第102話 栞の方が……
栞が寝付いた後、一時間くらいはその愛らしい寝顔を眺めていた。いつまで経っても見飽きそうにない。俺の手を握りしめて、安心しきって眠るその姿は俺の心をじんわりと温かくしてくれる。
本当はずっと側についていたい。片時だって離れたくない。でも、栞の言う通り、俺まで風邪を引いてしまったら栞が自分を責めるかもしれない。
非常に後ろ髪を引かれる思いだが、栞の前髪を払い、おでこにキスを一つ落としてから部屋を後にすることにした。
部屋を出る直前に、
「おやすみ、栞」
それだけ呟いてそっとドアを閉めた。栞は眠っているので当然返事はなかったけど、今はもうあまり心配はしていない。美紀さんの話が本当なら、たぶんこれですぐに回復してくれるはずだから。
階段を降りていくと、その音を聞きつけたのか文乃さんがリビングから顔を出した。
「……栞は?」
「ぐっすり寝てますよ」
「そう、良かった……。いきなり栞の怒鳴り声が聞こえた時はどうしようかと思ったのよ?」
どうやらあの声は階下の文乃さんにまでしっかりと届いていたらしい。
「すいません、栞に無理させちゃいました……」
俺を信じてお見舞いの許可をくれた文乃さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それでも途中で様子を見に来たりせず、俺に任せてくれたことには感謝しかない。
「でも、もう大丈夫なのよね……?」
「はい。体調もたぶんすぐ良くなると思いますよ」
「そう……。あの子最近ずっと元気なかったものね」
文乃さんも母親として栞の様子がおかしかったことには気付いていたのかもしれない。
「あの、そのことなんですけど──」
今回のことは一応話しておいた方がいいと思い口を開いたのだが、文乃さんはそれをやんわりと止めた。
「別にいいのよ。何があったのかはよくわからないけど、詮索はしないから。涼君の顔を見ればわかるもの。うまく話がまとまったんでしょ?」
「そう、ですね」
「なら大丈夫。面倒くさい子だけど、これからも栞のことよろしくね」
「もちろんです。俺は面倒くさいなんて思いませんけどね」
栞のことなら、不思議となんだって全然苦にならないんだ。栞が笑って日々を過ごせるのなら、俺はどんなことでもしてみせるつもりだ。俺はその覚悟を持って、栞にずっと一緒にいてほしいと言ったのだから。
「あら、頼もしい。やっぱり栞には涼君じゃないとダメね」
「……そうだったら俺も嬉しいです。俺、栞のことが大好きですから」
本当は『愛してる』と言いたいところだったけど、やめておいた。
これはもうしばらく俺と栞、二人だけのものにしておきたいんだ。
*
この翌日、昼過ぎに連絡を入れてみたところ、体調はすっかり回復したというので俺は栞のもとを訪ねることにした。俺がただ栞に会いたかったというのもあるが、その本当の目的はお見舞いと栞が休んだ分の授業内容を教えるため。
うちの高校は進学校ということもあって、二学期の授業開始初日から結構ハイペースだったのだ。
玄関まで出迎えに来てくれた栞の顔を見れば血色もよく、表情も明るい。聞けばご飯をたくさん食べていっぱい寝たとのこと。寝すぎていつもより元気なくらいらしい。
それならばと、栞の部屋に移動してさっそく本題に取り掛かった。栞が教えてくれていた時よりもいくぶんか要領を得ない説明だったとは思うが、栞は真面目に聞いてくれて、ノートを取っていた。そして、それも今しがた終わったところだ。
「やっぱり私、涼に助けられすぎてると思うんだよねぇ」
栞がテキストを閉じ、シャープペンを置きながらそう呟いた。
「また栞はそんなこと言うんだから」
その話は昨日済ませたはずなのに。その声からは思い悩んでいる様子は感じられないが、また栞の考えがおかしな方向にいかないかと心配になる。
それが伝わったのだろうか、栞は少しだけ慌てて、
「あっ、別に変なこと考えてるわけじゃないからね? ただね、私も涼に何かしてあげたいなぁって思ってて。って、最初から悩まずにこうしていればよかったんだよね……」
「昨日も言ったと思うけど、そんなの気にしなくてもいいんだよ?」
「だってぇ……」
栞は一度立ち上がり、床に座っている俺の膝の上にストンと腰を落とすと、ぎゅっと抱きついてきた。
「し、栞……?」
「今日だってこうやって迷惑かけたんだし、お礼くらいさせてよ。ねぇ、ダメかなぁ?」
瞳を潤ませて上目遣いで、おねだりをするかのように甘えてくる。
「ダメじゃないけど……、俺としては栞にこうしてもらってるだけで満足だよ……?」
「もう、本当に涼は欲がないんだから……」
「そんなことはない……。というか、栞。少し離れてくれると助かるんだけど……」
「なんで? もしかしてこういうの嫌いになっちゃったの? 私が涼のこと困らせてばっかりだから……」
不安そうな顔をさせてしまったが、そういうことじゃない。昨日はそれどころじゃなかったけど、今日の栞はすっかり元気そうで。栞の体調不良に気を遣ってひかえていたものが溢れ出しそうになる。
「違うって。嫌いになったんじゃないけど、そうじゃなくてね……」
簡単に言えば、久しぶりにここまで甘えられて密着されて、勝手に身体が栞に反応してしまった。主に栞の柔らかい身体の感触や甘い匂いが原因だ。ただ、これをどう説明したものかと困ってしまう。
栞は不思議そうに首を傾げて、俺の顔を見つめてきたかと思うと、突然慌てて俺の膝から降りた。降りたと言っても離れるのはイヤだったようで、横にピッタリと寄り添ってはいるが。
「もうっ、涼のえっち……」
抗議するように言う栞はジトっとした目を向けてくる。でも、それ以上離れようとはしないし、相変わらず俺の腕に胸を押し付けてきて。
とりあえずバレてしまったようなので、説明する手間は省けた。恥ずかしいので言い訳くらいはするけども。
「しょうがないじゃん、こういうの久しぶりなんだし……」
久しぶりといっても一週間くらいなものなんだけど、栞のことが大好きすぎる俺にとってはとても長い時間だった。
「えっと……、じゃあ……、する……?」
栞は真っ赤な顔で、視線を彷徨わせながらそんなことを言い出した。そんなことを言われたら余計に欲求が高まってしまうわけで。
でも──
「しーまーせんっ!」
そう言いながら、栞のおでこを指で突いてやる。
「あうっ……。え、なんでー? やっぱり嫌いに──」
「なってないから! というかさ……、アレはもう終わったの……?」
聞きづらいことではあるが、最初の不調はそれもあったという話だし。
「もう、終わってるもん……」
「あ、そうなんだ……」
「だからね、涼がその気なら……」
「ダーメっ! 病み上がりなんだから、バカなこと言わないの! それでぶり返したらどうするのさ?」
昨日学校を休んだくせに何を言っているのだか、って感じだ。そりゃ俺だって栞とそういう触れ合いをしたいと思わないでもないが、時と場合を選ぶくらいの理性は残っているつもりだ。
「ぶー……。わかったよぉ……」
「ぶーって……」
もしかして、栞がしたかっただけなのでは……?
残念そうな顔をする栞にそんなことを思ってしまう。まぁ、ここで無理をさせるわけにもいかないので我慢してもらうしかない。
それにそもそも下の階には文乃さんだっているし、なにより今日はそんなつもりはまるでなかったので用意だってない。
とりあえず、なだめるように栞の頭を撫でておく。そうしているとしだいに残念そうな顔は鳴りをひそめてくれた。
「しょうがないから今日のところはそっちは諦めるけど、涼へのお礼はしてもいいよね?」
こっちはどうしても諦めないらしい。そっちとかこっちとかよくわからなくなってきた。どれがそっちでこっちでえっちなのか。
えっちなのは俺だけじゃなくて栞もだと思う。むしろ栞の方が俺よりも……。
「えっと……」
「涼に迷惑かけたのは事実だから、何もなしじゃ気がすまないんだもん。もう涼がいいって言ってくれなくても勝手にやるからね? たくさん涼のこと喜ばせちゃうんだから、覚悟しててよ?」
こうなると俺には栞を止めることなんてできやしない。栞は結構頑固だし、一度決めたことはしっかり通してくる。もう観念するしかない。
「しょうがないなぁ、わかったよ。でも一つだけ約束して」
「うん、なぁに?」
「絶対に無理はしないこと」
お礼と称して無理をして、また倒れられたりしたらそれこそ目も当てられない。栞が元気で笑顔で隣にいてくれること、それが常に変わらず俺にとって一番大事なことなのだから。
「無理はしないよ。本当に涼は心配性なんだから」
「心配くらいさせてよ。現に体調崩したわけだしさ」
「それを言われると痛いんだけど……。でもわかった、無理はしないよ。私のできる範囲で涼に喜んでもらえそうなこと考えるから、期待しててね?」
「ん、楽しみにしとくね」
「うんっ。やっぱり涼、大好きっ」
「はいはい、俺も栞が大好きだよ」
満面の笑みを浮かべる栞を見ると、これでいいかという気がしてくる。頑なに拒んでも栞がまた色々と拗らせそうだし、なにより栞が俺を想ってしてくれることなら、きっとなんだって嬉しいから。
それから俺達は栞の不調の間にできなかった分を取り戻すかのように、二人で幸せな時間を過ごした。抱きしめ合ったり、キスをしたり、過剰にならない程度にイチャイチャして心を満たしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます