第164話 締めくくりのもう一回

 教室へと戻った後は、連城先生からの連絡事項を聞いて今日は解散となるはずだったのだが──


「えっと、えっと……。そうそう、明日のことだったわね。明日は体育祭があるし、今日は皆も疲れてると思うからね、その……、しっかり休んで、ね?」


 (誰だ、この人……?!)


 たぶんこの時、クラス全員の心が一つになった。


 教壇に立って喋っているのはもちろん連城先生なのだが、ずっと顔を赤くして、もじもじしている。誰かと目が合うと視線を泳がせたりも。どうやらまだ照れているらしい。


「それからね、今日のこと、私一生忘れないと思う……。ありがとう……。皆、大好きよ……!」


 目尻に涙の雫を光らせて、俯きがちに絞り出した先生は本当にいつもとは別人のようだった。


 ──ふふっ。せんせー、かーわいーっ!

 ──先生も意外と乙女なところあるよねー!

 ──こんな先生が見れるなんて思ってなかったもんねー?


 そんな先生の姿に、女子達は口々に「かわいーっ」と声を漏らす。


 それに紛れるように、一人の男の声が。


 ──やばっ。俺、ちょっとキュンと来ちゃったかも……


 いつもと違う先生にときめいているやつがいるようだが、既婚者はやめておけと言いたい。誰の呟きかはわからないけれど、幸か不幸か先生の耳には届いていなかったらしい。


 可愛いと連呼された先生はより一層顔を赤くしてぷるぷる震えていたかと思ったら、ついに限界を迎えた。


「あぁもうっ! 皆がそんなだから、私もどうしたらいいのかわからなくなっちゃうじゃなーいっ! 今日はもうこれでおしまいっ! 明日も遅刻厳禁よっ!」


 そう一気にまくし立てて逃げるように教室を出ていった。先生が向かう先はおそらく職員室。


 先生はまだ知らない。職員室では式に参加していた教師陣が先生の戻りを今か今かと待ち構えていることを。


 まぁ俺達もそんなことは知る由もない。


 そして、これから俺と栞に起こることについても。


「涼っ! かーえろっ?」


 栞が髪をフワリと揺らしながら俺の横へとやってくる。


「うん。でもその前に──」


 せっかく先生に矛先が向いているところにこんな事をすれば、とは思うけれど、


「皆! 今日はありがと。最初はどうなるかと思ってたけどさ、今はやってよかったと思ってる!」


 まだあまり大きな声を出すのは得意じゃない。でも、どうしてもちゃんと言葉にしておきたくて。


 俺と栞のために準備をしてくれた。サプライズのために歌の練習までしてくれた。そこまでしてもらっておいて何も言わずにさっさと帰ってしまうのはあまりにも不義理だと思う。


 少し驚いた顔をした栞も一度俺を見て微笑むと、


「私からもありがとう。すごく嬉しかったよ。涼と一緒にもっともっと幸せになるから、これからも見守っててねっ」


 突然のことに一同の注目が俺達に集まる。でももう俺は視線をそらしたりはしない。一人一人の顔を感謝を込めてしっかりと見ていく。


 すると──


「なーに格好いいことやってんだよ、涼!」


 背後から密かに近付いてきていた遥にガシッと肩を組まれて、


「いやぁ、しおりん、これ以上なんて贅沢だねぇ! でもでも、しおりんが幸せそうだと私も嬉しいよーっ!」


 栞は楓さんに抱きつかれていた。


「栞ちゃん、私もずっと応援してるからねっ」


 と、橘さん。


「っとに高原はすごいよなぁ。あそこまでやられたら、もう羨む気も起きないわ」


 更に漣も。


 次第にざわめきが全体に広がっていく。


 ──うちのクラスの名物カップルもあっという間に名物夫婦かぁ。

 ──ねぇ。これから黒羽さんのこと、高原さんって呼んだほうがいいのかなぁ?

 ──この二人ならいつまでも見てられるよねぇ。


 ──というかさ、この二人、帰ったらきっと……。

 ──そりゃ結婚初夜、だし……?

 ──初夜……。あっ。また鼻血が……。


 だんだんと話がおかしな方向へと向かい始めて、いたたまれなくなってきた。


「えっと、それじゃ、俺達そろそろ帰ろっかなぁ……?」


「えっとー……。そう、だね?」


 栞もさすがにこの手の話題は恥ずかしいと見える。


 言うべきことは言った。ならもうここに留まる理由もない。先生に倣って脱出を試みるも。


「まぁ待てや、涼」


 俺はいまだ遥に捕まったまま。


「ちょっ、遥、なに……?」


「せっかく皆盛り上がってきたことだし、ここは涼に今日一日を締めくくってもらおうと思ってな」


 ニヤリと笑う遥に、俺は嫌な予感がした。


「締めくくるって、何をどうするのさ……?」


「そりゃあれだ。さっきの最後は黒羽さんからだったしな。今度は涼からってことで、熱いの頼むぜ?」


「熱いのって……、まさか……!」


 もう一回ここで栞とキスしろってこと?!


 そんなことしたら、締めくくるどころか火に油を注ぐようなものじゃ……。


「おう、そのまさかだ」


「で、でももう皆見たでしょ?! そんな何回も……」


「いいもんは何回見てもいいんだよ。それに黒羽さんはもうそのつもりみたいだぜ?」


 遥に言われて栞を見れば、楓さんの拘束から抜け出してとことこと俺の目の前までやってくる。


 さっきまで恥ずかしそうにしてたはずでは?


「いーよ、涼。もう二回も見せたんだから。あれ、三回だっけ? ……どっちでもいっか。それならあと一回したって、変わらないよね?」


「栞まで……!」


「ほーらっ、高原君? 可愛い奥さんを幸せにしてあげるんでしょー?」


 遥の反対側から、楓さんが脇腹を肘でグリグリと突いてくる。


「ほらほら、高原君? 栞ちゃん待ってるよー?」


 橘さんが栞を更に一歩前へと押し出して、


「さっさとしろよ高原。ちゃんと締めてくれないと皆帰れないだろ?」


 漣が俺の背中をグッと押す。


 いつぞやのようにキスコールは起こらなかった。ただ、皆静かに俺と栞を見守っていた。


「今度はね、涼から。私が涼のお嫁さんなんだよって、誰にも渡さないって、皆に見せつけて?」


 栞がすっと背伸びをすれば俺との距離はもうほぼゼロ。後は俺が少し近付くだけ。期待するように栞の瞳が真っ直ぐ俺を見つめて、そして目を閉じた。


 栞はメイクも髪も式用のままで、見慣れた制服姿なのにいつもより輝いて見える。


 あぁ、可愛いなぁ……。

 こんなことされたら我慢なんて無理じゃん。


 いつの間にか遥も楓さんも俺から数歩離れていて、逃げようと思えば逃げられる。栞の手を取って、全力で教室を飛び出せばいい。


 でも、できない。栞が俺を釘付けにして、それを許してくれない。


「んっ、涼……。うん、そうだよ。そのまま、いつもみたいに、して?」


 気付けば栞の背に腕を回していた。栞の腕は俺の首に回された。栞はそこから動かない。だから、俺から。


 誰かがゴクリと喉を鳴らした。


 式の時よりも、もっと近くで見られてる。

 ……違う。見せつけてる。


 なら、栞への愛情はたっぷりと。見逃しなんてさせないようにゆっくりと。


 栞と唇を重ね合わせて。今度は物足りないなんて言わせない。と言いたいところだけど、それは二人きりで。


 唇を離して、固く抱き合うふりをして、栞の耳元で囁く。


「続きは帰ってから、ね。栞も邪魔、されたくないでしょ?」


「うんっ」


「じゃあ、腕をほどいたら全力で逃げるよ」


 コクリと頷きが返ってきたのを確認して、栞を解放する。


 固唾を呑んで見守っていたクラスメイト一同が歓声をあげようとした直前、俺は片手で鞄を掴み、もう片手で栞の手を取って、


「じゃっ、また明日っ!」


「皆、バイバイっ!」


 二人でそう叫んで駆け出した。


「あっ、逃げやがった!」


「まぁいいじゃないの、遥。ねっ、皆?」


 楓さんが、皆に賛同を求めると、


 ──二人ともお幸せにー!!


 たぶんほぼ全員の声、それが教室を飛び出した直後の俺達の背中に届く。俺と栞は顔を見合わせて笑って、でも走るのはやめなかった。


 俺達はその勢いのまま昇降口で靴を履き替え、駅で電車に乗り、俺の家まで帰ってきた。ただ、玄関を開けても中からはなんの反応もない。両親はとっくに帰っていてもおかしくない時間なのに、家の中は無人だった。

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