第173話 甘々ランチタイム

「うぅ……。ほっぺがジンジンするよぉ……」


 遥が落ち着いたところで昼食タイム、となるはずだったのだが、楓さんは痛々しく真っ赤になった両頬をさすりながら涙目になっていた。


 もし止めるのがもう少し遅れていたら、本当に伸び切って戻らなくなっていたかもしれない。


「あー……。その、なんだ……。悪かったよ……」


 さすがに遥もやりすぎた自覚はあるらしい。


「元々は私がいけなかったんだけどさ、本当に痛いんだから、ね?」


「すまん……」


「反省、してる……?」


「してるしてる」


「それならさ、一つお願いがあるんだけど」


「ん、なんだ?」


「えっとね。ほっぺにちゅー、して……?」


「あぁ、わかっ──はぁ?」


 突然楓さんから飛び出した『ほっぺにちゅー』の催促に、遥は反射的に承諾しかけて、それから間の抜けた声を発した。


「だってすごい痛いんだもん。遥にね、痛いところにちゅってしてもらったら、たぶん治ると思うんだけど、なぁ……?」


 普段遥に対してはバイオレンス気味な愛情表現をする楓さんが甘えた声を出している。その珍しい光景を俺達は固唾をのんで見守ることに。


「い、いや、さすがにここではだな……」


 遥が慌てて周りを確認する。教室の中には、あの後続々と戻ってきたクラスメイトが勢揃い。


「ほっぺにくらい、いいでしょ? ねぇ、ダメ……?」


「うっ……」


 わかるよ、遥。うるうるした瞳で見つめられるとダメなんて言えないよね。俺もいつもそれでやられちゃうんだよ。


「はるかぁ……」


 楓さんがさらに遥に詰め寄る。じりじりと迫られた遥は後退りをして、座っている椅子から落ちかけて、


「わ、わかった。わかったから……」


とうとう観念した。


「本当っ?! じゃあ、はいっ」


 楓さんはぱぁっと明るい顔になり、右のほっぺを遥に向けた。


「っ……!」


 息を呑み視線を泳がせていた遥も、罪悪感から覚悟を決めたのだろう。顔をゆっくりと近付けていって、


 ──ちゅっ。


 小さく音がした。


 ここで声を上げなかった自分を褒めてあげたい。だってまだこれで終わりじゃないんだから。


「遥。こっちも、だよ? 痛いの、治して?」


 今度は左側。抓られていたのは両頬、痛いのは右だけじゃないもんね。


「わ、わかってるよ……!」


 最初は俺達四人だけだったはずなのに、いつの間にかクラスのほぼ全員が成り行きを見届けようと視線を送っていた。


 それでも、遥はぎゅっと目を閉じてもう一度。


 ──ちゅっ。


 さっきよりも小さいものの、確かに唇が触れた音。


「うわ、はっず……」


 二度目のほっぺちゅーを成し遂げた遥のそんな呟きは、


「えへへっ、痛いの治っちゃったっ! ありがとっ、それとさっきはごめんね! 遥大好きっ!」


 いつも以上の元気を取り戻した楓さんの声とハグで塗りつぶされて。


 ──うおおぉぉぉぉぉぉーーーっ!!


 そしてそれも、体育祭でテンションが上がりきっているクラスメイト達の歓声にかき消されていった。


 いつも思うけど、皆こういうの好きだよねぇ。俺も歓声を上げてた一人なんだけどさ。



 *



「ひでぇ目にあった……」


 ざわめきも一段落して、ようやく弁当を広げて食事の時間となったのだが、今度は遥が茹でダコみたいに真っ赤な顔をしている。


「いや、あの程度でひどい目とか言わないでほしいんだけど」


 結婚式のはともかくとして、俺なんてそれ以外で二回も公開キスをさせられているというのに。しかも、ほっぺじゃなくて唇に。


「うん、すまんかった。これは恥ずい、恥ずすぎる。涼の気持ちが少しだけわかった気がするわ」


「理解してくれたようでなによりだよ。でもさ、遥」


「ん、なんだよ?」


 俺はチラッと楓さんを見る。楓さんはとびきりの笑顔を振りまきながら、弁当を口に運んでいた。まだ頬は赤いけれど、口をもきゅもきゅさせている姿は幸せそうだ。


「あんな顔をしてくれるならさ、まぁいっかって思っちゃわない?」


「……それは、そうかも──いや、俺はさすがにそこまではいけねぇわ。やっぱ涼はすげぇやつだな」


「そうなんだよ、涼はすごいんだからっ」


 なぜか俺の代わりに栞が胸を張った。


「うんうん。遥もね、たまには高原君を見習うといいよ?」


「うっせぇ……。なら涼に乗り換えちまえよ……」


 楓さんと別れる気なんてさらさらないくせに、また遥はこんなことを言うんだから。


 というか、乗り換えられても俺が困るんだけど。もちろん俺も楓さんのことは好ましく思っている。でも、それはあくまで友人としてで、俺が恋愛感情を向けるのは栞だけ。


 俺の両手は栞と、栞がくれる幸せでいっぱいいっぱいだから。そこに他の人を受け入れる余地はない。


 それに──


「やーだぁ! 私は遥がいーのっ! 遥じゃなきゃダメなのーっ!」


 そもそもの前提として、楓さんも遥しか見ていないのだ。


「なら涼と比べんなよ」


「うん、それもそうだねっ。ごめんねっ! 遥は普段素直じゃないくせに、たまーにデレるのが可愛いんだよね!」


「おまっ……! か、可愛いとか、言うんじゃねぇよ、バカ……」


 楓さんから視線を外して、頬をかく遥。


 バカとか言ってるけど、満更でもないの皆わかってるからね?

 口元がニヤけてるの、バレバレだからね?


「あー、遥が照れてるっ! かーわいっ!」


「……もう勘弁してくれ」


 元気になった楓さんに遥ごときが敵うはずもなく、更に顔を赤くして黙々と弁当を食べ始めた。それを楓さんはニコニコしながら見つめている。


「ねぇ、涼」


 栞がポソリと俺に耳打ちする。


「ん?」


「二人とも、仲直りできてよかったね?」


「だね」


「紗月も騒ぎに乗じてこっそり漣君のほっぺにちゅーしてたし、本当に皆仲良しだよね」


「うん、そうだね……。って、えぇっ……?!」


 なんかしれっと聞き捨てならない情報があったような。初心で控え目な橘さんが、ほっぺとはいえ人前で、キスを……?!


 そういえば漣も橘さんもさっきから静かな気が。


「それでね、私もね、またちょっと火がついちゃったの……」


 そっちはそっちで気になるのに、俺にはそんな余裕すら与えてもらえなかった。


 耳に感じる栞の吐息が熱を帯びている気がして。


 というか、栞はずっと火がつきっぱなしだと思う。


 よく燃えるくせに、決して燃え尽きることはない。鎮まったと思っても火種はしっかり残っていて、ちょっとした刺激を受けるだけで再び燃え盛る。それが栞だ。


 その熱は俺を巻き込んで、火をつけて。二人一緒なら温度の上昇は留まるところを知らない。そして溶けて混ざりあったら二人だけの世界のできあがり。


 そんなだから、周りからバカップルなんて呼ばれることになるというのに。


「だからね、早くご飯食べちゃお? それから、ちょっとだけ充電して。その後は食後の運動でも、してみる?」


「食後の運動、って……?」


 栞の言葉が耳に、頭に甘く絡みついて、どうしても思考がそっち方面に向いてしまう。最近の栞はますます小悪魔っぷりに磨きがかかってるんだ。


 栞がクスリと笑って、


「んふふっ。涼、えっちなこと考えてるでしょー?」


 そうなるように誘導したくせに、これはずるいって思う。


「私は出番の前に少し身体を動かしとこうかって意味だったんだけどなぁ。涼はどんな想像をしちゃったのかなぁ?」


「そ、それは……」


「私は別にね、涼が考えてるようなことでも、いいんだよ?」


 背中がゾクゾクする。遊ばれてるだけだってわかってるのに、本気のようにも聞こえてきて。


「……とりあえず早く食べるよ」


「ふふっ、はぁい」


 食べ終わったら、この悪い子にしっかりとお仕置きをしないと。ひとまずは栞がふにゃふにゃになるまで甘やかすとしよう。やられっぱなしは、やっぱり悔しい。


 そんなことを考えていた俺の目の前に弁当のおかずが差し出された。


「はい、涼。あ〜ん」


「え? あ、あ〜ん」


 身体が勝手に反応して、口を開いていた。栞から何度もされたことによる順応、もはや条件反射の域に達している。


「美味しい?」


「う、うん」


 栞の手ずから食べさせてもらうと、何倍も美味しく感じられるのはいつものこと。


「えへへ」


 もぐもぐしながら俺が答えると栞はふにゃりと笑って、その目が涼も可愛いよって言っている気がした。


 うん、これはだめだ。今から返り討ちにあう未来しか見えない。


 なのに、それはそれで楽しみな俺がいる。待ち遠しくて、少しでも長く時間を確保したくて、弁当を掻き込むように片付けることになった。


 そしてしっかりとお腹を満たした俺と栞は、


「俺達、先に行って軽く体動かしてウォーミングアップしてくるから。行くよっ、栞」


「うんっ。それじゃ皆、また後でねっ」


 手を取り合って、まだ食事中の面々の返事も待たずに教室を飛び出した。もちろんウォーミングアップなんてのはただの口実だ。

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