは自分の名前を書き、


「栞の名前も俺が書いちゃっていい?」


「うん、お願い」


「はーい」


 栞に許可をもらったので、俺の名前の下に『黒羽栞』と記入した。


 そう、この時俺は確かに『黒羽栞』と書いたんだ。


「ありがとうございます。高原涼様、栞様、ようこそ当館へ」


 台帳を返した後のスタッフさんの言葉に耳を疑った。


「えっ……?!」


 栞も違和感に気付いたようで首を傾げて、


「あれっ……? 涼ったら、もしかして私の名字……。もうっ、ダメだよ? 気持ちは嬉しいけど、こういうところではふざけないで正しく書かないと」


 なぜか栞に怒られることに。まぁ、怒られたと言っても、その表情はデレデレになっているわけだが。


「いや、俺はちゃんと……」


「本当にぃ……? もう結婚した気分で書いちゃったんじゃないのぉ……?」


 栞はデレデレしながらもジト目という器用なことをして俺をじっと見つめてくる。おまけに肘で脇腹をつついてくる始末。


「いえ、奥様。旦那様は正しくご記入くださいましたよ」


「奥様?!」「旦那様?!」


 突然に奥様旦那様呼びをされた俺達は揃って驚きの声を上げた。


 それを見たスタッフさんはニンマリと微笑む。まるでいたずらが成功した子どものようだ。


「申し遅れましたが、ご予約主である黒羽聡様からご要望を承っておりまして、お二人のことをご夫婦として扱うように、と」


「……聡さん」「……お父さん」


 今度は揃って呆れ声をあげることになった。


 聡さん、そういうことは先に言っておいてくださいよ……。

 びっくりするじゃないですか……。


 これも聡さんなりの栞への誕生日プレゼントなのだろうけどさ。


「それから明日が奥様のお誕生日とも伺っております。今回のご旅行はそのお祝いのために旦那様が計画されたとか」


「え、えぇ、そうですね」


「素敵な旦那様でいらっしゃいますね」


「えへ、えへへ。そうなんです。とっても素敵な旦那さんなんですよっ」


 初対面の人にまで栞がこんな事を言うものだから俺もむず痒いというか照れくさいというか。でも、栞がどうしようもなく嬉しそうな顔をしてくれているので、これでいいかと思うことにする。


「そのような特別な日に当館をご利用くださり、真にありがとうございます。素敵な日になるよう我々一同、微力ながらお手伝いさせて頂きますね」


「はい、よろしくお願いします」


 マニュアルでそう言うことになっているのかもしれないけれど、栞を喜ばせてくれるのならなんでもウェルカムだ。


「それでは早速ですが、お部屋にご案内する前に──」


 これでチェックインは完了かと思ったのだが、まだあるらしい。スタッフさんは後ろを振り返ると戸棚を開けて、なにやら取り出した。


「こちらは当館のサービスで女性物のみとなってしまうのですが、浴衣を選んでいただけます。奥様、この中からお好きなものをどうぞ」


 十種類以上あるだろうか、色とりどりの浴衣が並んでいた。


「わっ、たくさんあるよ。ねぇ、涼。どうしよう?」


「栞の気に入ったのでいいんだよ?」


「だってぇ、こんなにあったら選べないよぉ……。どれも可愛いんだもん……」


 栞は一つ一つ手に取りながら難しい顔をする。


「でしたら、旦那様に選んでいただくのはどうでしょう?」


「あっ、そうだよっ! ねぇ、涼が選んで?」


「俺が……?!」


「うんっ。私、涼に選んでほしい。涼が私に着てほしいって思うやつ。ねぇ、おねがぁい」


 ここでそんな甘え声を出すのずるいと思うんだ。しかも、そこにさらなる追い打ちがかけられる。


「ほら、旦那様。奥様がこう申されてますよ。奥様の魅力を引き出せるものを選んでさしあげないと!」


 このスタッフさん、絶対に俺の反応を見て楽しんでるよね?

 なんか目がキラキラしてますけど?


 とはいえ、俺が栞のお願いを断れるわけもなく、実はすでに目星をつけていたりする。一目見て栞にはこれしかないと思っていたんだ。


「じゃあ、これでどうかな?」


「あっ、すごい涼。それ、私が一番悩んでたのだよ」


 よかった。どうやら俺は正解を引き当てられたようだ。ここで微妙な顔をされたら、栞と一緒になって頭を悩ませなくてはならなくなるところだった。


「どう、似合うかなぁ?」


 栞は胸のあたりに浴衣を当てて俺を見る。俺が選んだのは白地に紅葉の模様が入った浴衣。やはり俺の目に狂いはなくとてもよく似合っている。


 栞には白が似合うと思ってるんだ。今着てるのも白いニットだし、栞の綺麗な黒髪が映えるし。一昨日のウェディングドレス姿を見た時から俺の中で栞=白のイメージが定着してしまったのかもしれない。


「うん、すごく可愛いよ」


「えへへ。じゃあこれにします」


「奥様よかったですね。そちらはお持ちくださいませ。あとはお夕食ですが、お部屋で19時からになりますがよろしかったでしょうか?」


「俺は大丈夫だけど栞もそれでいいかな?」


「うんっ、私も大丈夫だよ」


「畏まりました。それではフロントではこれで以上になります。お部屋へはあちらのスタッフがご案内いたしますので」


 スタッフさんが指した方にはすでに別のスタッフさんが待機していた。


「では、どうぞこちらに。お手荷物をお預かりいたしますね」


「は、はい。お願いします」


 慣れない待遇に恐縮しながら部屋へと向かうことに。エレベーターに乗り、押されたボタンを見ると10階まである中の8階。階が上の方ということはきっと眺めもいいのだろう。俄然部屋への期待が高まる。


 エレベーターを降り廊下を進んだところで、


「こちらが本日ご宿泊いただくお部屋でございます」


 戸が開かれ中へと通されたところで言葉を失った。なんと言っていいのか、俺の貧困な語彙ではとにかくすごいとしか表現できない。


 写真では見ていたけれど、実際に目の当たりにするのでは全然違う。まず広い、俺の部屋が二つは入ってしまうんじゃないかってくらい広い。襖で仕切られた二部屋で構成されていて、片方はゆったりくつろげる和室、もう片方はでかいベッドが二つ置いてあり寝室になっているようだ。


 どうせ一緒に寝るからベッドは一つでも良かったのだけれど、聡さんが選んだのならこうなるのも納得できる。


 そして窓の外にはこの部屋専用の露天風呂、さらにその奥は温泉街が一望できて、付近の山々と相まって絶景と言ってもいいと思う。


「ほぁ〜……。すっごいねぇ……」


 俺より先に再起動した栞が感嘆の声を漏らす。


「う、うん。聡さん、頑張りすぎなんじゃ……」


 野暮なので金額は聞いていなかったのだが、たぶんかなりしたんじゃないだろうか。


「その分、満喫しなきゃだねぇ……」


「だねぇ。帰ったらまたしっかりお礼も言わなくっちゃ」


「お気に召していただけたようで嬉しいです。では、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」


 案内してくれたスタッフさんは俺達の荷物を部屋の隅に置き、綺麗に一礼をすると出ていった。つまり、ついに二人きりの時間が始まったということで。


「りょ〜うっ♪」


 蕩けるような笑みの栞が俺を見つめていた。

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