第100話 ずっと一緒に
目を覚ました栞の、ぼんやりとした瞳が俺を見つめていた。
「あ、れ……? 涼……? なんで涼が……。あ、そっか。夢だよね……、なら……」
栞はうわ言のように呟いてのそりと起き上がる。
「ねぇ、涼……。教えてよ……。どうしたら私、涼のことを……──きゃっ」
寝ぼけ眼で布団から這い出た栞は俺に近付こうとして、そこでベッドから落ちた。
「栞っ!」
俺はギリギリのところでどうにか栞を受け止めた。こんなふらふらな状態で床に衝突していたら、受け身も取れずに怪我をしてしまうところだった。
「うぅ……。ん……?」
「栞、大丈夫……?」
目が合うと、虚ろだった栞の瞳がしっかりと開かれる。俺はそんな栞をぎゅっと抱きしめた。
「えっ……! りょ、涼……?! なんで、涼がここに……?」
ベッドから落ちたことでようやくしっかり目が覚めたのだろう。開かれた目が真ん丸になっていた。
「ごめん。ダメって言われてたけど、どうしても心配で来ちゃったよ」
「あぅ……。でも、ダメだよ。風邪、うつしちゃうから、離れてっ……」
腕の中で栞がもがくけど、放すつもりはないんだ。美紀さんには根負けするなって言われたし、栞から話を聞き出すまでは。
「ダメだよ、放さない。暴れても、絶対ね」
俺がそう言うと、栞は観念したのか大人しくなった。
「……なんで、今日はそんなに強引なの?」
「えっとね、お見舞いに来たっていうのもあるんだけど、それよりも俺は栞と話をしに来たんだ」
「話、を……?」
「そうだよ。あのさ、栞は今、なにか思い悩んでることがあるんじゃないかって思って」
ビクリと栞の身体が跳ねた。こんなの、もう正解だって言っているようなものだ。
「悩んでるって、私が……? なに、を……?」
「それがなにかを聞きに来たんだよ」
「涼の勘違い、じゃないかな……?」
勘違いなわけがない。これだけ証拠があったら疑いようがない。ここまで気付けなかった鈍い俺でもわかる。
さすが幼馴染、と心の中で美紀さんへ賞賛を贈る。体調を崩してるってことだけで見抜いてしまうなんて、さすがとしか言いようがない。
でも、ここで美紀さんの名前を出すようなことはしない。問題の解決は一つずつだ。
「勘違いなら、よかったんだけどね。ずっと具合が悪かったのは、なにか悩んでたからなんだよね?」
「それは、その、えっと……」
顔をまっすぐ見つめても、いつものように目を合わせてくれない。栞の視線は右へ左へと、ものすごく泳いでいる。これも図星である証拠。
「栞が悩んでるのは、俺とのこと、なんじゃないの?」
栞が寝ぼけて呟いた言葉、
『どうしたら私、涼のことを……』
そこで途切れてしまったが、悩みは俺のことで間違いはないのだろう。
栞の悩みが俺のことだとわかって、聞くのが怖いという気持ちもある。でもさ、だからって放ってはおけないじゃない。
「…………」
ただ、栞は黙り込んでしまう。
「俺、栞に相談してもらえないほど頼りないかな……?」
「涼は、頼りなくなんて、ないもん……」
今度は小さな声で返事をしてくれた。
「じゃあ、話してよ。どうにかできるかはわからないけどさ、俺にも一緒に悩ませてほしいな」
「……涼の、そういう、ところだよ」
栞のその瞳から再び涙が溢れ出した。
「俺の、そういうところって?」
「そうやって、すぐ私のこと、助けてくれちゃう……」
「それが良くなかったの……?」
腕の中で、栞はふるふると首を横に振る。
「じゃあ、どういうこと?」
「私ばっかり、涼に助けられてる……。私、涼に何もしてあげれてないのに……」
栞の声がどんどん苦しげになって、この辺りが原因であることが見えてきた。
「そんなこと──」
ただ、なんとなく原因がわかり始めて、安堵して漏らしたこの言葉がよくなかったらしい。栞の目がキッと吊り上がった。
「そんなこと、じゃないもん! 大事なことだもんっ! 涼が言ったんだよ、支え合ってって! 私、涼のこと全然支えられてないのっ! あの時、彩香は私のことを家猫って言ったのよ!」
突然叫ぶように感情を爆発させた栞に驚きながらも、慎重に栞の言葉に耳を傾ける。
「家猫って、プールの帰りのこと……? 確かに言ってたけど……。栞、もしかしてあの時起きてたの?」
栞は目を伏せてコクリと頷いた。
「涼に甘えて、守られて、なにもかも与えられなきゃ生きていけないやつって、言われた気がした……」
「楓さんはそんなつもりで言ったんじゃ……」
楓さんは甘える栞の姿を猫に例えたのであって、そこまで深く考えてはいないはずだ。
「わかってる。わかってるよ、そんなこと……。でも実際そうなんだもん……。涼からもらってばっかりで、なにも返せてない……。涼のことが大好きで、側にいたいのに、なにもできない自分が悔しくて、苦しくて……」
あぁ、そっか。栞は俺のために悩んでくれてたのか。俺への想いが大きいからこその悩み。正直に言えば嬉しいよ。
でもさ、栞は勘違いをしてるよね。
俺はたくさんのものを栞からもらっているんだから。それは目に見えるものばかりじゃないけれど、俺の記憶や心にはしっかりと残ってる。
ただ、俺がそれを栞に伝えきれていなかった。もっともっと言葉にするべきだった。今までのじゃ、全然足りていなかったんだ。
だから、その勘違いによって俺が栞のためにと思ってしたことが栞の中に重しとなって積み重なってしまった。
それはきっと、俺にとって栞がいかに大きな存在であるのかを理解してもらわない限り取り除けないのだろう。
そこまでわかれば、後はどうとでもなる。俺は栞の心の中の重しを取り除くために口を開く。軽い口調で、なんてことないように。
「栞はバカだなぁ……」
呆れをたっぷり含ませた。栞には煽っているようにも聞こえるかもしれない。でも、それでいい。
いい機会だから、栞の心の内にたまった淀みを全部吐き出してもらう。どんなものでも俺は受け止めてみせるから。
案の定、栞は激高した。
「ひどいよ、涼っ! 私がこんなにも悩んでるのに……! 涼もやっぱり私のこと……!」
「なにもできないやつ、なんて俺は思ってないよ?」
「じゃあなんなのよっ!」
「だってさ、栞は俺が言ったこと、忘れてるでしょ」
「涼が、言ったこと……?」
今回の件、栞の悩みを解決する答えはこれまでに俺が言葉にしたことの中にある。それは栞の記憶にもちゃんと残ってるはずで。
今はきっと、いろんなことが重なったせいでそれを思い出せなくなっているだけ。
たぶん、俺達の関係が進むのが速すぎたんだ。一つの出来事が心に馴染む前に次のことが起こって、それで。
でも、思い出せないのなら思い出してもらえばいい。それで足りないのなら何度だって伝えればいい。栞が、ちゃんと理解してくれるまで。
言葉を尽くして、態度で示せば栞はわかってくれる。栞は賢い子だからさ。
「俺達がさ、初めてキスをした日のことだよ。覚えてない?」
もっと言えば、俺が自分の弱さを栞に曝け出した時のこと。
「あ、あぁ……」
栞の口から嗚咽が漏れる。どうやら思い出してもらえたらしい。俺はそこに更に言葉を重ねる。
「あのね、栞。俺はいつも栞に支えてもらってるよ。それこそ、まだ友達だった頃から、十分すぎるくらいに。俺はね、栞になにか特別なことをしてほしいわけじゃなくて、ただ隣にいてほしいだけなんだ。俺はそれだけで強くなれるし、頑張れるんだよ。それってさ、支えてもらってるってことにならないのかな?」
「あの、でも……」
「もしそれだけじゃイヤだって、足りないって栞が気に病むのならさ、笑ってよ。俺さ、栞の笑顔が大好きなんだよ。ずっとずっと、いつまでも見ていたいくらいに、ね。……それじゃダメかな?」
俺が言い終わると、栞は俺の胸に顔を埋めた。身体を震わせて、泣いているのがわかる。
「涼は優しすぎるよ……。私に、甘すぎるよ……」
「しょうがないよ。栞のこと大事にしたいんだから」
「……涼のバカぁ」
今度は俺がバカと言われる番のようだ。でも、栞の声色が変わった。どこか甘えるような、言ってみればいつも通りの声に。
「ねぇ、涼。悪いんだけどね、ちょっとだけ、はなしてくれる?」
「うん、いいよ」
顔を上げた栞はようやく真っ直ぐに俺の目を見てくれるようになった。これなら大丈夫かと判断した俺は、栞を腕から解放した。
栞は俺の正面へと移動して、ちょこんと正座をして、
「改まってすると、すごく恥ずかしいんだけど……。ちゃんと見てて、ね?」
そして腕で涙をグシッと拭うと、にっこりと微笑んだ。
「これで、いいかな……?」
「うん。最高、だよ……」
それはここ最近の苦し紛れのものではなくて、俺が見たかった笑顔だった。目は少し腫れぼったく、まだ涙の跡が消えたわけではないけれど。
俺はまた栞の笑顔が見れたのが嬉しくて、再び栞を抱きしめた。俺まで涙が溢れて、止まらなくて。
「ごめん、ごめんね……」
そんな俺の頭を栞が撫でてくれる。
「本当だよ……。なにかあったら教えてって、俺言ってあったのに……」
「そう、だったね……。ごめんなさい……。これからは、すぐに涼に話すから。一人で悩んだりしないから……」
「約束、だからね。でも、よかった……」
「うん……。ねぇ、涼……?」
「なに……?」
「あの日の返事、もう一回、させてくれない、かなぁ? あの時私ね、涼の気持ちに半端な覚悟で答えちゃったの。だから、やり直しをさせてほしい」
俺としてはあの日もらった返事だけでいいと思っていたが、それで栞の気が済むのなら。
「わかった。聞かせて」
「うん。あのね、涼。こんな私だけど、これからもずっと涼の隣にいさせてください。私、もっと頑張るから、強くなるから。ずっと、ずっと一緒に……」
最後は掠れて消え入りそうだったけれど、栞が真剣に伝えてくれたことはわかった。
「俺からも、改めて言うね。栞、ずっと一緒だよ」
「はいっ……!」
栞はまた笑ってくれた。さっきよりももっと、心の底から湧き上がるような、そんな笑顔で。花の咲くような、という言葉ではとても表現しきれない。
俺達は固く抱き合い、それからキスをした。お互いの気持を余さず伝えるような、そんなキスを。
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