第106話 寝耳に「ふぅーーっ」

 たぶん俺は油断していたんだと思う。もしくは、栞の考えることと、その行動力を舐めていたのかもしれない。があったのにも関わらず。


 まぁでも、それも仕方ないことだと思う。だって栞は、


『先に行ったらやだよ? ちゃんと待っててね?』


 そう言ってたんだから。



 ***



 寝る前は栞と一緒に登校できることが楽しみで眠れないかと思っていたのに、ベッドに横になったらあっという間に落ちていた。


 久しぶりに栞から『おやすみなさい』と言ってもらえたおかげか、それはもうぐっすりと眠ることができた。


 ………。


 ──……う?


 なんか耳元で声がするような?


 ──涼、朝だよー?


 柔らかく優しい、鈴を転がしたような声が頭に心地よく響いてきた。


 でも、まだ寝ていたくて。


「う〜ん……、後5分だけ……」


 ──もう……、お約束みたいなこと言って……。ふふっ、しょうがないなぁ。


「だって……──」


 すっごく眠いんだよ。こんなに眠れたの久しぶりなんだから、もう少しだけ……。


 ──寝坊助な涼も可愛いけどね、起きないといたずらしちゃうよー?


「ん〜……」


 フワフワと夢を見ているみたいな気分になる。落ち着く、大好きな声。この声は、栞の……。


 ん……? 栞……? いたずらって?


 ──ふぅーーっ


「ひょわあぁっ!!」


 耳に息が吹きかけられて、そのあまりのくすぐったさに驚いて、変な声が出た。


「あっ、起きたね。おはよ、涼」


 慌てて飛び起きて目を開けると、至近距離に栞の顔がある。クスクス笑いながら、ふんわりとした笑顔で俺を見つめていた。


「し、栞?! なんで……?」


「お迎えに来たに決まってるじゃん。昨日言っておいたでしょ?」


「いやでも……」


 スマホで時計を確認すると6時40分。アラームをセットした時間から10分が過ぎていた。少し寝坊してはいるが、迎えに来るにしては早すぎる。俺がいつも家を出る時間まで、後一時間以上あるのだから。


「起きてこない涼が悪いんだよ? 私、水希さんから起こしてきてって頼まれたんだからね?」


「それはなんかごめん……。それと、ありがと」


「うんっ。ね、そんなことより、涼?」


 栞が真っ直ぐ俺の目を見つめてくる。何かを要求するかのように。


「おーはーよっ?」


「あ、うん。おはよ、栞」


 まだ戸惑いながらも俺が挨拶を返すと、栞が抱きついてきて、


 ──ちゅっ。


 ふわっと俺の唇に栞の唇が重ねられた。会ってすぐの儀式も今日からまた復活するようだ。まだ眠気の残滓はあるが、これだけで活力が湧いてくる気がする。


「さ、早く支度済ませてきて。その間にご飯用意しておくからね」


 急かす栞に背中を押されて自室を後にする。洗面所で顔を洗って残った眠気を流してから鏡を見ると、そこに映る自分の顔がニヤけていた。


 昨日栞が言っていたのは、もしかしてこういうことなのかな? 


 俺を喜ばせることを考えると言っていたけど、もうこれだけで十分なくらい嬉しい。栞に起こしてもらって、朝食も用意してくれるらしいし。我ながら単純だとは思うけど、幸せだなって思う。


 おかげですっかり目も覚めてしまった。それもいつも以上のすっきりとした目覚めだ。


 一度自室に戻って制服に着替えてからダイニングへ向かうと、ちょうど栞が俺の席に皿を並べているところだった。


「涼、タイミングぴったりだね。ちょうど用意できたところだよ」


「うん、ありがと」


 栞は椅子を引いて俺を座らせてくれる。こうして世話を焼かれると少しだけこそばゆい。


 母さんがリビングからニヤニヤしながら俺達の様子を見ているし。


「栞ちゃん、また一段と甲斐甲斐しくなっちゃって。やっぱりあんた達はそうしてる方がいいわねぇ」


「うるさいな、ほっとけよ……」


「まったく素直じゃないんだから、嬉しいくせに。まぁなんにせよ、仲良くやりなさいよ? 心配したんだからね」


「わかってるよ……」


 母さんから言われると小言みたいに聞こえてちょっぴりムッとしてしまうけど、心配をかけたのは事実で。素直に受け止めるしかないのだ。


「栞ちゃん、昨日電話でも話したけど、これからも涼のことよろしくね? こんな情けない息子で申し訳ないけど」


 毎度のことながら情けないは余計なんだよな。


 というか、俺の知らないところでいつの間にか栞と母さんも話をしていたらしい。俺も文乃さんと話をしたし、真面目な栞のことだから不思議なことではないが。


 今の状況もきっと母さんは知っていたんじゃなかろうか。栞が母さんに何も言わずにこんな早朝に押しかけてくるとは考えにくいし。俺は嬉しいから、その辺りはどうでもいいことなんだけど。


 そんなことを思いながら、栞と母さんのやり取りを眺めていた。


「はいっ、もちろんです。でも、涼は情けなくなんてないですからね?」


 そう言う栞に母さんは呆れたように笑って、


「ふふっ、栞ちゃんは相変わらずねぇ。この様子なら私も一安心だわ」


 まだニヤついているけど、母さんもそれ以上は何も言ってこなくなったので朝食に目を向ける。トーストと目玉焼きとサラダ、それとコーヒーにヨーグルト。


 いつもと大して変わらないメニューだけど、さっきの栞の言葉とエプロンを身に着けているところを見るに、本当に栞が用意してくれたらしい。


 トーストに目玉焼きをのせて囓ると、黄身が俺好みのちょうどいい半熟具合で頬が緩む。


 ふと視線を感じて顔を上げると、俺の正面に栞が座っていて、テーブルに肘をついた両手の上に顎をのせてニコニコと俺の食べる姿を眺めていた。


 早起きしたはずなのに眠そうな感じは全くなくて、無理をしている様子もない。


 見つめられていると少々食べにくさは感じるけれど、朝から栞のこんな顔が見られるのなら全然悪くない。栞が睡眠不足にならないのなら毎日だってお願いしたいくらいだ。



 *



 時間になったので、栞と共に家を出る。もちろんしっかりと手を繋いで。またこうして並んで歩くことができる喜びに、ついつい繋いだ手に力が込もる。それは栞も同じだったようで更に密着してきて、いつの間にか俺の腕は栞に抱きしめられていた。


 そこでようやく俺は栞に伝え忘れていたことを思い出した。朝の色々で危うくまた忘れてしまうところだった。


 実のところ、栞に伝えていいものかはかなり悩んだ。俺の不甲斐なさを栞に晒すことにもなるわけだし。まぁ、それは今更なんだけど。


 栞には一人で悩むなと言った手前黙っておくこともできなくて。それに彼女のおかげで俺が一歩踏み出せて、問題が解決できたのは間違いない事実。できればお礼だってしたいと思うし。そうなれば栞に隠しておくことなんて不可能なのだ。


 そこまで考えて、俺は口を開いた。


「ねぇ、栞。俺さ、美紀さんに会ったんだ」

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