第104話 謝罪廻り

 栞が寝付いた後、一時間くらいはその愛らしい寝顔を眺めていた。いつまで経っても見飽きそうにない。俺の手を握りしめて、安心しきって眠るその姿は俺の心をじんわりと温かくしてくれる。


 本当はずっと側についていたい。もう片時だって離れたくない。でもそんなことをすれば、本当に明日の学校をサボることになってしまうわけで。


 非常に後ろ髪を引かれる思いだが、栞の前髪を払い、おでこにキスを一つ落としてから部屋を後にすることにした。


 部屋を出る直前に、


「おやすみ、栞」


 それだけ呟いてそっとドアを閉めた。栞は眠っているので当然返事はなかったけど、今はもう寂しくない。いや、本音を言えば寂しいけど、今日までのような絶望的な感じじゃない。ちゃんと栞と心が通じているって感覚が俺の中にあるから。


 階段を降りていくと、その音を聞きつけたのか文乃さんがリビングから顔を出した。


「……栞は?」


「ぐっすり寝てますよ」


「そう、良かった……」


 文乃さんは心の底から安堵したような顔をした。やっぱり俺達のことを心配してくれてたのだろう。俺の顔を見て、話がうまくまとまったことを察したんだと思う。


 文乃さんは俺をリビングに通すと、お茶を出してくれた。ソファに座らされて、文乃さんも俺の斜め隣に腰を下ろす。


 お茶を一口飲むと、今更ながらに喉が渇いていたことに気付く。全力疾走した後、そのまま栞と話をしていたのだから当然なのだろうけど、さっきまではそんなことに構っている余裕はなくて。


 人心地ついたところで、事の経緯を簡潔に文乃さんに話した。心配をかけたのだから、これくらいはしておくべきだと思ったのだ。


 文乃さんは最後まで静かに俺の話に耳を傾けてくれた。俺が話し終えると、ふぅっと息を吐いて、


「そうだったのね……」


「すいません。体調悪いのに、栞に無理させちゃいました」


「半分はあの子の自業自得みたいなものみたいだし、仕方ないわよ。怒鳴り声が聞こえた時はさすがにびっくりしたけどね」


「本当にすいません……」


 謝ってばかりの俺だが、文乃さんは責めたりせず、優しげに表情を緩めた。


「大丈夫よ。それだけ涼君が栞にちゃんと向き合ってくれてるってことだもの。それに、栞はあれくらいしないと話してくれなかったでしょ?」


「それはまぁ……、そうですね」


 俺がずっと普通に話していたら、きっと栞は自分の悩みを打ち明けてくれることはなかったと思う。一人で抱えて、悩んで。そして最後には……。


 入学式の日の栞の姿が浮かんできた。周りを拒絶して、苦しいはずなのに一人で耐えて。もう二度とあんな栞の姿は見たくない。


「栞はいい子なんだけどね、いい子すぎるのよ。私達にも迷惑かけたくないって思ってるんでしょうね。今回のことも何も言ってくれなかったんだから」


「そうだったんですね……」


「話してくれない方が余計に心配になるのにね。自分の中で押し殺して、我慢しちゃうみたい。私としては少し寂しいんだけど……。あの子、昔からあまり我儘も言わなかったのよ」


 その文乃さんの言葉に俺は首を傾げた。


「栞、俺には結構我儘言いますよ?」


 さっきだけでもいくつも言っていた。内容自体は手を握ってとかキスしてとか、その程度のものばかりだったけど。


 ただ、文乃さんはそれが意外だったのか驚いて。


「そうなの? だとしたら、よっぽど涼君には心を許してるのね」


「そうだったら、俺も嬉しいです。我儘な栞も可愛いですし」


 でも、と思う。栞が我儘を言う時の前置き。毎度『我儘言っていい?』と確認してくるのは、そういうことだったのかもしれない。


 今までは漠然と可愛いなと思っていたことも、栞の性格を表す重要なファクターだったということだ。あれだけ一緒にいたというのに気付いていないことのなんと多いことか。


 でもそれも、またここからわかっていけばいい。今回のこともちゃんと話し合ったおかげでわかり合えたのだし。


 つい、さっきまでの栞の顔を思い出して頬が緩んでしまう。


「涼君は本当に栞のことが好きなのね。聞いてる私の方が恥ずかしくなっちゃうわ。それなのに栞ったら……。まぁでも、栞も懲りただろうから、少しはマシになるかしら。面倒くさい娘でごめんなさいね」


 文乃さんは申し訳なさそうに頭を下げた。


「大丈夫ですよ。そういうところも含めて栞は栞なんで。俺、そんな栞が大好きですから」


 驚くほどスルッと言葉が出てきた。恥ずかしさもない。それどころか、またこうして栞への想いを素直に口にできることがたまらなく嬉しくて。


 本当は『愛してる』と言いたいところだったけど、やめておいた。もうしばらくは俺と栞、二人だけのものにしておきたかったから。


「ふふっ、それならもう安心ね。じゃあ次からはもう少しだけ早めにお願いするわね?」


 文乃さんはそう言い、ウインクまでしてくる。冗談っぽく言っているが、きっと本心だと思う。


「はは……、次がないことを祈りたいところですけど、とりあえずは肝に銘じておきます」


「安心したわ。涼君、これからも栞のことよろしくね」


「はいっ」


 それからもう少しだけ文乃さんと話をして、最後にもう一度謝罪をしてから俺は黒羽家を辞した。


 家路に就きながら、思いを巡らせる。今回の件については、俺も栞も反省すべき点がたくさんある。


 俺が臆病なせいで栞の体調に影響が出るほどの時間ほったらかしにしてしまった。栞への想いが強すぎる分、いつもと違う状況に怖くなっていた。これが一番の問題だ。


 栞は俺に話をしなかったこと。一人でなんとかしようとしたことだ。文乃さんがさっき言っていたが、栞も次からは話をしてくれるようになると信じている。


 そして周りの人に対しては──。


 文乃さんもそうだけど、本当にいろんな人に心配と迷惑をかけたんだろうなって。


 父さんや母さん、聡さん。それにクラスの皆にもだ。心配してくれていたというのに俺は自分のことで一杯だった。


 家に帰ってまず母さんに報告すると、小言をもらった。俺に非のあることだったので、言い訳もできない。でも、最後には「よかったわね」と言ってくれた。父さんも珍しく早く帰ってきていて、母さんの隣で無言で頷いていた。


 まぁ、俺の両親についてはこれくらいでいい。それよりも俺にはもっと謝っておかなければならない相手がいる。



 ──翌日。



 朝、俺は一人で学校へ向かっていた。栞は今日も休みだ。


 出かける前に栞から届いたメッセージによると、まだ微熱があるから大事を取るとのことだった。それ以外は特に問題なくなったから心配しないで、とも。順調によくなっているそうで、俺も一安心だ。


 教室に着いた俺は真っ先に遥のもとへ。遥は楓さんと漣、そして橘さんと一緒にいて、なにやら神妙な顔つきで話をしている。


「遥!」


 俺が呼びかけると四人の視線が俺に向く。じっと見つめられるがそれに構わずに、俺は遥達に向かって頭を下げた。


「ごめん。昨日ちゃんと栞と話をしてきて、解決できたから……」


 遥は俺の話を聞いてくれて、アドバイスまでしてくれたというのに、俺はなかなか行動にうつせなかった。遥はきっともどかしかっただろう。心配だってしてくれて。でも、あんな俺を見てイラ立ったかもしれない、呆れてしまったかも。


 だからしっかり謝っておきたかった。


 返事があるまではと思ってそのままでいたのだが、下げた頭をペシっと叩かれた。驚いて顔を上げると遥は笑っていて、


「ばーか、おっせぇよ」


 口ではそんな事を言いながらも、遥の表情はどこか安堵するようなものだった。


「本当だよ! プール行った日からって聞いたから、連れてった私達のせいかもって思ってたんだからね? もし、しおりんと高原君が別れるようなことになったらって考えたら……」


 楓さんも安心したのか少し涙ぐんでいて。


 確かに楓さんの言葉は原因の一つになってはいたけど、それは楓さんのせいじゃない。栞が自分で抱え込んで、俺がそれを見抜けなかったせいなのだから。


「本当にごめん……。なんか色々と気を遣わせちゃって……」


「そうだぞ。俺も高原と黒羽さんのおかげでさっちゃんと付き合えたようなもんなんだしさ。ここのところさっちゃんとも少し微妙な感じになってたんだからな!」


「うんうん。高原君と栞ちゃんには感謝してるんだからね? ずっと仲良しでいてもらわないと私達も困るよ」


 漣と橘さんからもこんなことを言われてしまった。


「本当にごめん。でも、もう大丈夫だから。栞ともわかり合えたし、これからは今まで通りやってくから」


「今まで通りって……、またあのイチャイチャを? これからずっと?」


 楓さんがそう言うと、俺を除く四人で顔を見合わせて。


「あれをずっとはちょっと……」


「だよなぁ……」


「うん……」


 口々にそんな事を言う。


「……どっちなんだよ?!」


 からかってるのだろうけど、仲良くしてほしいのかしてほしくないのかイマイチわからなくなってしまう。関係が修復できたので、普通にしているだけで今までのようにバカップルをやらかしそうではあるのだが。


 思わず叫んでいた俺に遥はニヤリとした顔を向ける。


「ま、今まで心配させられたからな。これくらいのイジりは許してもらわねぇと。でも本当に頼むぜ、涼。せっかく二人と仲良くなったってのに、気まずくなりたくねぇからな」


 最後にまた、今度は強めに背中を叩かれた。気合を入れられて、それで今回のことは水に流してくれるようだ。


「ところで、肝心のしおりんは? 今日もお休み?」


「うん、まだちょっと熱があるみたい。だいぶ良くなってるらしいけどね」


「そっかぁ、残念! でもそれなら明日にはきっと学校来れるよね?」


「うん、たぶんね。えっとさ、色々迷惑かけたけど、これからも俺達と仲良くしてくれると嬉しいっていうか……」


 まだ少し弱気になってたんだと思う。皆から見放されたらどうしようって。でもそれも杞憂だった。


「そんなの当たり前じゃん! 私達友達でしょ! ね?」


 楓さんが代表してそう言うと、皆が頷いてくれて。泣きそうになったのは内緒だ。


 そこからの一日はいつも以上に真面目に授業を受けて、昨日上の空で聞き逃していた分は休み時間に遥に教えてもらうことができた。これで栞に教えるという使命は全うできるだろう。


 俺は本当に良い縁に恵まれていると思う。俺達のことをこんなに気に掛けてくれる人がいるのは幸運なことなのだから。


 そのことに感謝しつつ、大事にしていこうと改めて思った。

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