第135話 迷惑な男

「えっ、私?」


 突然名前を呼ばれた栞はキョトンとした顔で教室の入口に視線を向けた。俺も含めてその場にいた全員が同じ顔をしていたと思う。まだ教室に残っていた他のクラスメイトも同様だ。


 栞が反応したことで、その誰ともわからない男はツカツカと教室へと入ってくる。真っ直ぐ、栞を目指して。


「なぜ呼び出しに応じなかった?!」


 そんな事を言いながら。随分と興奮しているようだ。


 俺は反射的に立ち上がり、栞をかばうように前に出た。内心で面倒くさそうなのが来たな、と思いながら。


 俺の前まで来た男は鋭い眼光を向けてくる。昔の俺ならばこれでビビっていたかもしれないが、プールで絡まれたナンパ男に比べればどうということもない。あれを乗り越えた俺には迫力不足だ。


「えっと、呼び出しって……?」


 俺の後ろから栞が言う。


 俺はこの段階で朝の事を思い出していたけれど、栞の方はまだらしい。本当にわからないという顔で小首を傾げていた。


「朝、下駄箱に入れておいただろう!」


 更に声を大きくする男。間に立つ俺にバシバシ唾が飛んでくるのが迷惑極まりない。栞に近付けなくて正解だった。俺もそんなものは受け止めたくはないけれど、栞にかかることを考えればギリギリのところで耐えられる。


「ほ、ほら、栞。朝見た手紙のことだよ」


 これでようやく思い出したようで、栞はパチリと手を叩いた。


「あぁ、あれかぁ。差出人が書いてなかったから、なんか怖くて。えっと、ごめんなさい」


 興奮する男とは反対に、栞は冷静だ。非礼を詫びて頭を下げた。


「なっ、そんなはずは……! ちゃんと名前は書いたつもりなんだが……。ちょっと見せてくれないか?」


 自分のミスかもしれないという可能性に、男の勢いが少し落ちる。


 しかしあの手紙は──


「あれならもう捨てちゃったけど……?」


 そう。朝イチで栞がゴミ箱にポイッとしてしまっているのだ。そして他のゴミと一緒に掃除の時に回収されて、すでに収集場所に持ち込まれている。あの場所から探し出そうとしても、それはもはや至難の業だろう。


 この栞の言葉で、男はガックリとその場に崩れ落ちた。


「緊張して書き損じて、5回も書き直したというのに……。それが、そんなあっさり捨てられていたなんて……」


 うん、きっとそれが名前を書き忘れた原因だよね。


 とはいえ、ラブレターを捨てられたと知ったショックは相当大きいらしい。なんだか可哀想に思えて、助け舟を出すことに。


 いや、逆にダメージを与えることになるかもしれないけど、このまま這いつくばられていても邪魔なのでそこは我慢してもらおう。


「あのラブレターのことでしょ? それなら、栞は俺と付き合ってるから諦めてほしいんだけど」


 俺がそう言うと、その男はムクリと起き上がり立ち上がった。意外にも復活が早いようだ。もっと落ち込むかと思っていたのに。


 そんな俺に返ってきたのは予想外の言葉。


「ラブレター? いったい何の話をしているんだ?」


「は? だって体育館の裏に呼び出しってそういうことじゃ?」


 俺と栞の中ではあの手紙はラブレターという扱いになっているのだが、どうにも話が噛み合っていないような。


「確かに呼び出しはしたが、あれは別に告白とかそういうことじゃないぞ。まぁ、書き忘れてしまったのなら仕方がない、まずは名乗っておかないとな。俺は藤堂平治とうどうへいじ、クラスは3組だ」


 藤堂と名乗った男はこれで用件がわかるだろと言わんばかりの顔をしているが、名前がわかったところでさっぱり意味がわからない。


 でも、なんとなくどこかで聞いたことがある名前のような気がしないでもないような。なのにやっぱり思い出せなくて。


 とにかく、あの文字と同じで無骨で堅苦しい名前だな、というのが俺の印象だ。


「ねぇ、栞はこの人知ってるの?」


「ううん、知らない。名前を聞いたのも顔を見たのも初めてなんじゃないかな」


 もしかして栞ならわかるかもと思ったが、あてが外れたようだ。栞はさっきから首を傾げっぱなし。


 だんだん藤堂の相手をするのが面倒くさくなってきた。栞のこの仕草っていつ見ても可愛いよなぁ、なんて現実逃避しかけたところで、またしても藤堂は床へと崩れ落ちた。


「なんでわからないんだっ……。試験のたびに黒羽栞さんの下に名前を連ねているというのにっ……!」


 一々栞の名前をフルネームで呼ぶところが面倒くささを加速させているのだけど、本人は気付いていないんだろうな。


 でも、この一言で俺はようやく思い出した。


「あぁっ! そうだった! 知ってる気がしてたのはそのせいだ!」


 思わず大きな声がでてしまった。


 一学期、中間試験はさておき、栞と勝負した期末試験の結果を見た時のことだ。栞の真下、二位の位置にそんな名前があった気がする。ちなみに二学期最初の実力試験の時は栞とゴタゴタしていて、それどころじゃなかったので覚えていない。


 でも、確かにその名前には見覚えがある。


「そうなの、涼?」


「うん。って、栞は他の人とか気にしてなかったの? 俺は栞との間にいる人の名前はざっと見てたけど」


「私と涼の分だけ見ておけば十分だもん。他の人なんてどうでもいいでしょ?」


「ぐっ……!」


 全く眼中にないと藤堂へダメージを与えている栞だが、本人にその自覚はなさそうだ。


「で、その藤堂君が私になんの用? 見ての通り、試験に向けて勉強会の最中なの。できれば手短にお願いしたいんだけど」


 この藤堂が現れてから勉強会は止まってしまっている。口こそ挟まないけれど、皆困った顔で成り行きを見守っていた。もしかしたら、藤堂のインパクトが強すぎて何も言えなくなってるだけかもしれないが。


「そ、そうだった。色々と予定外だったもので取り乱してしまったようだ」


 予定外なのはこっちだよ! というツッコミは心の中に留めておいた。余計なことを言うとまたオーバーなリアクションが返ってきそうだし。


「俺が黒羽栞さんを呼び出そうとした理由、それはだな……」


 もったいつけるように間を空ける藤堂。もう心の中でツッコミを入れるのにも疲れてきた。


 さっさと話して帰ってくれないかなぁ……。


「次の試験、俺と勝負をしてほしい!」


「え、なんで?」


 どうだと言わんばかりの藤堂に対して、やはり冷静な栞。そりゃ栞からしたら藤堂と勝負なんてする理由がないわけだし、こういう反応になるのも頷ける。


「な、なんでって……。いつまでも負けっぱなしじゃ悔しいだろう。それにだな──」


 そこから藤堂の自分語りが始まった。はた迷惑なことに、かなり長い話だったで要約するとこうなる。


 入試の自己採点で首席になれると思っていたのに、自分より上がいた。悔しくて一学期の試験でも努力を重ねたが、敵わなかった。夏休みの間から今まで必死に勉強をしてきて今度こそと思っていたのに、栞に俺という恋人ができていつもイチャついているという噂を聞いた。


「──次こそは勝つと思っていた相手が、恋愛なんぞにうつつを抜かしていると知った時の俺の気持ちがわかるか?」


「ん〜、悪いけどわかんないなぁ。勝手にしてって感じかも」


「ぐっ……」


 何度自滅でダメージを受ければ気が済むのだろうか、この男は。そして、終いには勝手なことをいい出した。


「と、とにかく俺と勝負をしろ! そうだな、俺が勝ったらそこの彼氏と別れるってのはどうだ? 随分と仲が良いらしいからな、そうしたら真剣にやってくれるだろう? 全力でやってもらわなければ、勝っても俺の努力が報われないからな」


 今までは我慢していた俺もさすがにこれには耐えきれず、自然に拳を握りしめていた。だが、俺が動くよりも早く、今まで静観していた遥が声を上げた。


「おい、藤堂。お前自分が何言ってるのかわかってるのか? こいつらはなっ──」


 俺達の馴れ初めをよく知っている遥だからこその言葉。でも、


「いいよ、柊木君」


 遥の語気が強くなっていくのを栞が制した。


「で、でもよ、黒羽さん」


「大丈夫だよ。怒ってくれてありがとね。でも私、この話受けることにするから」


「ちょっと、栞?!」


 当然断るものだと思っていたので、俺はまさかの答えに焦る。


「平気だよ、涼。私が負けるわけないでしょ?」


「いやでも、もし負けたら……」


「涼は私のこと信じてないの?」


「そりゃ信じてるけどさ、それとこれとは──」


「なら、少しだけ黙って聞いててね」


 にっこりと微笑む栞だが、有無を言わさぬ強制力があった。それ以上何も言えなくなるほどに。


 そして栞は藤堂へと向き直った。


 その横顔は今までに見たことのないものだった。にこやかに微笑んでいるのに、目だけが全く笑っていない。数回、栞の怒った姿を見たことがあるが、今はそれ以上。凍えてしまうんじゃないかってくらいの冷気を放っている気がする。


 もしかして栞、キレてるんじゃ……。


 俺のことに関しての沸点が低い栞が別れろと言われて怒らないはずがないわけで。


「それで藤堂君、あなたは何を賭けてくれるの? 私にだけ条件があるのは不公平でしょ?」


「おぉ、受けてくれるか! しかし、そうだな……。そこまで考えていなかった」


 栞の豹変に俺達一同は言葉を失うほどなのに、藤堂には伝わっていないらしい。それどころか、話を受けてもらえることを喜んでいそうだ。


「なら、あなたの一番大事なものは?」


「ん、それなら勉学だな」


「じゃあこうしましょう。私が勝ったら、藤堂君はこの学校を退学するってことで」


「な、なにっ……! それはあまりにっ……」


「あら、私が一番大切な涼を賭けるのに、自分だけそれはずるいんじゃない?」


「ぬぅ……、わかった……! 真剣な勝負だ、いいだろう!」


 まさに売り言葉に買い言葉。先に栞を煽った手前収拾がつかなくなったのだろう。こうしてお互いの賭けるものが決まってしまった。


「じゃあ決まりということで。ちゃんと退学届を用意しておくことね」


「そちらこそ、精々彼氏との残りの時間を楽しんでおくがいい」


 そんな捨て台詞を残して藤堂は去っていった。一度も栞に勝てたことがないくせに、いったいあの余裕はどこから来るのだろうか。もう怒りを通り越して呆れてしまう。


「ふぅ……」


 栞はため息を一つつくと、纏っていた怒気を消した。いつもの栞の顔に戻ってくれて一安心。


 それでも心配なものは心配で。


「栞、あんなこと言って良かったの? 栞が負けたら別れるなんて、俺イヤなんだけど」


「ん? 大丈夫だよ。別れるとは言ったけど、ヨリを戻すなとは言われてないし。そうだね、万が一そうなった時は3分だけお別れしよっか?」


 なぜ3分なのかという疑問はあるが、まさか栞がキレながらもそこまで考えていたとは恐れ入る。


 でも──


「俺は一瞬でも栞と別れたくない」


 それがたとえ形だけであっても。


「へへ、涼ならそう言ってくれると思ってたよ。私も一緒だもん。だからね、負けないように二人でしっかり勉強しようね?」


「まぁ、栞がそう言うなら……」


「ありがと、涼。私頑張るね。って言っても、私が勝っても本当に退学してもらうつもりはないけど」


「えっ。そう、なの?」


「そりゃね。たった一回の試験で人生まで変わったら可哀想だし、私もさすがにそこまではしないよ。ただね──」


 さっきの栞はガチギレ状態に見えたから本気で言っているものだと思っていたが、意外にも冷静さは失っていなかったらしい。


「ただ?」


「恋愛なんぞって言われたのに腹がたって、涼と別れろって言われてプチンときちゃったんだよね。私は涼を好きになって、今とっても幸せなんだもん。だからね、私が恋も勉強も両立できるんだぞってところを見せてあげようかなって。あの人、勉強のことばっかりみたいだし。ここまで煽って、無様に負けたらきっと考え方も変わるでしょ?」


「そっか、栞は優しいなぁ……」


 あんな迷惑男のためにそこまで考えてやるなんて。俺なんて遥が先に口を開かなかったらぶん殴ってたところだ。


「ふふっ、それであの人に惚れられちゃったら困るけどね。その時は涼、対処よろしくね?」


「それはそれで面倒くさそうだけど……、うん、わかった」


「うんっ。じゃあ落ち着いたところで勉強会再開しよっか?」


「えー!! 私、もう今日は終わりだと思ってたのにー!!」


 楓さんが悲鳴をあげたところで、ようやくさっきまでの雰囲気が戻ってきた。


「あはは……。なんかすごいキャラ濃かったもんね、あの人。栞ちゃん、絶対負けちゃダメだよ? 私応援してるからね!」


「俺も俺も!」


「もちろん俺もな。なんなら涼もあいつの上をいってやれよ。今のお前ならやれるんじゃねぇの?」


「いやぁ、それはどうだろ……?」


「ちょっとー! 私だって応援してるからね?! ってことで、勉強会なんてしてる場合じゃ……」


「だからこれは彩香が言い出したことでしょ?! 彩香の赤点回避もきっちりやるからそのつもりでね!」


「だってしおりん厳しいんだもん! ……ってしおりん睨まないでっ。ちゃ、ちゃんとやるからー!」


こうして再開した勉強会、藤堂に邪魔されて止まっていた分の時間はきっちり延長されることになった。

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