第107話 あの約束に向けて

「俺さ、美紀さんに会ったんだ」


「えっ?!」


 俺の口から突然出てきたその名前に、栞は驚き目を丸くした。まさかこのタイミングで美紀さんが出てくるとは思っていなかったのだろう。俺の腕を抱きしめるその身体からは、わずかに緊張が伝わってくる。


「……え、美紀に? いつ? どこで?」


「えっとね、一昨日のことなんだけど、夕方栞のところに行く前に駅でばったり──」


 俺は美紀さんと会った時のことを栞に話すことに、というより最初からそのつもりで名前を出したんだけど。


「俺、体調崩したって聞いて心配で、気付いたら栞の家の最寄り駅まで行っててね。でも、そこから色々不安になって動けなくなっちゃって……。そんな時に美紀さんから声をかけられたんだ。俺さ、たぶんひどい顔してたんだろうね」


「うっ……。ごめんなさい……」


「いや、別に栞のこと責めてるんじゃないからね? それで栞と何かあったのかって聞かれて。……ごめん、美紀さんに色々話しちゃった」


 これについては素直に申し訳ないと思う。栞だってあまり聞かれたくない内容だったろうし。


「う、ううん。それはいいけど……。それからどうなったの?」


「そりゃもうすっごく怒られたよ。なんで栞が体調崩すまで放っておいたのかって。栞の彼氏なのになんでこんなところでボケっと突っ立ってるんだって」


「美紀がそんなことを……?」


「うん。ちょっとだけ泣いてもいた、かな。それから心配だから栞のところに行くって言い出してね……。でも栞との約束があるし、美紀さんを行かせるわけにいかないって思ったら、ようやく俺も栞と話をする覚悟が決まってさ。って、なんか不甲斐なくてごめん……」


 話しているうちにまた自分のダメさ加減を再認識してしまって、軽く落ち込む。栞はそんな俺を見て、拗ねるように唇を尖らせた。


「もう……、不甲斐ないなんて言わないでよ。きっかけがなんでも、来てくれたのは涼の意思なんでしょ? 涼の言葉があったから私は今こうしていられるんだから、そんなこと言ったらイヤだよ」


 おでこをコツンと小突かれて、栞からも怒られてしまった。栞が俺のこういう発言を好まないというのは知っていたはずなのに。それは母さんの『情けない息子』という言葉に反論していたことからもわかる。


 これは栞と離れている間にまた自信のなさが表に出てきてしまったのが原因だ。こうして関係が元に戻ったことだし、今後は気を付けていこうと思う。栞が隣りにいてくれれば、それだけで直っていく気はするけども。


「うん、ごめん、わかったよ。でもさ、やっぱり俺が栞と話ができたのは美紀さんのおかげなんだって思うよ。彼女が大切なことを思い出させてくれたから、俺は栞に向き合えたんだから」


 俺としても栞と美紀さんのことは気にかけていたし、できれば元通りになれたらいいなと思っている。その思いからか、お節介とは知りつつも、ついという部分を強調していた。


「……そっか、美紀が、ねぇ」


 栞はそれだけ呟くとじっと黙り、真剣な顔で考え込んでしまった。電車に乗っても栞はそのままだった。きっと色々と思うところがあるのだろうと、俺は栞の邪魔をしないように、ただ静かにその横顔を見つめている。


 ガタンゴトンという電車の振動に合わせて、俺の隣で栞の綺麗な黒髪がゆらゆらと揺れて。それがまるで栞の心の中を表しているようにも見える。


 ただ不思議とあまり心配にはならない。考え込んでいても、しっかりと俺の手を握ってくれたままだから。行き詰まったら、今度は相談してくれる、そんな確信があった。


 電車を降りて、駅の改札を出たところでようやく栞がその口を開いた。ちょっとだけ申し訳なさそうにしながら。


「ごめんね、涼。ずっと黙っちゃってて。せっかく一緒にいるのに……」


 栞は謝るけど、俺に不満はない。そりゃ楽しくおしゃべりしながらの方がいいに決まってるけど。ちゃんと隣りにいてくれるし、それにこれは栞にとって大事な問題だってわかっているから。


 栞と美紀さんの関係が元通りになる、だけじゃないんだ。そこまで辿り着いて初めて、やっと栞は完全にトラウマから開放されるんだって俺は考えていた。もちろん簡単じゃないこともわかってる。


 でも、まだ自分のことを弱いという栞も、それができれば自信がつくんじゃないかって。俺が栞を救えたことで自信がついたのと同じように。


「ううん、大丈夫だよ」


 安心させるように微笑みかけると、ふっと栞の顔が緩む。おまけでポンポンと頭を撫でてあげると、嬉しそうに微笑んでくれた。


「私ね、美紀とのこともう一回よく考えてみようと思うの。それでね、涼──」


 栞は一度言葉を区切ると、俺の目をじっと覗き込む。栞の瞳にはまだ迷いが見える。でもそれだけじゃなくて、


「どうするか決めたら、背中、押してくれる?」


 前を向こうという強い意思も感じられた。


「もちろんだよ。必要なら協力だっていくらでもするしね」


 俺がそう言うと栞はホッと息をついて笑う。


「うんっ。ありがと、涼」


 たぶん栞は美紀さんのことを許すと思う。もしかしたらもう……。栞の様子はそう予感させるようなものだった。なら俺はその考えに寄り添うだけだ。きっとそれが支えるってことだと思うから。


 美紀さんにお礼を伝えるのはもう少しだけ保留にしておこう。たぶんそんなに時間はかからないだろうし。


 許す決断をした栞を連れて行くこと、それがなによりのお礼になる気がする。


 一つだけ問題があるとすれば、あの約束をどういう形で実現させるかということ。あの時は、栞の方から会いに行くかもなんて思ったりもしたわけだけど。真面目な栞のことだから、もしかすると約束通り『偶然会えたら』ということにこだわるかもしれない。


 さて、どうしたものか……。




「ところで、涼?」


 気も早く策を考え始めた俺の顔を栞が見つめてくる。


「ん? どうしたの?」


「涼さ、美紀のことは名前で呼ぶよね? なんで?」


 ぷっくり頬を膨らませて、ご不満な様子の栞。そんな顔されても可愛いだけなんだけど。ツンツンしたくなってくる。


 けど……、う〜ん? これはヤキモチ、なのかな?


 楓さんが俺の名前を呼ぼうとした時にもダメと言っていたし。でも、これは俺にも言い分がある。


「いやだって俺、美紀さんの名字知らないし」


 栞はずっと美紀と呼んでいる、顔を合わせたときだって自己紹介をし合ったわけでもない、だから知らなくて当然なのだ。


「あれっ、そうなの? う〜ん、じゃあしょうがないかぁ……。えっと、新崎しんざき、だよ。新崎美紀。今までのは許してあげるけどね、もう他の子の名前、簡単に呼んだらヤダよ? それで美紀が勘違いするかもしれないでしょ?」


 いったいなんの心配をしてるんだか……。


 まぁ、他でもない大事な栞のお願いだ。ここは素直に聞いておこう。それに栞のイヤがることは俺だってしたくない。


「わかった、新崎さんね。気を付けるよ」


「ん、よろしい。……ってまた我儘言っちゃった。ねぇ、面倒くさいって思ったりする……?」


 笑ったり拗ねたり真剣な顔をしたり膨れてみたり、今度は不安そうになって。今日の栞は本当に忙しそうだ。


「思わないよ」


 俺がそう言えばまた安心したように笑って。


「よかったぁ。あのね、涼ってすっごく格好いいからね、つい不安になっちゃうの。絶対誰にもとられたくないし。だからね、その……、もし面倒くさくなったら言って、ね? その時はちゃんと気を付けるようにするから」


 相変わらず俺のどこが格好いいのかは自分ではさっぱりわからない。栞がそう思ってくれるのは嬉しいことだけど。


「大丈夫だよ。不安になるほど好きって思ってくれてるってことでしょ? 嬉しいよ」

 

 今までなら恥ずかしくてとても言えなかったようなセリフがポンっと口から出ていた。まるでそれが自然で当たり前のことのように。


 これは俺が栞のことを本当に大好きで、栞も同じように想ってくれているからこそで──。


「好き、じゃないもん」


「えっ?!」


 思いがけない栞の言葉で、思考から動きまで俺の全部が停止した。そんな俺を栞は強引に引き寄せて、耳元に口を寄せる。


「私、涼のこと愛してるんだからね。そこのところ勘違いしたらダメだよ?」


 たしかに俺も栞に言ったけど、言ったんだけどさ……。こんな突然はずるいって……!


「へへっ。ほら、涼。早く行こっ?」


 栞は俺と手を繋いだままで駆け出す。俺も引きずられるように後を追って。きっと照れ隠しだったんだろう。ちらりと見える栞の横顔は、きっと朝陽のせいなんかじゃなく、ほんのりと赤く染まっていた。


 結局、栞は校門をくぐり、昇降口に着くまで止まることはなかった。

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