十一章 二学期の始まり

第103話 寝耳に「ふぅーーっ」

「そういえば、すっかり忘れてたんだけど……」


『ん〜? なにを〜?』


 耳に当てたスマホから眠そうな栞の声が聞こえてくる。


 現在は日曜日の夜。恒例の寝る前の電話中だ。


 今日はすっかり元気になった栞がうちへとやってきて以前のように過ごしたわけだが、土日と二日間も一緒にいて伝え忘れていたことがある。


「えっとね、すっごく今更なんだけどさ。栞が学校休んで、皆心配してたよ。橘さんからは早く元気になってねって伝えてほしいって言われてて」


『あー……。確かに今更だねぇ。でも……、心配かけちゃったんだ、私……』


「それだけ気にかけてくれてるってことだと思うけどね」


『うん。なんか、嬉しいね、こういうの』


「そうだよね」


 一学期の間はクラスで浮いていた俺達にはそんな相手はいなかった。


 でも、今は違う。俺達にはお互い以外にも友人ができた。


 俺も、栞がいなくて元気がなかったのを心配されて、励まされて。今まで感じたことのない嬉しさを覚えたんだ。


『心配かけたの、謝らないとなぁ……』


「それよりもさ、元気な姿を見せた方が喜んでもらえるんじゃないかな?」


 この辺りも最近になってわかってきたこと。『ごめんなさい』と言うよりも『ありがとう』と言う方がいい場面もある。これはその応用だ。


『そっか、そうだね。さすが涼!』


「ほめてもなにも出ないよ?」


『ふふっ、いいよ。ただ感心してるだけだもん。でも、元気な姿かぁ……』


 少しだけ考えるような栞の声に俺は首を傾げた。


「ん? 元気にはなったよね? 風邪も治ったし」


『うん。だけどね、やっぱり私が一番元気なのって──ねぇ、涼』


「なに?」


『明日の朝、一緒に学校、行ってくれる?』


「俺は初めからそのつもりだったけど?」


 栞は妙なことを言う。二学期になってからは栞が休んだ日を除けば、一緒に登校していたはずなのに。


『ほら、一日空いちゃったから。念の為ね』


「でも、それが元気な姿とどう関係が?」


『それはね〜、私が一番元気でいられるのは、涼と一緒の時だから、だよ?』


 あああ……。

 なんなの栞は、こんな突然………。


 あまりにもストレートな言葉に、俺は思わず枕に顔を埋めて悶えることになった。


『だからね、涼。朝お迎えに行くから。先に行ったらやだよ? ちゃんと待っててね?』


「わかった……」


『えへへ。じゃあ、遅刻しないように今日はそろそろ寝るね』


「うん。おやすみ、栞」


『おやすみなさい、涼』


 その後、栞にやられたせいでドキドキしつつ、さらにもう一つ伝え忘れていたことがあるのを思い出した。


「まぁ、明日でいっか……」


 そう呟いて、俺は眠りについたのだった。


 *


 たぶん俺は油断していたんだと思う。もしくは、栞の考えることと、その行動力を舐めていたのかもしれない。


 でも、昨夜の電話の前から栞がとある計画を立てていたことなんて、俺にはわかるわけがなかったんだ。


 ………。


 ──……う?


 誰かが、俺の耳元で話しかけている気がする。


 ──涼、朝だよー?


 柔らかく優しい、鈴を転がしたような声が頭に心地よく響いて。


「う〜ん……、後5分……」


 ──もう……、お約束みたいなこと言ってぇ……。ふふっ、しょうがないなぁ。


「だって……──」


 まだアラームも鳴っていないじゃん。


 ──寝坊助な涼も可愛いけどね、起きないといたずらしちゃうよー?


「ん〜……」


 フワフワと夢を見ているみたいな気分になる。落ち着く、大好きな声。この声は、栞の……。


 ん……? 栞……? いたずらって、言った?


 ──ふぅーーっ


「ひょわあぁっ!!」


 耳に息が吹きかけられて、そのあまりのくすぐったさに驚いて、変な声が出た。


「あっ、起きたね。おはよっ、涼」


 慌てて飛び起きて目を開けると、至近距離に栞の顔がある。クスクス笑いながら、ふんわりとした笑顔で俺を見つめていた。


「し、栞?! なんで……?」


「お迎えに来たに決まってるよ。昨日言っておいたでしょ?」


「いやでも……」


 スマホで時計を確認すると6時40分。アラームをセットした時間から10分が過ぎていた。少し寝坊してはいるが、迎えに来るにしてはあまりにも早すぎる。俺がいつも家を出る時間まで、後一時間くらいあるのだから。


「起きてこない涼が悪いんだよ? 私、水希さんから起こしてきてって頼まれたんだからね?」


「なんかごめん……。それと、ありがと」


「うんっ。ね、そんなことより、涼?」


 栞が真っ直ぐ俺の目を見つめてくる。何かを要求するかのように。


「おーはーよっ?」


「あ、うん。おはよ、栞」


 まだ戸惑いながらも俺が挨拶を返すと、栞が抱きついてきて、


 ──ちゅっ。


 ふわっと俺の唇に栞の唇が重ねられた。会ってすぐの儀式、おはようのキス。まだ眠気の残滓はあるが、これだけで活力が湧いてくる気がする。


「えへへ。さ、早く支度済ませてきて。その間に朝ご飯用意しておくからね」


 急かす栞に背中を押されて自室を後にする。洗面所で顔を洗って残った眠気を流してから鏡を見ると、そこに映る自分の顔がニヤけていた。


 一昨日に栞が言っていたのは、もしかしてこういうことなのかな? 


 俺を喜ばせることを考えると言っていたけど、もうこれだけで十分なくらい嬉しい。栞は俺を起こしてくれただけじゃなく、朝食も用意してくれるという。我ながら単純だけど、幸せだなって思う。


 おかげですっかり目も覚めてしまった。それもいつも以上のすっきりとした目覚めだ。


 一度自室に戻って制服に着替えてからダイニングへ向かうと、ちょうど栞が俺の席に皿を並べているところだった。


「涼、タイミングぴったりだね。ちょうど用意できたところだよ」


「うん、ありがと」


 栞は椅子を引いて俺を座らせてくれる。こうして世話を焼かれると少しだけこそばゆい。


 それに、母さんがリビングからニヤニヤしながら俺達の様子を見ているし。


「栞ちゃん、また一段と甲斐甲斐しくなっちゃって。涼、あんた栞ちゃんになにしたの?」


「なんでもいいだろ、ほっとけよ……」


「ま、昨日の夜に栞ちゃんから電話もらったから知ってるんだけどねー」


 知ってるなら聞くんじゃないよ……。


 なんとなくそんな気はしてたけどさ。栞が母さんに何も言わずにこんな早朝に押しかけてくるとは考えにくいし。この感じならその理由も話したのだろう。


 ……って、いったいそれはどこまで?


 栞を見れば慌てふためいていた。


「み、水希さん! その話は内緒って……!」


 あー、うん。たぶんほとんど話したんだろうね……。


 聞かれて困ることはないとはいえ、栞に伝えた言葉を思い出すと恥ずかしくはある。


「あら? そうだったかしら?」


「うぅ……、水希さん意地悪です……」


「ごめんね、栞ちゃん。ちょーっとからかいたくなっちゃって。昨日も話したけど、これからも涼のことよろしくね? こんなだらしない息子で申し訳ないけど」


 毎度のことだけど、だらしないは余計なんだよなぁ。栞の前であまりけなさないでほしい。俺としては最近は結構頑張ってるつもりなのに。


 そんなことを思いながら、栞と母さんのやり取りを眺めていた。


「はいっ、もちろんです。でも、涼はだらしなくなんてないですし、素敵ですからね? そんなこと言うと、いくら水希さんでも怒りますよ?」


 そう言う栞に母さんは呆れたように笑って、


「ふふっ、栞ちゃんは相変わらずねぇ」


 まだニヤついているけど、母さんもそれ以上は何も言ってこなくなったので朝食に目を向ける。トーストと目玉焼きとサラダ、それとコーヒーにヨーグルト。


 いつもと大して変わらないメニューだけど、さっきの栞の言葉とエプロンを身に着けているところを見るに、本当に栞が用意してくれたらしい。


 トーストに目玉焼きをのせて囓ると、黄身が俺好みのちょうどいい半熟具合で頬が緩む。


 ふと視線を感じて顔を上げると、俺の正面に栞が座っていて、テーブルに肘をついた両手の上に顎をのせてニコニコと俺の食べる姿を眺めていた。


 早起きしたはずなのに眠そうな感じは全くなくて、無理をしている様子もない。


 見つめられていると少々食べにくさは感じるけれど、朝から栞のこんな顔が見られるのなら全然悪くない。栞が睡眠不足にならないのなら毎日だってお願いしたいくらいだ。



 *



 時間になったので、栞と共に家を出る。もちろんしっかりと手を繋いで。のはずが、気付いた時には俺の腕は栞に抱きしめられていて、これも栞が元気になった証なんだな、なんて思う。


 そこでようやく俺は栞に伝え忘れていたことを思い出した。朝の色々で危うくまた忘れてしまうところだった。


 実のところ、栞に伝えていいものかはかなり悩んだ。俺の不甲斐なさを栞に晒すことにもなるわけだし。まぁ、それは今更なんだけど。


 栞とは一人で悩まないと約束した手前黙っておくこともできなくて。それに彼女のおかげで栞が悩んでいることがわかって、問題が解決できたのは間違いのない事実。できればお礼だってしたいと思うし。そうなれば栞に隠しておくことなんて不可能なのだ。


 そこまで考えて、俺は口を開いた。


「ねぇ、栞。俺さ、美紀さんに会ったんだ」

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