第98話 栞の不調

 栞の元気がない。


 一日ぶりに栞を見た最初の感想がこれだ。いつもなら玄関を開けた瞬間からもっと弾けるような笑顔を見せてくれるのに。


 今日は挨拶代わりになっているキスをしたら、ようやく少しだけ笑ってくれた程度で。


「ねぇ、栞。調子でも悪い……?」


 心配になった俺は、自室で二人きりになったタイミングで聞いてみることに。


「えっ……? そ、そうかな? そう見える……?」


 そう見えるもなにも、そうとしか見えないわけで。


「うん、なんとなくだけどね。もしかして昨日の用事で疲れてる、とか?」


「そんなことは、ないんだけどね……。あっ、でもね……。言いにくいんだけど、昨日から……、その、女の子のアレが来ちゃってね……、今回はなんか重くって……」


 よっぽど恥ずかしかったのか、栞の目が忙しなく泳ぐ。ここまで言われれば俺もその意味がわからないなんてことはなくて。


「ご、ごめん! なんか、デリカシーのないこと聞いたみたいで……」


 あまり触れられたくないであろうことを言わせてしまって申し訳なさでいっぱいになる。


「ううん、気にしないで、大丈夫だからっ……! ごめんね、こっちこそあんまり聞きたくない話だったよね。でもね、ほら、毎月のことだし、心配しなくていい、から……」


「いや、心配くらいはさせてよ……」


「うん。ありがとね、涼……」


 それだけ言うと、栞は俯いてしまった。


 栞と話をするようになってから今日に至るまでがおよそ三ヶ月。その間、ここまでになる栞は見たことがなかったけど。


 そんなにきついのかな……?


 もちろんその辛さは男である俺にはわからない。わからないし、代わってあげることもできないけれど、気遣うことくらいはできる、と思う。


「あのさ、栞」


「……なぁに?」


「なにかしてほしいことがあったら、遠慮なく言ってね。どうしたら楽になるかとか、俺わかんないからさ。できたら教えてくれると助かる、かな……」


 そんな状態なのにも関わらず、栞はわざわざ俺に会いに来てくれたのだ。何かしてあげられることがあるのならしてあげたい。


「もう、涼は……。優しすぎだよぉ……」


 栞の瞳にじわりと涙が浮かんだ。


「優しくしないほうが、いいの? そっとしといた方がいいなら、そうするけど……」


「ううん。そんなこと、ないよ。えっとね、じゃあ、一つだけ、いいかな……?」


 そう言う栞はまた目を泳がせていた。


「もちろんだよ」


 俺は栞がいつでも気軽に寄りかかれる存在でありたいから。


 それに、栞が少しでも笑ってくれている方が俺は嬉しいんだ。っていうのは、ちょっと自分本位がすぎるのかな……。


「あのね、手、握っててくれる……?」


「それだけで、いいの?」


「うん、いいの」


「わかった」


 俺がそっと手を取ると、栞はコテンと頭を肩に預けてくる。そのまま目を閉じた栞は、しばらくすると寝息を立て始めた。


 それでも時折苦しそうにするので、空いている手で頭を撫でてみたりして。


 夏休みの最終日であるこの日はそのまま静かに寄り添って過ごすことになり、帰りはしきりに断る栞を無理矢理言いくるめて、母さんに車で家まで送り届けてもらった。


 *


 この翌日から二学期が始まったのだが、栞の調子はなかなか戻らなかった。


 初日は始業式があり、二日目と三日目には夏休み中に栞と準備をしていた実力テストが行われた。体調が悪そうでも出来は完璧というからさすがは栞だ。


 もちろんこの間、登下校は一緒にしていた。


 その次の日からは通常授業が始まることになるのだが、朝の準備が終わったところで栞から電話がかかってきた。


『あっ、涼……? おはよ……』


 数日に渡り不調を訴えていた栞だが、前日よりも更に重苦しいトーンなのが一言目からわかる。


「おはよ、栞。なんか声が暗いけど、大丈夫……?」


『えっとね、そのことで電話したんだけど……。私ね、今日動けないみたいなの……。たぶん、ただの風邪だとは思うんだけど……』


「えっ……! 風邪……? 熱とかあるの……?」


 女の子のアレで調子が悪いとは聞いていたが、まさか今度は風邪とは。悪いことというのは重なるものだ。


『熱はさっき計ったら37.5度だったかな……? それで悪いんだけどね、今日は一緒に学校、行けそうになくって……』


「俺のことはいいって。それよりも自分のことだけ考えてよ」


『うん、ごめんねぇ……』


 電話の向こうで栞が涙ぐんでいるような声。そんな声を聞かされたら俺の方が辛くなる。


「謝らなくていいよ。栞がいないのは寂しいけどさ、俺だって一人で学校くらい行けるから、ね?」


『うん……、ごめんなさい……』


「また謝る……」


『だってぇ……』


 ここのところ、栞は俺に謝ってばかりだ。そんなに謝らなくても俺は気にしないというのに。


「いいから。良くなるまではゆっくり休んで。学校が終わったらお見舞いに行くからさ」


『それは、ダメだよ……』


「え、なんで……?」


 いつもの栞ならこれで喜んでくれると思っていたのに。もしかして、俺に会うことができないくらい悪いのだろうか。それなら余計に心配になるのだけど。


『涼に、風邪うつしたくない、から……』


「そう言われちゃうと俺も行きにくいんだけど……。とにかく、学校終わったら連絡するから。無理そうなら返事しなくてもいいけど、それまではちゃんと寝てるんだよ」


『はぁい……』


「それじゃ、俺は学校に行ってくるね」


『うん、いってらっしゃい……』


 弱々しい栞の声に送られて俺は家を出ることになった。まだ二人での登校は数えるほどだけど、栞が隣にいてくれないのはどこか物足りなく感じる。



 教室に着くと、真っ先に遥と楓さんが出迎えてくれた。


「おっす、涼」


「おっはよー、高原君っ! って、あれ? しおりんは一緒じゃないのー?」


 俺の周りをキョロキョロしながら楓さんが言う。


 登校日やここ数日は二人で登校していたので、栞の姿が見えないとあっては当然のことだと思う。


「うん。栞は今日休みだって。風邪、引いたみたいでさ」


「あらら……。学校始まってからずっとしおりん元気なかったもんねー」


 栞の不調については、すでに俺だけじゃなくこのクラスのほぼ全員が感じていたことだろう。それくらいあからさまにぐったりしていたんだ。


「二学期早々いきなり風邪引くとか、黒羽さんもついてねぇな」


「だよねぇ……」


「ちょっとー! 高原君まで元気なくさないでよ! そんなんじゃーしおりんも良くならないよっ!」


「おっ。たまには彩もいいこと言うじゃねぇか」


「なにおう! 私だってちょくちょくいいことくらい言うわーっ!」


「んー? そうかぁ?」


「むー! 遥のバカー!」


 俺をそっちのけでなんかワチャワチャし始めたこの二人はいつも元気だ。


「ありがと、二人とも」


 確かに栞が辛い時に俺まで一緒に暗くなってちゃダメだよな。


「おぅ、いいってことよ」


「そうだよっ! しおりん早く良くなるといいねっ!」


「うん、そうだね」


 この底抜けに明るい友人達のおかげで、少しだけ寂しさが紛れた気がした。

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