第183話 出発(疑似新婚旅行へ)

 もそりと腕の中で俺以外のなにかの動いた気配で眠りから意識が浮上する。


 まぁ、それがなにか、というか誰かっていうのはもうわかってるんだ。温かくて柔らかな感触、それとほんのりと甘い匂い。見るまでもなく、その全てがそこにいるのは栞だと告げている。


 そういえば前にもこんなことがあったっけ。


 栞が俺の寝ている間にベッドに潜り込むのはこれで二回目になる。


 きっと、自分で9時半に迎えに来るからって言っていたくせに、そこまで待ちきれなくなってしまったんだろう。


 まったく栞は甘えん坊だなぁ。


 ゆっくりと目を開けると、予想通りに間近に栞の寝顔がある。鼻と鼻がくっつきそうな距離で静かな寝息をたてる栞はやっぱり天使みたいに愛らしくて。


「栞、好きだよ」


 気持ちよさそうに寝ているのを起こさないように、そっとキスをする。栞が起きたらまたするのは確定だけど、可愛い寝顔を間近で見せられてそこまで我慢できるわけがない。


「うにゅぅ……。涼……」


 栞が変な寝言を漏らしながらもそもそと動いて、さらにくっついてきて頬が緩む。


 ただ、そこで気付いてしまったんだ。


「……って、なんでパジャマなのさ」


 布団からチラリと覗く栞の服の襟はどう見てもパジャマのそれ。完全に寝る気満々の格好で、これから出かけようって服装じゃない。


 まさか、さすがにこれで歩いてうちまで来たんじゃないよね……?


 とは思うけれど、着替えた形跡は見当たらない。きっちりした栞の性格なら、脱いだ服はハンガーにかけて吊るしてあるはずで、ちょっぴりハラハラ。


 本当にすごいことをするよね、栞は……。


 俺は呆れ半分で栞が起きるまで頭を撫でていた。


 *


「これから準備するから、涼は朝ごはん食べて待ってて! 私が下りていくまで絶対に部屋覗いちゃダメだからねっ!」


 アラームとともに目覚めた栞は『おはようのキス』の嵐を降らせた後、俺を部屋から追い出した。その勢いがすごすぎて、俺は危うく自分の着替えすら持たずに出てくるところだった。


 いきなり元気いっぱいすぎる。それだけ今日のことを楽しみにしてくれていたのだろうけど、なんでパジャマだったのかはすっかり聞きそびれてしまった。


 まぁ、それは追々として俺も準備をしなくっちゃ。


 顔を洗って、いつも以上に入念に寝癖を直して、しっかりセットしてから鏡に映る自分とにらめっこ。


 多少は見れるようになってきた、かな……?


 栞がことあるごとに格好いいと言ってくれるので、最近は少しずつ外見への自己評価も改善されつつある。


 服を着替えたら朝食。トーストに齧り付く俺を母さんと文乃さんがニヤニヤしながら眺めていた。


「涼? 栞ちゃんね、涼に早く会いたくって7時前にはうちに来てたのよ? 相変わらず愛されてるわねぇ、あんた」


「あの子、涼君がまだ寝てるだろうから、私も一緒に寝るんだーって言ってパジャマのままで出てきたのよ」


 まぁ、そんなことだろうとは思ってましたよ。


 それよりも、文乃さんがうちにいることで、栞がパジャマ姿で歩いて来たのではないことがわかってホッとした。


 その後、早々に全ての準備を終えてしまった俺は部屋に戻るわけにもいかず、ひたすら母さんと文乃さんのおもちゃにされることに。その内容はいつも通り、仲良しがすぎるだとか、もうすっかり夫婦みたいだとかなんとか。


 でも、それも今日ばかりはあまり気にならないんだ。だって今回の旅行、もちろんメインは栞の誕生日祝いなんだけど、気分は完全に新婚旅行なのだから。


 とはいえ、もちろんこれは疑似であって、実際に結婚する時のことは改めて二人で考えるつもりなのは言うまでもない。


 そんな母さんズのいじりを聞き流して待つことしばらく、栞の支度が整ったのは予定していた出発時間の10分ほど前だった。


 階段を駆け下りるパタパタという音が聞こえてきて、そしてリビングのドアが勢いよく開かれた。


「お待たせっ、涼!」


 栞が視界に飛び込んできた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。


 こうして栞に見惚れるのはもう何度目になるのか。なんならもう毎日見惚れているまである。


 今日の栞の服装は、薄ベージュ色でミニ丈のワンピース、その上に白いニットカーディガンを羽織っている。可愛らしさを全面に押し出しながらもどこか大人っぽさを兼ね備えて、さらには秋のイメージにもぴったり。


 付き合い始めた頃はミニスカートを恥ずかしがっていた栞だが、今はその綺麗な脚を大胆に披露している。


 更にはメイクまでバッチリ決まっていて。詳しいことは俺にはわからないが、決して派手ではなく栞の清楚さが存分に発揮されている、と思う。


 これらが合わさり見事に調和した結果、俺は言葉を失うこととなったわけだ。


「あらぁ栞、すっごくいいじゃない! 急いでお洋服を新調した甲斐があったわね?」


「ちょっとお母さん! そういうことは言わなくていいのっ!」


 栞的には文乃さんは一言多いらしい。


 でもさ、この日のために用意してくれたって知れて俺は嬉しいよ?


「でも本当に素敵よ? まぁ、栞ちゃんはいっつも素敵だけどね」


 母さんはいつも通り。毎朝栞のことを可愛い可愛いって言ってるし。


「えへへ……、そうですかね?」


 そんな感じで文乃さんも母さんも栞をベタ褒めである。


 そんな中、俺は栞の全ての瞬間を目に焼き付けるので忙しい。栞が動くたびに、笑うたびに魅力が爆発していて、口を開く余裕がない。


「ところで涼君? 旦那様からはなにかないのかしら?」


 文乃さんがさっきまでの延長でいじってくる。栞も期待するように見つめてきて。


「涼? 今日の私、どうかな?」


「えっと、すっごい可愛い……。それに、すごく綺麗だし……」


 ようやく絞り出すように言葉にすると、母さんがため息をついた。


「はぁ……。これだから涼はダメね。あのね、栞ちゃんはあんたのためにこんなにおめかししてくれてるのよ? もっと他にも色々と褒めるところがあるでしょうが」


 ダメ出しの上に怒られてしまった。あんなでも俺としては頑張ったつもりなのに。


「いや、だってさ……」


 そりゃ俺だってもっと気の利いた事を言いたいさ。でも仕方ないんだよ。感動と衝撃が大きすぎて語彙なんて吹っ飛んじゃったんだから。


「いいんですよ、水希さん。涼の顔を見ただけでちゃんとわかりますから。ね、涼?」


「う、うん」


 栞が優しくて助かった。栞にまであれこれと感想を追求されたら困っていたところだ。


「でね、涼に最後の仕上げをしてもらいたいなーって思ってるんだけど」


「仕上げって、もう完璧すぎると思うけど?」


 気合の入りまくった栞の格好には一部の隙もないはずだが。


「そんなことないよ。涼ったら、大事な物を忘れてるでしょ? ほら、これ」


 そう言って栞は首からネックレスを外して指輪を抜き取った。この指輪は結婚式の後で再びネックレスへと戻っていたのだった。


「あぁ、そっか。これのことだったんだね」


「うんっ。旅行の間はずっと指につけとこうね」


「だね。せっかくだもんね」


 学校では大っぴらにつけておくことはできないのでこういう機会は何気に貴重だ。


「ほら、栞。手、出して?」


「はーいっ」


 指輪を受け取り、栞のほっそりとした左手薬指へと通す。


「ありがと。じゃあ次は涼の番だよ」


「ん、お願いね」


 俺がしたのと同じように、栞もしてくれる。でも、指輪をつけ終わっても栞は手を離さない。両手できゅっと俺の左手を握って、俺の目を見つめて、


「ねぇ、涼。楽しい旅行にしようね?」


「もちろん。でもさ、俺もうすでにかなり楽しいんだけど」


「ふふっ、私もっ。でも、まだここからだからね?」


「うん、それはわかってるよ」


 本当なら、ここでキスの一つでもしたいところなのだが、ここでは外野の視線が邪魔になる。


 なら、一度部屋に戻って──


「はいはい、そこの仲良し夫婦さん? イチャイチャするのはいいけど、そろそろ出発の時間ですよー?」


 そう言って文乃さんがパチンと手を叩いた。


「本当だ! 涼、そろそろ出ないと電車に遅れちゃうよ!」


「う、うん。急いで荷物取ってくるよ」


 というわけで、時間切れ。この続きは、後のお楽しみに取っておくことになった。どうせここからは今日も明日もずっと栞と二人きり。時間はいくらでもあるのだし、そう残念がることもない。


「ほら、涼っ。早く早くー!」


 荷物を手に玄関に向かうと、栞はすでに靴を履いて待っていた。これまた今回のために新調してくれたのか、見たことがないショートブーツ。もちろん服装ともバッチリ合っている。


 慣れない靴で靴擦れができないかと少し心配にはなったが、そこまで歩き回る予定もないのでたぶん問題はないだろう。


 むしろ、栞がここまで完璧にキメてきてくれたのだから、とことんまで喜んでもらわなきゃと気合が入る。


「母さん、行ってくるよ」


「はいはーい、いってらっしゃーい!」


 見送りに来た母さんに声をかけて、栞の手を取る。しっかりと指を絡めたら準備は完了。


「じゃ、行こっか」


「うんっ!」


 俺達は並んで玄関を出て、文乃さんの運転する車に乗り込んで出発した。

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