第128話 私の一生をかけて
「さて、それじゃそろそろ私達も帰ろっか」
「そうだね。いつもよりだいぶ遅くなっちゃったし」
新崎さんが去っていき、栞の提案を聞き終えたところで時間はすでに18時前。約一時間も駅前にいたことになる。そろそろ、いつもうちに寄り道をしていく栞が自宅へと帰る時間でもある。
寄り道は構わないけれど夕飯には間に合うように帰る、それが栞と文乃さんの間の約束になっているらしい。
どうやら今日は俺の部屋でまったりと栞と過ごす時間はお預けのようだ。もちろん物足りなさは感じるけれど、栞と新崎さんのわだかまりが完全に消えたことを考えれば一日くらいならどうということはない。
仲直りを成し遂げたといっても、俺達の日常が劇的に変化することはない。明日も明後日も、それこそずっと先まで一緒にいることを俺達は誓っているのだから。
それでももう少しだけ一緒にいたくて、俺は栞の手を取った。普段は名残惜しくなるからと固辞されるが、しっかりと握り返してくれるのを見るに今日は家まで送っていってもいいらしい。
普段なら5分程度の距離を、ゆっくりと時間をかけて歩く。その間、栞は新崎さんとの思い出話を聞かせてくれた。楽しかった出来事を中心に、その中で、話題は誕生日のことに触れた。
「毎年、お互いの誕生日は一緒にお祝いしてたんだぁ。二人でお部屋の飾り付けとかしてね、プレゼントを送って、一緒にケーキを食べて。涼にしてあげたのもね、それを思い出しながら準備したんだよ?」
「そうだったんだ。手作りの飾りとかも用意してくれてたもんね。通りで綺麗にできてたわけだよ」
すでにすっかり片付けられてしまったけれど、あの日のリビングは言葉を失うほどだった。初めてやったにしては慣れているようにも感じていた。
「涼のためって思ったら余計に張り切っちゃったんだけどね。美紀との時はもうちょっと控えめだったよ」
我ながら狭量だとは思うけれど、俺の時の方が張り切ったと聞かされて嬉しくなってしまう。たまらず俺は繋いだ手に力を込めた。
「えへへ〜」
「ありがとね、栞」
「んーん。涼がしてくれたことに比べたら全然だよ。今日だって涼のおかげでうまくいったんだもん。あの程度じゃまだまだ私の気が済まないよ」
「もう十分すぎるくらいなのに。俺、もっとされたら溺れちゃうよ」
今でもこれ以上ないほどに栞は俺に愛情を向けてくれている。俺だって栞に感謝しているのに、これでは俺が返していくのが追いつかない。
だというのに栞は──
「んふふっ、もっともっと私に溺れてくれていいんだよ〜? 私ね、私の一生をかけて涼にお返ししていくつもりなの」
急に真剣な顔になる栞。その口ぶりからも本気であることがうかがえる。
「栞は大袈裟だなぁ」
俺が笑って答えると、栞はぷくりと頬を膨らませた。
「もうっ、涼は全然わかってないんだから。あのね、涼は少し手を貸しただけって思ってるのかもしれないけど、私にとってはすっごく大きなことなんだよ? それこそ人生をかけていいくらいにね。私の悩みを溶かしてくれたのもそうだし、もう二度と話すこともないと思ってた美紀とまた友達に戻れたんだもん。これを大袈裟なんて言葉で片付けないでほしいよ」
新崎さんとの件は、栞にとって大事なことであるのは俺も理解していたつもりだ。だからこそ協力したのだし。でも、俺はその大きさを見誤っていたらしい。
「あ、うん……。なんか、ごめん」
俺が謝れば、栞はすぐにいつものように柔らかく目を細める。
「へへ、別に怒ってはいないけどね。だからね、一気には無理だから少しずつ、とりあえず今日は涼のしてほしいって言ってたことを叶えてあげる」
栞は門を開けながら俺の手を引く。
話をしているうちに、いつの間にか黒羽家の前に着いていた。
「え、いや、そろそろ帰らないと──」
栞は途中で話したお礼のことを言っているのだろう。俺はてっきり後日、時間のある時にしてもらうものだと思っていたのに。
母さんにも遅くなる連絡はしていないし、我が家にも夕飯の時間があるわけで。あまり遅くなると俺が母さんに怒られてしまう。
なのに、栞は俺の手を離そうとしない。
「大丈夫だよ。全部根回し済みだからねっ」
「へ?」
「ふふ〜ん。電車の中でね、お母さんと水希さんに連絡しておいたの」
「な、なんて……?」
「今日は用事があるから帰るのが遅くなるけど、涼をうちに連れて帰るねって。たぶん涼の分も晩ご飯作ってくれてるはずだよ。そんな返事が来てたからね」
栞はドヤと言わんばかりに胸を張った。
「えぇ……?!」
いや、別にいいんだけどね。両方の家のお許しがあるのなら問題はないのだし。
どおりでここまで一緒に来ても何も言わなかったわけだ。栞は最初からそのつもりだったのだから。
でも、そう言うことは先に言ってほしかったよ。栞に甘やかされるためには色々と覚悟が必要なんだ。栞に溶かされてダメダメになる覚悟が。
「あれ、イヤだった? でも、お礼は気持ちが新鮮なうちがいいでしょ?」
「新鮮って……」
そんな、
まぁ、栞がそこまで言うのならその言葉に甘えることにしよう。ちょうど今日は物足りないと思っていたところだし。それにこうなった栞はもう俺には止められない。素直に受け入れる他ないのだ。
「わかったよ。それじゃあお邪魔させてもらおうかな」
「やったぁっ!」
栞は弾けるような笑顔を見せてくれる。
その笑顔が今までよりも一段と眩しく感じるのは俺の勘違いではないと思う。初めて栞の笑顔を見た時から今に至るまで、そう感じることが何度もあった。そのタイミングには決まって、何かしらのきっかけがある。栞の心が軽くなった時、俺達の関係が一つ前に進んだ時なんかがそうだ。
栞はどんどん明るく、魅力的になっていく。その変化を見るのが俺の楽しみでもある。
そういえば、この笑顔を見るために今日は頑張ったんだった。栞はお礼をすると言ってくれるけれど、これが俺にとって何にも代えがたい一番の報酬だ。慣れないことをした疲れも全部溶け出していく気がする。
でも、これだけでは済まないのが栞なのだ。そして俺もそれを期待している。笑顔だけで十分なんて思っているくせに現金なものだ。
「ほ〜ら、早く早くっ」
俺を急かしながら玄関へと向かう栞に苦笑が漏れる。
「そんなに焦らなくても、俺は逃げないよ?」
「そんなのわかってるけど、時間は有限なんだよ?」
「あー、それもそっか」
まさかこのままお泊りというわけにはいくまい。栞の家に泊まったことはまだないけれど。
明日も平日なので当然学校があるし、そもそも泊まるための用意なんてしているわけがない。そうであれば、そこそこの時間で帰宅する必要がある。
二人で一緒にいるだけで時が経つのが早いのはすでにお互いが理解している。なら、少しでもその時間を長く確保するためには急がなければならない。
さすがは栞、よく考えている。
俺は感心しながら、栞に手を引かれて黒羽家の玄関をくぐった。
この夜、夕飯をご馳走になった後、栞の部屋に連れ込まれた俺はそれはもうめちゃくちゃに甘やかされた。
俺の膝に跨った栞は、その柔らかい胸に俺の顔を埋めさせて、頭を撫でてくれる。
「へへ、どうかな?」
「大変素晴らしいです……」
顔全体がふわふわに包まれて、すぐに頭がボーッとしてきた。
「ふふっ。涼は私のおっぱい好きだよね。いつもいっぱい触ってくるもんね?」
「おっ……!! いやまぁ、柔らかいし、落ち着くし、好きだけどさ……」
でも、あまり露骨な単語を出すのは止めてほしいと思ったり。栞の口からと思うとドキドキする。
「んふ〜。じゃあもう少しこのままでね。涼、大好きだよ」
栞の甘い言葉が俺の耳をくすぐる。ものの数分で、俺はすっかり栞に骨抜きにされていた。
「俺も好き……。ねぇ、栞。俺、キスしたい……」
「やっぱり素直で甘えん坊な涼は可愛いねぇ。ん、ほら、いいよー?」
「もう、栞はすぐそういう──んっ」
突き出された栞の唇に口付けると、ジンっと頭がしびれて、可愛いと言われた恥ずかしさも気にならなくなってくる。俺は何度もキスをしては栞の胸に戻るのを繰り返した。
しだいに栞は、時折切なそうな顔を向けてくるようになったが、もちろんえっちなことはお預けだ。遅れて聡さんも帰宅していて、さすがに栞のご両親が在宅中に事に及ぶ度胸はない。
隠れて密かに、ということに興奮しないでもない、というか俺の部屋で何度かそういうことをしたことはあるけれど。それでも、見つからないかとビクビクしながらよりも、栞のことだけ考えていられる状況の方がいい。
「ねぇ、涼……。私……」
トロトロに潤んだ瞳で見つめてくる栞。その誘惑を振り切るのはなかなかに大変だったが、なんとか耐えきった。
「ダメだよ、栞。今日は我慢してね。俺も我慢するからさ。また今度、二人きりの時にね」
「うぅ……、わかったよぉ……。じゃあね、我慢するから、もっともっとキス、しよ?」
どっちのためにしているとか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。ただただお互いに、目の前の愛おしい人を夢中で求め合う。
「ん、それならいくらでも」
それから、帰りは車で送ってくれるという文乃さんに呼ばれるまで、俺達はずっと抱きしめ合って、唇を重ね合わせていた。
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