第160話 結婚式の余韻

 栞をお姫様抱っこして、颯爽と控えスペースのカウンター内へと戻ってきたわけなのだが。


「栞、降ろすよ?」


「や!」


 この有り様である。栞は短い抗議とともに、より一層強く首に抱きついてくる。


「や、って……。いくら栞が軽いとはいえ、さすがにこのままは俺が保たないんだけど……?」


 ここまで運ぶくらいなら問題はなかったけれど、長時間こうしていられるほど俺の腕力は強くない。


「ならそこの椅子に座っていいよ。私はもうしばらくこうしてたいのっ」


「まったく栞は……」


 甘えん坊にもほどがある。まぁ、可愛いからって言うことを聞いてしまう俺も俺なのだけど。


 栞を横抱きにしたまま椅子に座ると、腕の負担はほぼなくなった。代わりに膝の上にしっかりと栞の存在を感じる。


「ねぇ、涼?」


「ん、なぁに?」


「……んっ」


 栞が目を閉じて、くいっと顎を上げた。いつも通りの惚れ惚れするほどのキス待ち顔だ。


「いや、まだここ学校だし……」


「でも、さっき後でって約束したもん……」


 確かに後でと約束した。したけども、その『後』がこんな早いとは思わないじゃない?


「帰ってからじゃ、ダメ……?」


「ダーメっ! 私、そこまで待てないのっ。それに先生の準備が終わるまで私達ここから動けないんだから。ねぇ、いいでしょ……?」


 栞の言う通り、先生の準備が整わないと俺達は着替えをすることができないわけで。それにこんな切なそうな表情をされると俺も弱い。


「ちょっとだけ、だからね?」


「えへへ、やったぁ!」


 こうして、毎度毎度栞に押し切られてしまう俺は意志薄弱なのだろう。


 でも、これだけでこんなにも嬉しそうな顔をするのだから本当に栞はずるいって思う。


 正面から栞の綺麗な瞳を見つめ、頬に触れる。栞はくすぐったそうにピクリと震え、再び目を閉じた。


「ほーら、早くっ」


「焦らないの」


 がっつくようにしてしまっては雰囲気ブチ壊しもいいところだ。せっかく結婚式の後なのだから、その余韻も大事にしたい。


 俺はたっぷりと栞のキス待ち顔を堪能してから、そっと唇を重ね合わせた。


「栞、好きだよ」


「……んっ」


 栞が幸せそうに喉を鳴らすのが嬉しくて、式でした時よりも長くキスをする。最初の頃のように息が苦しくなったりはしない。この辺りはもう慣れたものだ。わずかに唇を離した隙に息継ぎをして、何度も何度もキスをする。


 栞の唇は柔らかくて気持ちがよくて。それに、全力で俺のことが好きだと伝えてくれているようで。ちょっと、なんて言っていた俺の方がすっかり夢中になっていた。


「んっ、ちゅ。涼、好きっ。もっと、もっとして……」


「わかってるって。んっ……」


 結局ここが学校であることも忘れて、二人きりなのをいいことに家でする時のようにお互いのことしか見えなくなっていた相変わらずな俺達だった。


 まぁでも、これ以上のことをという発想に至らなかったのは褒められるべきだと思う。俺達も場所をわきまえているし、そもそも揃って貸衣装に身を包んでいるのだから当然なのだが。


 さすがに俺達の理性もそこまでぶっ飛んじゃいない。


 ただ、今日は帰ってからの栞の猛攻はいつもより苛烈になるんじゃないかなぁと、キスをしながら思っていた。


 しばらくキスを楽しみ、顔を離すと栞は「ほぅ」と短く息を吐いた。


「涼。私ね、今すごく幸せ。ここで初めて涼に声をかけた時には、まさかこんな幸せな時間がやってくるなんて思ってもみなかったよ」


「それは俺も同じ──んんっ……?」


 俺の言葉は栞のキスで遮られた。


「へへっ。ごめんね、今は私に話させて。あのね、付き合うことになった日にも言ったけど、もう一回涼に聞いてほしいことがあるの」


「う、うん」


 あの日、栞のくれた言葉は俺の中にちゃんと残っている。でも、栞の表情はあの日のものとは比べ物にならない。


 綺麗で真っ直ぐで揺らぐことがない。


 その表情に思わず見入ってしまう。


「涼、大好きだよ。涼がね、いつも私の心を温かく溶かしてくれるから、だから私は笑えるの。ありがとう、涼。私の側にいてくれて。それから、この先もずっとよろしくね?」


「栞……。うん、もちろんだよ」


 言葉は同じようでも、その覚悟がまるで違う。迷いながら、悩みながらここまできた栞は、今はその一切から解き放たれているようだった。


 結婚式を経て、皆の想いをその身に受けて、栞はまた一段と強くなったんだと思う。


 そして、それは俺も同じ。


「なんかいつも栞に先手を取られてる気がするけど……、とにかく今度は俺からだね」


 そう前置きして髪を撫でると、栞は気持ちよさそうに目を細めた。


「俺も栞が大好きだよ。栞と一緒だと俺は強くいられるから。栞とずっと一緒にいるためにって、栞がずっと笑っていてくれるようにって。だから、この先もずっと一番近くで栞の笑顔を見させてね?」


 もう何度こんな約束や誓いをしたことか。その時々で言葉は違うけれど本質は同じなのに。でも、何度目だってちゃんと言葉にするし、言葉にしたい。思っているだけじゃ伝わらないけど、確認し合うことでお互いの拠り所がはっきりできる。


 想いを重ねて、言葉を重ねて、その度に強く結びつく。決してほどけないように、結び目がわからなくなって、完全に一つになるまで。


「うん、私のでよければいくらでも」


「栞じゃなきゃダメなんだよ」


「私も涼じゃなきゃヤダよ」


 目を合わせて、おでこをくっつけて、お互いの腕の中にある幸せを抱き寄せて、笑って。


「ねぇ、涼。もう一回、いい?」


 甘えてくる栞の頭を撫でて。


「うん、一回と言わず何度でも」


 また唇を重ね合わせる。


 パーテションの外、会場からのざわめきも遠くなって、今だけはこの世界に二人きりのように感じていた。


 いたのだが──


「おーい、涼、黒羽さん。ちょっといいか?」


 どれくらいの時間が経ったのかはわからないが、図書室側からの遥の声が俺達を現実に引き戻した。


「……はーい?」


 やや残念そうな栞が返事をする。俺の膝に乗ったままで。


「いや、栞?! まずは降りて──」


「二人に話があるって人を連れてき……。って、お前らまたそんな……」


 栞を膝から降ろすのが間に合わず、遥にしかめ面をされた。それだけならいつものことなのだけど、さらにその後ろにもう一人、俺と同じような衣装を纏った男性が俺達を見つめていた。


「おっと、お邪魔しちゃったかな? 茜から話には聞いていたし、さっきも影から見させてもらっていたけど、本当に仲良しなんだね」


 その男性は俺達の姿を見て微笑む。呆れた顔をされるのには慣れてきたが、こういう反応は珍しい。


「あの、こんな格好ですいません……。えっと、もしかして、先生の旦那さん、ですか?」


 旦那さんの対応は遥と楓さんに任せていたので、俺達が顔を合わせるのはこれが初めてのことだ。


「うん、いつも妻がお世話になってます」


 ほぼ確信していたが、間違いないらしい。


「どちらかと言えばお世話になっているのはこちらなんですが……」


「いやいや、妻も良い生徒ばかりで皆のことが可愛いって言っているしね。それに、今日の企画を思いついてくれたのは彼女なんだよね?」


 先生の旦那さん、真守さんの視線が栞へと注がれる。


「あの、その……、はい。と言っても、私はただ思い付きを呟いただけで、実際に色々と頑張って準備をしてくれたのは彩香と柊木君なので……」


 さすがにいたたまれなくなったのか、栞は膝から降りて立ち、ペコリと頭を下げた。


「それでも僕は君に感謝してるよ。妻の、茜の大事な生徒さんに祝福してもらえるなんて、これ以上のことはないから。君の言葉がなければその準備も始まらなかっただろうしね」


「でも、私達みたいな高校生がやる文化祭の、それも子供だましみたいな式で大丈夫だったか心配で……」


「そんなことを言ってはいけないよ。僕も君達の式を見させてもらったと言ったでしょ? すごく素敵だったよ。それは君達が一番わかっていることなんじゃないかな?」


 優しく諭されて、栞はハッとした顔をしてコクリと頷いた。


「そう、ですね。私が言っちゃダメなことでした」


「うん。だから、ありがとう。こんな機会を作ってくれて」


「いえ。でも、それはまだこれからですから」


「そうだね。僕らも君達に負けないようにしないとね」


 真守さんは俺と栞を交互に見て微笑んだ。


 なんというか、先生が惚気たくなるのもわかる、とても良い旦那さんだ。あのハイテンションな先生を御しているのなら器も大きいことだろう。それがこの短い時間で見て取れた。


「はいはーい、先生、行きますよー! 皆待ってるんですから!」


「いや。そろそろいい加減説明を!」


 不意に司書室のドアが勢いよく開いて、継実さんに引っ張られた連城先生が出てきた。先生は継実さんの手で着替えさせられてドレス姿。


 真守さんと連城先生の目が合って。


「なんでまーくんがこんなところ私の職場にいるのよ?!」


「それはこれからこの子達が説明してくれるよ。でもその前に──ドレス、良く似合っているよ、茜」


「うっ……、それはっ。それにまーくんだって……」


 先生と真守さんの姿を見て、俺達の式が霞んじゃわないかなと不安になったのは誰にも内緒だ。

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