第151話 最高のコンディション

 家でも学校でもグイグイ攻めてくる栞に翻弄されつつ、気が付けば文化祭、それも俺達にとって最も重要な日、一般公開日を迎えていた。


 本来であれば文化祭の準備に追われ慌ただしい日々を送った、なんて言えれば良かったのだろうけど、俺がしていたことと言えば栞とひたすらのんびり(?)していただけ。端からはサボっていたように見えるだろうが、これはクラスの総意ということなので俺は悪くない。


 この期間の栞との時間はいつも以上に甘くて、身も心も蕩けてしまいそうだった。


 というわけで、その思惑通り俺と栞は文化祭で行われる結婚式に向けて気分を高めることには成功したのだが、その弊害とも呼べる事態が発生したりもした。


 前日には家に帰るという栞の言葉通り、昨日の夕方に文乃さんが迎えに来たのだが、栞が帰りたくないと言い出した。


 そこで紆余曲折あって、最終的に週末はどちらかの家でお泊りしても良いという許可を得て、栞は自宅へと帰っていった。


 ついでに、翌朝は俺が栞を迎えに行くことになった。俺達にとって大事な日になるはずなので、なんとなくそうした方がいいような気がして、俺から提案した。


 そして朝、いつもよりかなり早く目覚めた俺は手早く身支度を整えて家を出た。


 最近は毎日栞に起こしてもらい、寝坊助さんなんて言われている俺だけど、こういう時であれば自分の力でも起きられるのだ。なんて偉そうに言ってはいるが、実際のところは隣が寂しくて眠りが浅かったせいだったりする。


 早く栞に会いたい気持ちと、あまり栞に寂しい思いをさせたくなくて早足で黒羽家へと向かう。あらかじめ伝えておいた時間よりもだいぶ早い到着になったはずなのに、インターホンを鳴らすと間髪入れずに栞が飛び出してきて、俺に抱きついてきた。


「涼っ! 会いたかったよぉ……」


 昨日別れてから12時間弱しか経っていないとは思えない勢いでグリグリと頭を擦り付けてくる。


「おはよ、栞」


 栞を受け止めて、まずは朝の儀式。玄関先だけど構うもんか。俺だって離れている間寂しかったのだから、栞を前にして我慢なんてできるはずもない。


 一度、二度と口付を交わすと、栞の身体から力が抜けてふにゃっと微笑んでくれた。でも、どこか弱々しい。


「えへへ。おはよ、涼。ごめんね、昨日は我儘言ったりして」


「いいんだよ。俺も栞と同じ気持ちだったし。おかげでいつもより早起きしちゃったんだから」


「私も。涼が来る時間はわかってたんだけどね、もしかしたら早く来てくれるかもって思って、ずっと玄関で待ってたの」


「ごめん。それならもっと早く来ればよかったね……」


 玄関でずっと待っていてくれたせいか、栞の身体が冷えている気がする。そんな栞がいじらしくて、少しでも温めてあげようと更にしっかりと抱きしめた。栞も俺の胸に擦り寄ってくれて、そんな栞が可愛くてしかたがなくなる。


「ううん。ちゃんと迎えに来てくれたからいいの。それより、あがってよ。まだ時間あるし、私の部屋、行こ?」


 一晩離れていた分、甘えたいのだろう。栞の甘えん坊具合は天井知らずだ。俺は俺でそんな栞が可愛くてしかたな──って、このくだりはさっきもやったような気が。とにかく、栞の可愛さも天井知らずなのだ。


 栞に手を引かれて家の中へと入り、早くと急かす栞を宥めつつ、まずは聡さんと文乃さんに挨拶をする。今日は土曜日で世間的にはお休みのはずだが、早朝にも関わらず二人共しっかりと起きていた。


「おはようございます、聡さん、文乃さん」


「おはよう、涼君」


 にこやかに聡さんから挨拶が返ってくる。


「いらっしゃい。ごめんね、涼君、栞が我儘言って」


 文乃さんは俺の腕を引っ張る栞を見てやや苦笑い。


「いえ、いつも栞に起こしてもらってますから、これくらいなんてことないですよ。それより、聡さん、文乃さん。えっと、宿の件、ありがとうございました。おかげでもっと楽しみになりました」


 文乃さんとは電話で話したけれど、まだちゃんとお礼を言えていなかった。栞へのプレゼントという名目ではあるが、俺の分までお金を出してくれるということなので、しっかりお礼を言っておきたかった。


「いや、いいんだよ。むしろ差し出がましいことをしたかなって少し心配してたんだ。喜んでもらえたのなら我々も嬉しいよ」


「そんな差し出がましいなんてことは……。むしろ気を遣わせちゃってすいません」


「あー、うん。涼君、この話はもうやめよう。私達もね、栞と涼君が幸せそうなら本当に嬉しいんだから、それで良しにしようじゃないか。だからね、あまり気にせず、目一杯楽しんできてほしいかな」


「わかりました。ありがとうございます」


 再度頭を下げれば聡さんも文乃さんも笑ってくれた。俺もこんなにも受け入れられていることが嬉しくて、つい笑顔になってしまう。


 ただ一人、栞だけは不満そうな顔をしていた。


「ねぇ、お話はもういい? あんまり長いと学校行く時間になっちゃうよ……?」


「ごめんごめん。あの、栞がこう言ってるのですいませんが……」


「しょうがないわねぇ。まだまだ時間はあるのに、栞ったら困った子なんだから」


「涼との時間は一分一秒だって無駄にしたくないのっ! ほら行こっ」


「わわっ! 栞、わかったからそんなに引っ張らないでっ!」


 俺はついにしびれを切らした栞に連行されて、栞の部屋へと場所を移すことに。聡さんと文乃さんの前を辞す直前、「今日は楽しみにしてるからねー」という声が聞こえてきた。


 それに返事を返すことは叶わなかったが、学校へ行く前に大事なことだけは伝えられたのでそこは良しとしよう。こういうことはちゃんとしておかないと、今後の信用に関わるからね。


 栞の部屋でベッドに腰掛けると栞は再びぎゅっと抱きついてきて、存在を確かめるように俺の胸に顔を埋めた。


「涼、涼っ……」


 甘えているというよりは、どこか不安気に栞の声が震える。こんなにもくっついているのに、まるでしっかり捕まえていないと俺がどこかへ消えてしまうと思っているかのようだ。


「栞、俺はここにいるよ?」


「うん、わかってる。わかってるんだけどね……。なんかね、思ってたより久しぶりの一人の夜が寂しくって。今までのが夢とか幻だったらどうしようって思っちゃって……」


「……栞」


 さっきの弱々しい微笑みの原因はこれだったのか。


 栞は寂しがり屋で甘えん坊だ。俺への依存心もあるのかもしれない。最近はあまりこういう姿を見せなくなっていたけれど、ここぞという時に不安が顔を出してしまうのが栞という女の子だ。


 もちろん俺はそれを面倒くさいなんて思わない。そこもひっくるめて栞は栞で、俺はそんな栞が大好きだから。もし栞が少しでも不安になるのなら、それを取り払ってあげるのが俺の役目だって思っている。


 栞にはいつも笑っていて欲しいしさ、栞の前でくらいは格好つけたいしね。


「ねぇ、栞。ちょっとだけ、俺の話聞いてくれる?」


「話って……?」


 顔を上げた栞の瞳には涙が滲んでいた。俺は栞の頬を撫で、こぼれ落ちる前に指でその涙を払う。


「大事なこと、だよ」


「涼っ……? 急にそんな真剣な顔されたら直視できな──」


「だーめ。ちゃんと俺の目を見て。ね、お願いだから」


「う、うん……」


 優しく諭すと、ようやくこっちを見てくれた。俺もしっかりと正面から栞の目を見つめる。相変わらず透き通った綺麗な瞳だ。涙が滲んでいようとそれは変わらない。


「今日きっと皆の前でもすることになるんだろうけどさ、その前に改めて栞にだけ俺の言葉で誓うよ。俺は絶対に栞の前からいなくならないからね。俺には栞だけだから。こうやって少しの時間離れることはあるけどさ、ずっと栞だけを見て、ずっと栞だけを好きでいて、ううん、愛して、ずっと一緒にいるよ。こんなことを言うのはまだ早すぎると思うけどさ、俺か栞、どっちかが死ぬまでずっと一緒だって約束する」


 これは付き合い始めた時にもした約束だ。でも、あの時よりもこの想いはより一層強くなっている。


 栞の瞳からポロポロと涙がこぼれ始めた。払っても拭っても、後から後から流れ落ちていく。でも、今度は不安や悲しみからくるものじゃないんだっていうのはなんとなくわかった。


「涼……、嬉しいよ……。ごめんね、すぐ不安になっちゃって。でも、ありがと。涼はやっぱりすごいね。私が欲しい言葉を欲しい時にすぐにくれるんだもん。えっとね、私もね、涼じゃないとダメなの。今はまだこんなだけど、私頑張るから、隣にいさせてね。私も、ずっと涼だけを愛し続けるよ。死ぬまで絶対に離れてなんかあげない。涼が私をこんなふうにしたんだから、覚悟、してね?」


 そう言って、最後に栞はいたずらっぽく笑った。どうやら普段の余裕を取り戻してくれたらしい。それならもう、ここからは毎朝のように甘い時間を楽しめる。俺は手始めに返事の代わりに栞の唇を奪うことにした。


 しばらく生活を共にした後、一夜離れたことで再度お互いの気持ちを確認し合うことができた。その後はいつもの流れになってしまったけれど、今日のイベントに対して俺達の気持ち的なコンディションは過去最高になっていると言ってもいいだろう。


「そろそろ学校行こっか」


「まだもう少しくらいなら時間あるけど、今日はもういいの?」


「涼の言葉が聞けたから満足しちゃった。だからね、涼?」


「うん、なに?」


「私、皆の前では絶対に俯いたりしないから。真っ直ぐ涼だけ見てるから、涼も私のことちゃんと見ててね?」


「もちろん。さっきも言ったけど栞だけを見てるよ」


「うん、ありがとっ。それじゃ」


「んっ」


 どちらからともなく手を繋ぎ指を絡ませて立ち上がる。


 聡さんと文乃さんに一声かけて家を出ると、指は絡めたままで栞が腕に抱きついてくる。登下校時恒例のスタイルではあるけれど、より一層栞との距離が近い気がした。

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