第149話 直接リップクリーム

 ヌルリとした感触と背筋にゾクゾクっとしたものを感じて飛び起きた。


「ちょっと栞?!」


 またやられた!


 ここのところはずっと普通に起こしてくれていたので完全に油断していた。俺が気を抜くとすぐこういうことをするんだから。


「ふふっ。おーはよっ、涼っ!」


 その犯人である栞は、ベッドの縁に手をかけてちょこんとしゃがんで、眩しすぎる笑顔を俺へと向けていた。


 最近の俺の朝は栞のこの笑顔で始まる。俺がずっとずっと守っていきたいと願う笑顔だ。どこまでも幸せそうで、嬉しそうで、太陽みたいなその笑顔は俺に一日を乗り切るための活力を与えてくれる。


 とは言え、それはそれ。いたずらにはしっかり釘を差しておく必要がある。朝っぱらからこの刺激はよろしくない。具体的にナニがとは言わないが、そりゃもうとってもよろしくない。


「おはよ、栞。起こしてくれてありがと。でも、耳はダメって言ったでしょ?」


 栞に咥えられて舐められた耳をさすりながら、軽く睨んでみる。そんな視線を受けても、栞はどこ吹く風で笑顔を崩すことはない。


「だーって、涼が私のいたずらならされたいって言ったんだよ? 私は涼の要望に応えただけだもーん」


「……俺、そんなこと言ったの?」


「そうだよ。ちゃんと言質は取ってるんだからね」


 そう言って胸を張る栞。


 そんなの全く記憶にない。寝惚けて口走ったのだろうか。確かに栞のいたずらなら、何をしてくれるのかと期待してしまう気持ちはあるけれど。


 寝惚けてる時の俺、願望がダダ漏れすぎじゃない?


「うぅ……」


 俺のせいだとわかると、もう何も反論できなくなるわけで、ぐうの音も出ない。かろうじて出たのはうぅの音だった。


「そんなことよりさ、涼。そろそろ準備しないと遅刻するよ? ほら、時間見て」


 栞が指差す時計を見ると、いつもよりちょっとばかし遅い。


「わっ、本当だ。急がなきゃ」


 じゃないと出かける前の二人で過ごす時間がなくなってしまう。栞は遅刻すると言っているが、栞を満足させないことには出発できないから、という理由だったりする。


「うん、でもその前にね。んっ」


 毎朝の儀式、栞が目を閉じて唇を差し出してくる。惚れ惚れするほどに完璧なキス待ち顔だ。美しいとすら感じる。栞のいたずらとか時間がないことなんてどうでもよくなってしまう。


 頬に触れると栞は期待にピクリと身体を震わせた。


 そのまま吸い込まれるようにキスをすると、栞はうっとりと表情を蕩けさせる。俺もじんわりと胸の奥が温かくなるのを感じる。季節的にだいぶ肌寒くなってきているにも関わらず。もしかすると栞のキスがあれば冬も暖房要らずかもしれない。さすがに風邪をひきたくないので使うけども。


「んっ、んんっ、栞……」


「んっ、涼……。んんっ、はふぅ……」


 そうして何度かキスをすると、ひとまずは満足してくれたようで、そっと栞が離れた。


 俺は朝だけで何回栞を満足させないといけないのか。まぁ、そんなのわかりきってる。学校がある日は少なくとも目覚めと出かける前の二回、休みの日だとこれがエンドレスになる。栞曰く、キス、というより俺とのスキンシップは多ければ多いほど良いらしい。


 ちなみにハグとキスはセット販売となっております。セット販売のくせして、決してお安くならない(回数が減らない)のが栞である。


「それじゃ、下で待ってるから早く来てね。一緒にご飯食べよっ」


 最後にニパッと笑うと栞は部屋を出ていった。


「はぁ……」


 静かになった部屋の中で俺はため息を漏らす。疲れとか嘆きとかそういうんじゃない。


 ただ、幸せすぎる。


 愛してやまない栞にあんなとびきりの笑顔で起こされて、目覚めのキスをして。そんなの幸せ以外にないだろう。


 布団を抜け出しながら、さっきまで触れていた栞の唇の感触を思い出す。これまで数え切れないほど栞とキスをしてきた。柔らかくてぷるぷるで、しっとりとした栞の唇。それはどのタイミングでも変わることはなく、栞とのキスはいつも気持ちいい。


 ふと、自分の唇に触れてみるとカサついた感触が指に伝わる。たぶんキスのしすぎによるものだろう。空気が乾燥し始めているというのもあるとは思うが、去年までの今頃はこんなに荒れていなかったはずだ。


 このままだと近いうちにひび割れてしまうかも。それに、カサついた唇とキスをしたら、栞が痛がるかもしれない。できることならばお互いに気持ちの良いキスをしたい。


「後で栞に相談してみよっかな」


 そう考えて、ひとまずは着替えと準備を済ませてしまうことに。昨夜脱ぎ散らかしたはずの寝間着代わりのスウェットと下着を探すと、綺麗に畳まれてベッドの上に置いてあった。


「こんなことまでしてくれてたんだ……」


 俺より早く起きて弁当を作ってくれると言っていたし、身だしなみまでしっかり整っていて、その上で服まで畳んでおいてくれるなんて。本当に頭が上がらない。栞は俺を栞がいないとダメな人間にしようとしてるのだろうか。


「まぁ、それも今更か……」


 とっくに栞がいなきゃダメダメになってるんだから。ダメ人間にはなりたくないけれど、栞がそのつもりなら俺も望むところだ。


 手早く制服を身に着けて、まずは洗面所へ。顔を洗い、それから歯を磨いて、最後に寝癖を直したら完成。男の朝の支度なんてあっという間に終わる。髪型のセットもだいぶできるようになってきた。それでもたまに栞に直りきっていなかった寝癖を直されるが。


「おはよう」


 ダイニングに顔を出すと、すでに全員が勢揃い。栞は母さんと一緒にキッチンにいた。


「おはよ、涼。やーっと下りてきたのね。この幸せ者ぉ!」


 母さんは相変わらずのニヤケ顔。最近この表情がデフォルトになってないか?


「幸せ者ってなにがさ?」


「うふふ……、それはねぇ〜。おべっ──むぐっ」


「水希さんストーップ!」


 母さんが何か言おうとしたのを栞が必死の形相で口を塞いだ。栞の顔が真っ赤だけど、俺が来るまでに何があったんだろう。


「ねぇ、栞。おべっ、ってなに?」


「涼は気にしなくていいのっ! 水希さんも余計な事は言っちゃダメです!」


「む〜……、む〜……」


 コクコク。


 栞に口を塞がれたまま母さんが頷くと、栞はようやく手を離した。


「ふ、ふぅ……。まさか栞ちゃんに口を塞がれる日が来るとは思わなかったわ……」


 母さんはそう呟くと、それ以上は何も言わずにダイニングへ。そこには、こんな騒がしくしているというのに我関せずで新聞を広げる父さんの姿があった。


「で、結局なんだったの……?」


「後でわかるから、それまで待っててっ」


 栞もそう言うとダイニングへ行ってしまう。こうなると栞はもう絶対に教えてくれないので、俺も諦めて後に続いた。


 それから全員で朝食を摂る。いつもと違うのは、今日は栞も一緒に食べていること。それを全員が当たり前のように受け入れていた。


 朝食が終わると父さんは仕事に出かけていって、母さんはキッチンで洗い物を始める。俺と栞は学校へ向かうまでのほんのわずかな時間を俺の部屋で二人で過ごす。


「りょ〜うっ、ん〜っ」


 ここでも栞からのキスの催促。俺の膝の上に横向きに座り、身体を密着させて顔を近付けてくる。


「あのさ、栞。ちょっと待ってくれる?」


 俺が止めると栞が首を傾げる。


「んっ? どうしたの?」


「えっと、俺の唇ってさ、荒れてない……?」


「あー……、確かにね。最近ちょっとカサついてるかも」


 栞の指が確かめるように俺の唇をなぞっていく。少しのくすぐったさに混じって、皮膚の引っかかるような感覚がある。


「でしょ? それでさ、栞みたいにとは言わないけど、どうにかできないかなって」


「涼はリップクリーム使ってないの? 乾燥するならそれが一番だと思うけど」


「リップクリームねぇ……。苦手なんだよなぁ……。昔塗ってみたことあったんだけど、すぐ拭いたくなっちゃってさ」


 リップクリームを塗った後のヌルッとした感覚というか、違和感がダメなのだ。それですぐ拭き取ってしまって効果なし。それ以来塗るのをやめてしまった。


「じゃあ、要は拭いたくなくなれば良いんだね。私にいい考えがあるから任せて」


「いい考えって?」


「それはやってからのお楽しみだよ。ほら、ちょっと目を閉じてくれる?」


「えっ、うん」


 栞に言われるがままに目を閉じる。


 拭いたくなくなればいいって、もしかして栞が塗ってくれるということだろうか。でも、それなら目を閉じる必要は──


 ちゅっ。


 栞にキスされた感触。目を閉じていたってわかる。


 というか、キスする時にはだいたい目は閉じているわけで。これが万が一他の人にされてたとしたら、すぐに気付けるくらいには栞とのキスは俺に馴染んでいる。


 栞は何度も何度もキスをする。位置を変えて唇全体に、栞にキスをされていない部分がないくらいに。


「はいっ、でーきたっ。もう目開けていいよ」


「えっと、栞?」


 これだとただキスしただけなんじゃ……?


「ふふっ。どう? ちゃんと塗れてるでしょ?」


「ん? もしかして、今ので……?」


 栞の手にはいつの間にかリップクリームが握られていた。


「そうだよ。私が直接塗ってあげたら、拭いたくなくなるかなーって。やっぱりダメそう?」


 唇を合わせてみると、確かにリップクリームの感触がある。苦手なはずなのに、栞の手ずから、いや、唇で塗ってもらったと思うと全然イヤじゃない。むしろこれが栞とキスをした証だと思うと、ずっとこのままにしておきたい。


「なんか全然平気みたい。でもさ──」


「でも?」


「こういうのって普通さ、栞の使ってるリップクリームを塗ってもらって、間接キスがーとかやるところなんじゃ?」


 ラブコメでありがちなやつだ。俺もどこかで見たことがある。それでお互いに照れたりなんかして、そこからちょっとずつ仲が進展してさ。


「だって、今更間接キスくらいじゃ物足りないんだもん」


 ……ですよねー。


 俺達にとってそんな段階はとうに過ぎ去っている。初めての間接キスだって、普通にキスをした後、じゃないか。花火大会の時にそんなことしたような気がする。あの頃はあれでドギマギしてたけど、たかだか三ヶ月でこんなふうになってるんだから恐ろしいものだ。


「ってことで、これからは涼の唇のケアは私がしてあげるからね?」


「……よろしくお願いします」


 こんなことまでしてもらっていいのかな?

 ……いいんだろうね。

 だって栞は嬉しそうだから。


「それじゃ改めまして。りょ〜う、んっ」


 再びのキス待ち顔。


「今散々したのに」


 それに、そろそろ出かける時間のアラームが鳴るはずで。


「私からするのと涼からされるのは違うのー」


「そういうもの……?」


「私はそうなの! ほら、時間なくなっちゃうから早くっ。んっ!」


 まったく、栞はとんだキス好きになってしまったものだ。


 俺は栞に急かされるまま頬に手を添えて唇を重ねた。


 それからアラームが鳴るまでの数分間、俺達はお互いの唇にリップクリームをすり込むようにキスをし続けた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


と、時が……、全然進んでいかない……!


と、いうわけで……。

この二人が一緒に生活するとこうなるんだ、という感じで書いております。

あと少しだけやったら一気に文化祭当日を迎えようと思いますので、もうしばらくお付き合いくださいませ。

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