第104話 あの約束に向けて
「俺さ、美紀さんに会ったんだ」
俺の口から突然出てきたその名前に、栞は驚き目を丸くした。まさかこのタイミングで美紀さんが出てくるとは思っていなかったのだろう。俺の腕を抱きしめるその身体からは、わずかに緊張が伝わってくる。
「……えっ、美紀に? いつ? どこで?」
「えっとね、栞のお見舞いに行く前に駅でばったり会って、声をかけられて──」
「かけられて……?」
続きを急かすように、栞が俺の顔をじっと覗き込む。
「実はさ、栞が悩んでるってことに気が付いて、俺に教えてくれたのは美紀さんなんだよ」
「えっ? えぇっ?! どういうこと?」
「今日は栞と一緒じゃないのかって聞かれたからさ、体調崩して休んでるって言ったんだ。そしたら、栞がなにか悩んでるかもしれないから、今すぐ行ってあげろって」
「美紀がそんなことを……? というか、なんで美紀はそれだけで……」
「幼馴染の勘だって言ってたよ。俺もずっと栞の心配はしてたけどさ、美紀さんに言われなかったら本気でずっとただの体調不良だって思ってた、かも……。ずっと見てたくせに、言われるまで気付けないなんて不甲斐ないよね……」
話しているうちにまた自分のダメさ加減を再認識してしまって、軽く落ち込む。栞はそんな俺を見て、拗ねるように唇を尖らせた。
「もう……。不甲斐ないなんて言わないでよ。最後にどうにかしてくれたのは涼なんだから。あそこで涼が強引に聞いてくれなかったら、私まだきっと一人で悩んでたんだからね?」
おでこをコツンと小突かれて、怒られてしまった。栞が俺のこういう発言を好まないというのは知っていたはずなのに。
まぁ、栞は俺のことを過大評価しすぎだとは思うけどね。
「うん、ごめん、わかったよ。でもさ、栞から悩みを聞き出せたのは美紀さんのおかげなんだって思うよ。俺だけじゃ、やっぱり無理だったなって」
俺としても栞と美紀さんのことは気にかけていたし、できれば元通りになれたらいいなと思っている。その思いからか、お節介とは知りつつも、つい美紀さんのおかげという部分を強調していた。
「……そっかぁ。美紀が、ねぇ」
栞はそれだけ呟くとじっと黙り、真剣な顔で考え込んでしまう。電車に乗っても栞はそのままだった。きっと色々と思うところがあるのだろうと、俺は栞の邪魔をしないように、ただ静かにその横顔を見つめている。
ガタンゴトンという電車の振動に合わせて、俺の隣で栞の綺麗な黒髪がゆらゆらと揺れて。それがまるで栞の心の中を表しているようにも見える。
ただ不思議とあまり心配にはならない。考え込んでいても、しっかりと俺の手を握ってくれたままだから。行き詰まったら、今度は身体に響く前に相談してくれる、そんな確信があった。
電車を降りて、駅の改札を出たところでようやく栞がその口を開いた。ちょっとだけ申し訳なさそうにしながら。
「ごめんね、涼。ずっと黙っちゃってて。せっかく一緒にいるのに……」
栞は謝るけど、俺に不満はない。そりゃ楽しくおしゃべりしながらの方がいいに決まってるけど。ちゃんと隣りにいてくれるし、それにこれは栞にとって大事な問題だってわかっているから。
栞と美紀さんの関係が元通りになる、だけじゃないんだ。そこまで辿り着いて初めて、やっと栞は完全にトラウマから開放されるんだって俺は考えていた。もちろん簡単じゃないこともわかってる。
「ううん、大丈夫だよ」
安心させるように微笑みかけると、ふっと栞の顔が緩む。おまけでポンポンと頭を撫でてあげると、嬉しそうに微笑んでくれた。
「私ね、美紀とのこともう一回よく考えてみようと思うの。それでね、涼──」
栞は一度言葉を区切ると、短く息を吐く。栞の瞳にはまだ迷いが見える。でもそれだけじゃなくて、
「どうするか決めたら、背中、押してくれる?」
前を向こうという強い意思も感じられた。
「もちろんだよ。必要なら協力だっていくらでもするよ」
俺がそう言うと栞はホッと息をついて笑う。
「うんっ。ありがと、涼」
たぶん栞は美紀さんのことを許すと思う。もしかしたらもう……。栞の様子はそう予感させるようなものだった。なら俺はその考えに寄り添うだけだ。きっとそれが支えるってことだと思うから。
美紀さんにお礼を伝えるのはもう少しだけ保留にしておこう。たぶんそんなに時間はかからないだろうし。
許す決断をした栞を連れて行くこと、それがなによりのお礼になる気がする。
一つだけ問題があるとすれば、あの約束をどういう形で実現させるかということ。あの時は、栞の方から会いに行くかもなんて思ったりもしたわけだけど。真面目な栞のことだから、もしかすると約束通り『偶然会えたら』というところにこだわるかもしれない。
さて、どうしたものか……。
「ところで、涼?」
気も早く策を考え始めた俺の顔を栞が見つめてくる。
「ん? どうしたの?」
「涼さ、美紀のことは名前で呼ぶよね? なんで?」
ぷっくり頬を膨らませて、ご不満な様子の栞。そんな顔されても可愛いだけなんだけど。ツンツンしたくなってくる。
けど……、う〜ん? これはヤキモチ、なのかな?
楓さんが俺の名前を呼ぼうとした時にもダメと言っていたし。でも、これは俺にも言い分がある。
「いや、だって俺、美紀さんの名字知らないし」
栞はずっと美紀と呼んでいる、顔を合わせたときだって自己紹介をし合ったわけでもない、だから知らなくて当然なのだ。
「あれっ、そうなの? う〜ん、じゃあしょうがないかぁ……。えっと、
いったいなんの心配をしてるんだか……。
まぁ、他でもない大事な栞のお願いだ。ここは素直に聞いておこう。それに栞のイヤがることは俺だってしたくない。
「わかった、新崎さんね。気を付けるよ」
「ん、よろしい。……って、こんなこと言ったら、面倒くさいって思ったりする……?」
笑ったり拗ねたり真剣な顔をしたり膨れてみたり、今度は不安そうになって。今日の栞は本当に忙しそうだ。
「思わないよ」
俺がそう言えばまた安心したように笑って。
「よかったぁ。あのね、涼ってどんどん格好良くなってくから、つい不安になっちゃうの。絶対誰にもとられたくないし。だからね、その……、もし面倒くさくなったら言って、ね? その時はちゃんと気を付けるようにするから」
相変わらず自分では実感がないのだが、栞がこう言ってくれるのは嬉しい。
「大丈夫だよ。不安になるほど好きって思ってくれてるってことでしょ?」
今までなら恥ずかしくてとても言えなかったようなセリフがポロっと口から出ていた。まるでそれが自然で当たり前のことのように。
これは俺が栞のことを本当に大好きで、栞も同じように想ってくれているからこそで──。
「好き、じゃないもん」
「えっ?!」
予期せぬ栞の言葉に思わず足が止まった。そんな俺を栞は強引に引き寄せて、耳元に口を寄せる。
「私、涼のこと愛してるんだからね。そこのところ勘違いしたらダメだよ?」
なっ……!
たしかに俺も栞に言ったけど、言ったんだけどさ……。
こんな突然はずるいって……!
「へへっ。ほら、涼。早く行こっ?」
栞は俺と手を繋いだままで駆け出す。俺も引きずられるように後を追って。きっと照れ隠しだったんだろう。ちらりと見える栞の横顔は、きっと朝陽のせいなんかじゃなく、ほんのりと赤く染まっていた。
結局、栞は校門をくぐり、昇降口に着くまで止まることはなかった。
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