第125話 緊張を解して
迎えた月曜日、約束の日。
俺は一日中ドキドキしながら過ごした。授業の内容なんてさっぱり頭に入ってこない。ただ機械的に板書をノートに書き写していただけなので、今日の分は後できちんと復習しておく必要がありそうだ。
栞と新崎さんの復縁が成されるかどうか、その半分くらいが俺の肩にかかっている。責任は重大だ。果たして俺はうまく立ち回れるのだろうか、という不安が俺の頭を埋め尽くしていた。
栞から相談を持ちかけられた時、自信たっぷりに考えを話したくせに、直前になってこのザマである。そのヘタレっぷりには我がことながら嫌気が差してくる。
そんな俺とは対照的に栞はいたって平常運転。朝は元気に俺を叩き起こしておはようのキスをせがみ、何度もおかわりを要求して、学校の休み時間にはニコニコしながら俺にくっついていた。
不安になりがちな栞だけど、ここぞというところでたまにとんでもない大胆さを見せることがある。どうやら今回はそっちらしい。
放課後、いつもならすぐ一緒に帰宅する俺と栞。今日はそうしてしまうと約束の時間より早く着いてしまうので、しばらく教室で時間をつぶしてから学校を出た。
駅へと向かう途中、栞が心配そうな顔で俺を見つめてくる。
「涼、大丈夫?」
「大丈夫……、大丈夫……」
栞を不安にさせないように、自分に言い聞かせるように返事をしてみるが、その声が震えているのが自分でもわかる。その時が近づくにつれ、否応なく俺の緊張は高まっていた。
「全然大丈夫そうに見えないけど……。だって、お顔が真っ青になってるよ?」
「うぇ、まじ……?」
「うん、まじだよ」
どうやら俺は自分で思っている以上に緊張しているようだ。駅に着いたら、俺と栞は同じ電車には乗るけれど一旦は別行動。次に顔を合わせるのは新崎さんの前。栞と合流するまでは俺一人で頑張ることになる。
俺が立案して、入念に打ち合わせもしたはずなのに、どうしても不安で。俺の演技力のなさは栞も認めるところだし。
「涼。ちょっと来て」
「えっ? 駅、こっちじゃないけど……?」
「いいから、いいから」
栞が俺の手を取ってグイグイ引っ張っていく。学校から駅への最短の道を外れて、人気のない方へと。俺達以外の人の姿が見えなくなると、栞は足を止めた。
そして大きく腕を広げた栞は、
「はい、涼。おいで?」
柔らかく微笑んだ。
身体に染み付いた習性で、俺は反射的に栞を抱き寄せていた。栞にこうされたら抱きしめる、何も考えなくても身体が勝手に動いてしまうほど何度も繰り返してきたやり取り。
栞からも俺の背中に腕を回してきて優しく撫でてくれる。そうしていると、じわじわと緊張が解けていく。
栞の癒やし効果は絶大だ。心地良い体温に柔らかい感触、髪から香る甘い匂い。その全てに包まれるだけで、心が解きほぐされて安心できる。
「大丈夫だよ。涼が考えてくれたんだもん、うまくいくよ」
「そう、かな?」
「うん、絶対。ちゃんと美紀と仲直りできたらね、お礼に涼のしてほしいこと、なーんでもしてあげるからね」
「なん、でも……?」
無意識にゴクッと喉を鳴らしていた。
「あーっ、涼、今絶対えっちなこと考えたでしょ〜?」
「そ、そんなこと、ないけど……?」
「ふふっ、私は別にそれでもいいんだよ〜?」
魅力的な提案が俺の耳をくすぐり、蠱惑的な視線が突き刺さる。栞は最近こういうからかい方を覚えて、事あるごとに誘惑しようとしてくる。
俺の部屋で二人きりなら、ついつい俺も乗ってしまって、時間も忘れてイチャイチャするところ。でもそれをお礼として受け取るのはいささか邪がすぎる気がする。
「いやぁ、それは……」
「あれ〜? 嬉しくない?」
もちろん、してほしいことをなんでも、と言われて全く想像しなかったわけではない。脳裏に誕生日の夜に栞がしてくれたことが浮かんできて、慌てて頭を振ってそれを追い出した。
「嬉しくないことはないけど、お礼だからって理由でするのはいや、かなぁ。そういうことは栞だけを見てしたいし」
俺がそう答えると、栞は目をパチクリさせた後、クスクスと笑う。
「涼は律儀だねぇ。私も涼のそういうところが好きなんだけどね。なら他にしてほしいこと、ある?」
「う〜ん……。じゃあ、またこうして抱きしめてくれる? 俺の気が済むまで」
疲れた心と身体には栞のケアが一番効くのだ。ただそっと寄り添うだけでもいい、でも抱き合えば効果は倍になる。
「そんなんでいいの?」
「うん、それがいい」
「わかったよー。なら甘やかし特盛でしてあげるね。涼のことふにゃふにゃにさせちゃうんだからっ」
「お、お手柔らかに……」
やる気に満ちた栞を見て、俺は戦々恐々としていた。
栞に気合を入れて甘やかされたら、俺なんてあっという間に骨抜きにされてしまう。そういう時は決まって可愛い可愛いって言われて、情けない姿を晒すことになる。栞は嬉しそうにするし、もちろん幸せなのは否定しない。でも後から恥ずかしさが込み上げてきて、悶えている自分の姿が容易に想像できる。
俺としては、どちらかといえば栞をふにゃふにゃにして堪能したかったのに。
「だーめっ♪ いっぱい涼の可愛いところ見せてもらうの。私も頑張るから、それが涼からのご褒美ってことで、ね?」
ほら、こういう事を言うんだから。こうなったらもう俺に拒否権はない。栞を止めることなんてできなくて、されるがままにならざるをえない。
ここは俺が満足するまで栞を抱きしめたいと言うべきところだった。この小さな違いが命取りだというのに。
今更後悔してももう遅い。栞はすっかりその気になっているのだから。
「……わかったよ。もうそれでいいから」
少しだけ唇を尖らせて言うと、そこに背伸びをした栞からキスされた。
「ちょっと、ここ、外!」
「えへへ、いいでしょ? 誰も見てないんだしさ。それにね、してほしそうな口してたんだもんっ」
パっと離れた栞は楽しげに笑う。
まったく、栞は……。
とは思うけれど、さっきまでの緊張は嘘のように完全に消え去っていた。すっかり当事者の栞に甘えた形になっている。
今日、栞は完全に過去のトラウマにけりを付ける。すでにもう元気いっぱいで、多くの友人に囲まれている栞。でもやっぱり新崎さんとの件が終わらないと完全とは言えない気がする。
その栞がこんなにも普通にしているのに、俺が弱気になってたらダメ、だよな。支えると誓ったからには、その責務を全うしないと。これは人から言われたことじゃない、自分で決めたことなのだから。
落ち着いてよくよく考えれば、栞は許す側。そして新崎さんはそれを待っている状態。なら、上手くいかない可能性なんてほぼないといっていい。下手に策を巡らせたせいで不安になりすぎていたわけだ。
栞に解してもらった心に気合を入れ直してみる。やるべきこと、自分で考えて栞と決めたシナリオをもう一度よく思い出して。
……。
うん、これならなんとか大丈夫そうだ。
「んっ。涼、いい顔になったね。でもね──」
「ん?」
栞がすっと背伸びして、俺の耳元に口を寄せた。
「──美紀の前ではほどほどにね? あんまり格好良くて美紀が涼に惚れちゃったら困るでしょ?」
「いや、なんの心配して……」
そんなことあるわけないのに。
呆れる俺の手に栞が手を伸ばす。その手が触れる直前、視界の隅でかすかに震えているのが見えた気がした。
……そうか、栞も。
そりゃそうだ。葛藤や懊悩を経ての今回の決断、緊張しないわけがない。普段通りにしていたのだって、きっとそれを抑えるためで。
だから直前でこんなことを。
俺はとんだ勘違いをしていたらしい。栞が俺の緊張を解いてくれたのだから、今度は俺の番。
しっかりと手を繋ぎ指を絡めて栞に微笑みかけると、さっきのが見間違いだったかのように震えは止まっていた。
ふんわり柔らかい笑顔を見れば、栞の方も大丈夫になったようだ。
そんな栞はポケットからスマホを取り出して時間を確認した。
「あっ、思ったより時間経っちゃってる。ほらっ、そろそろ行くよっ! 急がないと電車が来ちゃう。遅刻なんて私が絶対許さないんだから!」
次の電車に乗れなければ遅刻は確定。
俺の知る限り、今まで栞が約束の時間を違えたことは一度もない。常に時間に余裕を持って行動している。さすがは栞、こんな時でもしっかり者だ。
早く早くと急かす栞に手を引かれて駅へと走って、ホームに着いたのと電車が到着したのはほぼ同時だった。
「じゃあ、また後でね?」
「うん、打ち合わせ通りに」
俺と栞が手はず通りに別々の車両に乗り込むと、ゆっくりと電車が動き出す。
この電車が約束の駅に着くのは約束の時間の10分前。それまで俺は目を閉じて、心を静かに保つ。
新崎さんと仲直りを遂げた後の、花の咲くような栞の笑顔を想像しながら。
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