十一章 二学期

第105話 ようやく始まる

 放課後に連絡を入れてみたところ、体調はすっかり回復したというので、俺は栞のもとを訪ねることにした。俺がただ栞に会いたかったというのもあるが、その本当の目的はお見舞いと休んでいた二日間分の授業内容を教えるためだ。


 玄関まで出迎えに来てくれた栞の顔を見れば血色もよく、表情も明るい。聞けばご飯をたくさん食べていっぱい寝たとのこと。寝すぎていつもより元気なくらいらしい。


 それならばと、栞の部屋に移動してさっそく本題に取り掛かった。栞が教えてくれていた時よりもいくぶんか要領を得ない説明だったとは思うが、栞は真面目に聞いてくれて、ノートを取っていた。そして、それも今しがた終わったところだ。


「やっぱり私、涼に助けられすぎてると思うんだよねぇ」


 栞がテキストを閉じ、シャープペンを置きながらそう呟いた。


「また栞はそんなこと言うんだから」


 その話は昨日済ませたはずなのに。その声からは思い悩んでいる様子は感じられないが、また栞の考えがおかしな方向にいかないかと心配になる。


 それが伝わったのだろうか、栞は少しだけ慌てて、


「あっ、別に変なこと考えてるわけじゃないからね? ただね、私も涼に何かしてあげたいなぁって思ってて」


「昨日も言ったと思うけど、そんなの気にしなくてもいいんだよ?」


「だってぇ……」


 栞は立ち上がり俺の方へトコトコとやってくる。そして床に座っている俺の膝の上にストンと腰を落とすと、ぎゅっと抱きついてきた。


「し、栞……?」


「今日だってこうやってお世話になったんだし、お礼くらいさせてよ。ねぇ、ダメかなぁ?」


 瞳を潤ませて上目遣いで、おねだりをするかのように甘えてくる。


「ダメじゃないけど……、俺としては栞にこうしてもらってるだけで満足だよ……?」


「もう、本当に涼は欲がないんだから……」


「そんなことはないけど……。というか、栞。少し離れてくれると助かるんだけど……」


「なんで? もしかしてこういうの嫌いになっちゃったの?」


 不安そうな顔をさせてしまったが、そういうことじゃない。昨日はそれどころじゃなかったけど、今日の栞はすっかり元気そうで。なんというか、栞と離れていた間にたまっていたものが溢れ出しそうになるのだ。


「違うって。嫌いになったんじゃないけど、そうじゃなくてね……」


 簡単に言えば、久しぶりにこうやって甘えられて密着されて、勝手に身体が栞に反応していた。栞の柔らかい身体の感触や甘い匂いが原因だ。ただ、これをどう説明したものかと困ってしまう。


 栞は不思議そうに首を傾げて、俺の顔を見つめてきたかと思うと、突然慌てて俺の膝から降りた。降りたと言っても離れるのはイヤだったようで、横にピッタリと寄り添ってはいるが。


「もうっ、涼のえっち……」


 抗議するように言う栞はジトっとした目を向けてくる。でも、それ以上離れようとはしないし、相変わらず俺の腕に胸を押し付けてきて。


 とりあえずバレてしまったようなので、説明する手間は省けた。恥ずかしいので言い訳くらいはするけども。


「しょうがないじゃん、こういうの久しぶりなんだし……。俺だって我慢してたんだからさ」


「えっと……、じゃあ……、する……?」


 栞は真っ赤な顔で、視線を彷徨わせながらそんなことを言い出した。そんなことを言われたら余計に欲求が高まってしまうわけで。


 でも──。


「しーまーせん!」


 そう言いながら、栞のおでこを指で突いてやる。


「あうっ……。え、なんでー? やっぱり嫌いに──」


「なってないから! 病み上がりなんだからバカなこと言わないの。ぶり返したりしたらどうするのさ?」


 今日も学校を休んだくせに何を言っているのだか、って感じだ。そりゃ俺だって栞と久しぶりにそういう触れ合いをしたいと思わないでもないが、時と場合を選ぶくらいの理性は残っているつもりだ。


「ぶー……、わかったよぉ」


「ぶーって……」


 もしかして、ただ栞がしたかっただけなのでは……?


 残念そうな顔をする栞にそんなことを思ってしまう。まぁ、ここで無理をさせるわけにもいかないので我慢してもらうしかない。


 それにそもそも下の階には文乃さんだっているし、なにより今日はそんなつもりはまるでなかったので用意だってない。


 とりあえず、なだめるように栞の頭を撫でておいた。そうしているとしだいに残念そうな顔は鳴りをひそめてくれた。


「しょうがないからそっちは今日は諦めるけど、涼へのお礼はしてもいいよね?」


 こっちはどうしても諦めないらしい。そっちとかこっちとかよくわからなくなってきた。どれがそっちでこっちでえっちなのか。


 えっちなのは俺だけじゃなくて栞もだと思う。


「えっと……」


「涼に寂しい思いをさせたのは私だから、何もなしじゃ気がすまないんだもん。もう涼がいいって言ってくれなくても勝手にやるからね? たくさん涼のこと喜ばせちゃうんだから、覚悟しててよ?」


 こうなると俺には栞を止めることなんてできやしない。栞は割と頑固だし、一度決めたことはしっかり通してくる。もう観念するしかない。


「しょうがないなぁ、わかったよ。でも一つだけ約束して」


「うん、なぁに?」


「絶対に無理はしないこと」


 お礼と称して無理をして、また倒れられたりしたらそれこそ目も当てられない。栞が元気で笑顔で隣にいてくれること、それが今も変わらず俺にとって一番大事なことなのだから。


「無理はしないよ。本当に涼は心配性なんだから」


「心配くらいさせてよ。現に体調崩したわけだしさ」


「それを言われると痛いんだけど……。でもわかった、無理はしないよ。私のできる範囲で涼に喜んでもらえそうなこと考えるから、期待しててね?」


「ん、楽しみにしとくね」


「うんっ。やっぱり涼、大好きっ」


「はいはい、俺も栞が大好きだよ」


 満面の笑みを浮かべる栞を見ると、これでいいかという気がしてくる。頑なに拒んでも栞がまた色々と拗らせそうだし、なにより栞が俺を想ってしてくれることなら、きっとなんだって嬉しいから。


 それから俺達はようやく久しぶりに恋人らしい時間を過ごした。抱きしめ合ったり、キスをしたり、過剰にならない程度にイチャイチャして心を満たした。



 ***



 その夜からまた、日課だった寝る前の電話が復活した。


 夕方にはできていなかった、遥達に謝罪した件について触れると、


『そっか……。私も彩香と紗月に謝らなきゃ。許してくれるかなぁ?』


 そう零していた。


「俺もまた一緒に謝るからさ。楓さんに怒られるくらいは覚悟しといたほうが良いかもしれないけど」


『心配かけたみたいだし、しょうがないよね。彩香達も、その……、大事な友達だもんね。ちゃんとしなきゃだよね』


「うん、そうだね」


 恥ずかしそうに、楓さん達を『大事な友達』と言う栞に、俺は嬉しくなった。しっかり栞は強くなってるんだなって実感できたから。


 俺以外の人を相手に大事だと言えるということは、あのトラウマを克服してきているってことだ。自分ではまだ弱いという栞も、自覚がないだけでそんなことはない。


 それはずっと側で見てきた俺がよくわかっていることだけど、栞の口からこの言葉が聞けたのは大きい。


 それもまだ完璧ではないようだけど。


『ねぇ、涼? お願いがあるんだけど……』


 少しだけ不安を含んだ栞の声。


「なに?」


『明日、一緒に学校行ってもいい?』


 きっと一人で謝罪をするのが怖いのだろう。つまり、俺に横についていてほしいということで。まぁ、この程度は可愛いものだ。


 俺達は別に一人で完璧になる必要なんてないのだから。せっかく恋人という関係なのだからどんどん頼ればいい。二人一緒なら、大抵のことは乗り越えられると俺は信じている。今回のことでその思いは更に強くなっていた。


「うん、いいよ。明日と言わずに毎日一緒に行こうよ」


『本当?! じゃ、じゃあね、朝迎えに行くから、先に行ったらやだよ? ちゃんと待っててね?』


 ことさらに念を押す栞がおかしくて笑いそうになる。


「わかった、待ってるよ」


『よかったぁ……。それじゃ、遅刻しないようにそろそろ寝ようかな』


「うん、おやすみ、栞」


『おやすみなさい、涼』


 電話を切り、ベッドに横になると喜びが湧き上がってくる。ようやく明日から、栞と二人そろっての二学期が始められる。そのことがたまらなく嬉しかった。


 ふと、俺は一つだけ栞に伝え忘れていたことを思い出した。ただ思い出した次の瞬間には、睡魔に抗うことができずに、そのまま眠りへと落ちていった。

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