第97話 栞の苦悩
◆黒羽栞◆
「はぁ〜〜〜〜………」
目を覚ました私は大きくため息をついた。
プールで一日中遊んだ疲れもあって泥のように眠ったけれど、一晩経ってもどこかスッキリしない。
初めて、涼に嘘をついちゃった……。
その後悔が私の頭をぐるぐると回り続けていた。
あれは昨夜、家に帰った後の寝る前の電話でのこと。
*
「涼、ごめんね。急なんだけど、明日はちょっと家の用事ができちゃってね。涼の家、行けないんだ……」
『あっ、そうなんだ……。うん、わかった……』
その涼の声が本当に寂しそうで、きゅっと胸が締め付けられるようだった。
「ごめんね……」
『そんなに謝らなくてもいいよ。家の用事なら仕方がないでしょ?』
「うん……」
『栞に会えないのは寂しいけど、また夜にはこうやって電話するからさ。それくらいならいいよね?』
涼はいつだって優しい。これも、きっと私のため。涼は約束した日から欠かさずこうして電話をかけてきてくれるんだから。
「うん、大丈夫だよ。ありがとね……」
*
家の用事なんてないのに。本当は涼に会いたくて仕方がないのに。
なんであんな嘘、ついちゃったんだろ……。
なんて、涼の顔がまともに見れないからに決まってるじゃない。
昨日、プールから涼の家に帰った後、涼から聞きたくてしかたがなかった言葉をもらったの。
『この先もずっと俺の側にいてほしい』って。
お父さんの勘違いで私と涼が婚約ということになった日から待ち焦がれていた言葉。涼は私のために必死で考えてくれていたんだよね。
なのに、心がチクチクする……。
その原因はなんとなくわかってるの。ううん、昨日はっきりとわかってしまった。実際はずっとずっと見て見ぬふりをしていただけで、心の奥底で静かに眠っていたんだ。
私、いくらなんでも涼に助けられすぎてるって。
プールで脚をつった時も溺れる前にプールサイドに引き上げて介抱してくれたし、ナンパされた時も……。
涼は自分も怖いはずなのに私を守ってくれた。後になって、涼の身体が震えてたもん。
それなのにあんなに勇敢に立ち向かって、私を連れて逃げてくれた。格好良かったよ、惚れ直しちゃったよ。
でもさ、それ以上に自分の不甲斐なさを思い知ったんだ。私がもっと強く拒絶していれば、すぐに周りに助けを求めたりしていれば、涼に怖い思いをさせなくて済んだはずなのに。
それにね、帰りの電車で彩香が言ったんだよ。私のことを『家猫みたい』って。
あの時、寝たふりをしていただけで実は起きてたんだ。彩香にほっぺをつつかれて、それで目が覚めて。
彩香にそんな気がないのはわかってる、わかってるんだけど……。
涼がいないとなにもできないやつ、そう言われた気がした。現実を突きつけられた気がしちゃったんだよ。
家猫ってさ、住処も寝床もご飯も、全部飼い主に用意してもらわないと生きていけないわけでしょ?
まさに今の私そのものだって、思った。思わずにはいられなかった。涼から与えられる幸せをただ享受しているだけの身、それが今の私なの。
涼と付き合い始める直前に水希さんから言われたことがある。
もっと素直に涼に頼ったらいいって。頼って、助けてもらった分はなにか他のことで返していけばいいって。
でも私、涼になにもしてあげれてないよ。全然ってことはないのかもしれないけど、涼がしてくれたことには全く釣り合ってないもの。
これはこないだお父さんにも言われたばっかりだよね。
『栞も助けられるばかりではいけないよ。ちゃんと涼君を支えてあげないとダメだからね?』
あの時は原因がわからなかった胸の苦しみの意味も、今ならわかるんだ。
涼の家に帰ってしばらくはどうにかいつも通りに振る舞えた。でも、涼の覚悟を聞いてしまったら、もうダメだった。
『栞と支え合って、寄り添って生きていきたいって思ってるんだ』
この言葉を聞いた途端、ダメになっちゃった。
だってさ、全然支え合えていないんだよ。私が一方的に支えられてるだけなんだもん。釣り合いが取れてないのがわかっているからこんなにも苦しいんだ。
嬉しくて震えそうなのに心が痛くって、私は涼に身体を差し出したの。せめてこれくらいはって。めちゃくちゃにしてなんて言葉で涼を煽って、涼の好きにしてもらうことで足りない分を埋めようとした。
それなのに……。
涼はとっても優しくて、私を気遣ってくれて。そりゃ、前にした時よりも激しかったけど。涼の私への好きだって気持ちが伝わってきて、それがまた嬉しくて、幸せで、私の方が喜んでいることが許せなかった。
これから、どうしたらいいのかな……。
どうやって涼にお返ししていけばいいんだろう?
私ばっかり満たしてもらっていたらダメなのに。
涼の言葉を待ち焦がれていたはずの私の方が、覚悟も能力もなにもかもが足りていなかった。
「栞? 今日も涼君の家、行くのよね?」
朝ごはんを食べている最中、お母さんがニヤッとした顔で私を見つめていた。
「ううん、今日は行かない、よ。なんかね、予定があるみたい」
また、嘘ついちゃった。
「あら、そうなの? まぁ、ずっとべったりだったものね。たまにはこういう日があってもいいのかもね」
お母さんはなんてことないように言うけれど、また一段と心のチクチクがひどくなる。
「そうかもね。明日は、また行くから」
「はいはい、ご馳走様。本当に仲良しね」
「うん。そう、だよ」
ひとまずは笑っておいた。ただでさえ今までずっと心配かけてきたんだから、これ以上困らせたくないの。でも、これで退路が断たれちゃった。
お母さんと水希さんはずいぶんと仲良しになったみたいだし、あまりおかしなことをしていると余計な勘ぐりをされちゃうかもしれない。嘘が涼にバレるのだって、怖い。
だから──
「ねぇ、涼? 明日はまた涼の家、行ってもいい?」
一日をグダグダと悩みながら過ごした後、夜になってかかってきた涼からの電話ではこう言うしかなかった。
『いいに決まってるでしょ。俺も一日会えなかったせいで栞が不足しちゃってるんだから』
「ふふっ。なぁに、それ?」
私、うまく笑えてるかな?
いつも通りにしようと思ってるのに、それがわからなくなりそうになる。
『だってさ……、俺、栞のことが大好きだから……。一日だって会えないのは、やっぱり寂しいよ』
あぁ、そっか……。会えないの、涼は寂しいって思ってくれるんだ。こんな、なにもしてあげられない私でも……。
なら、尚更こんなことしてちゃダメ、だよね。たたでさえこんななのに、これ以上マイナスには、できないし。
「うん、私も大好き。私も寂しかったから、会いたいよ……」
嘘ついたくせに、なに言ってるんだろうね……。
でも、私も寂しかったのは本当。涼への気持ちだけは嘘をつきたくなかったし、つけなかった。
『良かったぁ。たった一日程度で俺だけそんなこと思ってたらどうしようかって心配だったんだよね。栞に女々しいやつとか思われたくないしさ』
「大丈夫、私も気持ちは一緒だよ」
一緒だから、苦しいんだよ、とは言えない。
『ふあぁ……。なんか安心したら眠くなってきたよ』
「なら、そろそろ寝る?」
『名残惜しいけどそうしよっかな。明日、栞が来るの楽しみに待ってるからね』
「うん、いつもくらいの時間に行くね」
『わかったよ。それじゃ栞、おやすみ』
「おやすみなさい、涼」
電話が切れると、チクチクだった胸の痛みがズキズキに変わっていた。涙がポロリと零れ落ちて。
涼に今の私を見られるのが怖い。
涼を支えてあげられそうにない自分が情けない。
こんな中途半端な気持ちで涼の言葉に返事をしてしまったことが、なにより悔しい。
いつもなら、電話の最中に眠たくなるはずなのに。ふわふわした幸せな気持ちでぐっすりと眠れるのに。
この日、私は久しぶりになかなか寝付けなかった。
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