第185話 栞の嬉しいこと

「さて、降りよっか」


「……はぁい」


 俺からの突然のキスでポーッとしている栞に告げて、網棚に置いていた荷物を降ろす。自分のバッグは斜め掛けに、栞のは右肩に引っ掛ける。


「あ、あれ? 私のバッグは……?」


「俺が持つよ。栞はこっちね」


 空いている左手を差し出すと、戸惑いを浮かべる栞。


「そんなの悪いよ。自分のくらい自分で持てるのに……」


「いいから。たくさん栞ポイント稼がないといけないんだからさ。ほら、もたもたしてると電車が出ちゃうよ」


 今日と明日は栞を思い切り甘やかしてあげるつもりなんだ。これはその手始め。普通に言っても栞は聞いてくれなさそうだから、ちょうどいい口実を作ってくれていて助かったよ。


「……そういうところだよ、涼? ポイント溢れすぎて、私の方が色々と抑えられなくなっちゃっても知らないからね? 覚悟しててよ?」


 頬を染めてそんなことを言う栞だが、しっかりと腕を取ってくれる。


「望むところっ」


 そして、俺は栞の手を引いてドアが閉まるギリギリのところで電車を飛び降りた。


「ここからは別の路線に乗るんだったよね?」


「うん、そうだよ。それでなんだけどさ、一つだけ栞に我儘言ってもいいかな?」


「いいけど、我儘ってなぁに?」


「えっとね、こっからは俺にお金出させてもらえないかな……?」


 今回の旅行、元々は宿代は俺が出そうと思っていたのだが、その予定が変わって聡さんと文乃さんのご好意に甘える形になってしまった。つまり、かなりの予算が浮いたことになる。そこで、その分を移動費や飲食代に充てようと考えていたんだ。


 でも、普通に言うだけでは栞が気にして、ポイント稼ぎなんて口実では譲ってくれない気がするので、こうして俺の我儘として通せないかなという魂胆だ。


「まったくもう……。涼ならどこかでそんなこと言い出しそうだとは思ってたんだよねぇ……」


 案の定、栞はため息混じりに困った顔をする。ただ、ここは俺としても格好をつけたいところである。


「だってさ、栞は今日のために服まで用意してきてくれたわけでしょ? だからせめてこれくらいはって思って」


「そんなこと気にしなくてもいいんだよ? お洋服を用意したは、ほとんど自分のためなんだもん」


「あれ……、そうなの?」


 たしか母さんは俺のためにおめかししてくれてるって言っていたはずなのだが。


「そうだよ。これはね、私が少しでも涼に可愛いって思って欲しくてしたことなんだもん。そりゃもちろん涼に喜んでほしいって気持ちもなくはないけど、やっぱりそっちの方が大きいの。だから、お洋服のことは気にしなくていいからね」


「で、でも、ほら。今回は栞の誕生日祝いだし……」


「うん。でもね、私は誕生日だからってお金をかけてもらうのが嬉しいわけじゃないよ? もちろんイヤってことじゃないんだけど」


「というと……?」


「私はね、涼が私のために考えてくれたことが嬉しいの。私のために時間を使ってくれて、計画を立ててくれて、私を喜ばせようとしてくれるその涼の気持ちがね。それは絶対にお金じゃ買えないものなんだもん」


「……栞」


 ここまで言われてしまうと返す言葉もない。


 栞はいつも気持ちを大切にしてくれるんだ。


 栞がこう言うであろうことはわかっていたのに、無理を通そうと思ってしまっていた自分が少し恥ずかしくなる。


「で、こんなこともあるんじゃないかと思って持ってきたものがあるの」


 栞はそう言って、俺が預かっているバッグとは別に持っていたポーチから一つの封筒を取り出した。


「それ、は……?」


「夏休みのお泊りの時に水希さんからいただいた食費の残り。ほら、余ったら二人で遊ぶ時にでも使いなさいって言われてたやつだよ。覚えてない?」


「あー……。あったかも?」


 よくよく思い返せばそんな事もあった気がする。栞が受け取ったきりで俺は中身を見てすらいないけれど、使い切ってはいなかったはずだ。その後の色々のせいで、今の今までその存在をすっかり忘れていた。


「最初は返した方がいいかなぁって思ってたんだけど、水希さんは受け取ってくれないような気がしてずっと持ってたの。だから、まずはこれを使わせてもらお?」


「えっと……、栞がそれでいいのなら」


「うん、ありがと。それからね、あんなこと言っちゃったけど涼の気持ちは嬉しかったから、今回だけの特別。もしこれで足りなくなった時は涼にお願いしても、いいかな?」


 栞が伺うような顔で俺を見る。つまり、栞は俺のことも立ててくれようとしてるってことで。


 もうさ、こんな栞に俺なんかが敵うわけないじゃない。


「……なら、それまでは温存しとくことにするよ」


「うんっ! まぁ、使い切れたら、の話なんだけどねっ?」


 栞はそう言いながら、俺の腕を引いて歩き出す。


「えっ、ちょっと待って……?! 使い切れたらって、どういうこと……?!」


「だーって水希さん、たった三日間分なのにたくさんくれたんだもん。私びっくりしちゃったんだから!」


「……」


 いや、母さん。いったいどんだけ渡してたのさ……。

 栞へのお礼の意味も含まれているのだろうけど、三日分の食費プラス旅行の諸々でも使い切れないかもしれないって、おかしくない……?


「ってことで、なくなったら言うから、それまでは私がここから出すからね!」


「……わかった。お願いするよ」


 思っていた予定とはだいぶ違ってしまったけれど、逆にこれでよかったのかもしれない。


 更に栞のいい女ぶりを知ることができたのだし。それで俺はまた一つ栞のことが好きになるんだ。


 おかげで俺のポイントも完全に溢れて止まらなくなってしまった。ポイントカウンターの表示なんて完全にエラーを吐いている。元々栞への想いなんて、とっくに計り知れなくなってるんだけどさ。


 でもさ、栞はわかってるのかな?

 そんなの、俺だって色々と抑えられなくなっちゃうよ?


 とはいえ、今すぐどうこうということではない。それはやっぱり後のお楽しみ、宿の部屋で二人きりになってから。この感情のままに栞が音を上げるまで甘やかすのだ。


 その覚悟、栞はできてるのかな?



 それから俺達は次に乗る特急列車の券と、昼食用にそれぞれ弁当を購入した。現地に到着するのは昼過ぎになるので、今日の昼は車内でという計画になっていたんだ。


 その特急列車の中でもバカップル全開な会話を繰り広げたり、いい時間になったらおかずを交換したり食べさせ合ったりしながら昼食をとって。


 それが済んだ頃、いよいよ目的地が近付いてきたようで車窓には山間の風景が流れていく。


「わぁー! ねぇ、涼、見て見て! すっごい綺麗だよっ!」


 窓側の席に座っている栞が声をあげる。


「本当だね」


 窓の外に見える山々は木々が少しずつ色付き始めていて俺達の目を楽しませてくれる。


 でも、俺はそんな景色よりも窓に張り付くようにしてはしゃぐ栞に釘付けだ。楽しそうに顔をほころばせて可愛いことこの上ない。


「あー、涼! 全然見てないでしょー?」


 まぁ、そんなのは早々に栞にはバレてしまうわけで。


「い、いや……、ちゃんと見てるよ?」


「うん、見てたね、私の顔を。ねぇ、もしかしてなにか付いてる? ご飯粒とか……」


 栞がポーチから手鏡を取り出そうとするのをやんわりと止める。


「ううん、付いてないよ。ただ、栞が可愛いなぁと思って見てただけだから」


 こういうのはさっさと白状してしまうに限る。今更栞に対して可愛いと言うだけで照れる俺じゃないのだし。


「もうっ……! すぐそういうこと言うんだからぁっ! 私は同じ風景を見てほしいのにーっ!」


 言われた栞は照れちゃうんだけど、ね?

 相変わらず栞は不意打ちに弱いんだ。


「ごめんごめん。ちゃんと見るから許してよ。こっからは景色だけに集中するからさ」


「うー……、それはそれで……。たまには私のことも見てくれなきゃ、ヤっ!」


 って言うと思ってたよ。自分で見てほしいと言ったくせに、景色にまで嫉妬するらしい。なかなか難しい注文だけど、栞がそうして欲しいと言うなら俺はそうするまでのこと。


「じゃあ半々ってことで」


「えへへ、私も涼のこと見るねっ」


 それからは車窓の景色と栞を交互に眺めて、たまに目が合うとそのまましばらく見つめ合ったりして列車の旅を楽しむことになった。


 そしてついに──


「「着いたー!」」


 俺達は目的地である温泉街の最寄り駅へと到着したのだった。

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