第166話 婚姻届

 ◆黒羽栞◆


 すでにかなり出来上がっているっぽい大人四人。いったいいつから飲んでたんだろうね?


「栞、とにかく先に着替えてらっしゃい」


「……はぁい」


 涼にはどうにか時間を作ってみせるなんて言っちゃったけど、この状況どうしようかな。


 涼の誕生日の時みたいに全員酔い潰す?

 うーん、それよりも今は戦略的撤退、かな。


 ひとまずは着替えのついでに涼と二人で部屋に逃げ込むことにしよう。そこでここからの相談をするとして。


 涼と繋いだ手はそのままに、一歩階段に足をかけると──


「ちょっと涼! なーに普通に栞ちゃんについていこうとしてるのよ! これから栞ちゃん着替えるって言ってるのに」


 水希さんに止められた。


「い、いや、母さん。これはつい勢いっていうか、いつもの癖でっ……」


「そんなこと言ってー、どうせ栞ちゃんの着替えをじっくり鑑賞するつもりだったんでしょ、このスケベ」


「か、母さんっ!! 何言ってんの?! 飲み過ぎなんじゃない?!」


「そんなことありませーん。まだまだこれからですー」


 ……残念、失敗しちゃった。

 って、これでまだまだなんて、この後どうなっちゃうんだろ……。


「はいはい、涼はこっちね!」


 涼は水希さんにリビングへと連行されていった。私はどうすることもできなくて、一人酔っ払い集団の中に取り残される涼へ心の中で「ごめんね」と呟いて部屋へと戻った。


 涼を連れて行かれてしまったのなら私も早く行かなくっちゃ。どんな状況であろうと、涼の隣にいたいというのが私の最優先事項。手早く着替えを済ませて階段を駆け下りて。リビングのドアを開けると異様な光景が広がっていた。


 ソファに一人座らされている涼。その涼を取り囲むように大人が四人立っている。


「えっと、何、してるの……?」


 恐る恐る声を掛けると全員が私の方を向く。


「あっ、来たわね栞。あなたも早くこっち来なさい」


 お母さんに捕まって、涼の隣に座らされて。


「ねぇ、涼。これ、なんなの……?」


 私達の前には四枚の全く同じ用紙とボールペンが二本。


「あっ、栞。なんかね、これ、婚姻届なんだって」


「……婚姻届?!」


 なんでそんなものがあるの?!


「うん……。今から俺達に書いてもらうんだって……」


「これが、婚姻届……。それを今から……」


 じっと婚姻届に視線を落とす私に、お父さんは酔っ払ってるとは思えないくらいしっかりとした口調で、そして穏やかに声をかけた。


「栞。今日の式、とても素敵だったよ。栞と涼君が本気で好きあっているのもすごく伝わってきた。だからこそ、今ここでこれを書いてほしいって思ってね。二人の覚悟をちゃんとした形にしておきたいって」


「お父さん……」


「それからね、ここにいる全員で二人が結婚することを口約束なんかじゃなくて正式に認めようって話をしていたんだ。その証拠に証人の欄にはもうサインしておいたんだ」


 視線を婚姻届に戻すと、お父さんの言う通り、すでに父母の名前の欄と証人の欄が四枚とも埋められていた。


「わかった。私、書くね」


 ここまでしてもらって書かないなんて選択肢はないよ。


 だって、これを書いて提出すれば涼と夫婦になれるんだよ? このたった一枚の婚姻届で。


 もちろん私の年齢じゃまだ受理されないってわかってるけどね。


「ねぇ、涼も一緒に書いてくれる?」


 涼の目を見つめると、私の大好きな笑みが返ってきて、


「まったく、皆して気が早いんだから。でも、俺も書くつもりだったよ。急に婚姻届なんて出てきたから面食らっちゃってたけどね」


「よかったぁ。ヤダって言われたらどうしようかと思ったよ」


「そんなこと言わないって。知ってるでしょ? 俺が栞のこと大好きだって」


「うん、知ってるよ。へへ、それじゃ書いちゃおっか?」


 どさくさに紛れて、また大好きって言われちゃった。何回言われても嬉しいの。大好きな人から大好きって言われて、これまで言葉だけだった『ずっと一緒』という約束を今から形のあるものにする。


「うん、書こう」


 涼と順番に四枚の婚姻届を記入していく。


  夫になる人    妻になる人

  高原 涼     黒羽 栞


 結婚後の氏には迷いなく夫のところにチェックを入れる。そうしておけば、これが受理された暁には私は『高原栞』になるんだよね。そう思うとドキドキして手が震えそうだったけど、なんとか書きあげた。


 目の前には必要事項が全て埋められた婚姻届が四枚。


 そこでようやくおかしいなって気付いた。


「ところで、婚姻届って一枚でいいんだよね? なんで四枚もあるの?」


 書いてる間はそれどころじゃなかったけど、よく考えたら変だよね?


「あー、それはねぇ……」


「ねぇ……?」


 水希さんとお母さんが顔を見合わせて、苦笑いしてた。


「??」


「あのね、栞。私、栞と涼君の結婚式が決まってから密かに考えてたのよ。せっかくだから婚姻届も書いてもらいましょうって。それで市役所に行って、予備を含めて二枚もらってきたのね」


「私も栞ちゃんが喜ぶかなって思って、内緒で文乃さんと同じことをしてたのよ。そしたら見事に考えが被っちゃって」


 ……それで全部で四枚になっちゃったんだ。


「でも、それなら書くのは一枚でよかったんじゃないの?」


 もし書き損じたら、その時に出してくれればよかったよね?


「そんなのダメよ! 栞達が提出しちゃったらなくなっちゃうじゃないの。私も記念にとっておきたいんだもの!」


「ってことでね、まずは涼と栞ちゃんに一枚ずつ渡しておくわね。残った二枚はうちと黒羽さんのうちでそれぞれ保管しておくから」


 水希さんが書き上がった婚姻届を手早く回収して、言葉通りに配っていく。


「もしなくしたりしたら遠慮なく言うのよ。栞のことだからなくしたりはしないんでしょうけどね」


「うん、絶対になくしたりしないよ」


 私がこんな大切なものをなくすなんてありえないよ。もしこれが私の手を離れる時が来るとしたら、それは涼と本当に結婚する時だけなんだから。


「それからもう一つ」


 お父さんが人差し指を立てた。


「まだ何かあるの?」


「うん。これが一番重要だって思うんだけど、この婚姻届があれば二人が18歳になったら結婚できて、親の同意はもう必要ない」


「栞、涼君。それがどういう意味かわかる?」


 お母さんに尋ねられて、私と涼は顔を見合わせた。


「ねぇ、涼。わかる……?」


「えっと……、どういうことなんでしょう……?」


 涼は首を傾げているし、私も婚姻届を書き終えたばかりで気分が高揚していて頭が回らなくって。


「それはね──」


 お父さんがもったいつけるように一呼吸置いて、


「そのタイミングは栞と涼君、二人しだいってことだよ」


「それって……」


 再来年の私の誕生日が来たら、いつでも結婚していいってこと……?


「ただし、少しだけ条件をつけさせてほしい」


「う、うん」


 もう頷くことしかできなくて。涼もコクコクと首を縦に振っていた。


「二人ともちゃんと大学へは進学すること。もちろんその前に結婚したとしても、学生の間はちゃんと支援するから安心していいよ。それから、子供は自立ができてから。自分達で育てられないうちに無責任なことはしたらダメだからね。その二つが守れるのなら、我々はもう何も口出ししない。どうかな?」


 そんなの願ってもない話だよ。将来のためには進学した方がいいのはわかっているし、子供だって……。


 涼との子供かぁ……。

 そんなの絶対に可愛いに決まってるよね。


 そんな子に絶対大変な思いなんてさせたくない。それは涼だってきっと。


「わかりました。絶対に守ります。それで絶対に栞を幸せにしてみせます」


 私が口を開く前に涼が即答していた。その顔はとても真剣で、そんなの見惚れちゃうよ。この言葉だけで私は幸せなんだって思わされる。


 だから──


「私も約束する。でも、一個だけ涼の言葉を訂正するね。私だけ幸せにしてもらったりしないから。涼と二人で一緒に幸せになるの。ずっと、ずっとね」


 どちらからともなく手を重ねて、指を絡めて。


「そうだったね。ごめん、栞。俺、また間違えてたよ。二人一緒に、だったね」


「そうだよ。涼が幸せじゃなかったら、私も幸せになんてなれないんだから」


 言い終わる前に涼に抱きしめられていた。


「ねぇ、栞」


 涼の声が耳をくすぐって。


「皆の前だけどさ、もう、言ってもいいかな?」


「うん、いいよ。私もね、聞かせてあげたい」


 何を、なんて今更確認する必要ないよね。


「栞、愛してる」


「涼、愛してる」


 私達の声が重なって、そして自然と唇も。なんか見られるのにも慣れてきちゃったかも。


 その刹那、リビングに歓声が響き渡った。


 真面目な話をしていて忘れていたけど、そういえば私と涼以外全員酔っ払いだったっけ。よくそれでこんな話ができたものだよ。


「さーてっ! 大事な話も済んだことだし、今日はパーッとやるわよー!」


 お母さんが一際大きな声をあげて。


「京也さん、今日はとことん飲みましょう」


 お父さんの目尻に涙が浮かんで。


「そうですね。いくらでも付き合いますよ」


 あまり口を開かない京也さんもそれに応えて。


「涼も栞ちゃんも、今日は寝かさないから覚悟しときなさいよっ!」


 水希さんが私と涼をまとめて抱きしめた。


「か、母さん。俺達、明日は体育祭がっ……!」


「あぁん、水希さんずるいっ! 私もー!」


 お母さんも参戦してきて、結局最後には全員で団子状態。その中心にいる私と涼は押しつぶされる寸前で。


「くっ、苦しいよっ……。いい加減離れてー!」


 そんな叫びも虚しくかき消された。


 涼が少しだけかばってくれているけど、さすがに頭がクラクラしてきて。今日はこのまま気を失って就寝なのかな、なんて思っていると不意に救いが現れた。


 ──ピンポーン


 誰かがインターホンを鳴らしたみたい。


 でも、私はまだ知らない。これがこの騒ぎを更に加速させる前兆だったってことを。

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